またちょっと長くなってしまいましたが^^;
娘は、身近な人の死は初めての経験。
3月に伯父の葬儀があったので、亡くなった人を目の当たりにしたのはありますが…葬儀期間中などは特に泣いたり、乱れたりもせず、いとこと楽しそうに遊んだりしていました。
でも、家に帰ってきてから、初めての夜、突然寝る前にしくしく泣き出しました。
どうしたの?と聞くと、おばあちゃんがしんだことがかなしい、と言っておいおい泣いていました。
小1で小さいとはいえ、やっぱり感じるものは深かったのか…と抱っこして背中をさすりながら、
「おばあちゃんは、身体はなくなってしまったけど、いつもそばにいるんだよ」と言ってなぐさめました。
でも、やっぱり「身体がなくなってしまったこと」が悲しいのでしょうね。
今まで、お話したり、抱っこしてもらったのができなくなってしまったのですから。
昨日も、夕飯の途中に突然「うえをむいていたら、かなしくなっちゃう~」と言って大泣きしてしまいました。
心の整理がつくのは、まだ時間がかかるかな…
私も、母の死に際して色々感じてしまいました。
でも、いつかは、と覚悟していたし、なにみえ遠足で自分の体に中身があってどこかにいくことができる体験をしていたので、母がいなくなったわけではないと実感をこめて思えるので、そんなに動揺しませんでした。
自分の中でやるべきことはやったし、母にも思いを伝えることができました。
でも、一つだけ自分の中でひっかかってしまったのは、母に抱きつくことができない自分でした。
父や妹は、生前も亡くなってからも、身体のふれあいには躊躇なく自分の思うようにできていたのですが、
私は母の身体に必要以上にさわることができませんでした。
私は長女で、妹が生まれたのが1歳4ヶ月のとき。
妹が生まれた瞬間に、私はもう母は私のものではない、と悟ったかのように父を頼るようになったそうです。
そして、決定的だったのが、幼稚園教諭だった母は、自分の幼稚園に私を入園させ、「幼稚園ではお母さんと呼んではいけないよ」と言ったこと。
長女気質の律儀な私は(笑)、それを守りました。
母には近づきたくても近寄れない…そういう気持ちを味わったのだと思います。
母は自分の幼稚園に私を入れたことを、のちのちかわいそうだったと後悔していましたが…。
自分でも、小さいときのことをおぼえているのですが、私は母とお風呂に入るのが恥ずかしくて一緒に入れませんでした。
今の娘の状態…小1になってもだっこをせがみ、すきあらばおっぱいを触ろうとする(笑)自分がしたいように母親に甘える様子とは大分違って、だんなさん曰く「もらわれてきた子」みたいな感じです。
でも、これがずっと無意識に残っていたみたいです。
レイキの伝授のときに、インナーチャイルドの癒しもしたのですが、最初にこの事が出てきて、私はわーんと泣いてしまいました。さみしいと。
自分でも顕在意識では忘れていたのに…
やっぱり人と触れ合うこと、というのは、今この世界で生きている意味の一つはそこにあるんじゃないかなあと。
その経験は、とっても大事だというのをいまさらながら痛感。
私は、自分で言うのもなんですが、両親ととても仲良く過ごしてきて、関係はよかったのです。
それでも、感情と言うのはなかなかフクザツなものだなあと。
そして、そういう経験だけでなく、私がもともと持っていた「人に甘えられない」部分は、かなり根深そうだなと。
でも、父と話して、母もそういう人であったので、甘えられるのは父だけだったみたいです。
遺伝でしたね(笑)
母自身も大人になってから知ったそうですが、養女だったので、なんとなく全面的に自分の親に頼りきれない部分があったのではないかなあと思えるのです。
父と結婚したことで、救われたのではないかなあと。
だから、きっと母も私達家族がいて、幸せだったんだよなあと思えます。
母も「みんなにこんなにしてもらえて大満足」と言っていました。
(最期の5日間は家で看護しました)
私も、自分の欠けている部分を見つめながら、否定せずに持っていくしかないかなあと思ってます。
でも、やっぱり私の辞書には「甘える」という文字は書いてなさそう…
…甘えるってどういうことなのかなあというところから考えないと…
娘は、身近な人の死は初めての経験。
3月に伯父の葬儀があったので、亡くなった人を目の当たりにしたのはありますが…葬儀期間中などは特に泣いたり、乱れたりもせず、いとこと楽しそうに遊んだりしていました。
でも、家に帰ってきてから、初めての夜、突然寝る前にしくしく泣き出しました。
どうしたの?と聞くと、おばあちゃんがしんだことがかなしい、と言っておいおい泣いていました。
小1で小さいとはいえ、やっぱり感じるものは深かったのか…と抱っこして背中をさすりながら、
「おばあちゃんは、身体はなくなってしまったけど、いつもそばにいるんだよ」と言ってなぐさめました。
でも、やっぱり「身体がなくなってしまったこと」が悲しいのでしょうね。
今まで、お話したり、抱っこしてもらったのができなくなってしまったのですから。
昨日も、夕飯の途中に突然「うえをむいていたら、かなしくなっちゃう~」と言って大泣きしてしまいました。
心の整理がつくのは、まだ時間がかかるかな…
私も、母の死に際して色々感じてしまいました。
でも、いつかは、と覚悟していたし、なにみえ遠足で自分の体に中身があってどこかにいくことができる体験をしていたので、母がいなくなったわけではないと実感をこめて思えるので、そんなに動揺しませんでした。
自分の中でやるべきことはやったし、母にも思いを伝えることができました。
でも、一つだけ自分の中でひっかかってしまったのは、母に抱きつくことができない自分でした。
父や妹は、生前も亡くなってからも、身体のふれあいには躊躇なく自分の思うようにできていたのですが、
私は母の身体に必要以上にさわることができませんでした。
私は長女で、妹が生まれたのが1歳4ヶ月のとき。
妹が生まれた瞬間に、私はもう母は私のものではない、と悟ったかのように父を頼るようになったそうです。
そして、決定的だったのが、幼稚園教諭だった母は、自分の幼稚園に私を入園させ、「幼稚園ではお母さんと呼んではいけないよ」と言ったこと。
長女気質の律儀な私は(笑)、それを守りました。
母には近づきたくても近寄れない…そういう気持ちを味わったのだと思います。
母は自分の幼稚園に私を入れたことを、のちのちかわいそうだったと後悔していましたが…。
自分でも、小さいときのことをおぼえているのですが、私は母とお風呂に入るのが恥ずかしくて一緒に入れませんでした。
今の娘の状態…小1になってもだっこをせがみ、すきあらばおっぱいを触ろうとする(笑)自分がしたいように母親に甘える様子とは大分違って、だんなさん曰く「もらわれてきた子」みたいな感じです。
でも、これがずっと無意識に残っていたみたいです。
レイキの伝授のときに、インナーチャイルドの癒しもしたのですが、最初にこの事が出てきて、私はわーんと泣いてしまいました。さみしいと。
自分でも顕在意識では忘れていたのに…
やっぱり人と触れ合うこと、というのは、今この世界で生きている意味の一つはそこにあるんじゃないかなあと。
その経験は、とっても大事だというのをいまさらながら痛感。
私は、自分で言うのもなんですが、両親ととても仲良く過ごしてきて、関係はよかったのです。
それでも、感情と言うのはなかなかフクザツなものだなあと。
そして、そういう経験だけでなく、私がもともと持っていた「人に甘えられない」部分は、かなり根深そうだなと。
でも、父と話して、母もそういう人であったので、甘えられるのは父だけだったみたいです。
遺伝でしたね(笑)
母自身も大人になってから知ったそうですが、養女だったので、なんとなく全面的に自分の親に頼りきれない部分があったのではないかなあと思えるのです。
父と結婚したことで、救われたのではないかなあと。
だから、きっと母も私達家族がいて、幸せだったんだよなあと思えます。
母も「みんなにこんなにしてもらえて大満足」と言っていました。
(最期の5日間は家で看護しました)
私も、自分の欠けている部分を見つめながら、否定せずに持っていくしかないかなあと思ってます。
でも、やっぱり私の辞書には「甘える」という文字は書いてなさそう…
…甘えるってどういうことなのかなあというところから考えないと…
いつか話したような気がするけど、
娘を産んだときお世話になった助産婦さんから
「すべての答えは、あなたの中、そして赤ちゃんの中にありますよ。」
「風が吹いて、枝が強く揺らいでも、幹がしっかりしていれば大丈夫。」
と言われたんです。
甘えるってどういうことかなあ、という答えも、
きっとpolinちゃんの中に。
それを探していくお手伝いをするために、
Rちゃんが来てくれたのかもしれませんよ。
polinちゃんのことだいすきだいすきって
いっぱい抱きついてくるかわいいRちゃん。
何にもうまく書けなくてごめんね、
今夜もpolinちゃんがよく休めますように。
またRちゃんとえがおで会えますように。
ゆっくりゆっくり、無理をしないでね。
(あなたの長女気質で律儀なところを、
私はとっても尊敬しているよ!)
甘えると頼るって同じ意味であるのかなあ?
でも、すこしずつだけど見えてきたものがあるよ^^
このことが、私の一生の課題かもしれない。
ほんと、娘が来てくれたことでわかったことも
たくさんあるよ。
きっと私や家族とのふれあいの中に答えがあるんだろうね。
大丈夫だよ~今日も元気だよ♪
でも、悲しみってふいにきてしまうから
涙することはあるかもしれないけど(笑)
でも、心はもう揺れていないと思う。
また遊んでね♪
ありがとう☆
娘さんのショックがやわらぎ、楽しい思い出が心に穏やかに戻る日は…まだもう少し先かな…?
お母さんに甘えられない…甘えるってどういうこと?って言うpolinちゃんの言葉に、
自分を重ねてしまい涙が出そうになりました。
私が甘えられないまま、母は私を忘れてしまい(脳の障害で)、
今も入院したままです。
出産後、元気に孫のめんどうをみる若いおばあちゃんを見ると、
うらやましくて何度も布団の中で泣きました。
でも私の母も元気な頃に、写真を撮るときに母が私の身体に触れていると、
私がとてもいい笑顔をしているけど、離れているとすごく険しい顔をしている…
もっと触れてあげれば良かったと言ったことがあります。
大人になっても母の愛情、触れ合いが恋しくなるなんて、
母親の存在ってすごいよね。
それでも子供が願うようにはなかなかしてあげられない…難しいね。
私達のお母さんもそんな葛藤を持ちながら子育てしたのかな?
つい長くなってしまってごめんね。
自分の心と正直に向き合うpolinちゃんの言葉は、いつも私の心に響いています。
mixiで4月にお誕生日のメッセージ贈ろうと思ってたのに、
その頃ばたばたしちゃって、送り損ねてたんだ…
娘は、まだだめかな…おばあちゃんの話題になると
うるうるしてしまう。
Ayakoちゃんのお母さんは、入院されているのね…
出産後の話、私もうるっときちゃいました。
そうだよね…
私も本文では書かなかったけれど、
火葬場で棺が中に入れられる瞬間、私だけ大号泣してしまってね。
そのとき、なんでこんなに泣いたのか自分自身わからなかったけど、
あとで、母にもっと触れてあげればよいと分かっているのにできない自分への後悔と
もうそれは叶わなくなるというのを瞬時に察して泣いてしまったのかなあと。
私もそういう専門家ではないから違うかもしれないけれど、
お母さんは、無意識では色々わかっているのかもしれないよ。
わかっていないかも、と思いながらも、Ayakoちゃんがお母さんに触れてあげると、きっとお喜びになると思う。
「母」というものは、やっぱり葛藤を持ちながら子育てしてるんじゃないかな。
特にうちの母は私が心の表現が乏しい、何を考えているかわかりにくい子どもだったから心配してたみたいだし。
仕事もあったし、これでいいのかなと思いながら…
Ayakoちゃん、ありがとうね。
触れ合うことか。私にもなかったな。
うちも姪たちが沢山の大人たちに構ってもらって
甘えるだけ甘えてるのを見てると羨ましかったくらい。
私は愛するものって、猫しか亡くしてないけど
「身体がなくなってしまった」だけとは到底思えず
どこかで見守ってくれてるなんて考えることも出来ず
何もかも永久に失った絶望感と喪失感で
ずっとずっと心の穴が埋められなかった。
苦しくて苦しくて、ただただ時間の経過を待ってる
感じ。今もその思いへの恐怖で既に凹む。
そういう意味で、polinちゃんは、本当に精神鍛錬
出来てて凄いなぁ…
私も妹がやってきてから、母にとって私は
とにかく虚栄心を満たす道具になりさがり、
それすらも出来ないとなると、ただの邪魔者に
なってしまったから、母に甘えるってことは
全くもって分からないし、かといって父も家庭を
省みない人だったから、どこにも拠り所はなかった。
即物的に甘えるなんて私も分からない。
精神的に依存するって意味の甘えは分かるけどね。
ネコはさ、私が唯一、抱きしめてキスをして
身体を撫でて、喜ぶことを探して
いつもいつも気を使って触れてる存在だから
子供もそうだけど、
自分がしてもらえなかったことを子供にしてあげれば
結果的に自分に返ってる気がする。
でも、それは相手の為ではなく、自己愛かしら?
学生の頃からサッパリ分からんけど、
愛するって難しいね。
何でだろう…と自分でも思うんだけど、
私はなぜか小さいころから、そうだったんだよね。確信にはいたらなくても。
家庭環境も、母が先祖供養をかなり大事にする人というのもあったし。
でも、今思うのは、私を形作っているのは、この今生きている生だけでないものがあるな…と段々感じてきていて、
身体にある自分の「中身」が抜けていく体験もしてしまったので、
やっぱり、身体の機能は止まってしまっても、自分の中身(魂)は残るのだろうと。
誰かに依存するという甘えという意味なら、私も誰に対してもできなかった。
他の方が言ってくれたことなんだけど、その人に対して甘えられるということは、
「自分が自分自身でいられること」なんじゃないかと。
私も、ああ、そうかもしれないな、と思ったよ^^
お母さんは、私から見ると、ねこほりっく♪ちゃんに依存しているのかもと思える…
自分が満たさればいいことを、全部娘であるねこほりっく♪ちゃんで体現しようとしているところがあるのかな?
私も、最初娘に対してそういう部分もあったけど、
付き合っていく中で、私とこの子は違う人間なんだと感じて、
娘が娘らしくいられるように手伝ってあげたいと思うようになりました…。
また自己愛かと言うのも難しい問題だね。
ねこほりっく♪ちゃんのいう言葉はいつもはっとするな。
でも、大事にしてあげたいという気持ちは、本物だと思うよ。
自分に返ってくるというよりは、お互いにその気持ちの交流―循環されていると言うことじゃないかな。
自分がしてもらいたいことを相手にすると言うのは、
相手もそういうふうにしてもらうのを望んでいることだったら、理屈抜きにするべきであって、
その循環で、心が満たされるものだと思う。
ねこほりっく♪ちゃんとネコとの関係は、愛があるものに
感じるな♪