ぽんぽこノート

いつだって今がスタートライン。
行動しなくては何も始まらない。壁にぶつかったところから新しい道がひらける。

名刺からも始まるツナガリ

2010-07-20 | 生活・色々
古北にある日本料理屋「葵」で、20人ほどの飲み会があった。
9割くらいは初対面の方で、全員とは話せなかったけど旨い酒と楽しい会話ができた。その中の一人と名刺を交換したら、あらこの会社は…。私が半年の留学後、とりあえずお世話になろうと思って就職活動をしていたときに話を聞きにいった会社だった。

当時、給料が少しくらい安くてもいいから、小さな会社で色々勉強できそうな仕事ができる職を探していた。そうしたら、その会社が見つかったので、面接ではないけれど、とりあえず話しを聞こうと思ってお伺いした。ま、私のために時間をとってくれて話をしてくれるだけでもありがたいわけなんだけども、結果としては給料があまりにも安く、仕事自体には興味があるものの、当時いくら中国語がまともにできないとはいえ、少しの貯金すらできないような待遇では困るなぁと思い、正式面接というか入社したいという意向はお伝えしなかった。

と、それから2年経ち、飲み会でその会社の社員の方とお会いするとは、やっぱり狭い日本人社会だ。彼らは当時はまだ入社していなかったらしいが、どうやら内部的に色々と変わったそう。もし私もそこに入社していたら、今頃は彼らと仕事に精を出していたのかなぁなんて考えると面白いもんだ。パラレルワールドではそういう状況もできているのかもしれない。

今は知らないが、その会社の当時の給与体系は日本人と中国人は平等という考え方で、ということはスタート給与が3,000元くらい。私の場合は4,000元とか5,000元くらいでと言われた記憶があるが、それでは家賃と最低限の交遊費だけでオーバーしてしまう可能性もあるし、オーバーしなくてもロクに貯金なんかできないだろう。それに加え、残業も多いし帰宅後も毎日こういう本を読まなければいけないなどと、帰宅後の勉強を強制する気風が見えた。

それはそれで確かにとても勉強させてもらえるというか、勉強になる仕事かもしれないのだが、自主的な方向という表面的な言葉は使いつつも、そこまで求めるのなら、そんな給与体系はおかしいなぁと、私はその経営者の言葉には納得できなかった。つまりバランスがとれていなく、給料は安いけど共にがんばろう!という気概ではなく、どうもこれは単に人件費を抑えたいという方面が強いんじゃないかなと感じた。

日本人と中国人が平等という考えは、公平のようにも見えなくも無いわけだが、もともと環境や考え方が違うのに、そこは平等にする必要があるのかと疑問がある。それが嫌ならそういうところで働かなければいいわけで、だから私も当然そこを選択しなかったのだが、私の知り合いでも3,000元とか5,000元ほどで働いている日本人が存在する。外地でなく上海でだ。

もし私が日本人を雇う場合でも、そこまで安い給料では雇うつもりはない。事実、若い人でそんな給料ではまず長続きしないだろうし、続いたとしても、次へのステップの手段となるお金を貯めることができない。これは痛いところじゃないだろうか。仕事をして得るものはお金だけじゃないけれども、人は何のために働くかといえば、第一目的はお金であることに異論はないところだと思う。お金を稼いで、それをもとにして何かを生み出す手段に使ったりするわけだから、その手段を作ることができない状態でずっと働いていても、いまいち生産性に乏しい。

いくら仕事でスキルを上げることができても、家のPCが壊れて新しいPCを買う金とか、日本への一時帰国費の捻出にも困るようでは目が当てられない。この前会った友達が言っていたのは、PCを買いたいが買う金がないので、家にはPCがないというものだった。別に家にPCが無くても死ぬわけじゃないから本人が欲しいわけではないなら問題ないだろうが、彼女の場合は欲しいのに買えないとのこと。

上海でも安いノートPCなら2,000元くらいで買えるが、それが買えないということは、他のあらゆる場面でも金に困っていることが容易に想像できるが、ただ単に日々を生活するだけでも不満を抱かない人間であれば、この上海は快適かもしれない。そんな人もあまりいないとは思うが。

そんな懐かしい思い出話を書いてみたが、結局私は起業するつもりだったから、どう転んでも今頃は起業していたことには変わりないんじゃないかと思う。

ブログノススメ

2010-07-17 | 生活・色々
time is moneyとはよく言ったもんだ。
子供のころからその言葉は聞いていたけど、やっぱり大人になって仕事をするようになると意識が強くなってくる。でも、時間を意識せずに近くの公園で野球やサッカーを日が暮れるまでやっていたあの頃の時間感覚はどこへ行ってしまったのだろうか。

時代も変わるし人も変わる。まあ変わらない人もいるけど、それでも学んだことや時代の流れで変わっていくもんだろう。あのときこんなことを言っていた自分がいたけど、今思えば恥ずかしいことだなぁとかいう経験は誰にでもあるだろうし、私もそんなのたくさんある。自分はあまりにも幼かったと思えることで成長したと言えるのだろうか。

それは今現在にも言えることでもあるだろう。今、ブログに雑多なことを書いている私だが、数年後に自分で読み返したりしたときに、やはりあのときは小僧だったなぁと思うに違いない。私より色々な経験を積んでいる人から見れば、これもやっぱり「なんだこいつは、考えが足りんやつだなぁ」と思われることは避けられないんじゃないだろうか。

だからと言って書くことを止めることもないし、別に誰かに褒めてもらいたいだとか他人から見てどうのこうのを意識して書いているわけではないので問題はない。私にとってこのブログはただの記録であり、書くという作業でアウトプットして自分の行動や考えの輪郭をはっきりさせるための作業なのだろうと思っている。これは誰のためでもなく、自分のために書いていると言える。そう、こんな稚拙な文章でも少しは考えて書いているのだ。

紙に書く日記もいいだろうけど、ブログに書くことで不特定多数の人に読まれるという前提があるので、やはりそれも多少意識して書くことになる。だからある程度は人が読んでどう考えるかとか、読みやすい文章とはどんなものだろうかだとか、そんなことも考えることになるから自然と勉強になる。ブログはある程度定期的に更新しないと新鮮感がないし、更新されていないブログは、他人から見たら書くこと止めたのかと判断されかねないから、週1回とか少なくても月に1~2回とかは更新しなければ、著者は一体どうしたんだということになるだろう。

そういうこともあるので、やはり継続させるのがブログのひとつの特徴であり、これにより物事を続けるという継続力もつくようになる。終了や休止宣言などをするなら別として、そもそも、ブログのような簡単なものすら継続できないで一体何を継続できると言えるのだろうか。と、一応ブログを継続できているから少しは説得力があるはずの私が言ってみた。

私なんかは学が無いほうだから、自然と勉強をしたくなるのかもしれない。人は自分に無いものを欲するから、見方によっては、おそらくそういうことなんじゃないかとも考えられる。勉強と言っても、数学なんかを参考書片手にやるのは苦手だが、世の中にある多くのものに好奇心を持ち、少しでも疑問に感じたことは解決するようにしているし、それには勉強が必要だ。それには当然仕事に関係することもあるし、これが自分の役に立つのかと言われれば、すぐには役に立たないだろうといったこともある。

ブログを書くこと自体に疑問を投げかける人もいる。うん、書くも書かないもまったく自由であり、書きたければ書くわけだし、書く意義がないと思えば書かなければよく、何もブログを書く必要もないわけだ。しかし、ブログのような不特定多数に読まれるという前提のある場所に定期的に文章を書くという行為は、なるほど勉強になるなぁとたまに思う。time is money、つまり時は金なりと言うと、何か時間を無駄にしないために効率的に物事を運んだり時間の節約に努める姿を想像しがちだ。しかし、時間もかかり地道で面倒だと思われがちなブログを書くという行為は、自分へのフィードバックに大いに貢献する有意義な時間の使い方であり、結果としてtime is moneyに十分に合致しているものだと思うわけだ。

杭州へ小旅行

2010-07-07 | 生活・色々


画像/西湖のほとりにあるベンチで1時間ほどくつろいで、存分にまったりを満喫した。


■杭州で結婚式をやるというので行ってきた。なんと木曜日にやるというからこれは大変。どうにかスケジュールを前倒しして、当日は朝の1時間だけ仕事をしてから上海南駅へ。そこから新幹線に乗り、杭州駅まで約1時間半。友人から、具体的な開催場所の連絡が2日前だったので、前売り券も買えなかったから当日券を買おうとすると30分も並ぶことに・・。ようやく買えたが1時からの出発で、杭州の西湖近くのホテルに着いたのが4時近く。着替えてすぐに出かけたがなぜかタクシーが捕まらず、会場入りしたのは5時半頃。

さっそく紅包(ホンバオ)というお祝い金を受付に渡す。紅包の裏に「100万元入り」と余計なことを書いておいた。受付の人にもこのくだらないジョークを見せようと軽くアピールしたが、よく理解できない様子だった。ジョークが通じないときに感じる妙な気まずさをサラッと味わったが、めげずに新郎に挨拶。久しぶりだったのだが、あんまり嬉しさを表現してくれなかったので、きっと人生初の大イベントで緊張しているのだろうと思った。

と、思いながら新郎新婦と写真撮影をしてもらおうと、他の人たちと新郎の交流を見ていると、なんだか私とはずいぶん違う対応をしているじゃないか。せっかく君のために上海から来たのに、一体どうしたんだろうと軽い疑問を抱く私。サシでも飲んだりしてまあまあよく付き合った方だとは思っていたけど、相手はそうまで思っていなかったのかなぁと考えていたら、私の席は、新郎新婦と一緒の一番メインの席だった。う~ん、よくわからないが、思い過ごしのようだったということだろう。私のことも考えてくれていたようでよかったよかった。

それで、式はわりと日本式に近い感じで、照明や音楽を考えて演出されていた。さすがに、ご両親へのお涙頂戴お手紙などはなかったが、全体的によい結婚式だったのではないだろうか。後半、わりと宴会モードになってきたときには、子供が舞台に上がったりなど、自由な式が中国らしいと改めて感じた。

しかし、何が一番驚いたというと、知っている人が3人も参加していたことだ。元某日本語雑誌営業マンと貿易会社マネージャーに、コンビニの組織経営会社社長。3人とも酒を交わした仲だったが、まさか杭州で知人3人にも会うとは、いやはややっぱり日本人ネットワークは狭い。

式が終わった後、その社長と近くに座っていたノルウェー人、それに日本人2人でバーに繰り出した。そのノルウェー人は、上海の五角場でレストランを経営している人なのだけど、中国語がけっこう話せる。バーにいる間、1時間くらいは彼と話したと思うが、彼の中国語と私の中国語レベルはほぼ均衡していて、外国人同士で妙にスムースに会話が成り立っていた。途中、彼が目ぼしい女性を見つけ、ナンパしようとしていたのだけど、チャンスを掴み損ねて悔しそうにしていたのが笑えた。

翌日は夕方までのフリータイム。まずは昼食のために美味そうな店を探し、人が多く入っているお店に。カエル料理とよくわからない1品を注文したが、肉厚でなく、あまり美味しくなかった。有名な西湖を見に行こうとタクシーを探す。1分に5台くらいは目の前を通るが、やはり満車ばかり。このあたりはタクシーが捕まりにくい場所なのか?



タクシーを捜して早10分が経過したとき、目に飛び込んできたのは、ぴっちり短パンと素肌にノースリーブ革ジャケットにポリス帽子をかぶったおじさん。この綺麗な杭州の町並みに不釣合いなこのおっさんはなぜこんなファッションなのか。ゴミをあさっていたので、ホームレスか乞食なのだろうが、奇抜というか、エキセントリックなファッションだった。

杭州駅はお世辞にも綺麗とは言えなく、地下構内などは薄暗かったりやってるのかやってないのかわからないような売店が目立ったりと、私の中の杭州のイメージとは違ったが、少し駅から離れると街並みが綺麗なことがわかる。道路も比較的清潔で、ここのところは上海とは違うなと感じた。上海にはいたるところにあるピンサロのような店も皆無に等しい、というか1軒も見なかった。これは風俗の規制が厳しい証拠だろう。

「唾を吐かないで」というメッセージの看板や、夜になると飲酒運転撲滅のための電光掲示板を何箇所でも見た。こういう要素からすると、杭州市政府の政策というのは、少なくとも景観や社会秩序に関しては、クリーンな杭州を目指しているようだということがわかってくる。また、車や人が多いのは上海と同じだが、上海と同じかそれ以上に高級車が多いと感じた。杭州にも金持ちが多いとは聞いていたが、車もそれを反映してのことなのだろうか。やはり、上海以外の場所も色々と見てみると勉強になる。

画像/右上に見える中国語が「唾を吐かないで」(意訳)


それで、ようやくタクシーをゲットして西湖へ。軽く散歩したあと、1時間ほどの西湖のほとりのベンチでまったり。1メートル先に、雄大な西湖が180度の光景が広がる。水の音が心地よい。i podで音楽を聴きながら目の前の大自然を見ていると、過去のことやこれからのことを色々と考える。これから、たまにはこういう時間も取ったほうがいいのかもしれない。それに、山々の景色と風情ある小船の取り合わせは、そのまま絵画にしてもいいくらいだろう。久しぶりに自然を感じながら満喫した休日だった。