〈2〉
もしいま、突然戦争がはじまり、日本が戦火に見舞われたら、両親を失った子供たちはどう生きるのだろうか。大人たちは他人の子供たちにどう接するのだろうか。
「火垂るの墓」の清太少年は、私には、まるで現代の少年がタイムスリップして、あの不幸な時代にまぎれこんでしまったように思えてならない。そしてほとんど必然としかいいようのない成行き(なりゆき)で妹を死なせ、ひと月してみずからも死んでいく。
中学三年生といえば、予科練や陸軍幼年学校へ入ったり、少年兵になる子供もいた年齢である。しかし、清太は海軍大尉の長男でありながら、全く軍国少年らしいところがない。空襲で家が焼けて、妹に「どないするのん?」と聞かれ、「お父ちゃん(が)仇(かたき)(を)とってくれるて」としか答えられない。みずからお国のため、天皇のために滅私奉公する気概はまるでなく、人並みにはもっていた敵愾心(てきがいしん)も、空襲のショックでたちまち消しとぶ。
当時としてはかなり裕福に育ち、都会生活の楽しさも知っていた。逆境に立ち向かう必要はもちろん、厳しい親の労働を手伝わされたり、歯を喰いしばって屈辱に耐えるような経験はなかった。卑屈な態度をとったこともなく、戦時下とはいえ、のんびりと暮らして来た部類に入るはずである。
清太は母を失い、焼け出されて遠縁にあたる未亡人の家に身をよせる。夫の従兄(いとこ)である海軍大尉にひがみでもあったのか、生来の情けの薄さか、未亡人はたちまち兄妹を邪魔者扱いし、冷たく当たるようになる。清太は未亡人のいやがらせやいやみに耐えることが出来ない。妹と自分の身を守るために我慢し、ヒステリィの未亡人の前に膝を屈し、許しを乞うことが出来ない。未亡人からみれば、清太は全然可愛げのない子供だったろう。
「よろし、御飯別々にしましょ、それやったら文句ないでしょ」「そんなに命惜しいねんやったら、横穴に住んどったらええのに」浴びせかけられる言葉も それを口にする心も たしかに冷酷そのものではあるが、未亡人は兄妹が本当にそんなことが出来るとは思っていなかったかもしれない。清太はしかし、自分に完全な屈服と御機嫌とりを要求する、この泥沼のような人間関係のなかに身をおきつづけることは出来なかった。むしろ耐えがたい人間関係から身をひいて、みずから食事を別にし、横穴へと去るのである。卑屈に自分にすがってくることをしないこの子を、どこまでも憎らしく、未亡人は(清太を)厄介払い(やっかいばらい)してもあまり良心が痛まなかっただろう。
清太のとったこのような行動や心のうごきは、物質的に恵まれ、快・不快を対人関係や行動や存在の大きな基準とし、わずらわしい人間関係をいとう(嫌う)現代の青年や子供たちと どこか似てはいないだろうか。いや、その子供たちと時代を共有する大人たちも同じである。
家族の絆がゆるみ、隣人同士の連帯感が減った分だけ、二重三重の社会的保護乃至(ないし)管理の枠にまもられている現代。相互不干渉を つき合いの基本におき、▼本質に触れない遊戯的な気のつかい合いに、みずからのやさしさを確かめあっている私たち。
(👨的確な表現だなぁ❗)
戦争でなくても、もし大災害が襲いかかり、相互扶助や強調に人を向かわせる理念もないまま、この社会的なタガが外(はず)れてしまったら、裸同然の人間関係のなかで終戦直後以上に人は人に対し狼となるにちがいない。自分がどちらの側にもなる可能性を思って戦慄する。
そして、たとえ人間関係からのがれ、清太のように妹とふたりだけでくらそうとしても、いったいどれたけの少年が、人々が、清太ほどに妹を養いつづけられるだろうか。
物語の悲惨さにもかかわらず、清太にはいささかもみじめったらしさがない。すっと背筋をのばし、少年ひとり大地に立つさわやかささえ感じられる。十四歳の男の子が、女のように母のようにたくましく、生きることの根本である、食べる食べさせるということに全力をそそぐ。
人を頼らない兄妹ふたりきりの横穴でのくらしこそ、この物語の中心であり、救いである。苛酷な運命を背負わされたふたりにつかの間の光がさしこむ。幼児のほほえみ。イノセンス(無垢)の結晶。
清太は自分の力で妹を養い、自分も生きようと努力し、しかし当然、力及ばず死んでいく。
〈3〉
なにはともあれたくましく力強く生き抜くことが至上であった戦後の復興から高度成長への時代「火垂るの墓」の哀切さに心うたれても、そのあまりの悲惨な結末を認めたがらない人々がいた。
しかしいま「火垂るの墓」は強烈な光を放ち、現代を照らしだして私たちをおびえさせる。戦後四十年を通じて、現代ほど清太の生き方死にざまを人ごととは思えず、共感し得る時代はない。
いまこそ、この物語を映像化したい。
私たちはアニメーションで、困難に雄々しく立ち向かい、状況を切りひらき、たくましく生き抜く素晴らしい少年少女ばかりを描いてきた。しかし、現実には決して切りひらくことの出来ない状況がある。それは戦場と化した街や村であり、修羅と化す人の心である。そこで死ななければならないのは心やさしい現代の若者であり、私たちの半分である。アニメーションで勇気や希望やたくましさを描くことは勿論(もちろん)大切であるが、まず人と人とがどうつながるかについて思いをはせることのできる作品もまた必要であろう。
『火垂るの墓』 高畑 勲(監督)
劇場用パンフレット(1988)
👩(今は亡き)高畑 勲監督、初めまして。わたしとわたしの家族全員はウイグル、チベット、南モンゴル、香港などへの、中●による民族浄化に反対しています。
わたしたちは、強制収容所のなかのウイグル人やそのご家族のことを何かにつけて思いだし、彼らは今ごろどうしているのだろうと想像し、彼らの生活に思いを馳せるたびに どうしたらよいだろうかと暗澹たる気持ちにさいなまれています。
いまわたしは、モンゴル出身の楊海英さんの書籍の世界にたどり着きました。そこは遊牧民と馬が暮らす広大な草原でした。
わたしは前々からスタジオジブリで「仲良くなって統合するのは構わないが、民族が民族を暴力で侵略してはならない。戦争も同じでダメです。侵略のなかでも特に民族浄化などしてはならない」というメッセージを発信するアニメーションを作ってもらいたいと願っています。
📖『スーホの白い馬』というモンゴル民話の素晴らしい絵本があります。『スーホの白い馬』などの心に残るもう一度読みたい数々の絵本を紹介する絵本があります。その本は2冊刊行されていて、1冊の表紙は『ごんぎつね』で、もう1冊の表紙が『スーホの白い馬』なんです。
モンゴル民族の少年スーホは、国の王様に理不尽な理由で自分の親友とも言える大切な馬を殺されてしまった。
生きたえてしまった白い馬の首を胸に抱いて、悲しみの涙を流すスーホ。
白い馬はスーホ少年の夢の中に登場し「わたしを忘れないでいてくれるために、どうかわたしの皮革、毛などのすべてを使って楽器を作れ」と言います。
「わたし(民族のアイデンティティー)を大切に思い続けずっと忘れるな 」という意味です。
👧この絵本の表紙は何時間も見ていたい。
👩人間)(民族)からその人(民族)のアイデンティティーを強制的に剥奪することは許されない。それを奪ったらその人ではなくなってしまう❗
たとえばスーホから、モンゴル民族と共に生きてきたモンゴル民族にとって重要な役割をしてくれる馬を切り離すことはできない。モンゴルの大草原とそこでの暮らしも切り離すことはできない。
それはインディアンから馬や土地を奪うのと同じだ。
それはイギリス紳士に「英語を話すな。中●語を話せ」「山高帽をかぶるな」「マッシュポテトを食うな」と言っているのと同じだ。
それはアメリカ人に「ハンバーガーを食うな」「カントリーやロック、ブルースを歌うな」「お前の白い肌を黄色く塗れ」「青い目をやめろ」と言っているのと同じだ。
民族浄化というのは。「人間、民族にとって絶対にゆずることの出来ない、自分として生きることに直結する大切なものをやめろ」と命令することと同じだ。
それで、今、世界で、アイデンティティーを奪うような事件が起きているのでどうしても見過ごせない。
だからわたしは、ジブリでアニメーションを作ってもらいたいと願っています。
👨そうして出来上がったアニメーションをいちばん先に見て考え直さなければならない人たちとは、中国内外に暮らす中国人の皆さんだと思います。
👴もうすぐ🎥『アンネ・フランク』というナチスドイツの蛮行「ホロコースト」を描いたアニメーションがリリースされるとBBCニュースが伝えていましたが、それも良い、それも大切だけれども、アウシュビッツなどの最終処分場での惨殺は過ぎてしまったこと。世界の国々が無視してとめなかった黒い歴史。
👨👩ウイグル、チベット、南モンゴル、香港、台湾は、いま現在進行形で起きていることです。これをとめずにわたしたちはのうのうと生きてて良いんですか⁉️
👧だから、お願いします。スタジオジブリで📖『スーホの白い馬』の延長線上のような民族浄化廃止のアニメーションをぜひとも作ってもらいたいと願っています。
👨スタジオジブリで作ったらどんなにか世界中の人たちの心を動かすだろうなぁ。
👩アニメーション作りは時間がかかります。世界中で協力してやって、指揮はスタジオジブリがやる。
👧早くしないと、みんな中●式に民族浄化されてしまう‼️死者もどれだけ出続けるのだろうか⁉️
👩ロシアの刑務所で性的虐待の事実が発覚というニュース。ロシアの刑務所内での性的虐待を告発した映画が放映されたことでロシアの刑務所に捜査が入ったため発覚した。
👨だから、ウイグル・チベット・南モンゴルの現状もアニメと映画を作って広めてほしい。それは彼らの外側で生きる民主主義国の私たちにしか出来ない。
NEWS
高畑勲さんは訴えた。戦争で死ぬのは「心やさしい現代の若者」。終戦の日、心に刻みたい言葉たち
憲法9条を守ること、「世間様」の目を気にして「空気を読む」社会に抗うこと…。終戦の日に、スタジオジブリの故・高畑勲監督が遺した言葉の数々を振り返りたい。
國崎万智(Machi Kunizaki)
2020年08月15日 10時46分 JST | 更新 2020年08月15日 JST

映画「かぐや姫の物語」についてインタビューに応じる高畑勲監督(2015年2月12日)ASSOCIATED PRESS
「火垂るの墓」「平成狸合戦ぽんぽこ」「かぐや姫の物語」など数々の名作を手掛け、2018年に82歳で亡くなったアニメーション映画監督の高畑勲さん。戦時中の子ども時代には空襲を体験。著作や講演で、戦争放棄を謳う憲法への思いを訴え、戦争の惨禍を肌で感じたことのない若い世代に願いを託していた。
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戦後75年の終戦の日に、高畑さんが残した言葉をたどる。
高畑勲(たかはた・いさお)
1935年生まれ、三重県出身。東京大学仏文科を卒業後、1959年に東映動画(現在の東映アニメーション)へ入社。1985年、宮崎駿監督らと共に「スタジオジブリ」を設立。「火垂るの墓」(1988年)、「おもひでぽろぽろ」(1991年)、「ホーホケキョ となりの山田くん」(1999年)などの脚本・監督を担当。2018年4月5日、肺がんのため82歳で死去。
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高畑さんが2015年、岡山市内の戦没者追悼式・平和講演会で「人生で最大の出来事」と語ったのは、戦争末期の1945年6月29日未明の岡山空襲だ。(「君が戦争を欲しないならば」岩波書店)。高畑さんは当時9歳、国民学校4年生だった。空から大量に落ちてくる焼夷弾の火の雨から裸足のまま逃げ回り、死体で埋め尽くされた自宅までの焼け跡の道を歩いた。
「反戦映画」ではない
高畑さんの代表作の一つとして語り継がれる、野坂昭如原作の「火垂るの墓」。太平洋戦争末期、神戸の空襲で母親を失った兄と妹が、過酷な暮らしの中で必死に生きようとするも、悲劇の死を迎えるまでを描いた物語だ。「火垂るの墓」を監督するに当たって、高畑さんは宣材パンフの中で次のようにつづっている。
「私たちはアニメーションで、困難に雄々しく立ち向かい、状況を切りひらき、たくましく生き抜く素晴らしい少年少女ばかりを描いて来た。しかし、現実には決して切りひらくことの出来ない状況がある。それは戦場と化した街や村であり、修羅と化す人の心である。そこで死ななければならないのは心やさしい現代の若者であり、私たちの半分である」
※出典:「高畑勲 『太陽の王子 ホルスの大冒険』から『かぐや姫の物語』まで」(キネマ旬報社)
公開後、「反戦映画」のジャンルに括られたこの作品を、高畑さんは繰り返し「反戦映画ではないし、なり得ない」と主張していた。
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「そういった(悲惨な)体験をいくら語ってみても、将来の戦争を防ぐためには大して役に立たないだろう、というのが私の考えです」
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「戦争末期の負け戦の果てに、自分たちが受けた悲惨な体験を語っても、これから突入していくかもしれない戦争を防止することにはならないだろう、と私は思います。やはり、もっと学ばなければならないのは、そうなる前のこと、どうして戦争を始めてしまったのか、であり、どうしたら始めないで済むのか、そしていったん始まってしまったあと、為政者は、国民は、いったいどう振る舞ったのか、なのではないでしょうか」
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※出典: 「君が戦争を欲しないならば」(岩波書店)
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被害者の視点で戦争の悲惨さを伝えることは真の「反戦」とは言えず、
戦争を食い止める力にはならないのではないかーー。
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悲惨さを語る以上に、戦争を起こした過ちを見つめ直すことの重要性を説いていた。

フランスの国際映画祭で名誉クリスタル賞を受賞した高畑勲監督(2014年6月10日)AFP=時事
「歯止め」の憲法
高畑さんは、「私の『戦後70年談話』」(岩波書店)の中で、戦争放棄を謳う憲法9条や、戦後も基地の負担を押し付けられ続ける沖縄への思いも書き残している。

憲法9条 戦争の放棄と戦力及び交戦権の否認
日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
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「国民は9条を支持し続け、そのおかげで、戦後70年間、日本国民は戦場に赴くことはなく、戦争で一人も殺さなかったし殺されなかった。これは世界に誇るべき歴史的事実である。しかし絶対に忘れてはならないのは、これが、日本国が一貫して米国に軍事基地を提供し、特に沖縄をまるごと米軍に差し出し続けたことによる見返りではなかったか、という疑いだ」
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世間の目や「空気」に流され、集団にとって「異質なもの」を排除する日本社会に対し、鋭い眼差しを向けていた高畑さん。再び日本が戦争という過ちを繰り返すことへの危機感を持ち続けていた。
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「集団主義をとってきた私たちは、残念ながら、歯止めがかからなくて、ずるずる行きやすい性質をもっているのです。若い人たちは違うと思いたいのですが、どうも全然変わっていないとしか思えません。
(👨集団主義か。
👩高畑 勲監督は、日本の歴史📖『平家物語』もアニメーションにしたかったそうです。
👴「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理(ことわり)をあらはす。おごれる人は久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。」。
👩●国よ、聞いたか⁉️
👧いつまでも自分の時代(国民にとってひどい時代)が続くと思ってはならないよね❗
👨そうだね❗)
では、あらためて『平家物語』の冒頭部分を見てみましょう。
祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。奢れる人も久からず、ただ春の夜の夢のごとし。猛き者も遂にはほろびぬ、偏に風の前の塵におなじ。
『平家物語』第一巻「祇園精舎」より
【現代語訳】
祇園精舎の鐘の音は、「諸行無常」、つまりこの世のすべては絶えず変化していくものだという響きが含まれている。沙羅双樹の花の色は、どんなに勢い盛んな者も必ず衰えるという道理を示している。世に栄えて得意になっている者がいても、その栄華は長く続くものではなく、まるで覚めやすい春の夜の夢のようだ。勢いが盛んな者も結局は滅亡してしまうような、風の前の塵と同じである。