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いま平和とは

2022-09-08 10:49:14 | ライブ

命はなぜ目に見えないか

それは命とは君たちが持っている時間だからなんだよ

死んでしまったら自分で使える時間もなくなってしまう

どうか一度しかない自分の時間、命をどのように使うか
しっかり考えながら生きていってほしい

さらに言えば、
その命を今度は自分以外の何かのために
使うことを学んでほしい


~日野原重明(医師)☆★☆名言~
(👧フォローさせていただいているブログから引用させていただきました。
私が特に感動した部分は、

「どうか一度しかない自分の時間、命をどのように使うか
しっかり考えながら生きていってほしい

さらに言えば、
❇️その命を今度は自分以外の何かのために
❇️使うことを学んでほしい」
のところです。)


YouTube「日本で戦争が起きる可能性ある」麻生副総裁
(👩「一応、事前(戦争を始める前)に
国民には伝えましたよ~、YouTubeで」
(by麻生)と言ったつもりなら、私は
気持ち的に容赦しません‼️許せない‼️
戦争は自然に勃発するものではなく、
アメリカとか日本の誰かと誰かが
承諾して故意に始めるのだから‼️
(結局中ごく共産党もアメリカがつくったのだから。)
「日本も台湾有事に巻き込まれて
いいですか❔」
と日本政府が聞いてきたら
良いですよという日本国民など1人もいない‼️)


p.168(or p.171)
「🟣集団的人間は
今や個人を
押しつぶそうとしています。

🌕️あらゆる
人間の行為は
一人ひとりの責任を
基調としています。

🟣しかしこれが集団となると無名となり、
責任を負う必要がなくなります。
群衆運動には指導者の登場がつきものですが、

人類の真の指導者とは
盲目的な団体から遠さがり
真の決定をくだすものなのです。」
(1933年 カール・グスタフ・ユング)
📖『コミック ユング C.G.JUNG
深層心理学入門』画・石田おさむ
1989年11月15日1刷発行
理想社

📖講談社+α文庫
『ユング深層心理学入門』
石田おさむ
1997年1月20日第1刷発行
本作品は1989年11月、
理想社より刊行された
『コミックユング[深層心理学入門]』
を改題しています。




🌿🎵🌿🌹🌿🎵🌿🌹🌿
📖『いま平和とは
-人権と人道をめぐる9話』
最上敏樹 著
岩波新書1000
760円+税
p.181
サイードとバレンボイム

普遍的な人権のために

イスラエルで27人の空軍兵士が
任務拒否声明を出したその翌日、
一人のパレスチナ人が亡くなりました。

ニューヨーク市・コロンビア大学教授の
エドワード・サイードです。
『オリエンタリズム』や
『文化と帝国主義』といった著書によって
日本でもよく知られていました。
(サイードは)アメリカでの生活が長く、
アメリカの市民権を持っていましたが、
最後までパレスチナ人としてパレスチナ問題に心を砕(くだ)き続け、
発言し続けた人でした。
『パレスチナ問題』という大著もあります。

サイードはパレスチナ人でしたから、
その姿勢は一貫してパレスチナ人の権利を擁護するものでした。
とりわけアメリカにいて、パレスチナ人と聞くと
🟣「ああ、テロリストね」という反応が返ってくることに、
しばしば絶望的な怒りを表明しています。
また、パレスチナ人の自爆攻撃が9.11の
同時多発テロと全く同じだと考えられがちなこと、
少なくともアメリカではそうであることについても、その無理解を嘆いていました。
つまり、パレスチナ問題というのは、
パレスチナ人が何もかも剥奪(はくだつ)されてきたことが根源にあるのだ、という主張です。
そしてまた、多くのパレスチナ人が自爆攻撃を非難していることをなぜ無視するのか、という抗議でもありました。

ただ、サイードの立派な点は、
こうしたパレスチナ擁護を、
狭い民族主義からではなく、
普遍的な人間の権利という視点からおこなっていたことです。
彼はアウシュヴィッツ以後、
ユダヤ人であるかないかという問いは意味を持たなくなった、
と言っています。
つまり、ホロコーストのような残虐なことは、
今後、ユダヤ人だけでなく、
ほかのどの人々に対しても起こってはならないことだ、と確信していたのです。
そういう普遍的な価値観を前提にして、
イスラエルの占領政策を糾弾(きゅうだん)し、
また、指導力を発揮できないアラファト・パレスチナ暫定自治政府議長にも容赦ない批判を浴びせました。

和解への試み

このサイードが心を通わせ、
二つの民族の和解のための共同作業を一緒におこなうということもした、一人のユダヤ人(イスラエル人)がいます。ピアニストで指揮者のダニエル・バレンボイムです。
ユダヤ人であることを誇りに思い、イスラエルを愛している人ですが、
イスラエル政府の占領政策には批判的で、
何とか両民族和解の方向に舵(かじ)を切ることはできないか、
それを懸命に模索している人でもあります。

自国政府に対して、彼(ダニエル・バレンボイムは)
根元的な批判を展開しています。
フランスの新聞に掲載された意見表明ですが、
「自由と正義と平和を原則にした、あの素晴らしいイスラエル建国宣言はどこに行ったのか」と問うているのです。
🟣他の人々を占領し支配すること、
つまり他者の人権を犠牲にすることによって保たれるイスラエルの独立に、いったい何の意味があるのか--そう彼は問いかけます。

お気づきのことと思いますが、
サイードとバレンボイムは同じことを言っているのです。
「イスラエルよりパレスチナが正しい」と主張するのではなく、
アウシュヴィッツ以後も、
誰もがこうむってはならないはずだった悲惨を、
一つの民族が他の民族に与えるのはおかしい、
と考える点においてです。

こうして二人の人物は、
民族の和解のための種をまこうと考え、

(👩アメリカのバイデン大統領とか、
なぜサイード氏とバレンボイム氏のような考えになれないのか❔
👧それは、たとえなりたいと思っても
ディープステートにアメリカと心を乗っ取られているから。)


こうして二人の人物は、
民族の和解のための種をまこうと考え、
実行に移しました。
1999年、ドイツの都市ワイマールに、
イスラエルとパレスチナ、
さらにほかのアラブ諸国からも音楽を学ぶ若者を招き、
オーケストラを編成して訓練するという企画です。
当然のことながら、いろいろ難しい問題も起きましたが、
最後は立派な演奏ができるまでになりました。
その時の記録フィルムが残されていますが、
ベートーベンの交響曲第七番の、
しっかりした演奏です。

閉鎖性を打ち破る

2年後の2001年、バレンボイムは単独でもう一つの心をしました。
ヒトラーが好んだという理由で、
かつ本人が強烈な反ユダヤ主義者だったという理由で、
イスラエルでは演奏がタブーになっていたリヒャルト・ワーグナーの曲を、
エルサレムで演奏することです。
イスラエルの音楽祭でのこと、
演目は楽劇『トリスタンとイゾルテ』からの短い抜粋。
指揮台から聴衆の同意を求めた上での演奏でしたが、
会場は聴きたいという人とやめろという人に
二分されて大騒ぎになりました。
タブーを破ったということで、
イスラエルでは大きな物議をかもすことになったのです。

しかしバレンボイムは、言うまでもなく
反ユダヤなどではありませんし、
いたずらに物議をかもそうと思って
この演奏をしたのでもありません。
歴史的に辛酸(しんせん)をなめつくした経験が下敷きになっているとはいえ、
排他的な民族主義に傾斜し、
自分たちをむま他人をも不幸にしている祖国を憂(うれ)え、
その閉鎖性をもう少し普遍的なものにむけて解放できないかと考えていたのです。

(👩今、私は別のことを急に思い出した。

その本を書き著した理由をハッキリとは書いていない著書がある。
だから読者が読んでこの本が伝えたいメッセージとは、
「きっとこうではないかしら❔」
と読者に考えさせる。
このような本は情操(考える力)のためには本当に素晴らしい。
けれども、
読者や社会全体にハッキリと自分がこの本を書いた理由、
メッセージを明確に書いていないために
この本には戦争などをやめさせるちからはない。

たとえば半世紀前に出会った『星の王子さま』(サン・テグジュペリ 著)の
真のメッセージは反戦、戦争反対なのに、
ほとんどの『星の王子さま』の解説書にはそれは書いていない。
「大切なものは、目に見えない」ということしか言及していない。

素晴らしい著作なのに真のメッセージが書かれていないため
出版から半世紀後の今(2022年)も、
『星の王子さま』には戦争をとめるちからはないままだ。

🌕️それはハッキリと書かない、書けないことの功罪だ。

👨🟣出版当時は書けなかったんだよ。
出版すること自体、大変だったんだ。

👩サン・テグジュペリは、
「この本を自分の大切な、
今可哀想な目に遭(あ)っている友人に贈る」
と、『星の王子さま』に書いていた。
👧きっとサン・テグジュペリの友人は、
レジスタンスではないのかな❔と思う。

私は、そのテグジュペリの友人がどのように可哀想なのかを知りたかった。
今この、サイード氏とバレンボイム氏のお話を読んで
『星の王子さま』を著したサン・テグジュペリのことを思い出した。
自分が何を考え伝え、何をしたいかハッキリと書くことが重要だと。

それから、どちらの国にも
地球的にみて公平であることは大切だが、
自分はどちらかというと、たとえば
アメリカ、ロシア、中国、フランス、
どこの国側に立って話しているのかを
明確に書くこと。これをハッキリ書いてほしい。)


(つづき)
この頃のいきさつなどをふくめ、サイードとバレンボイムが語り合っている談論の記録が、
2003年に出版されました。(『音楽と社会』みすず書房、2004年)
これ(『音楽と社会』)を読むとワーグナーは卑劣な人間で彼の反ユダヤ主義は醜悪きわまりなかったと考えつつも、
彼(ワーグナー)の音楽の素晴らしさは
それ(反ユダヤ主義)とは別の事柄だと(バレンボイムが)考えていることがよく分かります。
(👨人間性の高さ(素晴らしさ)と音楽性の高さ(素晴らしさ)は比例しない。)
それはまるで、民族固有の経験とは切り離して認めざるを得ない、
普遍的な価値に目を閉ざすのは止(や)めよう、と言っているかのようです。

サイードもそれに呼応しました。
同じ本(『音楽と社会』)に収められている小論で、
「音楽は民族とか国民性とか言語の境界を超える。
モーツァルトを鑑賞するためにドイツ語がわかっていなければならないということはないし、
ベルリオーズの楽譜を読むためにフランス人である必要はないのだ」と書いています。


(👴突然ですが、エリザベス女王が崩御された。亡くなられた。
👩エリザベス女王が亡くなられたことで
世界はどのように変わるのだろう❔
善くなるのか❔悪くなるのか❔
どちらなのだろう。
エリザベス女王は死の間際に
イギリスの新首相を任命されてから亡くなられた。

👨日本の場合も、天皇が生きておられるという状態は
どんなことに有利なのだろう❔また、
天皇がもし亡くなられた時は
日本にどんなことが起きるのだろう❔

👴エリザベス女王亡あとはクイーンからキング・チャールズ新国王に代わったが、
イギリス王室が終わる・終える・終わらされるかも知れないといわれている。
(及川幸久YouTube)。
👨そうだとしたらイギリス王室は
①なぜ、
②誰によって終わらされるのだろう❔

👧馬渕睦夫さんも「国体」の話をされていたな。
日本に天皇が生きておられることは、
とても重要なことなのだとおっしゃっていたな。

👩エリザベス女王は、2022年9月9日に亡くなる数日前まで(立って❔)公務をこなされていたという。
ご自分が亡くなったらイギリス王室が終わるかも知れないという感覚は、きっとエリザベス女王自身に生前からあったのではないか。
残していく息子チャールズさんやたくさんの孫(約20人❔)が
今までどおりに穏やかに(=裕福に何の心配もなく)暮らせるように、
また、イギリス国民が末長く幸せに暮らせるようにと、
内心相当心配され、
そのための手段を考えていたのではないかと思う。
クイーンは老衰の床の中で、亡くなられるそのときまで、
息子さんに公務を引き継いでいたのだろうと思う。
こういうときにはこうして、そういうときにはこうなさいと。

しかし、ご自身(エリザベス女王)が亡くなったあとは
新国王にどんな(DSディープステートなどの)魔の手が伸びてくるかもしれない。
悪魔のささやきが聞こえてくるかもしれない。
きっとそれはすぐにやってくるだろうと。

👨馬渕さんのYouTubeから僕が聞いたディープステートのやり方とは、
たとえばイギリス新国王と、
新イギリス首相の、
直属の補佐をする「秘書」「メディア」などが、
ディープステートの回し者である可能性が高い。(今までの歴史では。)
新イギリス首相自身がディープステートである可能性もある。

👩エリザベス女王は自身もイルミナティ・フリーメイソンの頂点であった。
ディープステートのやり口は身に染みていたことだろう。
これからイギリス王室は、そして世界はどうされていくのか❔
エリザベス女王はディープステートの仲間だったのか❔
それともエリザベス女王はディープステートの一味でありながら
苦々しい気持ちでディープステートの世界統一を見ていたのか❔

👨ママ、👆️それは、すごい説だね。

👩かつてイギリスも植民地を持って
植民地の人々を自分たちより下に見て、
メイドや下働き、使用人として酷使していた。
📖『オリエンタリズム』サイード 著。

👧シネマで📽️『愛人(ラ・マン)』を観たとき、
映画のストーリーよりも
植民地の雰囲気というものに興味を感じた。)


つづき

人を閉じ込めてはならない

この音楽談義の隠れた主題は
いかにして寛容を強めていくか、
という点です。
サイードは他の国会、
他の民族、
他の人間集団との関係の持ち方について、
特に対立する人々との関係について、
「ぼくたちは相手の歴史をがまんしなくてはならない」
という言い方をしています。
お互いに相手の文化や伝統を尊重し合うという意味です。
とりわけ、中東のように狭い地域に関しては、
「人々を分離しようという考えは絶対にうまくいかない」
と彼(サイード)は言います。
「狭いところに閉じ込められた人間というものは、
不安を募(つの)らせ、
被害妄想を強めるからだ」
というのです。

バレンボイムもそれ(上のサイードの言葉)に呼応してこう言います。
「もしいつの日か紛争(戦争)が解決されうるとするなら、
それは紛争当事者の接触を通じてしかありえない」。
サイードが「がまん」と言っていることを、
バレンボイムは「接触」と言いかえています。
🌕️その共通点は、他者に対する《寛容》にほかなりません。
🌕️自分とは違う人間たちも
🌕️自分と同じように生存権を持っている、
🌕️と認めることです。

この談義のなかで、(最上敏樹さんが)
意表をつかれ、思わずうなってしまう箇所があります。
(その箇所は、)サイードがワーグナーの反ユダヤ主義について語り、
「きみ(バレンボイム)はユダヤ人だし、
ぼくはパレスチナ人だから……」と言った瞬間、
バレンボイムが「ぼくらは両方ともセム人だよ」と言うのです。
セム人というと普通はユダヤ人を指しますが、
もともとはアラブ人やユダヤ人を広く包み込む、セム語族という人間集団を指す言葉でした。
そんなことはサイードもよく知っていますが、
バレンボイムは、
今や殺し合いのための境界線になっている、
二つの「民族」の区別をあえて消し去っておきたかったのでしょう。

これは大事な点です。
これまで見てきたさまざまな平和問題の根底に、
この《境界》の問題が横たわっていると思われるからです。
いま少し、この問題を突きつめてみましょう。

(中略)

p.203
2 日本とドイツ

孤独に負債を抱え続けて

同じように周辺諸国や他民族に危害を及ぼし、
同じように敗戦した国(=日本とドイツ)でありながら、
日本とドイツがたどった戦後はずいぶん違うと言われます。
危害を与えた国への国家賠償や
(危害を与えた)人々への個人補償、
それらの国々や人々への謝罪、
🌕️災厄をもたらした旧体制の思想や中心人物が復権する(=しない)ことへのチェック、等々です。
🟣このうち、旧体制の思想や人物の復権についてはドイツでも見られる、という指弾(しだん)もありますが(ラルフ・ジョルダーノ『第二の罪』白水社、1990年)、
それ以外の点では、確かにいくつもの違いがあるように思われます。

(👨「旧体制の思想や人物の復権についてはドイツでも見られる」‼️それは恐ろしく悪いことだ。日本大丈夫だろうか⁉️)



日本から被害を受けた諸外国に対して賠償(あるいはそれに準ずる支払い)はしているものの、(日本は賠償や支払いの)額が十分でないようだという反省点があったり、
🌕️強制連行の被害者等に対する個人補償がほとんど進んでいないという問題も残ります(粟屋憲太郎ほか著『戦争責任・戦後責任 日本とドイツはどう違うか』朝日新聞社刊、1994年)。
ドイツの賠償もさまざまな問題点はあるのですが、
各種の個人補償を展開してきたのも事実で、
(👩きちんと償(つぐな)わないと、
ヴァイツゼッガー元西ドイツ大統領の『荒れ野の40年』(岩波ブックレット)の意味(成果)がない。)

(ドイツは)各種の個人補償を展開してきたのも事実で、
それによって日本のように、
延々と人間の痛みに溢(あふ)れる(被害者からの)抗議を受けることを免(まぬが)れてきたとも言えるでしょう。

いわゆる「従軍慰安婦」問題についても、
いまなおかつての被害女性からの訴えが(日本は)絶えず、
また1998年の「国連マクドゥーガル報告」(🟣「武力紛争下の組織的強姦、
性奴隷制および
奴隷制類似慣行に関する最終報告書」)が日本政府に責任ありとし、
十分な救済のための措置をとる義務があると結論しているにもかかわらず、
(日本)政府はそれを受け入れていません。
(日本政府は)一度はしっかりと精算するほうが、
国家としても「徳を」取り戻し、
より自由になるように思うのですが、
それは不可能なことなのでしょうか。

(👧ドイツ、ヒトラー、ナチスというけれど、
日本政府(日本軍)も、かなり非道な犯罪をおかしてきたんだな。)

🌕️かつての加害行為を「なかった」ことにはできませんし
(日本政府も、どの問題についてもそうは言っていません)、
🌕️また、加害者の側が「水に流そう」と言うことはできないのです。
そして、精算が終わるまでの間は、
犠牲者たちの痛みを訴える声に耳を傾け続けるほかありません。
首相ほか政府首脳の靖国参拝なども同様で、
それ(首相(国のトップ)が靖国を参拝すること)によって
痛みを呼び覚まされる人がたくさんいるのなら、
参拝を「内心の問題」(要するに「私の勝手です」という意味になります)と言って済ますことはできなくなります。🌕️過去の行為をどういう未来につなげようとしているかが、
現在の行為として現れる、
ということだからです。

言うまでもなく、戦没者たちは
深く悼み続けねばなりません。
その人たちの多くも、
「政府の行為によって」引き起こされた「戦争の惨禍(さんか)(日本国憲法前文)の犠牲者だからです。しかし、追悼はまた別の方法で行うべきなのではないでしょうか。   」

(👧飛躍しますが、
アメリカも、長崎・広島への原爆投下を日本に謝罪し、
きちんと広島・長崎の被爆者に償ったのですか❔
👴原爆投下後の人体の被害データばかりを集めおって‼️)

(中略)

p.211
おわりに--若者たちのために希望を語る

平和を語るのは理想主義だという言い方があります。



📖『いま平和とは-人権と人道をめぐる9話-』
最上敏樹 著
岩波新書1000


(関連参考書)
📖『バレンボイム/サイード 音楽と社会 』
ダニエルバレンボイム/
エドワード・W・サイード 著
アラグゼリミアン 編
中野真紀子 訳

読者レビュー


バレンボイムはユダヤ系ロシア人の指揮者で、イスラエルでワーグナーを指揮し、話題に(糾弾)。
サイードはパレスチナ出身。この2人は友達という。
後半は、ワーグナーについて語る。結局は、どんな芸術でも受け入れる柔軟さが必要ということか。


クラシック音楽が好きなので、たまに聴きに行くわけですが、同時に、これからも­こういうものが、より多くの人が、気軽に楽しめる形で残ってほしい、と思っています。­
多様な音楽やエンターテイメントが存在するなかで、なぜ、わざわざ18-19世紀の­古めかしい音楽か。­
正月のウィーンフィル­ ニューイヤーコンサートの指揮をしたダニエル・バレンボイムは、音楽が、­信仰、自由への欲求、体制への反抗といった、かつての役割と分断された今、その力は­「人間のいちばん奥底にある思考や感情の内面的プロセスとの相似」にあると言います。­
人間はどのように自分自身と付き合うのだろう。実存の問題とどう付き合うのだろう。­
社会における自分の位置という問題に、どう付き合うのだろう。自分自身をどう見るのだろう。­
不安や苦悶にどのように対処するのか。喜びには、どう対処するのか。(中略)­
そこには相似(パラレル)が、それこそ何百となく存在する。­
誰もが内面生活において経験するプロセスの相似物だ。­
良い演奏は、なんとなく風景やシチュエーションが目にうかび、自分を重ね、­また頑張ろうという気持ちになったり、こんなものが聴けてよかったと思ったりする。­
そういう意味で「音楽は人生の学校として最良のものであり、同時にまた­そこから逃避するためのもっとも有効な手段にもなる」と。­
とはいえ、この学校は義務教育ではないので、選ばれ、残っていくためには、もう少し親しみ­やすい内容や形で、買い求めやすいお値段で、相手に伝わるプロモーションをして、提示­していくことが必要でしょう。­
20世紀以降の、難解で「理解し、吸収するにはずっと多くの努力が必要」な現代音楽は、­素人には、居心地が悪いだけで、誰のために何を目指しているのか良くわからない。­
音楽をやる方にはぜひ、そういう方向ではなくて、多くの人に伝わり、影響を与えられる方向へ、­創造の力を向けてほしい。­
この本は、イスラエル国籍を持つ、ユダヤ人指揮者バレンボイムと、エルサレムに生まれた、­パレスチナ人批評家サイードの対談集。­
二人は、戦乱状況にある故国の学生音楽家を集めたワークショップでオーケストラを編成し、­99年には、あの「のだめ」でR'sオーケストラが演奏したベートーベン交響曲第7番(べとしち)の­ドラマティックな演奏を行っている。­
「紛争がいつの日か解消されるのであるとすれば、それは争っているもの同士が互いの接触を­通じて問題を解決していくことによってしかありえない」­
ここでもまた、互いを知るという面では学校であり、同時にある面では逃避でしかない音楽。­
依然かの地の平和への道のりが険しいのも、また現実である。­


サイードさんの本を読んでいた頃、装丁を見かけて即買いしてしまった。音楽と社会の関係は分からなかったけれど、音楽が人を自由にしうる、という琴線に触れることはできた気もします。
バレンボイム/サイードの二人に対するインタビューという形式で、物足りない気がするのは、残念ながらインタビュアーの(相対的な)力量なのかも。


沈黙から沈黙へ。
それぞれ祖国に定住せず育った来歴を持つ、パレスチナ人とユダヤ人の著者ら。
彼らの間にはイスラエルの地に関わる大きな問題が横たわっているが、彼らはそのために憎む事はせず、音楽を通じてお互いを尊重している。
音楽家のバレンボイムと文学者のサイードは似て非なる立場であり、その立ち位置を象徴する言葉が本書の原題である「Parallels and Paradoxes」(相似と相反)だ。
似ているから分かりあえる、違うから興味深い。
その感覚をお互いが持ち、且つ相手もそれを持っているという信頼関係があるように思う。
二人の会話を読んでいると、言葉で人は分かりあえること、音楽は言語を超える存在であることを強く思う。
おそらく異文化でも心に訴える音楽はあるし、人類共通の最高の音楽というものもあるだろう。
現在はオーケストラが至上のように思われているが、それはその形態が時間と文化の中で洗練されたものであるからだと思う。
例えば、和楽であってもそれをもっと身近な存在にし、競争と評価にさらすことで、さらに普遍的な存在になり得ると思う。それはアジア、アフリカ等の地域音楽としてイロモノとして見られている楽器にも言えるのではないかと思う。
元来、音楽は移り行くもので、楽譜があれど表現は千差万別。
一度として同じものはない。
二人の遍歴のようでもあり、人の一生のようでもある。
アイデンティティとは、ひとところの塊ではなく、流れ続ける潮流のようである。


ユダヤ人とワーグナーの音楽の関係が、痛いほどよくわかる。
少しづつ、色々な壁を崩していこうという活動に頭が下がる。
音楽で壁を作ってはならない。


世界的なピアニスト・指揮者のバレンボイム(イスラエル国籍)と、パレスチナについて真摯に語り続けるサイードとが出会う。パレスチナとイスラエルの音楽家を招いたワークショップの話、土地の問題化、音楽と社会を語る。
音楽を愛し、芸術を愛し、生活を愛し、人を愛し、社会を愛する現代人必読の本。


いろいろな示唆に富んだ面白い本だった。特に心に残ったのは、テクストの話。楽譜を一つのテクストとして、文学を読むように読む、というのは面白い発想だと思った。「モーツァルトの楽譜を読むのにドイツ語は必要ない」 音、テンポの話。音楽は沈黙に対する闘いである、という指摘。また、楽譜の中の様々な記号(指示)は、すべて相対的なものであって、絶対的な命令ではない。特に、テンポに関しては、内容の盛り上がりによって聴衆にわからない程度に速くなったり遅くなったりし、緩慢になってはいけないなど。ちょっと恋愛とか生き方にも関わる指摘かな、と思う。協力の話。オーケストラは民主的な社会のモデルになる、という指摘は面白い。同じ表現を達成するために努力した二人が、同じ音にたどり着いたとき、憎しみや無理解を超えられる、と。


2006年。音楽と社会について語る上質な対話集。「サイード:過去とのパトス(中略)……歴史にはなにか無慈悲なところがあって、それが人間の経験に奥ふかく埋め込まれているように思う。一定のものごとは取り返しがつかないと思う。それは過去のものだから。p.246」


バレンボイムとパレスチナ人哲学者サイードの対話 それぞれが背負った使命においての 解決できぬ中東和平への思いを込めた読み応えのある本である。クラシックファンでなくとも読むべきで

















はじめに 小森洋一

1999年7月29日、国会法が改正され、
国会に「憲法調査会」が設置されることになりました。
2000年通常国会から5年をめどに、
報告を議長に提出するという目的で、
衆議院と参議院それぞれ独自の調査活動が始められたのです。
この「憲法調査会」が「君が代・日の丸」の法制化、
通信傍受法、
改正住民基本台帳法、
新ガイドライン関連法
といった🌕️悪法が数の論理で通過させられた第145国会を受けて成立したために、
私たちは、当初から強い危機感を持ってきました。