哲学にしろ、宗教にしろ、目的は 精神的な「苦悩」を取り除くのが目的。
絶対的な完璧な不変のものがあると信じて、苦しいとき教えを思いだして心を鎮めようとするのが、宗教。 その意味では、原始仏教は、哲学ではないかと、ワタシは判断したのだが、それでは、受け入れられないと思われる人達の為に、時には実行がやさしい、ときには カリスマ性を感じさせる激しい攻撃的な教えを発達させていろんな宗派ができてきた。
幕府の保護をうけるものもあれば、隠れてこっそりと生きるよすがとして信仰を守り続けてきたものもある。
細かい宗派の内容は、専門の本がいくらでも手に入るだろうから、記事にするのは、やめる。
仏教では、その原理に、「苦」はもってきたが「楽」には、言及していない。
「楽」は、人間の欲望、煩悩から生じるもので、これは、苦の元だから、修行して、気にならないようにしようと考えて、その目的のために、瞑想したり、修行したり ということでは いろんな宗派があってもおおむね共通だと思う。
ところが、ここに「密教」というのがある。これは理論的な言葉の代わりにしばしば、性的シンボルを用いることがある。 世界の自然宗教、日本の神道にも、そのようなものは、たくさんみられるので、密教は、「仏教から別れて、仏教に非ず」のイメージを感じる。
密教でも、とりあえず成仏(仏に成る)することが目的である。
どうやって?
煩悩を、苦の元と考えずに、肯定するのである。
そして、印を結び、真言(マントラ)を唱え、心を仏の境地にもっていくだけで、即仏になれる。
こんなことを書いてると、コミック「孔雀王」を思いだす。手塚 治のコミック「ブッダ」も いいと思う コミック読み出すと とまらない 凡人の「今日の幸せ」
とまあ、このくらいで、仏教シリーズ、一段落にします。
仏教「超」入門の本を手にとったのが、このシリーズの「因」でしたが、「縁」があって、アクセスして、読んでくれる人がいたので、ここまで記事が続けられたのだと思う。 「因」は原因、きっかけ、「縁」は それを、結果に結び付ける働きをするようなものです。 それが「因縁」片方だけでは、駄目なんですね。
いずれにしても、諸行無常、諸法無我の仏教は、かなり曖昧なところがあり、それだから、いくらでも、考えが揺れる可能性があり、
学習すれば、するほど 迷いの道にはいりそうです。
「日常の すべての 行為を 瞑想に 結び付けられる」という便利な考えもあるそうですので、とりあえず、これで、進んでみます。(^_^)
平地の紅葉もすすみ、とてもきれいな景色を楽しんでるここ数日です。
追:昨日は、小さな地震が、2回ありました。 いつもは、そのくらいでは騒がない同居人なのですが、ここ連日の新潟の地震報道に、彼なりに、感じるものがあるのでしょう。
「地震だよ、わかった?」とその度に、報告にきました。 大丈夫だと思っている当地の地震ですら、この有り様。 新潟の皆様、余震の度に、生きた心地がしないことでしょう。
岩手からも、昨日まとまった援助物資が、トラックで届けられたようです。
誤解を恐れずに口にしますが、私には、具体的に祈るという習慣はありませんので、思いはあっても、これ以上のことはできそうにありません。 であれば世界中で、不運な目にあってるかもしれない人達のことを、記憶の片隅に残しながら、無理しない範囲の手に届くボランティアを心掛け、テレビの災害報道を、争いの報道を、鈍らせた感性で、映画を観るようにながめるのは、やめたいなと思ってます。 地震、発生時の理不尽なものに対する怒りは、静まって、最近では、「これでもか、」と繰り返される報道は、みなくなりました。
絶対的な完璧な不変のものがあると信じて、苦しいとき教えを思いだして心を鎮めようとするのが、宗教。 その意味では、原始仏教は、哲学ではないかと、ワタシは判断したのだが、それでは、受け入れられないと思われる人達の為に、時には実行がやさしい、ときには カリスマ性を感じさせる激しい攻撃的な教えを発達させていろんな宗派ができてきた。
幕府の保護をうけるものもあれば、隠れてこっそりと生きるよすがとして信仰を守り続けてきたものもある。
細かい宗派の内容は、専門の本がいくらでも手に入るだろうから、記事にするのは、やめる。
仏教では、その原理に、「苦」はもってきたが「楽」には、言及していない。
「楽」は、人間の欲望、煩悩から生じるもので、これは、苦の元だから、修行して、気にならないようにしようと考えて、その目的のために、瞑想したり、修行したり ということでは いろんな宗派があってもおおむね共通だと思う。
ところが、ここに「密教」というのがある。これは理論的な言葉の代わりにしばしば、性的シンボルを用いることがある。 世界の自然宗教、日本の神道にも、そのようなものは、たくさんみられるので、密教は、「仏教から別れて、仏教に非ず」のイメージを感じる。
密教でも、とりあえず成仏(仏に成る)することが目的である。
どうやって?
煩悩を、苦の元と考えずに、肯定するのである。
そして、印を結び、真言(マントラ)を唱え、心を仏の境地にもっていくだけで、即仏になれる。
こんなことを書いてると、コミック「孔雀王」を思いだす。手塚 治のコミック「ブッダ」も いいと思う コミック読み出すと とまらない 凡人の「今日の幸せ」
とまあ、このくらいで、仏教シリーズ、一段落にします。
仏教「超」入門の本を手にとったのが、このシリーズの「因」でしたが、「縁」があって、アクセスして、読んでくれる人がいたので、ここまで記事が続けられたのだと思う。 「因」は原因、きっかけ、「縁」は それを、結果に結び付ける働きをするようなものです。 それが「因縁」片方だけでは、駄目なんですね。
いずれにしても、諸行無常、諸法無我の仏教は、かなり曖昧なところがあり、それだから、いくらでも、考えが揺れる可能性があり、
学習すれば、するほど 迷いの道にはいりそうです。
「日常の すべての 行為を 瞑想に 結び付けられる」という便利な考えもあるそうですので、とりあえず、これで、進んでみます。(^_^)
平地の紅葉もすすみ、とてもきれいな景色を楽しんでるここ数日です。
追:昨日は、小さな地震が、2回ありました。 いつもは、そのくらいでは騒がない同居人なのですが、ここ連日の新潟の地震報道に、彼なりに、感じるものがあるのでしょう。
「地震だよ、わかった?」とその度に、報告にきました。 大丈夫だと思っている当地の地震ですら、この有り様。 新潟の皆様、余震の度に、生きた心地がしないことでしょう。
岩手からも、昨日まとまった援助物資が、トラックで届けられたようです。
誤解を恐れずに口にしますが、私には、具体的に祈るという習慣はありませんので、思いはあっても、これ以上のことはできそうにありません。 であれば世界中で、不運な目にあってるかもしれない人達のことを、記憶の片隅に残しながら、無理しない範囲の手に届くボランティアを心掛け、テレビの災害報道を、争いの報道を、鈍らせた感性で、映画を観るようにながめるのは、やめたいなと思ってます。 地震、発生時の理不尽なものに対する怒りは、静まって、最近では、「これでもか、」と繰り返される報道は、みなくなりました。