■韓国映画「天命の城」 予告
2017年の韓国映画
朝鮮歴史上最も熾烈な「丙子の役」と呼ばれる闘い。
その最後の47日間を5カ月にも及ぶ極寒の中でのオールロケ―ションを決行し、
初めてスクリーンに描いた感動の歴史大作。
清の軍勢12万人に包囲された、1万3000人の朝鮮朝廷は、
進むことも退くこともできない孤立無援の“南漢山城”に逃げ延びる。
生き残る唯一の道は、清の臣従に落ちること。
恥辱に耐えて民を守るのか、大義のために死を覚悟で戦うのか。
同じ国への忠誠を持つ、二人の家臣の異なる信念の闘いの末に、
未来のために下した王の決断とは―。
切迫した逆境で起こる、三人の男のスリリングでドラマティックなぶつかり合い。
国の天命を背負った彼らの誇り高き生きざまは、
「今、何が民衆のための選択なのか」というテーマを我々に鋭く突きつけ、
380年余りの時を経た現代社会に、深く共感できる大切なメッセージを伝えている。
(HPより)
あけましておめでとうございます。
今年もたくさんの作品を観たいと思っています。
■韓国映画「天命の城」予告2
仁祖治世のドラマや映画は「華政(ファジョン)」、「神弓」、「三銃士」
「推奴~チュノ~」を観ましたが、どれを観ても仁祖が愚かな判断をしたことに加え
臣下が二派に分かれ対立し、内政の意見もまとまらず、まったく国を治めるどころではなかった状況でした。
こういう時に真っ先に犠牲になるのは民衆です。
食料も乏しく、極寒の中を戦う兵士の中には生き残った民たちが駆り出され・・・。
でも、こういう時こそ鍛冶屋のナルセ(コ・ス)のように身分は低いけれど
生きる判断力や知恵があり、役に立つ民には逞しく感じました。
キム・ユンソクさんの史劇は初めて観ましたが、さすがに良かったです。
清に降伏していく状況が良く描かれ、久しぶりの歴史大作に食い入るように
観てしまいました。
ミョンギルとサンホンの意見は正反対なのですが、どちらもこの苦難の中で
どうにか国を生かそう、国を守ろうとする葛藤が良かったです。
出演者もイ・ビョンホン、キム・ユンソク、コ・ス、パク・ヒスンさんに加えて
私が注目しているチョ・ウジン、チン・ソンギュさんと名優ばかりとくれば、
この映画を観ずにはいられませんでした。
チョ・ウジンさんもチン・ソンギュさんも、いよいよ主役級の作品が
期待できそうです。
もうすでに脇役を超えてどの作品でも存在感があり、作品の中で重要なポイント役
このお二方の作品もたくさん観たいです。
■STORY
1636年(仁祖14年)12月14日、清が朝鮮に侵入。
「丙子の役」の勃発である。
清の12万の大軍が攻撃してくると、王と朝廷は南漢山城に隠れるが、
敵兵に囲まれて城の中に孤立してしまう。
敵軍に完全包囲された絶体絶命の状況の中、朝鮮の未来を見据えた大臣たちの
意見は激しく対立する。
平和を重んじ、国と民を守るために、清と和睦交渉を図るべきだと考える
吏曹大臣のチェ・ミョンギル(イ・ビョンホン)。
清と真っ向から最後まで戦い、大義を守るべきだと考える礼曹大臣の
キム・サンホン(キム・ユンソク)。
主和派と主戦派。
ふたりの意見の対立に挟まれ、王・仁祖(パク・ヘイル)の葛藤は深まる。
軍事力は圧倒的に劣勢。
そして、清が示した和親の条件は、王の息子・世子を人質に送れというものだった。
サンホンたち主戦派はこの条件に猛反対し、城近くにいる兵たちを
集めるべきだと主張する。
だが城外の近衛兵たちに応戦を呼びかける檄文の手紙を届けるためには、
敵の陣地も通っていかねばならない。
任務を受けた兵の一行は、敵軍に襲われ、乱戦で多くの命を失う。
民も馬も弱っていく城内。
やがて城を囲む敵の数は増え続け、敵陣の包囲網は狭まり、
檄文が届くかどうかの懸念も高まっていく。
サンホンは最後の作戦を提案。
近衛兵と時を合わせ、開城して内外から同時に攻撃すれば、
勝つのは不可能ではないと。
城内の食料は残りわずか。
近衛兵を召集する檄文が正月15日までに届かなければ限界である。
新たな檄文の手紙を届ける重大な任務に、サンホンは軍師ではなく、
その誠実さに信頼を置く鍛冶屋ナルセ(コ・ス)を指名した。
そんな折、清の皇帝ホンタイジが清軍の陣地に到着し、
朝鮮王朝に対して全面降伏を迫る。
降伏など受け入れられるはずがない、と要求を跳ね除けるサンホンたちに対し、
無益な戦いを避けるべきという考えを貫くミョンギルだけは「逆臣」と
謗られるのを承知で降伏を薦める。
抗戦か、降伏か。
鍛冶屋ナルセは無事に檄文を届けることができるのか。
果たして朝鮮王朝の運命は!?
■時代背景 ※HPより抜粋
1608年に即位した光海君は、外交が巧みだった。
当時、中国大陸では、長く統治していた明と新興の後金が激しく争っていたが、
光海君は両国と戦略的な二股外交を展開して、朝鮮王朝の領土を守っていた。
しかし、光海君は1623年にクーデターによって王宮を追放された。
クーデターを主導した仁祖が代わって即位したのだが、彼は明に追随して
後金を卑下する外交を展開した。
これが後金の怒りを買い、後金は1627年に大軍で攻めてきた。
朝鮮王朝は武力で後金に歯が立たなかった。
仁祖は都の漢陽を捨てて江華島に避難した。
そのうえで、講和会議を重ねて後金の怒りを解こうとした。
条件は後金を支持することだった。
従来から朝鮮王朝は明を宗主国のように崇めていたのだが、その方針を
変更せざるをえなくなった。
それを条件に、後金は大軍を引き揚げた。
しかし、仁祖は後金と交わした講和条件を守らなかった。
怒った後金は国号を清と変えた後、1636年12月に12万の大軍で
再び攻めてきた。
またもや仁祖は江華島に逃げようとしたが、すでに清の大軍が迫ってきており、
漢陽の南側にある南漢山城に避難するのが精一杯だった。
1万3千人の兵と一緒に南漢山城で籠城した仁祖。
その間に、清の大軍は漢陽で略奪と放火を繰り返した。
民衆は悲惨な状態になった。
観念した仁祖は籠城をやめて、1637年1月に漢江のほとりまで出てきて、
清の皇帝の前で額を地面にこすりつけて謝罪した。
朝鮮王朝が始まって以来の屈辱だった。
ればかりではない。
莫大な賠償金を課せられ、数十万人の民衆が捕虜となり、仁祖の息子3人も
人質として清に連れていかれてしまった。
仁祖の失政が前代未聞の惨状を招いたのである。
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