⇩超絶おススメ!絶対!!視た方がいい!!!すべてが真理をついた宝石のような言葉でした。
目に見えない大きな力が動かしてくれている、そういう感覚があるんですね。
だから、宇宙が動けば私も動くし、私が動けば宇宙が動くみたいな、そんな感じで、なるべく「我(われ)」という感覚をなくそうというような、そんなイメージはあります。
好きか嫌いかというよりは、ワクワクするかしないかという感じ、すごくシンプル、選択が。
心がフワッと広がってワクワクするというのはOKで。
心がキュッと閉じる、「あ今この人は必要ないんだな」という、そういうものすごくシンプルな分け方。
あとは美しいか美しくないか、という感じ。
ゴミを拾いましょう。拾わないといけないから拾うというよりは、拾うことが自分にとって美しいと感じる行為、だからやるって感じで。あくまでも自分の内側の話なんですよ。
そういう意味ではあんまり他を気にしてない、…気がします。
嘘をつくということがダメではなくて、それは美しくないよねみたいな。
あるいは、粋か野暮かみたいな感じでの分け方で、一つの判断基準にしている気がします。
私っていう人が、この表面の私ではないというか、私の中に、この内側の本体みたいなところに本当の私がいて。で、その私を動かしている心と体と出来事があるっていう、その感覚が幼少期からありました。
親とかは、外側から見ると、とにかく絵筆というかクレヨンとかノートを持たしていれば、もうずっと楽しそうに、見えない空間とお話をしているような感じでニコニコして描いていたという。
だから寂しいとか、私自身も寂しいとかそういうの、一切ないんですよ、なんかもう楽しいんです。
親は一生懸命お友達と仲良くするということをさせたかったみたいなんですよ。みんなと仲良くとか。
でも別に、一人だという感覚が、私から見るとないので。だから一人だろうが、いろんな人といても、特に変わらないというか、普通に私の感覚では楽しかったので。
親は心配したみたいです。
やりたいことがあったんですね。例えばそれがお絵かきすることであったり、本を読むことであったり、ボーっと、草木というか、庭とか原っぱのところで、植物とか、石ころとか、虫とかとお話をしないといけないから、忙しかったんです。
全部が友達っていうのかな、植物も虫も雲も語り掛けてくれる、そんな感覚です。幼少期の時に、空とか、葉っぱとか、虫とかと、心の中で私は会話していたんですけど、それを表現すると物語になったり、アートとなっていったりするわけなんですけれども。
この感覚のまんま大人になって、今もなんか続いているという感じですね。
それは内側の自己から見ると、語り合うこと、語るというのかな、何か感じ取ることができる。感じ取りたいというよりは、感じ取っちゃうという感じだったんですね。
内から溢れてくると言うのかな、ほとばしるような感じでパーンと出てくるものを語っているだけで、何か伝えてあげようとか、「こうです」っていうのも、何もないんですよ。
本業は画家です。絵を描いたり、いろんなものをつくるという作業が本当に楽しくて、それをやっています。
あとはかく、描く(えがく)の描くと、ものを書く、表現にしていくということも大好きなので。基本は絵を描いたり、文を書いたりしています。
あとは旅が好きだったりとか、いろんなことを知る、学ぶっていうのも楽しいので。
そんな延長線上の中で、日本の文化とか、あるいは世界の文化とか歴史にも興味がありますので、それで気がついたら雅楽と言われている伝統的な日本の雅な音楽なんですが、それを中心に、舞うということをしてしまうようになりました。
元々最初からそれをやろうと思っていたわけではなくて。いろいろなそういう聖地とかに行く、言葉の種が降ってくるんですよ、ボタッと。その降ってきたものというものが、昔の古語でつづられているもの、七五調の文章になっていくわけなんですが、それが私も最初、意味が分からないんですけれども、でもこう、浮かんだままに描いて行ったものが、それが例えば祝詞になったりとか、いろいろうたいになってしまうんですね。そういう文化庁とかの登録の歌になったりして、「あれーなんでかなー」みたいな感じで、いつもわからないんですけど。
そんなような延長の中で、これは私が考えたものではないということを、私自身が知っていますので、それでそういう団体とか、社団法人立ち上げた中で、そちらの帰属にしてしまうと、私のものではなくなるので、こうやって公益的なものにしていくという感じですかね。
聞こえるという感覚というよりも、直接ハートに、胸の奥にドンと入って来るっていう感じですね、塊が。いつもそうですね。この閃きという形で、塊が直接入って来るんです。
で、この感覚というのが幼少期からずーっと続いている中なので、なので何でしょうね、その内側にいる自分が本当の自分というか、本質的な自分で。であの、私と呼ばれている「はせくら」という人の心とか感情とか、様々な諸活動というものは、それは付属的なものというもので、それは本体ではないという、感覚なんですよ。
なので、いくらこの「はせくら」という表面が、何か様々な感情の活動が起こったとしても、「まあまあ、ちょっと黙っといてね」、という感じで、別にそれは問題にならないみたいな感じ。ですので、悩まないんです。悩みはない。
毎朝が遠足の朝みたいな感じです。
もう子供かみたいな感じなんですけど。
思考って、そんなに頭(というものは)良くないじゃないですか。
だからまずは感覚、感性、感性というのは神の性質でもあると思うんですね。
だからそこをワッと広げて、感じたものを感じたままに表現していく、
でその延長線上に補完するものとして思考を使うという。だから決して闘ってないんですよ。補完し合っている大切な仲間が、思考であり感性であるという感覚なんですね。
なので、学ぶとか勉強していくということもすごく楽しいですし。両方楽しいです。
我(われ)という人を通して、伝えたい概念というのがこの宇宙とか時空間にはいろいろあって、それをたまたま「はせくら」という人がこのボディを、肉体があるので、通して受け取った情報を、必要なだけ、必要な風に表現させてくださいと思ったら、ボタンとまた落ちてくる、概念が。それをパラパラパラって巻物を開くような感じで紐解くと、だからその概念がきたときに、この本はどんなタイトルで何ページで第何章まであってというのがもう分っているので、それで最初に編集者にこの本は何章の何ページになると思いますとか言って、ダーッと書いていくのでめちゃくちゃ速いと言われます。
最短は3日で十万字書けましたね。そのときは手が痛くなったけどね。
これはポイントは、逆に私という我(が)っていうのかな、この個我、個人の意識を使わないということなんですよ。
だってろくなこと考えないじゃないですか、個の思考は。
じゃなくて、すでにできている方の自分であり、この宇宙に身を委ねた、深い意識、を信頼するというのかな、そうすると、創作活動というのは、本当に、何でしょう、宇宙とともに響き合っている感じで、その瞬間、瞬間がめちゃくちゃ楽しくって。でも出来上がりとしては、いつの間にかできてしまっているというような現象になることが多いですね。
たまに言われるんですね「感動しました」とか「こういうことですよね」って、「えーそうなんだ、いいこと言ってますよねー」、みたいな感じ。自分から手を離れちゃうともうわかんないし、それをずっと持っていようとも全然思わないんですよね。
一応、3次元的に様々な気になることの学びというのも、もう本当にある意味、結構がっちりともう論文ベースで調べたりとかして、で、まとめていくんですよ。だからそういうまとめのノートというのが何十冊じゃない何百冊もあるんですね、っていう。その前にはいろんなことを調べた書籍みたいなものが一万五千冊くらいは、なんかあるんですけど。楽しいから。学びって楽しいでしょ、だからそれはあるんですけども。
でもとりあえずそれはいったん置いておいて。先ずは感じるもの、受け取るものを、なんだろ、ツールみたいな感じで受けとった概念が、まあ表現として、言葉として変換されていくんですよね。
だからこのピタッとした概念を言語化するための努力はするんですよ。やっぱり概念だけあったとしても、そこにフィットする言葉という塊がなければ変換できないので、でそれを学んでいくことはとても楽しいので、そこはやります。
あとはもうそのときに受け取った概念を言葉という、言語空間という仮想空間を通して表現していって、でそれも楽しくって、で、そこで終わりって感じ。
世界って美しいんです。この空間て、なんか、例えていうなら、愛とよばれているものが充満している場なんですよ。
愛が充満している場が、空間で。この空、間と、空の間の中で、そこから切り取ったものを絵にするという感じですね。だから、何でもなれるし、どんな風なものでも表現できるし。これを時間と空間の中で、私たちは遊んでいる気がするの。
これは私の歩みの中にも含まれるんですが、3人子供がいるんですが、長男が生まれたときに未熟児だったんですね。2㎏なくって、しかもその子っていうのは、仮死状態まで行かなかったんですけど、ちょっとそれに近い状態で生まれてきて、やっぱりこう幼い頃ってすごく大変だったんです。食べるということ自体もものすごく苦労してしまうような、この子は7歳まで生きられないんじゃないかと言われていて。どうやったら元気になるんだろう?そのときに命って何なんだろう?ということを真剣に考えました。
命っていうのは、何でしょう、何を何グラム食べたから元気になるっていうことでもなくって。最終的にわかったのは、私たちはお魚でも葉っぱでも、いろんな命の吹き替え作業をしているんだ。その命をわが命に換えて、で、永らえているというかね。こうした共同作業というのかしらね。葉っぱは葉っぱの命を頂くのであれば、わが命に吹き替えて、その葉っぱの命をちゃんと全うしてあげようみたいな、そういう感覚になってきたんですね。そのプロセスを通して、命がいっぱいあるものをいただきましょう。そして命が喜ぶ生き方をしましょうっていう風になっていったことによって、食に関しては基本全部手作りになってしまいました。
ある意味ちゃんとこの地球服を脱ぐというか、死というのは訪れるわけで。でも逆に言うと、そこに至るまでは生きているんですよ。
で、その間を、いかにして、このなんでしょ、空間の中で、空を見上げたり、こういろんな、水と戯れたりとか、人と出会ったりとか、いろいろな出会いとか、こう味わいを通して、この人生を楽しみ切るというのが、なんでしょう、目標というよりはこのプロセス自体がもう本当に喜びであると感じてます。
自分自身として、せっかくいただいた、我(われ)という体と心、感情も全部、贈り物だから、そこをちゃんと味わって体験して、この命を、我(われ)という、与えられたこの時間と空間を喜びとともに生きるということが、あなたが愛した人や出会った人に対してのある意味、贈り物なんですよ。
でこうやって響き合っている命の中で、この地球という中で存在しているこの肉体という期間が終了すると、もれなく違う時空に行きますから、そのときはこの肉体も置いて行きますけれども、でもここで得た様々な学びというか、楽しみというのは、それはちゃんと残っているので。常に常に本当に命というのは響き合っているから、そこまで心配しなくて大丈夫って思ってます。
肉体というよりは、まあスピリットというか、魂というか、もっともっと高次なる、昔の言葉では、「たま」と呼んだんですけどね、たまふるの「たま」、たまのおの「たま」、なんですが。そうしたこれが、命の響き合いが、今、肉体の中に入っているというような、この感覚っていうのがわかっていくと、古来のアニミズムじゃないですけど、あらゆるものの中に、「たま」がある。これを縄文の中では神と呼んだんですが、木の中にいるこの神なるもの、花の中にいる神なるものという、この命の響き合いっていうものを、私たちは取り戻して行くプロセスにあるような気がいたします。だから大丈夫なの。
大安心の中で、喜びの中で生きてあげると、また例えば、私の中にある、私たちの中にある細胞一つ一つが喜ぶの。この細胞の中にある原子、素粒子が「あ、この人の体の中に入ってくれたら、この人がこんな風に喜びの振動をしているな」っていうことが、これが宇宙の喜びになるのって、そんな感覚です。
感情の波に翻弄されているときというのは、おそらく波なんですね。「でも私は波でもなく、海だから」という感じで。だから、波にフォーカスすると上がったり下がったり大変なんですけど、でもその上がったり下がったりすることもある、波もある、泡もある、「でも海だもん」、みたいな。この波の部分を「おーなんかやってるねー」みたいな、なんかそんな感覚で思う感情があるので。そもそも私とは命だから。自分の本体というかね、我(われ)というのは、心でもなく、体でもなく、出来事でもなく、それを見ている命だからというのがあります。
奥底の自分、内側にいる自分が自分だと思っていて、外側の自分はアバターだと思っていたんです。そう、だから、この人がいろんなことをまあ思考したり、あるいは悩んだりとか、いろんなことがあっても、なんて言うか、それは私ではない。私にくっついている付属品が何だか言ってるなっていう感覚があったので。それで、まあ表面の自分の言うことを、そこまで聞かないというか。
内側と繋がるとやっぱり、いろんなものとの繫がりを感じられるので、それを優先していたという感じですね。
「悩み」って、おそらく、「汝の闇」なんですね。「なんじのやみ」が、悩みだと思うんです。でもこの「闇」っていうのも漢字で書くと、門の音って。なんじのやみ、悩みって、やみって、門書いて音、これ闇じゃないですか。てことは、この悩みの闇があるということは、「門を開けたら日が立ち昇る音がする」ってことなんで。あの、悩んでもいいということなんですね。悩んだらダメじゃなくて。悩みが来たときは。次の扉を開く、日が差し込む音がこうブルブル聞こえているんで、パカッと開けばいいんだって、そんな感じなんです。
だから、本当にこう、それを思うと、いろいろな、生きていると大変なこととか、辛いことかって、やっぱりあるじゃないですか。もちろん私にも、困ってしまったこととか、どうしようっていうこともあります。
でもこのプロセスも含めて、時間というこの変移地があるので、ずっとそのままではないというか。その瞬間、出来事とか思ったこと悩んだことというのも、その瞬間しか起きないんです。そしてまた流れていくわけだから、変容していくオブジェを見ているようなものなんですね。
そのように考えると、やっぱりこの瞬間、瞬間そこと一つになって生きる、生き切る。できれば、そこに楽しいなとか、嬉しいなって思いながら、この瞬間、瞬間を重ねていくと、おそらく次の瞬間も、他にはわからないかもしれないけれども、自分の中で、ポコッと嬉しい時間が流れて。そうやってこの自分の命を、他と響き合わせながら、この響き合いを楽しんで、楽しみ切って、この地球を卒業するときは、「ただいま-楽しかったよー」って言って、あちらに帰りたいなと思ってます。
みゆきさんは、まさに覚醒レベルが(少なくとも)④以上の人だと思いました。