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『世界連邦』社会的疾患である戦争の抑止力に

2022-09-11 12:26:08 | 日記
はじめに

戦争や紛争は見方を換えれば
人間の社会的疾患(病気)と捉(とら)えることもできます。
我々人間は過去に戦争という一種の社会的疾患を
とてつもなく多く繰り返し経験してきました。
そして未(いま)だに世界各地でその疾患に侵(おか)されています。

🟣その疾患は一人の疾患が周囲に感染し、
あるいは集団的疾患として発症し他の集団にここ感染する。いわば心の感染症です。

(👩一番先、一番最初に「原爆をどこかに落とそう」と言った人間は誰❔
そしてその案を「それはいいね」と言って賛成した人間は誰❔
その二人の脳と思考回路こそ突き詰めるべきだった。

👧中ごくが、いつ何時、台湾に侵攻してもよいように軍事演習を繰り返しているが、あの様子(大変な事実)を、当事者の中ごく国民の皆さんはご存知なのだろうか❔知らないのなら、だから、そういう、国民の賛同を得ず、国民に何も話さすに自分勝手なことをすることが、独裁者、独裁政治、独裁社会の一番悪いところだ。国は、国民がいてこそ成り立つのに。
👨それじゃ、国民と国(国より国民のほうがエライ❗)の信頼関係も何もない。)


(つづき)
戦争や紛争は、いわば心の感染症です。
そしてその感染は
次第に世界的規模に拡大します。
その感染力と殺傷力は強く、
人間のみならず、
動物や植物に致命的損傷をもたらします。
また、地球の天然資源を食い尽くします。

次第にその殺傷能力は増大し、
今や「核」という人類史上かつて存在しなかった悪魔的細菌によって
地球の全ての生きとし生けるものは殺傷されようとしています。

🌕️本著は戦争を人間の疾患とみなし、
症例報告、病態と現症として示し、
どのようにその予防と治療を行えばよいかを模索し
著者の結論を提示しました。

出版社(幻冬舎)より文庫版にしたいとの依頼があり、
戦争を人間社会の疾患と捉え
一部改訂してみました。

正常な人間の身体は
生理的状態あるいは
生理的範囲内で維持されています。
正常な生理的現象が維持されるには生理的範囲があります。
その範囲内で変動していれば正常状態を維持することが出来ます。
生理的状態を保つように常時バランスがとれるように維持されているのです。
それを医学的にはホメオスタシス(恒常性)といいます。

身体の一部に異常が発生すると、
脳神経系、
心血管系、
ホルモン系、
代謝系の全てが総動員されて
その修復機序が働いて
正常範囲内に生体の機能が維持されるように調節されています。

しかし、いったんその生理的範囲を超えると
病的状態に移行します。
すなわち病気(疾患)の始まりです。
それは心や身体のどこででも始まる可能性があります。

戦争は視点を変えて観ると
一人一人の心の恒常性が失われ
それが集団化した状態とみなすことができます。
すなわち一種の社会的疾患ととらえることが出来ます。
それはこれまでの戦争の歴史を紐解(ひもと)くと
人間の持つ本能としての強い縄張り意識や盲信に根ざしていることが解ります。
それが集団化し争いが起こるのです。

縄張り意識は動物としての人間の本能であり
それを否定することは出来ませんが、
それがこうじると(ひどくなると)病的なまでになります。
宗教的あるいは思想的盲信も同じことが言えるでしょう。
キリスト教徒と回教徒の間で人類は
これまで多くの宗教戦争を経験してきました。
また共産主義国家と自由主義国家との間でもそうでした。
縄張り意識や盲信が病的にひどくなると戦争、
さもなければ屈服しかないのです。

一人一人の心のホメオスタシスを維持していくことで、
集団としての心のホメオスタシスを維持することができます。
それを維持するには、
隔(へだ)たらない教育しかないのではないかと
筆者は思います。
ただそれだけでは十分でない。
縄張り意識や盲信をコントロールするには
国際的な強いコントロールが必要です。
強力な国際機関、
あるいは地球国家と言っても良いでしょう。
(しかし、)現在の国連では組織が弱すぎて
その機能を十分に果たせずにいます。

1945年(昭和20)年8月6日、広島市に、
そして同年同月9日、長崎市に原爆が落とされました。
人類史上初めて、原爆が多くの人命を奪いました。
広島にはウラン235、
長崎にはプルトニウム239が投下されました。

そしてその後も放射能による原爆症で
多くの人々がガンやそのほかの疾患で命を落としており、
🟣原爆投下から70年(77年)経った現在でも
新たな原爆症による障害が発生しています。
原爆による被害は未(いま)だに終わってはいないのです。

(👧👆️それは知らなかった❗)

世界の中で原爆の直接被害を受けたのは日本だけですが、
その後も原爆実験(核実験)は大国間で行われ、
それによる健康被害が数多く報告されています。

(👩なぜいま私や私の家族が、
77年も前の戦争と原水爆(核)実験のことに注目することになったのか❔
それはウイグルの方々の現状を憂い、
『ウイグル・ジェノサイド』に関心を持ったことが始まりだった。
中ごく共産党についてを学んでいくうちに
およそ100年前からの世界の歴史の根本に
(イギリスと)アメリカの自分中心の考え方があることを知った。
それは中か思想と何らかわりなく、あからさまな中か思想よりもっと巧妙だった。)


(つづき)
そして世界のあちこちで核実験が行われた結果、
放射性物質が世界中に飛散し、蓄積し、
それによる健康被害が、
その地方のみならず
全地球的に広がってきています。
(👨メディアがそれを伝えないだけ。

👧私たちを楽しい娯楽に惹き付けておき、
世界的な重大問題に目を向けさせない。
気付かせない。気にさせないために。
実際私も面白いスマホばっかり見てるし。)

(つづき)
アメリカ、イギリス、続いてフランス、
ロシア、中国により
繰り返し行われてきた核実験による健康被害です。

🟣核実験は、
各国が、
戦争を自国に有利にするために行ったものです。

🟣核の魔力に取りつかれた科学者、
それをうまく利用した政治家たちの
共謀による犯罪です。

(👨核実験はやっぱり犯罪だったんだ‼️

👧「核の魔力」って何❔お金❔

👩違う。キュリー夫人の研究のように
研究によって次々と科学を突きとめてしまう人間の探究心を
ディープステートが逆手に取ったのだと思う。

👨原爆の研究なんか、
最初っから原爆の殺傷能力を追究したものね。)


そして今日では、
新たに原子力の平和利用の名の下(もと)に
開発された原子力発電(原発)による事故が
原爆の被害以上の規模で
この地球を汚染し始めています。

アメリカのスリーマイル島の原発事故、
旧ソビエトのチェルノブイリ原発事故、
そして2011(平成23)年の福島原発事故です。
(👩最近中ごくのかんとんしょうでも
フランス製の原発が爆発しました。

👨スリーマイルとチェルノブイリは知っていたけれども、
まさか日本の福島原発が爆発するとは❗と思った。)

これらの大きな事故以外にも、
小さな事故が世界各地の原発で生じていますが、
1979(昭和59)年に起きたスリーマイル島の原発事故の原発でさえ、
🟣放射能汚染物質の最終処分場がいまだに確保されていないのが現状です。

一方、第二次世界大戦後も、
中東戦争、
ベトナム戦争、
イラン・イラク戦争、
アフガニスタンの内戦、
イラク戦争、
シリアやウクライナの内戦(⇒ウクライナ侵攻)と、
世界では戦争が絶え間なく起こっています。

そして、その中で特に世界を震撼(しんかん)させた(震え上がらせた)のは
2001(平成13)年9月11日にアメリカで起きた同時多発テロです。
これは世界貿易センターと国防総省(ペンタゴン)を狙ったものでしたが、
今後、テロ組織が、
(またはディープステートが他者の仕業に見せかけて)
原発に照準を合わせることは大いに考えられます。
(中略)

そのような中で、我が国(日本)では、
第二次世界大戦の悲惨な記憶が
次第に風化してきているという現実があります。

(👨最近YouTube『証言と映像で綴(つづ)る原爆投下・全記録』
を見て、そのあまりのアメリカ人の身勝手さに驚愕・憤慨した‼️)

戦争を経験したことのない世代が増え、
その悲惨さを経験した世代が少なくなってきています。
その結果といってもよいのでしょうが、
🌕️世界に誇っていい宝ともいうべき平和憲法(日本国憲法)にさえ
手が加えられようとしているのです(改憲)。
これが戦後日本の危機でなくて何でしょうか‼️

(👨改憲、改憲と今にも改憲されそうな
危うい日本国憲法だったが、
アメリカ ディープステートの存在が明らかないま、
これでアメリカが改憲せよと言うなら
改憲すべきでないことは明らかだ。
だって、アメリカはディープステートの温床だから。
ディープステートの言うことを聞けば破滅だ。)


(つづき)
戦争や紛争は、
よほど特殊な人々(たとえばディープステート)以外は
誰しも好んでするものではないはずです。

📖『世界連邦』
社会的疾患である戦争の抑止力に

下地恒毅 著
幻冬舎
600円+税

世界平和の実現と、
全人類に対する平等な教育を‼️

世界各国が戦力を提出し、
国連以上の戦争抑止力のある国際機関
=『世界連邦』を設立することを提言。
(👧ディープステートが
ものすごく反対するだろうが。)

待望の文庫改訂版‼️

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いま平和とは

2022-09-08 10:49:14 | ライブ

命はなぜ目に見えないか

それは命とは君たちが持っている時間だからなんだよ

死んでしまったら自分で使える時間もなくなってしまう

どうか一度しかない自分の時間、命をどのように使うか
しっかり考えながら生きていってほしい

さらに言えば、
その命を今度は自分以外の何かのために
使うことを学んでほしい


~日野原重明(医師)☆★☆名言~
(👧フォローさせていただいているブログから引用させていただきました。
私が特に感動した部分は、

「どうか一度しかない自分の時間、命をどのように使うか
しっかり考えながら生きていってほしい

さらに言えば、
❇️その命を今度は自分以外の何かのために
❇️使うことを学んでほしい」
のところです。)


YouTube「日本で戦争が起きる可能性ある」麻生副総裁
(👩「一応、事前(戦争を始める前)に
国民には伝えましたよ~、YouTubeで」
(by麻生)と言ったつもりなら、私は
気持ち的に容赦しません‼️許せない‼️
戦争は自然に勃発するものではなく、
アメリカとか日本の誰かと誰かが
承諾して故意に始めるのだから‼️
(結局中ごく共産党もアメリカがつくったのだから。)
「日本も台湾有事に巻き込まれて
いいですか❔」
と日本政府が聞いてきたら
良いですよという日本国民など1人もいない‼️)


p.168(or p.171)
「🟣集団的人間は
今や個人を
押しつぶそうとしています。

🌕️あらゆる
人間の行為は
一人ひとりの責任を
基調としています。

🟣しかしこれが集団となると無名となり、
責任を負う必要がなくなります。
群衆運動には指導者の登場がつきものですが、

人類の真の指導者とは
盲目的な団体から遠さがり
真の決定をくだすものなのです。」
(1933年 カール・グスタフ・ユング)
📖『コミック ユング C.G.JUNG
深層心理学入門』画・石田おさむ
1989年11月15日1刷発行
理想社

📖講談社+α文庫
『ユング深層心理学入門』
石田おさむ
1997年1月20日第1刷発行
本作品は1989年11月、
理想社より刊行された
『コミックユング[深層心理学入門]』
を改題しています。




🌿🎵🌿🌹🌿🎵🌿🌹🌿
📖『いま平和とは
-人権と人道をめぐる9話』
最上敏樹 著
岩波新書1000
760円+税
p.181
サイードとバレンボイム

普遍的な人権のために

イスラエルで27人の空軍兵士が
任務拒否声明を出したその翌日、
一人のパレスチナ人が亡くなりました。

ニューヨーク市・コロンビア大学教授の
エドワード・サイードです。
『オリエンタリズム』や
『文化と帝国主義』といった著書によって
日本でもよく知られていました。
(サイードは)アメリカでの生活が長く、
アメリカの市民権を持っていましたが、
最後までパレスチナ人としてパレスチナ問題に心を砕(くだ)き続け、
発言し続けた人でした。
『パレスチナ問題』という大著もあります。

サイードはパレスチナ人でしたから、
その姿勢は一貫してパレスチナ人の権利を擁護するものでした。
とりわけアメリカにいて、パレスチナ人と聞くと
🟣「ああ、テロリストね」という反応が返ってくることに、
しばしば絶望的な怒りを表明しています。
また、パレスチナ人の自爆攻撃が9.11の
同時多発テロと全く同じだと考えられがちなこと、
少なくともアメリカではそうであることについても、その無理解を嘆いていました。
つまり、パレスチナ問題というのは、
パレスチナ人が何もかも剥奪(はくだつ)されてきたことが根源にあるのだ、という主張です。
そしてまた、多くのパレスチナ人が自爆攻撃を非難していることをなぜ無視するのか、という抗議でもありました。

ただ、サイードの立派な点は、
こうしたパレスチナ擁護を、
狭い民族主義からではなく、
普遍的な人間の権利という視点からおこなっていたことです。
彼はアウシュヴィッツ以後、
ユダヤ人であるかないかという問いは意味を持たなくなった、
と言っています。
つまり、ホロコーストのような残虐なことは、
今後、ユダヤ人だけでなく、
ほかのどの人々に対しても起こってはならないことだ、と確信していたのです。
そういう普遍的な価値観を前提にして、
イスラエルの占領政策を糾弾(きゅうだん)し、
また、指導力を発揮できないアラファト・パレスチナ暫定自治政府議長にも容赦ない批判を浴びせました。

和解への試み

このサイードが心を通わせ、
二つの民族の和解のための共同作業を一緒におこなうということもした、一人のユダヤ人(イスラエル人)がいます。ピアニストで指揮者のダニエル・バレンボイムです。
ユダヤ人であることを誇りに思い、イスラエルを愛している人ですが、
イスラエル政府の占領政策には批判的で、
何とか両民族和解の方向に舵(かじ)を切ることはできないか、
それを懸命に模索している人でもあります。

自国政府に対して、彼(ダニエル・バレンボイムは)
根元的な批判を展開しています。
フランスの新聞に掲載された意見表明ですが、
「自由と正義と平和を原則にした、あの素晴らしいイスラエル建国宣言はどこに行ったのか」と問うているのです。
🟣他の人々を占領し支配すること、
つまり他者の人権を犠牲にすることによって保たれるイスラエルの独立に、いったい何の意味があるのか--そう彼は問いかけます。

お気づきのことと思いますが、
サイードとバレンボイムは同じことを言っているのです。
「イスラエルよりパレスチナが正しい」と主張するのではなく、
アウシュヴィッツ以後も、
誰もがこうむってはならないはずだった悲惨を、
一つの民族が他の民族に与えるのはおかしい、
と考える点においてです。

こうして二人の人物は、
民族の和解のための種をまこうと考え、

(👩アメリカのバイデン大統領とか、
なぜサイード氏とバレンボイム氏のような考えになれないのか❔
👧それは、たとえなりたいと思っても
ディープステートにアメリカと心を乗っ取られているから。)


こうして二人の人物は、
民族の和解のための種をまこうと考え、
実行に移しました。
1999年、ドイツの都市ワイマールに、
イスラエルとパレスチナ、
さらにほかのアラブ諸国からも音楽を学ぶ若者を招き、
オーケストラを編成して訓練するという企画です。
当然のことながら、いろいろ難しい問題も起きましたが、
最後は立派な演奏ができるまでになりました。
その時の記録フィルムが残されていますが、
ベートーベンの交響曲第七番の、
しっかりした演奏です。

閉鎖性を打ち破る

2年後の2001年、バレンボイムは単独でもう一つの心をしました。
ヒトラーが好んだという理由で、
かつ本人が強烈な反ユダヤ主義者だったという理由で、
イスラエルでは演奏がタブーになっていたリヒャルト・ワーグナーの曲を、
エルサレムで演奏することです。
イスラエルの音楽祭でのこと、
演目は楽劇『トリスタンとイゾルテ』からの短い抜粋。
指揮台から聴衆の同意を求めた上での演奏でしたが、
会場は聴きたいという人とやめろという人に
二分されて大騒ぎになりました。
タブーを破ったということで、
イスラエルでは大きな物議をかもすことになったのです。

しかしバレンボイムは、言うまでもなく
反ユダヤなどではありませんし、
いたずらに物議をかもそうと思って
この演奏をしたのでもありません。
歴史的に辛酸(しんせん)をなめつくした経験が下敷きになっているとはいえ、
排他的な民族主義に傾斜し、
自分たちをむま他人をも不幸にしている祖国を憂(うれ)え、
その閉鎖性をもう少し普遍的なものにむけて解放できないかと考えていたのです。

(👩今、私は別のことを急に思い出した。

その本を書き著した理由をハッキリとは書いていない著書がある。
だから読者が読んでこの本が伝えたいメッセージとは、
「きっとこうではないかしら❔」
と読者に考えさせる。
このような本は情操(考える力)のためには本当に素晴らしい。
けれども、
読者や社会全体にハッキリと自分がこの本を書いた理由、
メッセージを明確に書いていないために
この本には戦争などをやめさせるちからはない。

たとえば半世紀前に出会った『星の王子さま』(サン・テグジュペリ 著)の
真のメッセージは反戦、戦争反対なのに、
ほとんどの『星の王子さま』の解説書にはそれは書いていない。
「大切なものは、目に見えない」ということしか言及していない。

素晴らしい著作なのに真のメッセージが書かれていないため
出版から半世紀後の今(2022年)も、
『星の王子さま』には戦争をとめるちからはないままだ。

🌕️それはハッキリと書かない、書けないことの功罪だ。

👨🟣出版当時は書けなかったんだよ。
出版すること自体、大変だったんだ。

👩サン・テグジュペリは、
「この本を自分の大切な、
今可哀想な目に遭(あ)っている友人に贈る」
と、『星の王子さま』に書いていた。
👧きっとサン・テグジュペリの友人は、
レジスタンスではないのかな❔と思う。

私は、そのテグジュペリの友人がどのように可哀想なのかを知りたかった。
今この、サイード氏とバレンボイム氏のお話を読んで
『星の王子さま』を著したサン・テグジュペリのことを思い出した。
自分が何を考え伝え、何をしたいかハッキリと書くことが重要だと。

それから、どちらの国にも
地球的にみて公平であることは大切だが、
自分はどちらかというと、たとえば
アメリカ、ロシア、中国、フランス、
どこの国側に立って話しているのかを
明確に書くこと。これをハッキリ書いてほしい。)


(つづき)
この頃のいきさつなどをふくめ、サイードとバレンボイムが語り合っている談論の記録が、
2003年に出版されました。(『音楽と社会』みすず書房、2004年)
これ(『音楽と社会』)を読むとワーグナーは卑劣な人間で彼の反ユダヤ主義は醜悪きわまりなかったと考えつつも、
彼(ワーグナー)の音楽の素晴らしさは
それ(反ユダヤ主義)とは別の事柄だと(バレンボイムが)考えていることがよく分かります。
(👨人間性の高さ(素晴らしさ)と音楽性の高さ(素晴らしさ)は比例しない。)
それはまるで、民族固有の経験とは切り離して認めざるを得ない、
普遍的な価値に目を閉ざすのは止(や)めよう、と言っているかのようです。

サイードもそれに呼応しました。
同じ本(『音楽と社会』)に収められている小論で、
「音楽は民族とか国民性とか言語の境界を超える。
モーツァルトを鑑賞するためにドイツ語がわかっていなければならないということはないし、
ベルリオーズの楽譜を読むためにフランス人である必要はないのだ」と書いています。


(👴突然ですが、エリザベス女王が崩御された。亡くなられた。
👩エリザベス女王が亡くなられたことで
世界はどのように変わるのだろう❔
善くなるのか❔悪くなるのか❔
どちらなのだろう。
エリザベス女王は死の間際に
イギリスの新首相を任命されてから亡くなられた。

👨日本の場合も、天皇が生きておられるという状態は
どんなことに有利なのだろう❔また、
天皇がもし亡くなられた時は
日本にどんなことが起きるのだろう❔

👴エリザベス女王亡あとはクイーンからキング・チャールズ新国王に代わったが、
イギリス王室が終わる・終える・終わらされるかも知れないといわれている。
(及川幸久YouTube)。
👨そうだとしたらイギリス王室は
①なぜ、
②誰によって終わらされるのだろう❔

👧馬渕睦夫さんも「国体」の話をされていたな。
日本に天皇が生きておられることは、
とても重要なことなのだとおっしゃっていたな。

👩エリザベス女王は、2022年9月9日に亡くなる数日前まで(立って❔)公務をこなされていたという。
ご自分が亡くなったらイギリス王室が終わるかも知れないという感覚は、きっとエリザベス女王自身に生前からあったのではないか。
残していく息子チャールズさんやたくさんの孫(約20人❔)が
今までどおりに穏やかに(=裕福に何の心配もなく)暮らせるように、
また、イギリス国民が末長く幸せに暮らせるようにと、
内心相当心配され、
そのための手段を考えていたのではないかと思う。
クイーンは老衰の床の中で、亡くなられるそのときまで、
息子さんに公務を引き継いでいたのだろうと思う。
こういうときにはこうして、そういうときにはこうなさいと。

しかし、ご自身(エリザベス女王)が亡くなったあとは
新国王にどんな(DSディープステートなどの)魔の手が伸びてくるかもしれない。
悪魔のささやきが聞こえてくるかもしれない。
きっとそれはすぐにやってくるだろうと。

👨馬渕さんのYouTubeから僕が聞いたディープステートのやり方とは、
たとえばイギリス新国王と、
新イギリス首相の、
直属の補佐をする「秘書」「メディア」などが、
ディープステートの回し者である可能性が高い。(今までの歴史では。)
新イギリス首相自身がディープステートである可能性もある。

👩エリザベス女王は自身もイルミナティ・フリーメイソンの頂点であった。
ディープステートのやり口は身に染みていたことだろう。
これからイギリス王室は、そして世界はどうされていくのか❔
エリザベス女王はディープステートの仲間だったのか❔
それともエリザベス女王はディープステートの一味でありながら
苦々しい気持ちでディープステートの世界統一を見ていたのか❔

👨ママ、👆️それは、すごい説だね。

👩かつてイギリスも植民地を持って
植民地の人々を自分たちより下に見て、
メイドや下働き、使用人として酷使していた。
📖『オリエンタリズム』サイード 著。

👧シネマで📽️『愛人(ラ・マン)』を観たとき、
映画のストーリーよりも
植民地の雰囲気というものに興味を感じた。)


つづき

人を閉じ込めてはならない

この音楽談義の隠れた主題は
いかにして寛容を強めていくか、
という点です。
サイードは他の国会、
他の民族、
他の人間集団との関係の持ち方について、
特に対立する人々との関係について、
「ぼくたちは相手の歴史をがまんしなくてはならない」
という言い方をしています。
お互いに相手の文化や伝統を尊重し合うという意味です。
とりわけ、中東のように狭い地域に関しては、
「人々を分離しようという考えは絶対にうまくいかない」
と彼(サイード)は言います。
「狭いところに閉じ込められた人間というものは、
不安を募(つの)らせ、
被害妄想を強めるからだ」
というのです。

バレンボイムもそれ(上のサイードの言葉)に呼応してこう言います。
「もしいつの日か紛争(戦争)が解決されうるとするなら、
それは紛争当事者の接触を通じてしかありえない」。
サイードが「がまん」と言っていることを、
バレンボイムは「接触」と言いかえています。
🌕️その共通点は、他者に対する《寛容》にほかなりません。
🌕️自分とは違う人間たちも
🌕️自分と同じように生存権を持っている、
🌕️と認めることです。

この談義のなかで、(最上敏樹さんが)
意表をつかれ、思わずうなってしまう箇所があります。
(その箇所は、)サイードがワーグナーの反ユダヤ主義について語り、
「きみ(バレンボイム)はユダヤ人だし、
ぼくはパレスチナ人だから……」と言った瞬間、
バレンボイムが「ぼくらは両方ともセム人だよ」と言うのです。
セム人というと普通はユダヤ人を指しますが、
もともとはアラブ人やユダヤ人を広く包み込む、セム語族という人間集団を指す言葉でした。
そんなことはサイードもよく知っていますが、
バレンボイムは、
今や殺し合いのための境界線になっている、
二つの「民族」の区別をあえて消し去っておきたかったのでしょう。

これは大事な点です。
これまで見てきたさまざまな平和問題の根底に、
この《境界》の問題が横たわっていると思われるからです。
いま少し、この問題を突きつめてみましょう。

(中略)

p.203
2 日本とドイツ

孤独に負債を抱え続けて

同じように周辺諸国や他民族に危害を及ぼし、
同じように敗戦した国(=日本とドイツ)でありながら、
日本とドイツがたどった戦後はずいぶん違うと言われます。
危害を与えた国への国家賠償や
(危害を与えた)人々への個人補償、
それらの国々や人々への謝罪、
🌕️災厄をもたらした旧体制の思想や中心人物が復権する(=しない)ことへのチェック、等々です。
🟣このうち、旧体制の思想や人物の復権についてはドイツでも見られる、という指弾(しだん)もありますが(ラルフ・ジョルダーノ『第二の罪』白水社、1990年)、
それ以外の点では、確かにいくつもの違いがあるように思われます。

(👨「旧体制の思想や人物の復権についてはドイツでも見られる」‼️それは恐ろしく悪いことだ。日本大丈夫だろうか⁉️)



日本から被害を受けた諸外国に対して賠償(あるいはそれに準ずる支払い)はしているものの、(日本は賠償や支払いの)額が十分でないようだという反省点があったり、
🌕️強制連行の被害者等に対する個人補償がほとんど進んでいないという問題も残ります(粟屋憲太郎ほか著『戦争責任・戦後責任 日本とドイツはどう違うか』朝日新聞社刊、1994年)。
ドイツの賠償もさまざまな問題点はあるのですが、
各種の個人補償を展開してきたのも事実で、
(👩きちんと償(つぐな)わないと、
ヴァイツゼッガー元西ドイツ大統領の『荒れ野の40年』(岩波ブックレット)の意味(成果)がない。)

(ドイツは)各種の個人補償を展開してきたのも事実で、
それによって日本のように、
延々と人間の痛みに溢(あふ)れる(被害者からの)抗議を受けることを免(まぬが)れてきたとも言えるでしょう。

いわゆる「従軍慰安婦」問題についても、
いまなおかつての被害女性からの訴えが(日本は)絶えず、
また1998年の「国連マクドゥーガル報告」(🟣「武力紛争下の組織的強姦、
性奴隷制および
奴隷制類似慣行に関する最終報告書」)が日本政府に責任ありとし、
十分な救済のための措置をとる義務があると結論しているにもかかわらず、
(日本)政府はそれを受け入れていません。
(日本政府は)一度はしっかりと精算するほうが、
国家としても「徳を」取り戻し、
より自由になるように思うのですが、
それは不可能なことなのでしょうか。

(👧ドイツ、ヒトラー、ナチスというけれど、
日本政府(日本軍)も、かなり非道な犯罪をおかしてきたんだな。)

🌕️かつての加害行為を「なかった」ことにはできませんし
(日本政府も、どの問題についてもそうは言っていません)、
🌕️また、加害者の側が「水に流そう」と言うことはできないのです。
そして、精算が終わるまでの間は、
犠牲者たちの痛みを訴える声に耳を傾け続けるほかありません。
首相ほか政府首脳の靖国参拝なども同様で、
それ(首相(国のトップ)が靖国を参拝すること)によって
痛みを呼び覚まされる人がたくさんいるのなら、
参拝を「内心の問題」(要するに「私の勝手です」という意味になります)と言って済ますことはできなくなります。🌕️過去の行為をどういう未来につなげようとしているかが、
現在の行為として現れる、
ということだからです。

言うまでもなく、戦没者たちは
深く悼み続けねばなりません。
その人たちの多くも、
「政府の行為によって」引き起こされた「戦争の惨禍(さんか)(日本国憲法前文)の犠牲者だからです。しかし、追悼はまた別の方法で行うべきなのではないでしょうか。   」

(👧飛躍しますが、
アメリカも、長崎・広島への原爆投下を日本に謝罪し、
きちんと広島・長崎の被爆者に償ったのですか❔
👴原爆投下後の人体の被害データばかりを集めおって‼️)

(中略)

p.211
おわりに--若者たちのために希望を語る

平和を語るのは理想主義だという言い方があります。



📖『いま平和とは-人権と人道をめぐる9話-』
最上敏樹 著
岩波新書1000


(関連参考書)
📖『バレンボイム/サイード 音楽と社会 』
ダニエルバレンボイム/
エドワード・W・サイード 著
アラグゼリミアン 編
中野真紀子 訳

読者レビュー


バレンボイムはユダヤ系ロシア人の指揮者で、イスラエルでワーグナーを指揮し、話題に(糾弾)。
サイードはパレスチナ出身。この2人は友達という。
後半は、ワーグナーについて語る。結局は、どんな芸術でも受け入れる柔軟さが必要ということか。


クラシック音楽が好きなので、たまに聴きに行くわけですが、同時に、これからも­こういうものが、より多くの人が、気軽に楽しめる形で残ってほしい、と思っています。­
多様な音楽やエンターテイメントが存在するなかで、なぜ、わざわざ18-19世紀の­古めかしい音楽か。­
正月のウィーンフィル­ ニューイヤーコンサートの指揮をしたダニエル・バレンボイムは、音楽が、­信仰、自由への欲求、体制への反抗といった、かつての役割と分断された今、その力は­「人間のいちばん奥底にある思考や感情の内面的プロセスとの相似」にあると言います。­
人間はどのように自分自身と付き合うのだろう。実存の問題とどう付き合うのだろう。­
社会における自分の位置という問題に、どう付き合うのだろう。自分自身をどう見るのだろう。­
不安や苦悶にどのように対処するのか。喜びには、どう対処するのか。(中略)­
そこには相似(パラレル)が、それこそ何百となく存在する。­
誰もが内面生活において経験するプロセスの相似物だ。­
良い演奏は、なんとなく風景やシチュエーションが目にうかび、自分を重ね、­また頑張ろうという気持ちになったり、こんなものが聴けてよかったと思ったりする。­
そういう意味で「音楽は人生の学校として最良のものであり、同時にまた­そこから逃避するためのもっとも有効な手段にもなる」と。­
とはいえ、この学校は義務教育ではないので、選ばれ、残っていくためには、もう少し親しみ­やすい内容や形で、買い求めやすいお値段で、相手に伝わるプロモーションをして、提示­していくことが必要でしょう。­
20世紀以降の、難解で「理解し、吸収するにはずっと多くの努力が必要」な現代音楽は、­素人には、居心地が悪いだけで、誰のために何を目指しているのか良くわからない。­
音楽をやる方にはぜひ、そういう方向ではなくて、多くの人に伝わり、影響を与えられる方向へ、­創造の力を向けてほしい。­
この本は、イスラエル国籍を持つ、ユダヤ人指揮者バレンボイムと、エルサレムに生まれた、­パレスチナ人批評家サイードの対談集。­
二人は、戦乱状況にある故国の学生音楽家を集めたワークショップでオーケストラを編成し、­99年には、あの「のだめ」でR'sオーケストラが演奏したベートーベン交響曲第7番(べとしち)の­ドラマティックな演奏を行っている。­
「紛争がいつの日か解消されるのであるとすれば、それは争っているもの同士が互いの接触を­通じて問題を解決していくことによってしかありえない」­
ここでもまた、互いを知るという面では学校であり、同時にある面では逃避でしかない音楽。­
依然かの地の平和への道のりが険しいのも、また現実である。­


サイードさんの本を読んでいた頃、装丁を見かけて即買いしてしまった。音楽と社会の関係は分からなかったけれど、音楽が人を自由にしうる、という琴線に触れることはできた気もします。
バレンボイム/サイードの二人に対するインタビューという形式で、物足りない気がするのは、残念ながらインタビュアーの(相対的な)力量なのかも。


沈黙から沈黙へ。
それぞれ祖国に定住せず育った来歴を持つ、パレスチナ人とユダヤ人の著者ら。
彼らの間にはイスラエルの地に関わる大きな問題が横たわっているが、彼らはそのために憎む事はせず、音楽を通じてお互いを尊重している。
音楽家のバレンボイムと文学者のサイードは似て非なる立場であり、その立ち位置を象徴する言葉が本書の原題である「Parallels and Paradoxes」(相似と相反)だ。
似ているから分かりあえる、違うから興味深い。
その感覚をお互いが持ち、且つ相手もそれを持っているという信頼関係があるように思う。
二人の会話を読んでいると、言葉で人は分かりあえること、音楽は言語を超える存在であることを強く思う。
おそらく異文化でも心に訴える音楽はあるし、人類共通の最高の音楽というものもあるだろう。
現在はオーケストラが至上のように思われているが、それはその形態が時間と文化の中で洗練されたものであるからだと思う。
例えば、和楽であってもそれをもっと身近な存在にし、競争と評価にさらすことで、さらに普遍的な存在になり得ると思う。それはアジア、アフリカ等の地域音楽としてイロモノとして見られている楽器にも言えるのではないかと思う。
元来、音楽は移り行くもので、楽譜があれど表現は千差万別。
一度として同じものはない。
二人の遍歴のようでもあり、人の一生のようでもある。
アイデンティティとは、ひとところの塊ではなく、流れ続ける潮流のようである。


ユダヤ人とワーグナーの音楽の関係が、痛いほどよくわかる。
少しづつ、色々な壁を崩していこうという活動に頭が下がる。
音楽で壁を作ってはならない。


世界的なピアニスト・指揮者のバレンボイム(イスラエル国籍)と、パレスチナについて真摯に語り続けるサイードとが出会う。パレスチナとイスラエルの音楽家を招いたワークショップの話、土地の問題化、音楽と社会を語る。
音楽を愛し、芸術を愛し、生活を愛し、人を愛し、社会を愛する現代人必読の本。


いろいろな示唆に富んだ面白い本だった。特に心に残ったのは、テクストの話。楽譜を一つのテクストとして、文学を読むように読む、というのは面白い発想だと思った。「モーツァルトの楽譜を読むのにドイツ語は必要ない」 音、テンポの話。音楽は沈黙に対する闘いである、という指摘。また、楽譜の中の様々な記号(指示)は、すべて相対的なものであって、絶対的な命令ではない。特に、テンポに関しては、内容の盛り上がりによって聴衆にわからない程度に速くなったり遅くなったりし、緩慢になってはいけないなど。ちょっと恋愛とか生き方にも関わる指摘かな、と思う。協力の話。オーケストラは民主的な社会のモデルになる、という指摘は面白い。同じ表現を達成するために努力した二人が、同じ音にたどり着いたとき、憎しみや無理解を超えられる、と。


2006年。音楽と社会について語る上質な対話集。「サイード:過去とのパトス(中略)……歴史にはなにか無慈悲なところがあって、それが人間の経験に奥ふかく埋め込まれているように思う。一定のものごとは取り返しがつかないと思う。それは過去のものだから。p.246」


バレンボイムとパレスチナ人哲学者サイードの対話 それぞれが背負った使命においての 解決できぬ中東和平への思いを込めた読み応えのある本である。クラシックファンでなくとも読むべきで

















はじめに 小森洋一

1999年7月29日、国会法が改正され、
国会に「憲法調査会」が設置されることになりました。
2000年通常国会から5年をめどに、
報告を議長に提出するという目的で、
衆議院と参議院それぞれ独自の調査活動が始められたのです。
この「憲法調査会」が「君が代・日の丸」の法制化、
通信傍受法、
改正住民基本台帳法、
新ガイドライン関連法
といった🌕️悪法が数の論理で通過させられた第145国会を受けて成立したために、
私たちは、当初から強い危機感を持ってきました。

プレスコードとは?ずっと日本人のほとんどが原爆のことを知らないままにサンフランシスコ平和条約が結ばれ、プレスコードが失効した。

2022-09-02 15:44:06 | 日記
📖『死の同心円 
長崎被爆医師の記録 』
秋月辰一郎 著
長崎文献社
地方小出版流通センター
発売年月日:2010/06/01
JAN:9784888511544

読者レビュー


★日本の原爆記録


長崎の爆心地から1.4Kmの丘にあったキリスト系病院で医長を行っていた秋月辰一朗医師。
瓦礫と化した中で満足な治療も出来ない状態ではあったが病院のスタッフも患者たちも周囲の人間が壮絶な死を目の当たりにする中で彼等だけが生き残ったのだ。
秋月医師は元々病弱であり、その体質改善としても行っていたのが玄米、野菜食、ワカメの味噌汁といった食養療法。
すなわち石塚左玄氏と桜沢如一氏の食養から発展した現在のマクロビオテックの考え方でもある。
『爆弾を受けた人には塩がいい。玄米飯にうんと塩をつけてにぎるんだ。塩からい味噌汁をつくって毎日食べさせろ。そして甘い物を避けろ。砂糖は絶対にいかんぞ。』
これは塩はナトリウムで造血作用。砂糖は造血細胞に対しての毒素だそうなのだ。
また面白いといってはなんだが、急性放射能症になった被曝者が死に際に酒を一杯やりたいと呑んだがその後、元気になったという話しも興味深い。
秋月医師は傷ついた腸粘膜細胞が復活したのではと考えたそうだ。
この本では秋月医師が仏教信仰ではあるが結核患者治療の為にカトリックの病院に赴任し、被曝した中で患者とスタッフが神に委ねる姿に戸惑い、薬品も医療器具も充分にないまま次々と町からやって来ては死んでいく被爆者に医師としての何が出来るのかと苦悩する。

🌕️そしてこの本のなかで一段と強く語られていたのは原爆の被害を正当化するアメリカ政府と、声を上げぬ日本政府に秋月医師が非常に苛立を感じていた事だ。
🌕️『だれもほんとうの原爆を知らない』と秋月医師は言う。

(原爆を落とされた長崎の)街は再生した。
(しかし、)8月9日にしか原爆は語られぬ。
何が起こったのかを目の前にした人間は消えていくのだ。
それを見たままに医師としての考察も入れながら書かれた書であった。
(秋月辰一郎氏、)89歳永眠。


長崎で原子爆弾で被爆したにもかかわらず、90歳近くまで生きた医師の体験記。
戦争の悲惨さと被爆。
原子力時代に生きる私達が、一度は読んでおきたい本であります。


原爆投下時、長崎で診療を行っていた医師の記録。
タイトルがなんかエンタメ小説みたいだけど、中身は真摯。
修学旅行で広島も長崎も行ったので食傷してたせいか、実際原爆関連のドキュメントなんかを読むのは久しぶりかもしれない。
ただ、この本は、いわゆる「証言」の範疇にとどまらない奇妙さもある。
ひとつには宗教が絡んでいる。
医者である筆者自身は敬虔な仏教徒(真剣なレベルでの)であるが、その病院はカトリック。
このへんの、医者と周りの人・患者(も信徒ばかり)との微妙な感じ方捉え方の差はかなり面白いと思う。
永井隆という長崎医師かつキリスト教者である人物の影響で、長崎は永井の「祈り」が強調されすぎている、というように筆者は書く。
なんというか、べたべたに患者に寄り添うんじゃなくて、どこか冷めてる、ものすごく人間的というか、行ってしまえば自己中心的な面も感じられる筆者の行動は、わりと新鮮だった。



📖『天皇と東大(上) 大日本帝国の生と死』
立花隆 著

読者レビュー

大学というのはしょせんは多くの人々がそこで人生のある時間帯を共有し合いながら相互に刺激し合い衝突しあいつつ互いに切磋琢磨していく回り舞台のごとき場でしかない。
会社を倒産させた経営者には、経営学を語る資格は無い。それと同じように、バブル経済に浮かれて、日本の国家経営を破綻させた大蔵官僚たちは、虚学しか学ばなかった連中と言って良いのである。
なんでも金さえ出せば買えると思い、成果だけを買ってきて、それをどうやって生み出したかを学ぼうとしないのだ。自ら種子をまくことや、若木を育てる努力を惜しむから、いつまでたっても自分で新しいものを作り出せないのである。昨今の日本が陥っている苦境も、その根っこにあるのは、これなのだ。
113Pまで


歴史は繰り返すと言う。昨今問題となった菅内閣による学術会議メンバーの任命拒否問題も、同様のことは明治38年に東大・戸水教授の休職処分に端を発した「戸水事件」とほぼ同様の展開になっていて、たいへんに興味深い。歴史を学ぶことの大きな意義は、こういうことにあるのだと思う。
日本の近・現代史は、自分でその気になって学ばないと、その詳細を知る機会がほとんどない。この大冊に書かれている内容については、恥ずかしながら委細を知らないことばかりであった。下巻も楽しみである。


日本の近代において、大学教授・大学生が果たした役割を丁寧に叙述した書。本書の大半は、大学の自治の歴史的過程を論じたものと考えられるが、個々の登場人物(加藤弘之や山川健次郎など)の行動や発言、経歴や裏話などを丹念に追うことで、無味乾燥な歴史書とは一線を画するものとなっている。確かに、叙述を煩雑と感じたり、くどく思うかもしれないが、逆に、芳醇な内容ともいえる。立花氏らしい労作であり、個人的には好きな本である。大学を日本史選択で受験したなら、十分読みこなせると思うので、是非チャレンジしてほしい。2005年刊行。


(メモ)
大学の成立
官僚養成所としての大学⇔
学問の独立の問題(帝大総長は文部大臣指名)。

学生の右派・左派団体など。


東大の歴史をたどりながら、昭和の初め、五・一五事件や二・二六事件に学生たちの果たした役割に重点が移っていく。
第二次世界大戦に突き進んでいく時代を各種資料を引用しながら、描いていく。結局、右翼も左翼も、当時の腐敗した政党政治を変えたいと考えており、革命の必要性を感じていたという点では同じである。


東大発足から終戦までの東大における思想傾向とそれを弾圧する政府当局とのやりとりを中心に書かれた立花隆の力作。非常に歯ごたえがあった。
発足当初の自由尊重の気風から、天皇中心とする国体重視の思想へと移り変わる様、そして進歩的思想を弾圧していく流れが理解できた。ある思想を何らの深い分析をなくして悪と決めつけこれを弾圧するという風潮が、昔も今も何ら変わりがない。昔も今も為政者の無能さは変わらないと感じ、何とも言えぬ気持ちとなる。
エッセンスは以下のとおり。
本書は、日本の近現代史と東大を通じて読み解く。特に東大と右翼について、天皇と右翼について読み解いている。
帷幄上奏での裁可はあくまで軍の意志の決定にすぎず、国家意志の決定ではない。これを政府が認めるかどうかは政府独自の判断だ。これが軍縮条約時の美濃部達吉教授の統帥権干犯問題に対する答えだ。
美濃部が時節を主張し続けたのに対し、東大総理加藤弘之は、同じく天皇機関説を唱えていたが、これを翻した。
日本人には、明治の時代から、暗記主義、点数至上主義、官に頼り、独立心がない気風がある。
明治天皇も国学を重視していた。洋学中心の東大カリキュラムに不満を示されていた。
歴史を科学的に読み解こうという考えも、皇室への不敬との理由で批判された。
明治の始め頃から現在日本人の気風がある。
東大7博士、日露戦争開戦、満州占領、人口対策としての侵略論を唱えていた。この結果、主の戸水寛人教授は免官。
大学と政府との学問の自由を巡る抗争について、大学が勝ったときもある。柳沢京大早朝による7教授首事件では大学側が人事権を勝ち取っている。
戦前における学説は、天皇は統治権を司り、法律等の制約を受けず、とするものであり、機関説は少数派であった。その後美濃部機関説が主流となる。
岸信介、北一輝の魅力を大いに語る。
東大新人会、共産勢力として大いに活動するが、3.15事件を気に自然消滅する。
今も昔も口だけで行動しない活動家が多い。
左翼活動に触発され、右翼も活動活発となる。
右翼思想は、北の中央集権的なものと、権藤の強度中心的なもの有り。
5.15事件はこく人に義挙と受け止められ、2.26事件への流れを作った。


人間像として立花隆はあまり好きになれないし著作も巷の評価ほど優れていないと思っているが、本書は分厚いだけに読み応えがあり内容としても明治期から戦前における東大の変革を軸として巻き起こった論争やクーデター事件の実像を浮き彫りとして素直に目を見張る内容だった。
特に東大の成り立ちと変革、さらにクーデターやテロ事件の実像などかなり深い部分まで掘り下げているにも関わらず読みやすい文体だったのは評価できる。


当時の日本には戦争に反対していた知識層がいたはずなのに、彼らはどうしていたのかという長い間の疑問がやっと解けた。
「自由」がなければ真の学問はできない。
大学の自治がいかに大事か考えさせられた。


上下巻。東大を起点とした明治〜昭和の「天皇制」観をめぐる相克の通史。膨大な資料を渉猟して、後世の我々が考えるより遥かに国民全体国粋的だったと結論づける。弾圧左派組復活の影で、現西欧主流の社会党右派が埋没してったことを戦後の特徴として指摘。世界は断絶と継続の二重織りで至る所でつながっており、そしてその歴史が全て現代の構成要素となっている。そういう二重織りの上に現代を置き直して繰り返し眺め直すという作業の必要性を提言する。


これは要するに日本現代史の本です。前半は東大が政府と癒着した大学であることが主に書かれていて(その関係で成立した早慶についても触れている)、大学の歴史っぽいんだけど、途中から左右両陣営を踏まえた日本史になっている(もちろん、その重要人物が東大にいるから、そこが切り口になっているんだけど)。でも、世界史と地理の選択だったので、5・15事件や神兵隊事件あたりは実は結構すごいクーデタ(未遂)だったということを知ってびっくりです。面白いです。ただ、日本史を真面目にやってないからよく分からん部分もあるけど。でも長くね、これ?上巻だけだけど、なんていうか資料をふんだんに使ったって感じがして、もっとまとめられるんじゃないか、と思った。けど、ま、これ連載だから仕方ないけどさ。これ、まとめ直して新書とかにしてもっと広く読ませたほうがいいとか思ってしまった。文春は単行本にこだわるところがあると思うんだけど、今の時代を見ると、もっと新書で出したら売れるのに、みたいな新刊タイトルが多い気がする。それがこの会社のプライドなのかもしれないが、相対的にプライドをすぐ捨てられる新潮のほうが実際成功してるからなあ。



📖『天皇と東大(下) 大日本帝国の生と死』
立花隆 著

読者レビュー

大正デモクラシーの反動もあってか、昭和10年代の日本が、ファナティックな天皇中心主義者の言説や行動によって、軍部のみならず国民全体も巻き込んで、狂ったように戦争へと突き進んでいく過程は、またいつかそんなことが起こるかもしれないという計り知れない恐れを感じる。
歴史をきちんと学ぶことは、わたしたちが「いつか来た道」を再び辿(たど)ることがないようにするためにも、とても大切なことなのだ。


非常に重い気持ちで読了。宗教ないし宗教的なものと政治権力とが結合した時の恐怖、さらに、それがテロと結合した時の恐怖を、本書は十二分に認識させる。しかも、この情勢の行き着く先が、日米の力量差(アメリカの消費水準を15%強切り下げるだけで、日本の7倍以上の戦費を捻出できる)を陸軍幹部が認識していたのに開戦に突き進んだということであれば、救いようがない。以上を踏まえ「昭和16年夏の敗戦」「それでも日本人は戦争を選んだ」を再読してみたい。なお、南原繁東大総長の戦後直後の「東大新聞」原稿は心から感動。2005年刊。


上下2巻で、各巻700ページにも及ぶ大作を読了し、満足感に浸っている。戦前、戦後を通じて、我が国日本に対して教授たちの果たした役割を詳細に綴っている。我が国の歴史を振り返るのに有意義な本であった。何かが見えてきつつあるような気がする。昭和初期の時代の本を読んで、もう少し当時の世相と戦争に向かっていった歴史の必然について勉強して見ようと思う。


続き。
滝川事件における当局の理由ははっきりせず。最終的には滝川をマルキストとしているが、彼の主義はそうではない。
昭和8年から15年にかけて、原理日本を通じて蓑田胸喜は国体護持的な発言により社会的影響を強め、著名人をやり玉に挙げる。社会に決定的な影響を与えた。
美濃部の当局からの処分は機関説に対してではなく、詔勅批判の部分だけだ。機関説自体を対象とすると、ほとんどの学者が処分されてしまう。
組織内に秘密の組織を持ち侵食していく、というのは、大衆運動における組織乗っ取り戦法。
昭和10年代の東大経済学部は3系統有り。一つはマルクス派(大内派)、反マルクスとして国家主義者(土方派)と自由派(河合派)。
蓑田は東大教授を標的にしていた。津田左右吉も対象とされた。
平賀東大粛学は経済部の派閥抗争を止めるためにやった。
「内密にしてくれ」との依頼に対しては「その希望に添うことはできない」とはっきり言う。
田中耕太郎は平賀粛学時の主導者で、後に相当非難されるが、そのすごい批判に耐え、辞職しなかった。
会議ではただひたすら聞き、耐え、決して自ら辞めると言わず、相手からそのたくましさを感心された。
河合栄治郎は日本の敗戦を予想し、戦後日本のためには有罪となった方が戦後活動しやすいと考えていた。


昭和初期から敗戦までの日本国内におけるパラダイムを捉えた本としては最高峰の内容でした。
田中卓の師匠でもあり特効や玉砕の精神的指導者であった平泉澄の名前など本書において初めて知り、改めて戦前の社会や思想を知るための知識が増えた。







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プレスコードとは?

プレスコード(英:Press Code for Japan[1][2])とは、大東亜戦争(太平洋戦争)終結後の連合国軍占領下の日本において、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)によって行われた、新聞などの報道機関を統制するために発せられた規則である。これにより検閲が実行された。

正式名称はSCAPIN-33「日本に与うる新聞遵則」[2]、昭和20年(1945年)9月19日に発令、9月21日に発布された。「日本新聞遵則[1]」また「日本出版法[1]」ともいう。「プレス・コード」と表記されることもある[3]。

概要

このプレスコードに基づいて、主にGHQ批判、原爆に対する記事などが発禁処分に処された。占領開始前からの計画に従い、占領開始後間もなく個人的な手紙などにも検閲の手が回った[4][5]。この事実は当時の一般の大衆には知らされず、出版・報道関係者(学校の同窓会誌・村の青年会誌などのミニ・メディア関係者なども含む)以外に存在が広く認知されたのはのちの事である。

1945年9月22日に出されたSCAPIN-43「日本放送遵則(Radio Code for Japan)」[6] と一対のものである[1]。新聞遵則は、この放送遵則と映画遵則もこれに準拠した[7]。

昭和27年(1952年)4月28日、サンフランシスコ講和条約発効により失効。

プレスコードなどの検閲を主に担当したCCDが収集した資料(領域内の全刊行物を含む)は、メリーランド大学のプランゲ文庫に保管されている[8]。

経緯編集新聞報道取締方針(SCAPIN-16)編集

プレスコード通達に先立って昭和20年(1945年)9月10日に「新聞報道取締方針[9]」「言論及ビ新聞ノ自由ニ関スル覚書」(SCAPIN-16) [10] が発せられ、言論の自由はGHQ及び連合国批判にならずまた大東亜戦争の被害に言及しない制限付きで奨励された、GHQ及び連合国批判にならず世界の平和愛好的なるものは奨励とされた。

朝日新聞の1945年9月15日付記事と9月17日付の2つの記事について[11]、9月18日に朝日新聞社は2日間の業務停止命令 (SCAPIN-34) [12] を受けた。これはGHQによる検閲、言論統制の始まりであった。9月15日付記事では「“正義は力なり”を標榜する米国である以上、原子爆弾の使用や無辜の国民殺傷が病院船攻撃や毒ガス使用以上の国際法違反、戦争犯罪であることを否むことは出来ぬであらう」といった鳩山一郎の談話が掲載され、9月17日付記事では「求めたい軍の釈明・“比島の暴行”発表へ国民の声」の見出しで「ほとんど全部の日本人が異口同音にいってゐる事は、かかる暴虐は信じられないといふ言葉である」という内容の記事[13] が掲載されていた[14]。

プレスコード(日本に与うる新聞遵則)(SCAPIN-33)編集

昭和20年(1945年)9月19日に、SCAPIN-33(最高司令官指令第33号)「Press Code For Japan(日本に与うる新聞遵則)」が最高司令官(D.MacArthur)の名前で通達された。実施者は米太平洋陸軍総司令部民事検閲部。

検閲は連合国軍最高司令官総司令部参謀部のうち情報担当のG-2(参謀2部)所管下の民間検閲支隊(CCD。Civil Censorship Detachment)によって実施された。

1948(昭和23)年には、GHQの検閲スタッフは370名、日本人嘱託5700名がいた[15]。8000人を超えていたとする説もある[16]。新聞記事の紙面すべてがチェックされ、その数は新聞記事だけで一日約5000本以上であった[15][17]。

内容編集趣旨[1][2]

連合軍最高司令官は日本に言論の自由を確立せんが為茲に日本出版法を発布す。本出版法は言論を拘束するものに非ず寧ろ日本の諸刊行物に対し言論の自由に関し其の責任と意義とを育成せんとするを目的とす。特に報道の真実と宣伝の除去とを以て其の趣旨とす。本出版法は啻(ただ)に日本に於ける凡ゆる新聞の報道論説及び広告のみならず、その他諸般の刊行物にも亦之を適用す。

報道は絶対に真実に即すること直接又は間接に公安を害するようなものを掲載してはならない連合国に関し虚偽的又は破壊的批評を加えてはならない連合国進駐軍に関し破壊的に批評したり、又は軍に対し不信又は憤激を招くような記事は一切掲載してはならない連合軍軍隊の動向に関し、公式に発表解禁となるまでその事項を掲載し又は論議してはならない報道記事は事実に即し、筆者の意見は一切加えてはならない報道記事は宣伝目的の色を着けてはならない宣伝の強化拡大のために報道記事中の些細な事項を強調してはならない報道記事は関係事項や細目を省略する事で内容を歪曲してはならない新聞の編輯に当り、何らかの宣伝方針を確立し若しくは発展させる為の目的で、記事を不当に軽く扱ってはならない

削除および発行禁止対象のカテゴリー(30項目)編集

江藤淳は、アメリカ国立公文書館分室の資料番号RG331,Box No.8568にA Brief Explanation of the Categories of Deletions and Suppressions,dated 25 November,1946が保管されていたことがわかったと述べている[18][19]。この「削除と発行禁止のカテゴリーに関する解説」において次のような具体的な検閲の対象カテゴリーが30項目も規定されていた[18]。検閲では以下に該当しているか否かが調べられた。

SCAP(連合国軍最高司令官もしくは総司令部)に対する批判極東国際軍事裁判批判GHQが日本国憲法を起草したことの言及と成立での役割の批判《修正:2018年4月26日、江藤氏原訳「GHQが日本国憲法を起草したことに対する批判」を英文原文に従い修正。修正根拠は記載のアメリカ国立公文書館の典拠文書の記述に拠る。(細谷清)》検閲制度への言及アメリカ合衆国への批判ロシア(ソ連邦)への批判英国への批判朝鮮人への批判中国への批判その他の連合国への批判連合国一般への批判(国を特定しなくとも)満州における日本人取り扱いについての批判連合国の戦前の政策に対する批判第三次世界大戦への言及冷戦に関する言及戦争擁護の宣伝神国日本の宣伝軍国主義の宣伝ナショナリズムの宣伝大東亜共栄圏の宣伝その他の宣伝戦争犯罪人の正当化および擁護占領軍兵士と日本女性との交渉闇市の状況占領軍軍隊に対する批判飢餓の誇張暴力と不穏の行動の煽動虚偽の報道GHQまたは地方軍政部に対する不適切な言及解禁されていない報道の公表

検閲の結果

民間検閲支隊(CCD)はさらに10月1日には「進駐米軍の暴行・世界の平和建設を妨げん」という論説を掲載した東洋経済新報9月29日号を押収した[20]。この記事は石橋湛山によって執筆されたものだった[21]。村上義人は、これ以降、プレスコードの規定のため、占領軍将兵の犯罪自体が報道されず、各メディアは「大きな男」と暗に仄めかさざるを得なかったと発言している[22]。

また、一般市民の手紙・私信のうち月400万通が開封され、検閲をうけていた[23]。さらに電信や電話も盗聴された[23]。

江藤淳はGHQによる言論統制についての著書『閉ざされた言語空間』のなかで次のように述べている[24]。

検閲を受け、それを秘匿するという行為を重ねているうちに、被検閲者は次第にこの網の目にからみとられ、自ら新しいタブーを受容し、「邪悪」な日本の「共同体」を成立させて来た伝統的な価値体系を破壊すべき「新たな危険の源泉」に変質させられていく。この自己破壊による新しいタブーの自己増殖という相互作用は、戦後日本の言語空間のなかで、おそらく依然として現在もなおつづけられているのである。

削除・発禁処分の事例

戦前・戦中の欧米の植民地支配についての研究書など7769冊に及ぶ書物が官公庁、図書館、書店などから「没収宣伝用刊行物」として没収され、廃棄された[25][26]。

原爆関連栗原貞子の詩「生ましめん哉」峠三吉の詩「にんげんをかえせ」など壺井栄の短編小説「石臼の歌」では、原爆によって家族を失った登場人物(遺族)たちの心理描写がほぼ削除され、疎開先である田舎の風景の描写を増補した表現に差し替えられている。永井隆の『長崎の鐘』は1946年8月には書き上げられていたが、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の検閲により出版許可が下りず、GHQ側から日本軍によるマニラ大虐殺の記録集である『マニラの悲劇』との合本とすることを条件に、1949年1月、日比谷出版社で出版された。雑誌『創元』1946年12月創刊号に掲載予定だった吉田満による戦記文学『戦艦大和ノ最期』はGHQの検閲で全文削除された[27]。独立回復後の1952年に創元社から出版。川路柳虹の詩「かへる霊」[28]。



📖『立花隆 長崎を語る』長崎が生んだ「知の巨人」追悼と鎮魂、そして人類(長崎文献社)

2022-09-02 09:51:51 | 日記
p.3
立花さんが戦争の記憶の継承に
深い関心を向けられていることは
すでに知っていた。

戦争体験者がいなくなる時代を迎えて、
体験を語れる人が急激に減少している事実は、
決して広島、長崎の問題ではなく、
第二次世界大戦の記憶の喪失という意味では
世界全体の問題である。

この問題にも立花さんは
当事者として関わっていこうとされていた。

しかし、(立花さんの)お話を聴きながら、
時代を生きる当事者という意識だけでなく、
実は長崎出身者という深い当事者意識を
持っておられることを知った。

この時の立花さんのお話は、
戦争体験を伝えるデジタルミュージアムをつくる構想のほかに活水に勤められていたお父様のこと、
長崎原爆の体験談収集のこと、
アウシュビッツのこと、
軍艦島やがん治療のお話など多岐にわたった。

私(長崎市長 田上富久)にとっては、
世界を観る視点だけでなく、
長崎に寄せる思いの深さが心に沁(し)みる時間だった。

運命が少し違えば長崎で被爆(ひばく)していたかもしれない自分と、
現実に被爆された多くの人々が、
立花さんの中でつながっていたのだと思う。

私が立花さんとお会いして強く感じたことがもうひとつある。
それは、🌕️「社会は変えられる」というゆるぎない確信を持っておられたということだ。
それは(立花さんが)明るくまっすぐで、混ざり気(け)がない。
だから年齢とともに弱くなることもない。

(立花さんが)若かりし頃の原水爆禁止運動の経験をはじめ、
社会を変えていくことがいかに困難で大変なエネルギーを要するかを
誰よりも知り尽くしている立花さんの中に、
決して燃え尽きることのない信念の火が
しっかりと燃え続けていることに感動したことを覚えている。

このとき立花さんは、
若い学生たちを伴われていた。
『二十歳の君へ』という著書にも見られるように、
立花さんは若い人たちにバトンを渡すことが上手だった。

「核兵器のない世界」の実現という目標を持つ長崎にとって、
立花さんの「社会は変えられる」という信念と
若い世代にバトンを渡す思いは、
とても大切なもので、
今年発効(はっこう)した核兵器禁止条約も
その中から生まれたと言ってよい。
平和へのゆるぎない思いを
長崎は立花さんと共有している。

立花さんはもういない。でも間違いなく、
目に見えない思いを通じて、
長崎と立花さんはつながり続けている。

これから時折 心の中で
繰りかえすことになるだろう。
「立花(隆)さんならどう考えるだろう」と。
(発刊に寄せて(抜粋) 立花隆さんと長崎 長崎市長 田上富久 )



(👩立花さんは📖『宇宙からの帰還』(月面着陸した宇宙飛行士たちへのインタビュー)などを著した頃、
アメリカ内のディープステートの存在をご存知だったのだろうか❔
👨NASA、ペンタゴンなどは、ディープステートの中枢なんじゃないか❔
ディープステートが核兵器の脅威と威力に無関係なはずはない。
ナガサキ・ヒロシマ、第五福竜丸、第三次世界大戦への誘(いざな)いと、
懲りないディープステートに
3度目の核兵器を絶対に使ってほしくない。
ディープステートは狡(ずる)く賢いから
どうせ核のボタンも自分たち以外の誰かに押させるのだろう。
そう考えると、
2022年9月、『核兵器廃絶』は超高速レベルの世界的急務となった。

👧核のボタンなど押したら
ディープステートごとふっ飛んだらどうするの❔
👨それは、
自分の場所までは被害が及ばないようにして、
しかし世界が核の威力への恐怖におののくほどの企画にするだろう。
👩または、ヨウ素や、モロヘイヤなどのネバネバ野菜、または日本のお味噌などから放射能を抑制する新薬を研究開発し、
自分たちだけは服用しているとかね。
ディープステートはなにしろずるい。
👴以上はわしの家族の想像です。
そういう不信感を、
政府は国民の想念に
一瞬たりとも抱(いだ)かせてはならんのに。)

p.14
「被ばく者なき時代に向けて」

立花さんは、原爆投下の5年前(1940年)に
長崎医科大学病院で産声を上げた生い立ちから、
核兵器問題に対する思い入れは強く、
それこそ『二十歳のころ』は反核兵器運動に没頭したらしい。
その後もたびたび長崎に来られていたようだ。

2015年1月には長崎大学核兵器廃絶研究センター(RECNA)とえぬえいちけいの共同で、
立花さんを囲んでの長崎の大学生たちとのワークショップが開催された。
核兵器廃絶の実現に向けての強い思いとともに、
被爆後70年が経過し被ばく者がいなくなる中で被ばく体験をどのように継承したらいいのかという彼(立花さん)の問題意識がテーマとなった。
まず立花さんが「被ばく者なき時代に向けて」と題した講義をおこない、
それを受けて学生たちがグループに分かれて議論し、
その結果を発表し合うという形で進行し、
ワークショップは大変盛りあがった。

立花さんは、後日に文藝春秋誌(2015)に連載された巻頭エッセーの中で、その時の印象を記されているが、ゆとり教育世代の彼らに対する、次のような言葉で結ばれている。
《自分たちなりの意見をまとめて発表するということになると、臆(おく)せずにものを言い、なかなかの自己表現力をもっている。そういう姿を見ていると、日本にも新しい若い世代が着実に育ちつつあるなと思えて嬉しかった。》

次世代への期待と信頼のこもった立花さんの優しい眼差しが表現された珠玉の一文である。
(特別寄稿(抜粋) 立花隆さんのこと 前長崎大学長 片峰 茂)

p.17
立花隆 長崎を語る
講演録、論文再録
p.18
立花隆講演録
次世代に語り継ぐ戦争
(2011年7月31日 長崎原爆資料館ホール)
(前略)
(立花隆さんの)父親が亡くなった後、父の遺品を整理していましたら日誌が出てきました。長崎時代のいろんなことが書かれていたのです。
この(前述の)コルベ神父も出てくるのですね。それで(立花隆さんはご自分の)母親に聞いたら、母親もコルベ神父のことをちゃんと(👩ちゃんと❔)知っている。
コルベ神父という方はアウシュヴィッツでの餓死の刑でも知られ、「アウシュヴィッツの聖者」として有名な方です。ナチスが、ある囚人を「餓死の刑」に処するということになっとき、一緒に囚われていたコルベ神父が「自分が身代わりになる」と言って餓死する道を選びます。実際は頑丈な人で食べなくてもなかなか死ななくて、最後はナチスが薬物を注射して殺したということです。
その彼の行為が高く評価されて、カトリック教会はコルベ神父を聖人にしました。今もアウシュヴィッツに行くと神父が死んだ部屋があり、ローマ法王が捧げた巨大なロウソクが置かれています。戦争が終わってすぐ、コルベ神父の話は世界的に有名になるわけです。私の父はペキンで終戦を迎えます。
(立花さんの父親は)日本に帰って、まず母方の田舎に行きまして、すぐには長崎に来ないのですが、間もなくコルベ神父の話(身がわりで餓死すること)を(父親は)知っている。

(立花隆さんが)生まれた町が二番目の被爆地

長崎という街に自分が生まれて、その長崎に世界で二番目の原爆が落とされたということ、
その意味が子供の僕にはすぐには分かりません。1940年生まれですから終戦時は5歳です。けれども次第に理解しました。

そもそも戦争が続いている戦時中、日本人は原爆のことをほとんど知りません。戦後もアメリカ軍がものすごく厳しい検閲をしていたから、原爆の「げ」の字も一般の報道に載(の)ることはなかったわけです。

ずっと日本人のほとんどが原爆のことを知らないままにサンフランシスコ平和条約が結ばれ、プレスコードが失効した。あの戦争が終わってからなんですね。原爆について知るのは。

(👩このブログの前か後にウィキペディア検索を
切り離して添付しましたので、
そちらで、プレスコードとは?をお読みください。)

あの戦争が終わってからなんですね。原爆について知るのは。で、その最初のきっかけが1952年8月6日の「アサヒグラフ」なんです。つまり終戦後7年目になるわけで、それまで日本人のほとんど、そのことを知らなかったわけです。

日本で誰も原爆が何なのかよく分からない時期に、衝撃的な写真をドーンと出したものですから、日本中で一気に何十万部という単位で売れます。それで何度も増刷するのですが、次から次へ売れるみたいなことがありまして、何号も出るのです。その年だけじゃなくて、十号分ぐらいをまとめて一冊にした、そういう特集もあります。僕(立花さん)は古本屋で買ったのですが、
あの最初の1952年8月6日の「アサヒグラフ」も自分で見た記憶がはっきり残っています。

それで、先ほどちょっと出たことでも分かりますように、その時、僕(立花さん)は12歳です。12歳ですけれども、やっぱりいろんなこの有名な原爆の写真は、この時に一般社会にドーンと公開されたわけで、それはもう見るからにショックの連続なわけです。そういう時代だった。

それでまあ、広島じゃなくて長崎なのですが、そういうことがあって僕は子供の時から原爆について非常に強い感情を持っているわけです。
p.26
大学二年で原水爆禁止世界大会に参加
(前略)
広島に行く前に、僕(立花さん)は同じ歳の学生らと語らって、世界のあちこちを回って原水爆禁止運動をアピールする活動をしようと「原水爆禁止世界アピール運動推進委員会」といったものを自分たちで立ち上げました。
1960年のイギリスで行われた学生青年核軍縮国際会議に招待され、
僕(立花さん)はその代表としてイギリスに行きました。

p.28
「オルダーマストンマーチ」

広島に行って「アピール運動を我々が始めたから我々の運動を受け入れてくれ」というようなことを、世界の代表団にアピールしたのです。「広島の声を世界へ」というのがこの年の討議資料のタイトルなのですが、なぜそういうタイトルが出たかというと、その前の年に「オルダーマストンマーチ」というものが初めて出ています。

長崎原爆資料館の一番奥の部屋にいくと、原水爆運動の歴史の紹介があります。そこにオルダーマストンマーチが核廃絶・核反対の運動として日本以外の国で初めて広く起こされた最初の事例として紹介されています。

それがなぜかと言うと、☢️この年にイギリスが核実験をやる。☢️それまでアメリカはずっと核実験をやっていました。☢️だけれどもイギリスが初めてやるのですね。それでこの「オルダーマストン」というのはどこかといいますと、☢️イギリス軍の基地にある核実験研究所。☢️そこで原爆を作って実験をしていたのですね。

イギリス国内には原爆反対の声を上げる文化人が相当いまして、その人たちがオルダーマストンに行って、そこで抗議の声を上げてオルダーマストンからロンドンまで歩いて帰るという、そういうマーチ(行進)をやるのです。有名な哲学者バートランド・ラッセルも先頭に立って参加しています。

(👩どんどん読み進めたいが、夕飯の準備だ。
今夜はちょっと寒いが冷やし中華にしよう。買い物に行く時間がなくて冷蔵庫にはそれしかない。明日はまた仕事なので日曜日か月曜日にまた来てください。
このようにして教えてくれる立花隆さんに心からありがとうございます。)

つづき
1958年、59年、60年と毎年続けてやるという展開の中で、その60年に、あのオルダーマストンマーチを組織した連中が国際青年軍縮国際会議を開こうたという計画を立てるわけです。ポーランドの外相、前フランス首相など、そういう人たちを呼んで国際会議をやろうと世界中から代表を募るようなことをやったのですね。それで、その前に僕らは広島でビラを撒(ま)いて次々に外見を求めていろんな話をしたのです。そうすると、この会議に出てくれという招聘状(しょうへいじょう)が来たのです。招聘といっても交通費をくれるわけではない。ロンドンに来ればロンドンにいる間の宿泊費とか、そういうものは世話しますという。

しかし、日本からイギリスに行くのはこれまたものすごい金が掛かります。どのくらい掛かるかというとひとり50万円だったのです。随分前のことですからはすごく高額なのです。その上二人ですから百万円ですね。その金を集めようと計画するのですが、要するにいろんな方(かた)から資金を確保する他に方法はない。そこで趣意書(しゅいしょ)を持って片っ端から寄金(ききん)に賛同してくれそうな人の所を回る。学生にも協力を呼び掛ける、というように非常に幅広くやるわけです。

p.31
物理学者玉木英彦先生のこと

「ぜひ二人の学生をイギリスに派遣しようじゃないか」という信書がありますが、裏面に発起人の名前が書かれています。
僕(立花さん)も何人か知っている人が並んでいるのですが、この中で挙(あ)げたいのは、「玉木英彦」という先生。その名前が書いてあります。

玉木英彦先生は物理学者です。この物理学者はですね、実はあの戦争の最末期(さいまっき)、アメリカが一生懸命に原爆を作っている時に、日本も原爆を作ろうとしていた人なのです。まあ、ドイツもやろうとしていたし、それからアメリカの原爆は実は、アメリカとイギリスの共同プロジェクトとしてやられていました。このように世界中であの時、原爆を作る競争をしていたのですね。
(👴おおばかものが❗人を殺(あや)めるどころか、万が一生き残ったとしても何世代も先まで放射能の影響を持ち越させる原爆の研究などしおってからに‼️
科学は最高に出来るくせに思慮が足りない‼️
こんなことをすれば地球は、自分の家族はどうなるか⁉️
科学史上主義もいい加減にせい‼️そこに山が聳(そび)えているから人間は登りたくなって登る。
そこに核があれば使ってしまう‼️核廃絶までにこんなに時間を要するということは、
権力のある何者かが核廃絶を拒(こば)んでいるから(または核を推進しているから)に他ならない。)

日本の理化学研究所(理研)の仁科芳雄という有名な先生がいるのですが、玉木先生はそのお弟子さんとして、日本で原爆を作るよう一生懸命にやっていた、やろうとしていた、そういう人なのです。

実は、日本でこの関係の資料が一番あるのは長崎大学なのです。あそこの研究所に大量にいろんな資料があるのですね。これは先日、訪ねて取材をする中で頂いた資料なのですが、広島に原爆を落とされたとき、原爆のことが分かる人なんて日本にどれほどもいませんから、この仁科芳雄先生、さらに日本の原爆研究を推進していた理研(理化学研究所)と東大と京大あたりの中から、少しでも原爆のことが分かりそうな人を選んで広島に派遣したのです。

それで仁科先生自身がまず広島に行きます。広島に行って直ちに(すぐに)いろんな調査をして、「これはもう100%間違いなく原爆である」と発表。さらに、どのくらいの中性子が出て破壊力はどれくらいと調べて、発表したのです。その調査の真っ最中に、今度は長崎に原爆が落ちるわけです。仁科先生はすぐに長崎に行きます。

先ほど話した玉木英彦先生ですね、(先生が)僕(立花さん)のロンドン行きの発起人になった時は、あの人は東大の教養学部におられました。物理の先生です。

玉木先生は広島、続いて長崎に原爆が落ちて、それで「仁科先生の新聞の置き手紙を手にしたのは8月8日の朝だ」って書いています。この8月8日の朝の新聞を置き手紙というのは、仁科さんの要するにですね、これは原爆に間違いないからいよいよ腹を切らなきゃなんないという意味ですね。🌕️責任を取るということ。「腹を切る」という感じで戦争の最末期に覚悟を示した。

p.33
終戦の詔勅に、原爆のことが書かれている。

日本で原爆を作るため、ものすごい金を投じて研究者を動員して研究をやっていたのですね。だけれどもアメリカのほうが先に原爆を作ってしまい(日本に)落とされた。結局、あの戦争で何が経験として残ったかといえば、終戦の詔勅を細かく読んでいくと、はっきりと書いてあるのですが、終戦は
「原爆がやはり原因、動機だった」
ということが分かります。
天皇が要するに、ついにアメリカはそういう爆弾を作って大量殺戮するようなことを始めた。もうこれ以上被害を広めないために戦争を終わりにするほかない、みたいなことが終戦の詔勅の中にきちんと書いてあります。

(👴詔勅とは天皇のことば。詔(みことのり)。
終戦の詔勅とは、玉音放送の内容のことだ。その一部を以下に示す。

「戦局必ずしも好転せず、
世界の大勢また我に利あらず、
加之しかのみならず
敵は新に残虐なる爆弾を使用して
頻しきりに無辜むこ(罪のない人々)を殺傷し、
惨害の及ぶ所、眞に測るべからざるに至る。
而しかも尚交戦を継続せんが、
ついに我民族の減亡を招来するのみならず、
延しいて人類の文明をも破却すべし。
斯かくの如くは朕、何を以て億兆の赤子を保し、
皇祖皇宗の神霊に謝せんや、
是れ朕が帝国政府をして
共同宣言に応せしむるに至れる所以なり。」)

仁科先生の『置き手紙』はそういうことで、「君も僕も腹を切らなきゃならないけれども、いつそれを決行するかは広島に帰って相談しよう」と書いてあるのです。だけど実際には、今度は長崎から帰るともう終戦になるということで、二人とも腹を切らなかったわけです。

玉木英彦さんは、要するにアメリカは原爆を本当に作った。広島に落として長崎に落として、🟣であとの計画もある。そういう状況の中で書いています。

(👩え❔あとの計画もあったの❔
玉木英彦さんはなぜあとの計画もあることを知っていたの❔
もっと強い威力の3発目の原爆を落とされたら日本は終わると❔)


つづき 
--それで我々はおそらく皆死なねばなるまい、
その原爆が落ちるだろうから。
英米の学者がやり遂げたどえらい仕事の結果をはっきり観察してから死にたい。つまり、広島にいって長崎にいって、原爆とはどれほどの爆弾であったのかをきちんと知りたい。きちんと確かめてから死にたい。未開人のように何が何だか分からず殺されるのではなく、ギリギリまで科学者としてできることをしたい--などと書いている。

『原子力を使う』というのは、自分たちが原子爆弾を作ってアメリカに落とす、ということですね。
(👧では、原子爆弾をアメリカに落とさなかっただけで、日本の政府と軍部の思考回路もアメリカとイギリスの政府と軍部と同じじゃないか‼️)
それはできなかったけれども「自ら観測するモルモットになるほかあるまい」というわけです。自分たちは「原爆を落とされる側のモルモット」だと。自ら観測するモルモットとして「どういう効果があったのか、きちんと科学的に観測するモルモットでありたい。それを我々がやらなかったら誰がやるだろう」と。

つまり、日本で原爆を作る研究をしていた我々以外に原爆が分かる連中はいないのだから、我々がそれをしたい、そういうことが書かれているわけです。その人がたまたま教養学部の物理の先生をしていて、発起人の一人になってくださったわけです。

(👩難しい内容だった。)

p.34
読売新聞の独占ニュースに

それで実際に(イギリス、ロンドンに)行きます。百万円を集めるというのは、ほとんど嘘(うそ)のような話なのです。我々の力ではどうしようもない。半分ぐらいしか、もしかしたら半分も集まらなかったかもしれない。正確には、いくら集まったという記憶はないのですが「読売新聞の独占ニュースにする」という契約のもとに、読売新聞社が不足分の資金を出してくれたのです。ですから、この話は読売新聞にはきちんと記事にされているのですが、朝日新聞の記者などは知らないわけです。

「アサヒグラフ」の写真以外にも原爆の被害写真を用意しました。ぜひ発起人になってくれと頼み込みまして、それで写真家の写真をどっさり持って行くというプロジェクトをやったわけです。

現地ではいろんな資料を持って行き、アピール活動を展開しました。

映画を3本持っていきました。原爆関係では非常に有名な映画、進藤兼人監督の「原爆の子」は多くの人が見ていると思います。それから「ひろしま」というのは日教組が中心になって作った映画です。ドキュメンタリー作家として有名な関川秀雄という監督は、ご自身が放射能のいろんな実験をした方で、どれほど生物に奇形を起こしたか、そういうことをやった人です。それから写真家の土門拳さんの写真です。

僕(立花さん)ら、これを担(かつ)いでフランス、イギリス、イタリア、オランダと行ったのです。映画3本のフイルムはものすごく重い。本当にもう、くたくたになるような感じで行きました。

p.36
『天皇と東大』で訴えたかったこと

そのままいけば僕は、いわゆる政治活動家になっていたかもしれない。この年(👧1960年❔)、僕がイギリスからヨーロッパ各国を映画や資料を担いで回ってみると、日本は60年安保の時代です。樺(かば)美智子さんが死んだ6月15日のニュースも「東京で暴動」という新聞記事をパリで読んで知った。この後、60年安保の総括をめぐって学生運動はめちゃくちゃになっていきます。70年安保のころには、俗に「五流十三派」と言われるほど分裂を重ねる。

原水禁(原水爆禁止)運動を含めて日本の運動というのは、国内で声を上げるだけなのです。ヨーロッパ各国を歩いて、いろいろな人たちと議論をかわす中で、そういう内向きの運動ではダメだと強く感じました。結局、イデオロギーや政治運動から離れて文化的な世界へ入って、その後就職して物書きになったのです。

(👨本を読んでいて「この人(著者)なら信じられる」と思う時がある。立花隆さんは僕が信じられる人の1人だ。
立花さんの意見「原水爆禁止運動を含めて日本の運動というのは、国内で声を上げるだけ。そういう内向きな運動ではダメ。イデオロギーや政治運動から離れ文化的な世界に入る。就職して物書きになる。」で僕はスッキリした。)

僕(立花さん)は2005年に『天皇と東大 大日本帝国の生と死』(文藝春秋)という本を書いている。これは上下2巻の本でして、雑誌「文藝春秋」に連載したものをまとめた本です。
🌕️日本は何であんな戦争(第二次世界大戦)に国を挙(あ)げて(国家総動員で)突っ込んでいったのか❔身を滅ぼすことになったのか❔(立花さんは)そこを知りたいという思いが、ある時期までずっと、一番の関心事の焦点だったわけです。それを、こういうタイトルで7年間連載しまして、🌕️日本がどんどん狂っていくその過程を詳細に描いたのです。どうして日本がこんなにめちゃくちゃな国になったのかということが分かります。書いていく過程で、日本はこんなことをやって、どうしようもない国になりつつあるという意識を強く持ったのですね。

それでそのころ、東大でも僕、先生をやっていましたし、学生達といろんな活動をする中で、日本という国は、あの戦争(第二次世界大戦)が終わるまでは国の隅々までですね、ある意味軍が支配していた。だから今「沖縄が全部支配されている」と言うけれど、これ以上に日本は当時、日本軍に支配されていたわけです。
🌕️あらゆる意味で軍が闊歩(かっぽ)していた時代があの時代なのですね。

あの戦争(第二次世界大戦)のとき、日本は🟣本土決戦の準備をしていたら。満州国といのは、いずれ天皇をはじめ日本帝国が引っ越して、本土決戦に備えるためのものだった。
(👨え~っ‼️)
原爆のために引っ越しはやらなかったのですが、元々は天皇はじめ国民すべてが引っ越して、本土決戦をやる予定だったのです。実際に本土決戦をやっていたら、日本中が沖縄のような決戦場になって、どれだけの人間が死んでいたか分からない。当然、その子孫も生まれないわけですから、今生きている人の相当部分は存在していないでしょう。

日本にそういう時代があったことを、日本人ははっきり認識すべきだと思います。
要するに今、「戦争の記憶」というものを、社会全体としてもっときちんと伝えていく必要があるのです。🌕️世界中の人々がそう思っているのです。

p.38
ウォー・ミュージアム構想
アウシュヴィッツの話をしましたけれども、去年(2010年)、学生を連れてアウシュヴィッツを見に行きました。立教大学の学生と一緒に、「戦争の記憶」という大きなウェブサイトを作って、そこに世界のいろんな戦争の記憶を記録して公開し、さらに世界中の戦争の記憶のウェブサイトにリンクさせようとしています。

僕(立花さん)はここ何年か、長崎に来ては原爆資料館でさまざまな記録を片っ端から読むということもしています。そうすると、戦争の記憶を呼び覚ます資料のあまりの膨大さに、もうお手上げ状態になります。資料全体に関連性といったことがきちんと行われていないので、全体をとらえようとすると、しばしば絶望感に襲われます。まして、資料館に来ることもできない圧倒的多数の人たちに、どうやってこの事実を伝えたらよいのかと考えると絶望します。

しかし今のIT技術を使うと遠く離れた所に居ても各地の戦争資料館、ウォー・ミュージアムに入って行って、見たい資料を見られるようにできる。グーグルのアートプロジェクトでは、世界の美術館をそうやって探訪することができる仕組みがすでにできています。さらにバーチャルリアリティの技術を使えば、展示してある記録を覗くとその内容が一度に伝達できるようになるかもしれない。要するに、IT技術を使うと、これまではとても処理し切れなかった資料にも簡単にアクセスして広げて、読んでいくようなことができるわけです。

長崎の原爆資料館や広島の原爆資料館は優れたウォー・ミュージアムだが、そこに詰め込まれた膨大な戦争の記憶にもっと多くの人が触れられるようにしたい。そのために、IT技術を使って世界中のウォー・ミュージアムを連結して、デジタル・ミュージアム化したらいいのではないかと思います。いわば「世界の戦争体験館」ですね。これを実現するためには、国家的な資金が必要となるでしょう。立教大(学)の教室でもいろんなプランを(僕=立花さんは)書きました。

(👩「本当の戦争を体験すること」、そして、
「戦争ってこんなにおっかない、
戦争って
大切な人たちの命を奪ってこんなに悲しい、
戦争って、さっきまでそこにあった自分の家がない、
戦争って、さっきまで元気に走ったり鳴いたりしていた、大切なペットの命も奪う。
戦争って、水や食べ物を奪い合う。
私だって、原爆資料館を見ていないから
これくらいの貧弱な想像しかできないままだ。

しかし、
「戦争って二度としてはならないもの」
って、世界の、日本の人たちが
バーチャルで体験できるなら、
真に、自分の身を持って体験し、
感じなければ、
戦争はまた起きてしまうんだな、と思った。
伝わったかな❔
👨ママは文章、下手だものね。
僕もママのことは言えないけれど。
👧伝えたい気持ちだけは上等‼️)


つづき
p.40
秋月寿賀子さんと『死の同心円』

僕(立花さん)の父が活水(地名)女学校で国文の教師をしていた頃、教え子の一人に秋月寿賀子さん(享年102歳)がいました。(長崎原爆)被爆者の生き残りとして有名な方で、爆心地から1,400㍍の浦上第一病院で看護婦をしていました。同病院の医師秋月辰一郎さんとともに、被爆直後から、押し掛ける無数の被爆者の救護にほとんど不眠不休であたった方です。お二人はこの3年後に結婚されています。

秋月医師には、原爆体験記の古典的名著『死の同心円』(長崎文献社 2010年)がある。

『死の同心円』とは、爆心地から放射能の強度に従って、見事に同心円を描くように原爆が広がったことを意味します。爆心地から500㍍以内に同心円を描くように原爆の被害が広がったことを意味します。爆心地500㍍以内にいた人は即死するか、1週間以内に全身火傷(やけど)ないし急性劇症でバタバタ死んでいった。爆心地から500㍍ないし1500㍍にいた人々は次の40日間で、食欲不振、全身疲労、髪の毛が抜ける、全身に出血斑が出るなどの症状が次々に出て、ほとんどが死んでいった。


YouTube
証言と映像でつづる
原爆投下・全記録

ENORA GAY 82
🎬️カチンコ

これは、原子爆弾を指揮した人物が、
投下直後に発言した貴重な映像です。
44万回試聴
公開日:2021/03/27

1945年8月14日
ファレル准将:「私たちにはこの大きな武力を託された
倫理的な責任がありました。
この武力が敵国でなく、わが国に与えられたことを
謙虚にうけとめなければなりません。」

男の名は、米陸軍トーマス・ファレル准将。
原爆の開発計画=マンハッタン計画の現場責任者を務めた人物です。

(👩アメリカはキリスト教だから、
神に託されたって言い訳❔
謙虚に受け止めて
あれだけの原爆の被害を出すか⁉️)

75年前、人類の頭上に初めて落とされた原爆。

広島・長崎では21万人もの命が奪われ、
生き延びた人たちの苦しみは今も続いています。

番組(YouTube)では、原爆の悲惨さを伝えるため、
けが人や遺体の映像が流れます。

その原爆を生み出し、
日本(ニッポン)に投下するまでの
すべての過程に関わったのが
ファレルでした。

(👨原爆によるけが人や遺体をみて
ファレルさんは、
吐いたり、悪夢にうなされたりしなかったのだろうか⁉️
しなかったなら彼はすでに心を持つ人間ではないし、
科学史上主義に洗脳されてしまっていたのだと思う。

僕なら自分がしてしまった何百、何千万トンの罪の重さと
原爆を作り、投下してしまい、
このような生きる地獄の結果を生み出してしまったことへの悔恨の念に苛(さいな)まれ、
一生自分を許せず苦しむだろう。
なぜ、なんのために自分にこんな罪をおかさせたのかと、
米軍の、米政府のそのまた上に叫ぶだろう。
「自分たちのやっていることは間違っている」と。
「自分たちのやっていることを神が祝福する(赦す)わけがない」と。

👴戦争ってぇのは、謝ったら敗けなのかもしれないが、
原爆は車をぶつけても自分が損するから保険屋が処理するから
自分では絶対に謝らない自動車事故とは比べ物にならない。
なんだ、この、ファレル氏の、斜(なな)めに構えた、
自分が原爆を投下したことへの嘯(うそぶ)きかたは‼️
この原爆投下後の広島・長崎の惨状は、
謝っても謝っても決して謝りきれないけれども、
絶対に謝るしかないほど悲惨なものだ。
あんたらはなんて愚かなんだ(怒怒怒)‼️

👩日本の科学部門のほうが先に
原爆開発を完成させていれば、
日本もアメリカに原爆を投下していただろうが、

一番の問題は、この場合、
『アメリカが確信犯であること』だ。
だから私は核開発・投下者を許せない。

①アメリカは原爆を開発している最中に
ある程度の原爆投下後の被害を想定(予定・予想・想像)していた。
②こんだけひどいことになることがわかっているのにやるという大きな罪。
③それは、アメリカが、被害とだけ考えて、
『悲惨な状態』と考えない、またはそんなことを屁とも思わない、
原爆投下後の悲惨な状態を悲惨と思わず、
「ああ、原爆投下後の状態はこんなもんだろう、
我々が予想していたとおりだ。
いや、予想していたより結構はるかにひどかったな。
いや、ホントにすごいな(他人事)、
❌しかし、科学の力とは本当に凄い(偉大だ)な、
エッヘン、どうだ❔すごいだろう我々アメリカの科学の力は‼️」

と、考えるから、アメリカは狂っているのだ。

ファレルさんの上の者たちのことも私は許せない。
彼らは気が狂っているのだと思う。

科学史上主義もいい加減にしろと怒りが込み上げた。
こんなにたくさんの人たち=21万人もの命を奪ったのに、
原爆投下者たちは、
命を奪ったことのほうには気が行かなくて、
🟣21万という殺傷した人数(統計)と、
🟣放射能はどのように人体に影響を及ぼすかの結果(データまたは推移)のほうに気が行っている、知りたい。
そういうアメリカとは一体、何⁉️
人間的な感覚を全く持っていないし、180度ずれている。
あなたがた、なんかDNAがおかしいんじゃないの❔

👧おかあさんのいっていることは、きっとジョン・レノンの言ったことと同じ。
私も同じことを思う。
自分が殺めた人々の人数に申し訳なく思うのでなく、
その数の多さに狂喜する。
放射能の人体実験の膨大なデータが入手できたことのほうを歓喜する。
弾道ミサイルのスピードと命中率に歓喜するみたいな。
あのさ、そのミサイルは、人を殺すんだよ。人の命を奪うんだよ。
あなたがた、それをわかってやっているの❔
誰がそんなことをあなたにやっていいと許可したの❔

👨彼らはもう、人間じゃないだろ。
心を持たない欠陥者の集団としか言えない。
これが原爆投下者たちへの結論、レッテルだな。

👩アメリカとファレル氏は、
自分の家族や大切な人が、皮膚と髪の毛を焼かれ、
頭や口をえぐられ、鼻を捥(も)がれ、
胴体に穴があき、脚が捥(も)げ、腕がぶらぶらと片腕だけぶら下がっていたとしても、
そして、数日後には死ぬとしても、
生き残った病人の体に残った放射能が
何代先の子孫にも影響を及ぼすのを解りながら、
今も原爆・核兵器を開発の⁉️
それのどこが倫理なの❔

👿「次の原水爆は人体など木っ端微塵(こっぱみじん)であるから
悲惨な姿を目(ま)の当たりにして、悲しむこともない。」

👩悪魔の言葉なんかに耳を貸しません。
そんなことより、マンハッタン計画の、
原爆開発途中に、
誰も「こんなこと(原爆の開発)なんか間違っている」と、
開発者は誰一人思わなかったの❔
周りの人の考えがみんな同じだと、
自分もまわりに影響されてしまうの❔
そうだったら、
『洗脳』って、本当に恐ろしいな。
21万人もの命を奪って、良いの‼️
原爆を開発しながら、
「自分は何か変だ‼️」と思わなかったの❔
原爆を開発し、投下した人々は
例えば凄惨を極めた日本の殺人事件、
『北九州監禁殺人事件』において
マインドコントロールされた人たちと
何ら変わらないじゃない‼️
👨大胆な意見だな。
👩原爆を開発している人たちは、
核兵器開発途中に原爆を製造するのを放棄したくなったり、
核兵器を投下するようなことをやめたいと思うようになったらどうしたらいいの❔
もし、いやになりましたと言ったら、言った人はどうなるの⁉️

①原爆投下の5日前に、「どこかの島に(アメリカの)パイロットの精鋭たちが送り込まれました」って、そのパイロットたちはどんどん戦闘機に乗り込んで、原爆投下の準備をしていくけど、一体パイロットたちはどの程度、これから落とす原爆の威力を教わっていたの❔

②日本政府と日本軍部は、アメリカから「ポツダム宣言(無条件降伏)を受諾しないと原爆を落とすぞ‼️」と脅されているのに原爆の威力を大層甘くみていたし、まさか原爆など落としはしないだろうとアメリカと原爆を甘くみていた。
アメリカは原爆投下10日前、5日前、3日前と着々と準備している。
この数日間の間にも、原爆投下をやめてもらうことはできなかったのだろうか⁉️

③👧私とおかあさんが日本国民で高校・大学生くらいの年齢だとする。
私たちがどんなに「原爆投下はダメ👐」と言っても、
日本政府と軍部は、町内会の長老や賢いサラリーマンの人たちと同じで、
高校生や大学生の意見なんか聞きやしない。
ある意味日本中がそうなっていたと思う。
何を言ったって聞き入れないんだ。
その点で言えば当時の高校生や大学生くらいの年齢の男子も軍国に洗脳されているから、
原爆の正確な情報(破壊力)を知ったら、「原爆投下をやめさせて‼️」と叫ぶのは、📖アニメ📽️『この世界の片隅で』に登場する主人公の女性(たち)かもしれない。
👴いや『この世界の片隅で』を書いた人は現代人で、第二次世界大戦当時は、なかなか主人公の女性と同じ進化した考えを持つ人の数は少なく、自分の考え(反戦)を口にすることは村八分または死を意味した。
要するに軍国主義、
独裁政治、
共産主義の問題点は
彼らは非常に独善的で
正しい意見を聞く力がなく
「正しい意見を受け入れない」
ということが最大の欠点・
欠陥なのではないだろうか。
だから、
アメリカと日本の政府と軍部の
世界最大の大失敗は、
アメリカは原爆を投下し、
日本は原爆を投下させてしまい、
21万人もの命を奪ったことだ。
そして原爆投下発起人の
アメリカが一番悪い。

アメリカ空軍ポール・ティベッツ大佐の証言、
「原爆による被害を評価したかった。
従来の爆撃の被害が(原爆の被害に)混じるのを避けたかった」
などと言っている。

(👩評価って、採点でしょう❔
原爆の被害を評価なんてアホか‼️
被害が甚大になればなるほど評価が高い⁉️
アホか‼️

👧悪魔が軍服を着ているだけ。アメリカ空軍。
アメリカ空軍なんて入隊しない方がいい。

アメリカ(空)軍は一体、兵士にどんな教育をしているの❔
👩「スピードの速さ、壊滅する面積の広さ、
そして殺傷する人数の多さ、
放射能汚染レベルの高さ、
人間がどれ程深くメンタルで傷つくかなど、
結果が無残であればあるほど
軍隊っていうのは点数が高いんだよ~」
という逆(さか)さまの教育。
アメリカ(空)軍は、たとえばカルトの🦜しんりきょうのあさはらしより人を殺す人数が甚大。
アメリカ空軍は🦜しんりきょうなどのカルトをはるかに凌駕する(追い越している)。

👴👨👩👧👦
結論として、軍隊というものは全て、
そしてアメリカ(空)軍は特に巨大なカルト集団である。

👩自国を護(まも)るだけでいいのに、
アメリカ空軍、原爆水爆、弾道ミサイル、ドローンなどで遊ぶな‼️
👴不謹慎すぎる。先が思いやられる。アメリカ宇宙軍もある。
👦ぼくたちの明日はどうなるの❔
ぼくが大人になれば変えればいいの❔
それまでには時間がかかる。
それまでずっとまだ戦争を続けるの❔
地球はどうなるの❔
👧アメリカ軍はこのくらい批判されて当然だと思います。
👩未開人ならまだしも、先進国の住人のくせに。
👨未開人は決して未開なんかじゃないよ。勝手にこちらが見下して名前を付けただけだ。
彼らは自然や太陽を崇めて、大切にして暮らしている。獲物も植物も今、自分たちが食べるために必要な分しか捕らないんだ。考えてみれば彼らのほうが僕たちよりよほど優れている。

👩強いものが間違ったことをしていても
それをしている人間達が強いから
弱い私たちはどうすることもできない。

「たくさんの人々が同時に罪をおかしても裁かれない」
と心理学者のグスタフ・ユングが述べた。それも第二次世界大戦が始まる前か最中の心理学会議での発言だった。
なぜ、裁かれないのか❔ 
それは裁かれるはずの人々が属している国、
軍隊、組織が強いから。
そして、たくさんお金を持っているからではないだろうか❔

要は、強い国、強い軍隊、強い組織、たくさんお金におののいて、
それを裁ける国、機構、機関、組織、団体がない。
強い国、強い軍隊、強い組織が
自分のところが困るのでつくらせないから、
そういうことをしてはならない、
そういうことをしたら罪に処すという、
あるべきはずの世界法規がこの世にない。

👨世界中の国々は、現状では
アメリカをどうすることもできない。

👴日本もアメリカに原子爆弾を落とされてから、
その後77年間もアメリカに対してどうすることもできない。

👩だからアメリカは、
自分たちのちからで
自分の国を良くしていくしかないと思います。)