旅館再開発一大プロジェクト・宝生苑 (続編)
5年も遅々として進まない難航の生活排水交渉
トップから中止しようかとの話
設計会社からは長年 駐在し見通しがつくまで
チームを解散するから
設計料を支払ってほしいと 申し出があった
どうにか 両組合総会に出席 説明し 漸く同意を得た
トップに同意解決や 設計の報告すると
すっかり 中止の考えはなく GO GOムードになった
しかし 親会社のオーナーは この計画を了承していたが
関係部署は 身分不相応な開発は 反対と
良い協力は得られなかった
また 経理は 偶発債務の関係で保証はできないが
保証予約だといわれた
一方 銀行には 計画段階から銀行と融資折衝していたが
わずかな増資では 融資は困難と言われた
工事費150億に対し増資は 1億2千万円だからである
一難去って また一難
そこで 40年近くも銀行に出入りし折衝していると
人としての信頼関係が保たれ 自由に話ができ
電力の神様 松永佐左エ門の話を持ち出した
川の流れの水を担保に 電力会社を起こしたそうであるが
私の命と 建設中の物件は 融資以上に進んでいる
担保にできないかと 持ち出した
交渉の結果 そこで「持ち込み担保」という言葉が飛び出した
これで 行けるかなと 内心喜び ほくそ笑んだ
営業をしつつの 大工事は順調に進んだ
志摩スペイン村は 一年早く平成6年のオープン
道路は30Kmほども渋滞し 大賑わい
渋滞解消の為 当日客が出払うと
翌日客を駐車場に誘導するほどの賑わいで好調だった
旅館は スペイン村の開業後1年遅れ 工事期間2年
平成7年7月7日オープンした
新旅館名は 昭和天皇が 賢島を訪れた時 歌を詠まれた
ヤドリギの多い岬名から 命名し 華々しくオープンした
ところが バブルがはじけ 急激に雲行きが怪しくなった
事業は 進むのも地獄 退くのも地獄である
私は いつ倒産してもおかしくない状況になっても
借財の大きい旅館 潰さないだろう
従業員は 職を失い巷にさまようこともなかろうと
私は 死にもの狂いで私生活は 全く無視し
7年間 昼夜を問わず働き この完成を
自宅で一人喜び 一夜を美酒に浸り酔った
最高の日であった
わが社の経営のトップが計画から 完成までに
3~4人も変わり 熱意は薄れ 遅れている批判が台頭し
この困難な開発の苦労を理解評価してくれる人が
いなかったことは 誠に残念だった
開業1年は 順調な業績であったが
次第に雲いきが怪しくなり
親会社の事業再編で この計画に協力をえられなかった
親会社からの出向役員成りが乗り込み
私は 平成11年3月任期を残し退任した
その後 バブル崩壊で資金のほとんどを調達していた
長信3行は 破綻
わが務めていた会社は 事業の再編成で 一旦全員退職
40才以下の人を中心に再雇用となり
宝生苑は 今も設備 サーブスを誇り
隆々と営業を続けている
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5年も遅々として進まない難航の生活排水交渉
トップから中止しようかとの話
設計会社からは長年 駐在し見通しがつくまで
チームを解散するから
設計料を支払ってほしいと 申し出があった
どうにか 両組合総会に出席 説明し 漸く同意を得た
トップに同意解決や 設計の報告すると
すっかり 中止の考えはなく GO GOムードになった
しかし 親会社のオーナーは この計画を了承していたが
関係部署は 身分不相応な開発は 反対と
良い協力は得られなかった
また 経理は 偶発債務の関係で保証はできないが
保証予約だといわれた
一方 銀行には 計画段階から銀行と融資折衝していたが
わずかな増資では 融資は困難と言われた
工事費150億に対し増資は 1億2千万円だからである
一難去って また一難
そこで 40年近くも銀行に出入りし折衝していると
人としての信頼関係が保たれ 自由に話ができ
電力の神様 松永佐左エ門の話を持ち出した
川の流れの水を担保に 電力会社を起こしたそうであるが
私の命と 建設中の物件は 融資以上に進んでいる
担保にできないかと 持ち出した
交渉の結果 そこで「持ち込み担保」という言葉が飛び出した
これで 行けるかなと 内心喜び ほくそ笑んだ
営業をしつつの 大工事は順調に進んだ
志摩スペイン村は 一年早く平成6年のオープン
道路は30Kmほども渋滞し 大賑わい
渋滞解消の為 当日客が出払うと
翌日客を駐車場に誘導するほどの賑わいで好調だった
旅館は スペイン村の開業後1年遅れ 工事期間2年
平成7年7月7日オープンした
新旅館名は 昭和天皇が 賢島を訪れた時 歌を詠まれた
ヤドリギの多い岬名から 命名し 華々しくオープンした
ところが バブルがはじけ 急激に雲行きが怪しくなった
事業は 進むのも地獄 退くのも地獄である
私は いつ倒産してもおかしくない状況になっても
借財の大きい旅館 潰さないだろう
従業員は 職を失い巷にさまようこともなかろうと
私は 死にもの狂いで私生活は 全く無視し
7年間 昼夜を問わず働き この完成を
自宅で一人喜び 一夜を美酒に浸り酔った
最高の日であった
わが社の経営のトップが計画から 完成までに
3~4人も変わり 熱意は薄れ 遅れている批判が台頭し
この困難な開発の苦労を理解評価してくれる人が
いなかったことは 誠に残念だった
開業1年は 順調な業績であったが
次第に雲いきが怪しくなり
親会社の事業再編で この計画に協力をえられなかった
親会社からの出向役員成りが乗り込み
私は 平成11年3月任期を残し退任した
その後 バブル崩壊で資金のほとんどを調達していた
長信3行は 破綻
わが務めていた会社は 事業の再編成で 一旦全員退職
40才以下の人を中心に再雇用となり
宝生苑は 今も設備 サーブスを誇り
隆々と営業を続けている
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