(知識階層による)
観客民主主義
公益を理解して実現できるのは、
それだけの知性をもった「責任感」のある「特別な人たち」だけと考えていたからである。
この理論からすると、
万人のためになる公益は
少数のエリート、
ちょうどデューイ派が言っていたような知識層だけにしか理解できず、
「一般市民にはわからない」
ということになる。
こうした考え方は
何百年も前からあった。
たとえば、これは典型的なレーニン主義の見かたでもあった。
改革をめざす知識人が
大衆の参加する革命を利用して国家権力を握り、
しかるのちに愚かな大衆を、
知性も力もない未来へ、
連れていくのだとするレーニン主義者の考えと、
これはそっくりではないか。
自由民主主義とマルクス・レーニン主義は、
そのイデオロギーの前提だけをとってみると
非常に近いのだ。
私の思うに、
それが一つの理由で人びとは
自由民主主義からレーニン主義、
あるいはその逆へと、
自分では転向したという意識もなしに
あっさりと
立場を変えてしまえるのだろう。
単に、
権力がどこにあるのかの
ちがいだけだからだ。
今後も大衆革命は起こるかもしれない。
そうなれば
知識人が国家権力を握れるだろう。
あるいは革命など
起こらないかもしれない。
その場合は、
💀真の権力者である財界のために働けばよい。
だが、いずれにしても同じことだ。
愚かな大衆は
自分で状況を理解する頭がないと見なされて、
指導者の意のままに
未来へと誘導されるのである。
(ウォルター・)リップマン(1889-1974)は
これを非常に精繊(せいせん、精密で細かい)な
進歩的民主主義によって補強した。
正しく機能している民主主義社会には
複数の市民階級が存在する、
と彼は主張したのである。
第一の市民階級は、
相対的な問題の処理に
積極的な役割を担わなければならない。
これは専門知識をもつ特別階級である。
政治、経済、イデオロギーのシステムにおける諸問題の分析、
実行、意思決定、管理をするこれらの人々は、
人口のごく一部でしかない。
当然ながら、
この少数グループのなかからしか提案はでてこず、
そのなかで
「それ以外の人びと」をどうするかが検討される。
(👨みな等しく大学院まで高等教育を受けることができる権利をプラスして、
就職するときも貧富の差で差別せず合格させればいい。
👩そして、
社会人は、
特に政治家や
企業の社長・重役になる人には、
倫理・道徳の試験に合格しなければなることができなくする。
サイコパス的な悪い種から生まれた人物は
倫理・道徳を「丸暗記」して試験に受かろうとするだろう。
しかし、実地試験もあるから
そんな努力も無駄だ。
👧うふふ。そんな時代になったらいいな。
いつまでもやられっぱなしではくやしい。
武器でなく、
叡知と、
倫理・道徳の試験で残念な人びとを負かす。
👨彼らは
燦々と
明るい太陽の光があたる場所が
眩しくて大嫌いだ。
明るい陽射し(叡知)が
彼らの闇を真っ黒に映し出すから。)
グループから漏(も)れた人びと、
すなわち人口の大部分を、
リップマンは「どまどえる群れ」と称した。
彼らも民主主義社会の一機能を担っている。
(👨僕たちから見ると
どまどえるグループは
あなた方だが。)
民主主義における彼ら(どまどえる群れ)の役割は、
リップマンの言葉を借りれば
「観客」になることであって、
行動に参加することではない。
しかし、彼らの役割は
それだけにかぎるわけにもいかない。
何しろ、ここは民主主義社会なのだ(から)。
(👩よく言うよ‼️
あなた(リップマン氏)の着ているスーツもシャツもネクタイも靴もカバンも
あなたの食べている食事の材料も食器もテーブルもイスも、
住んでいる家も掛けているレースのカーテンも、
みんな人口の大部分を占める人びとが作ってくれたんだよ‼️
あんたがたはそれを使って
心でなく頭で考えるだけ‼️)
そこでどきどき、彼ら(人口の大部分を占める人びと)は、
特別階級の誰かに支持を表明することをゆるされる。
「私たちはこの人をリーダーにしたい」、
「あの人をリーダーにしたい」
というような発言をする機会も与えられるのだ。
何しろここは(見た目・表面上は)民主主義社会で、
全体主義国家ではないからだ。
これを選挙という。
(👧選挙で国が良く変わるまで、
私たち「どまどえる群れ、または観客」は、
いったいどれくらい長い間、待てば変わるの❔
変わらないんだね。)
だが、いったん特別階級の誰かに支持を表明したら、
あとはまた観客に戻って彼らの行動を傍観する。
(私たち)「どまどえる群れ」は(特別階級の行動への)参加者とは見なされていない。
(👧私たちのことをバカにして‼️)
これこそ
正しく機能している民主主義社会の姿なのである。
(👩なんか、心底がっかりしちゃった……。
偽りの民主主義。)
いったん
特別階級の誰かに支持を表明したら、
あとはまた
(私たち「どまどえる群れ」は)
観客に戻って彼ら(特別階級)の行動を傍観する。
私たちは(政治の)参加者とは見なされていない。
これこそ正しく機能している民主主義社会の姿なのである。
(👩国会を見ているのが空しくなる。)
この背景には一つの論理がある。
至上の道徳原則さえある。
至上の道徳原則とは、
一般市民の大部分は愚(おろ)かで
何も理解できないということである。
(👩私たちは、バカにされたものだね。)
彼ら(一般市民の大部分)が
自分たちの問題の解決に
参加しようとすれば
面倒(めんどう)を引き起こすだけだ。
したがって、彼ら(一般市民の大部分)に
そんなこと(自分たちの問題を自分たちで解決すること)を許すのは不適切であり、
道徳原則に反する。
(👩特別階級が、
一般市民の大部分に
自分たちの問題を自分たちで解決することを許さない。
それはまったく間違っている。
道徳原則って、いったい何⁉️)
われわれ(特別階級)は、
「どまどえる群れ」(一般市民の大部分)を
飼い慣らさなければならない。
どまどえる群れの激昂(げきこう、激しい怒り)や横暴(👨君らにはこれが愚かで横暴に見えるのか⁉️これは権利だ‼️)、
横暴を許して、
(われわれ特別階級に)不都合なことを
起こさせてはならない。
(👧主語をきちんと付けると、
特別階級が悪いことが明確にわかって
とても嬉しい。)
これは
三歳の幼児に
一人で道路を渡らせないのとまったく同じ論理である。
誰だって三歳の幼児に
そんな自由は与えないだろう。
三歳の幼児は
その自由を
適切に扱うすべ(方法)を知らないのだ。
それと同じように、
どまどえる群れ(一般市民の大部分)も
行動に参加させるべきでない。
問題を起こすに決まっているのだから。
そこで、どまどえる群れ(一般市民の大部分)を
飼い慣らすための何かが必要になる。
それが民主主義の
新しい革命的な技法、
つまり「合意のでっちあげ」
である。
メディアと
教育機関と
大衆文化は
切り離しておかねばならない。
政治を動かす階級と
意思決定者は、
そうしたでっちあげにある程度の現実性を
もたせなければならず、
それと同時に
彼ら(一般市民の大部分)が
それをほどほどに信じ込むようにすることも必要だ。
ただし、
ここには暗黙の前提がある。
この暗黙の前提。
これについては
責任ある人びとさえも
自分を騙(だま)さねばならないのだが、
どうしたら
意思決定の権限をもつ立場に
つけるのか❔
(という問題に関係している。
この暗黙の前提は。)
その方法は、
「真の」権力者に仕(つか)えることだ。
社会をわがものとしている真の権力者は、
ごくかぎられた一部の人間である。
(👨出典を書いておきます。
📖『メディア・コントロール』
ノーム・チョムスキー 著
正義なき民主主義と国際社会
鈴木主税 訳
集英社新書0190-A)
(👩そうじゃないかと思っていたが、
きちんと文字にされると
読んだショックはキツい。
ああ、やっぱり。
貧困や戦争がなくならないはずだ。
誰かが勝手にコントロールしているからなんだ。)
(意思決定の権限をもつ立場に就いている一部の人間、
社会をわがものとしている真の権力者)
特別階級の一人がそこへ行って
「(私は)あなたのために便宜をはかれます」
と言えれば、
彼は支配階級の一員になれる。
でも、そんなことを公言してはならない。
それを公言するのは、
一部の私的権力の利益にかなう信念と
教義を大衆に植えつけてきました、
と言うのに等しいからだ。
この技能を習得できないかぎり、
特別階級の一員にはなりえない(なれない)。
そこで、一部の者を
責任ある特別階級へといざなう(👩ゆらゆらと❔そっと❔目立たずに❔)
教育のシステムが必要になってくる。
国家と企業の癒着関係(ゆちゃくかんけい)に
代表されるような私的権力が
私的権力が
どんな価値観をもち、
何を利益としているかを
徹底的に教え込まなければならない。
それができたなら
特別階級の一員になれる。
(👩中を見てくることは
できるわけだね❔
👨出来ないよ。
入ったら二度と出られない監獄なんだ。
👩なんか、
🎵『ホテル・カリフォルニア』の歌詞みたいだなあ。)
残りの
どまどえる群れについては、
つねに彼らの注意を
(👧楽しいスマホなどで)
そらしておくことが必要である。
彼ら(一般市民の大部分)の感心を
まったく別のところに
向けさせろ。
面倒を起こさせるな。
何があっても
(一般市民の大部分には)
行動を傍観しているけにさせるのだ。
例外は、真の権力者の誰かにたいする
支持を表明させるときだけだ。
そこでなら
どまどえる群れに選択をさせてもよいだろう。
このような(以上のような)
見解を提唱してきた者は、これ、
(ウォルター・リップマンの)ほかにもたくさんいる。
そのほうがむしろ主流だと
言ってもよいだろう。
著名な神学者で外交評論家の
ラインホールド・二ーバーも
その一人だった。
ホテルカリフォルニア(歌詞和訳と意味)イーグルス:Eagles – Hotel California
The Eagles – Hotel California 1977
Eagles – Live in Concert (1977)
イーグルスの「ホテルカリフォルニア」(Hotel California)です。「ホテル・カリフォルニア」(作詞/作曲:ドン・ヘンリー/グレン・フライ/ドン・フェルダー1976年)は、哀愁漂うメロディとドン・ヘンリーのボーカルで大ヒットした曲です。しかし、歌詞の意味することが分かりずらい曲でもあります。これはアメリカ人にとっても、日本人にとっても同じです。作詞作曲をしたグループのメンバーも何も語ってはいません。
そこで、勝手な解釈をしているのがこの記事です。
歌詞を通して感じられるのは、まるでトワイライト・ゾーン(The Twilight Zone) のエピソードのような、出口のない異次元の世界へ踏み込んでしまったようなストーリーです。トワイライト・ゾーンは1959年から1964年まで放映された有名なSFのテレビドラマシリーズですから、歌のストーリーを作るうえで、少なからず影響があるかもしれません。
各節の内容です。
コリタス(colitas) は、砂漠の花であるとともに、マリワナを意味します。言葉のダブルイメージです。この歌にはダブルイメージがこの後も出てきます。それが、歌の解釈を多様にもし、分りづらくもしています。つまりここでは、「夜の砂漠のハイウェイを走っていると、砂漠の花の香りが立ち込めている。」という一種の開放感と、「マリワナを吸いながら走っている。」という麻薬による高揚感の二重の意味となります。そして、主人公は頭が重くなり、目もかすんできたので、遠くに見つけた灯りに誘われて、夜を過すためにホテルへ入ります。
礼拝の鐘(mission bell) は、カトリック教会で鳴らすもので、ホテルで鳴らすことはまずありません。ですから、この鐘の音を聞くと、カトリックの信者は天国や地獄という教義を連想し、同時に自分が入ったホテルが普通とは違うことに気付きます。
ようこそホテルカリフォルニアへ(Welcome to the Hotel California)の部分は、少しチープな広告のような言葉を使って、第一節の歌詞とのギャップを作っています。しかしここでも、「豊富な部屋があり、あなたは(何かを)見つけることができる。」という暗示めいた言葉を含んでいます。
彼女の心はティファニーのねじれ、彼女はメルセデスの曲線を持っている(Her mind is Tiffany-twisted, She got the Mercedes Bends,)の部分は、「ニューヨーク5番街の有名な宝飾店ティファニーの洗練されたデザイン、高級車メルセデスベンツの美しいライン」に象徴される内面的な気品と「女性の持つ腰のくびれやボディラインが高級品のようにゴージャス」というイメージがあります。(the Mercedes Bendsはthe Mercedes Benzのもじり・洒落)そしてもう一つ、ジャニス・ジョプリン(Janis Joplin、1943-1970)が最初に歌ったサンフランシスコのサイケデリックバンド、ビッグブラザー&ホールディングカンパニー(Big Brother and the Holding Company)に影響を与えたティファニーシェード(Tiffany Shade)とジャニス・ジョプリンの曲「メルセデスベンツ」を連想させて、ジャニス・ジョプリンへのオマージュともとれます。そしてこのホテルが、そんな女性を中心とした、かわいい少年たちが踊り、「思い出す」「忘れる」という過去に囚われている一種のコロニーであることが分ります。(女王に支配された蜂や蟻の巣のようなイメージです。)
次に、主人公は理性を保つため、あるいは現実に戻るために、ボーイ長(給仕長)にワインを頼みますが、「私たちは1969年以来のスピリット(魂)をここには置いていないんです」 (We haven’t had that spirit here Since nineteen sixty-nine”)と言われます。1969年はウッドストックで大規模な野外コンサートがあった年。また、アメリカがベトナムから最初に撤退を始めた年でもあります。サイケデリック・ムーブメントによる自由な共同体という意識が、当時の若者の間でピークに達した年ですが、衰退の始まった年とも言えます。ジャニス・ジョプリンは1970年に亡くなっています。とにかく音楽の世界も、社会の動きや人々の考え方も変っていった時代です。ですから、このホテルがそれ以降の新しいスピリットがない場所ということになります。スピリットは蒸留酒のアルコール分(ワインは蒸留酒ではありませんが)と魂の二重の意味を含んでいます。そして、過去に捉われているこのホテルの住人たちが、「彼らはホテルカリフォルニアで生きてくのさ、なんて素晴らしい驚き、なんて素晴らしい驚き」「あなたのアリバイを持ってきて」と呼びかけます。「アリバイ(不在証明)を持ってきて」(Bring your alibis)は一般社会からの離脱を意味しています。
そして次が祝宴のとき、女性がここにいるみんなが囚人で、自分たちが作り上げたものだと告白します。そして野獣を殺せない。…自分たちが過去の意識に囚われている。それは自分たちが望んだ世界ではあるが、憎悪や競争がある現実的な世界に戻るための勇気を失っているという寓意でしょか?野獣は心の中の潜在的な魔と解せます。(ゴージャスな女王のような女性=美女と野獣の対比?)
最期の節で主人公は、現実へ戻るために出口を探しますが、夜警の男たちに、チェックアウトは何時でもできるが、二度と離れることは出来ないと言われます。(programmed to receive)ですから、戻れない仕組みになっているということです。ここではチェックアウトはホテルを離れる意思を示すことはできる、しかしこのホテルカリフォルニアが実際に立ち去ることは出来ない迷宮だと言っているようです。
歌の細部については以上のとおりです。それではこれをまとめてみます。先ず、この歌を単にドラッグによる幻想の歌と思うのは間違いです。コリタス(colitas)の言葉にこだわると、それ以降の歌詞の解釈ができません。「1969年」にこだわって、昔は自由で良かったという過去への郷愁の歌というのも感じられますが、少し違います。
私がキーワードと思うのは、(Bring your alibis)、(they just can’t kill the beast)、(programmed to receive)です。つまり、過去や思い出、失望や後悔などの後ろ向きな感情が心に宿って、社会や自分の属するコミュニティから一度離れた心はもう二度と戻せないという寓意だと思います。人間は記憶を頼りに、過去に縛られる動物なので、そうした負の感情を拭い去ることはできない。その負のイメージを象徴したものがホテルカリフォルニアで、誰もが客になる可能性があるということだと思います。
以上は自分勝手な解釈なので、他にもいろいろ考えられます。各節の言葉の意味合いを書いておきましたので、聴く人それぞれが自分なりの解釈ができます。ただし、大きな象を部分的に形容したからといって、象の全体が見えるものでもありません。とはいえ、それを考えるのもこの歌の楽しみ方のひとつです。でも、その前に音楽として楽しみたい名曲です。
…Welcome to the Hotel California
ホテルカリフォルニア(Hotel California歌詞)
On a dark desert highway,
Cool wind in my hair,
Warm smell of “colitas”
Rising up through the air,
Up ahead in the distance
I saw a shimmering light,
My head grew heavy and my sight grew dim,
I had to stop for the night.
There she stood in the doorway,
I heard the mission bell
And I was thinkin’ to myself :
“This could be heaven and this could be hell”
Then she lit up a candle,
And she showed me the way,
There were voices down the corridor,
I thought I heard them say
Welcome to the Hotel California,
Such a lovely place,
(Such a lovely place)
Such a lovely face
Plenty of room at the Hotel California,
Any time of year,
(Any time of year)
You can find it here
(以上、マジックトレインより。)
大衆の考えを操作する人びとは、
自分の心を操作する悪の華から
泥の中の美しい蓮の花に乗り移ることは
もう出来ないほど狂ってしまったのだろうか。
一般市民の大部分を何も考える力がない、
だから何も出来ないと誤解した、
一般市民の大部分の考えを操作する人びとに贈る。
[Chorus: Don Henley]
“Welcome to the Hotel California
「ホテルカリフォルニアへよく来たな
Such a lovely place (Such a lovely place)
この素敵な場所に
Such a lovely face
あんたのような人が来るとは
They living it up at the Hotel California
誰もがホテルカリフォルニアで人生を謳歌してるんだぜ
What a nice surprise (What a nice surprise)
こいつは驚きだ
Bring your alibis”
どうしてお前はここに?」
[Verse 3: Don Henley]
Mirrors on the ceiling
鏡張りの天井に
The pink champagne on ice
氷で冷やされたピンクシャンパン
And she said: “We are all just prisoners here
Of our own device”
彼女が言った「私たちは自分の意思で捕らわれた ただの囚人」
And in the master’s chambers
They gathered for the feast
ご馳走にありつこうと 皆が支配人の部屋に集まり
They stab it with their steely knives
鋼鉄のナイフでご馳走を突き刺すが
But they just can’t kill the beast
あいつらに獣を殺せはしない
Last thing I remember, I was
最後に覚えてるのは
Running for the door
ドアへ走って逃げたこと
I had to find the passage back
To the place I was before
元いた場所へ戻ろうと 私は通路を探した
“Relax,” said the night man
「落ち着け」と警備が言った
“We are programmed to receive
「誰だって歓迎することになってる
You can check out any time you like
チェックアウトは好きに出来るが
But you can never leave!”
決して離れられないのさ!」
曲名 | Hotel California (ホテル・カリフォルニア) |
アーティスト名 | Eagles (イーグルス) |
収録アルバム | Hotel California |
リリース日 | 1977年 2月22日(シングル) 1976年 12月8日(アルバム) |