セリカ魂

「初代セリカに乗りたい!」
ゆっくり旧車ライフの備忘録

法蔵寺

2010年12月26日 02時00分00秒 | 歴史

新選組局長・近藤勇さんの首塚が近くにある?アニキに教えて貰ったのでお参りに行って来ました。クリスマスなんだけどな。
12時に自宅を出発して一般道で一時間半、岡崎市の本宿駅の近くにある「法蔵寺」さんに到着。

 

まず本殿にお参りしてから首塚を探して辺りを見回した。どうやら左手がそれらしい。

 

石段を上がって茂みの方へと進むと立て札があった。立て札といっても落下して傍に立て掛けてたけどね。
でもそこには「新撰組隊長 近藤勇首塚」の文字が!ん?「隊長」ですか?(;'∀')

 

一般の方のお墓を抜けたその先の一角が近藤さんの首塚として祀られていた。手前には由来を書かれた立て札があった。
 
近藤勇 首塚の由来
新撰組隊長近藤勇は慶応四年(明治元年)四月二十五日 三十五才で東京都板橋の刑場の露と消えました。
刑後、近親者が、埋められた勇の死体を人夫に頼んで夜中ひそかに掘り出してもらい、東京都三鷹の竜源寺に埋葬しました。
また、勇の首は、処刑後、塩漬にして京都に送られ三条大橋の西にさらされました。それを同志が三晩目に持出し、勇が生前敬慕していた新京極裏寺町の称空義天大和尚に、埋葬を依頼することにしました。
しかし、和尚は、その半年前、三河国法蔵寺の三十九代貫主として転任されていたので法蔵寺に運ぶことにしました。この寺は山の中にあり、大木が生い茂っていて、ひそかに埋葬するのに好適の地でした。しかし当時は世間をはばかって、石碑を土でおおい、無縁仏の様にして沓華していました。
そしていつか石碑の存在も忘れられてしまいました。昭和三十三年総本山の記録等に基づいて調査した結果埋葬の由来が明らかになりました。今回、石碑をおおっていた土砂を取り除き、勇の胸像をたてて供養することにいたしたのであります。         
法蔵寺  執事

近藤さんの首級の行方には諸説あるらしい。ここに近藤さんの首が眠っているのか定かではない。
石田神社でも同様に石田家の墓石を埋め隠して祀っていた。どちらも密かにされ過ぎて忘れ去られたという共通点。

首塚は出土した石碑と胸像が祭られているけどこの胸像、竜源寺・壬生寺・小島記念館とそっくり。
なるほど、同じ型から作られたそうだ。

 

石碑に添えられた戒名を見たら「貫天院殿純義誠忠大居士」とある。
これは土方さんが会津に建立した近藤さんのお墓と同じ。

 

胸像は他の近藤さんゆかりの地と同じ型。戒名も踏襲されているってことか。そこから他の史跡と協調していることが窺える。
「ウチが本物だ!」
声高に主張して対立してないってことかな。
ここを訪れて「商売っ気が無いな」と感じた。
「局長」が「隊長」だったりと突っ込み所はあります。歴史ファンがこだわる所に関心がない?客寄せに利用する気がない証に思えた。

 

時間はまだ14時過ぎ。長篠の戦いの史跡・長篠城を訪れることにしました。
法蔵寺から一時間程で到着。城跡の広場と土塁が残されてて傍には史跡保存館があった。

 

少し前にNHKで長篠の戦いを取り上げた番組があり、信長は鉄砲隊を活かす為に武田騎馬隊をおびき出す戦法をしていた。合戦の地は設楽原一帯なので分散してるはず。長篠城址は籠城戦での鳥居強右衛門の逸話がメイン。
米テキサスの「アラモの戦い」と共通点が多く友好の碑が。

 

帰路は陽も落ちてホーリーナイトです。
とにかく寒かった!



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