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少年事件の師匠、野口善國弁護士の名言に「『自分で』『見てて』」があります。
子育ての基本は、「自分で」と「見てて」。
お子さんは、なんでも自分でやりたがりませんか?
親が手を出すと、「自分で!」と嫌がるのは健康な証拠です。子どもにも、自分でトライして、失敗する権利があるんですね。失敗を何度も繰り返す中で学ぶ物があります。
子どもが自分でやるのを親が手を出しすぎて止めてしまうのには2パターンあります。なんでも「だめ!」という親と、なんでも「代わりにやって上げる」親です。
親が手を出しすぎると、子どもはだんだんアパシー=無気力、になります。鑑別所で出会うことも達で一番困るのは、アパシーになってしまている子どもさんです。「なにがやりたい?」「なにになりたい?」と尋ねて、たとえば、美容師!と答えてくれれば、そこがとっかかりになって、美容師になるためにはどんな勉強をしたらいいか、とか、美容師としてお客さんに接する際の心構えは、などという話が出来て、今回の非行をどうとらえるかという話に持って行けます。
ところが、なにもやりたくない、なんにもしたくないと言われると、内省のきっかけが難しいのです。
「自分で!」と、やりたがるお子さんのやる気を決して削いではいけません。
子どもがせっかく自分でやろうとしているのに手を出してしまう親の過保護、過干渉、それは、愛ではなく「執着」です。「子ども未来法律事務所通信2 子どもは親の所有物じゃない」で言いたかったことはそういうことでもあります。執着が行きすぎた姿が暴力などの虐待です。
他方、子どもは勝手に放っておいてほしいばかりではありません。大人に「見てて」ほしいのです。
運動会の徒競走で親に代わりに走ってほしい子ども、学芸会でせっかくの主演をやるのを止めてほしい子どもはいませんが、親が見ていなくていいと思っている子どももいません。子どもは「自分で」やるのを親に見ていてほしいのです。
自由放任の意味をはき違えるべきではありません。
愛とは関心を持つことです。愛の反対語は無関心なのです。親が無関心な時、子どもは親の愛のなさを痛感します。無関心が行きすぎた状態がネグレクト(無視 育児放棄)です。
愛の反対語は無関心。愛と最も程遠い姿が執着。
愛とは、ほどよい距離感で関心を持ち続けること。難しいようで、たぶん簡単ですよ、あなたなら。
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児童虐待相談5万超で20年連続増 20年連続過去最多更新
全国の児童相談所が平成22年度に対応した虐待相談の件数は5万5152件(速報値)で、集計を開始した2年度から20年連続で増加し、過去最多を更新したことが20日、厚生労働省のまとめで分かった。厚労省は、「大きな虐待事件の影響で社会の関心が高まり、相談や通報が増えた」とみている。
今回は東日本大震災で被災した宮城、福島両県と仙台市を除いて集計しており、3自治体を除く数値を前年度と比較すると28・1%(1万2090件)増。都道府県別では大阪府が最も多く7646件、次いで神奈川県の7466件、東京都の4450件と続いた。
20年4月施行の改正児童虐待防止法で児童相談所の権限が大幅に強化され、虐待の恐れがある家庭に児童相談所が強制的に立ち入り調査(臨検)もできるようになったが、実施は前年度から1件増の2件にとどまった。うち1件は、持病のある子供を医療機関に受診させないなど、ネグレクト(育児放棄)が疑われたケースで、立ち入り後は受診に児童相談所が同行することになった。
改正法では相談に応じない親に都道府県知事が出す「出頭要求」も出せるようになり、22年度は50件(児童数延べ72人)で、前年度の21件(同25人)から倍増。要求に応じず、再び出頭要求したケースも6件(同7人)と前年度の2件(同2人)から大幅に増えた。厚労省は「新制度の活用を呼びかけた効果が出ている」とみている。
また、21年度の虐待による死亡事例は、前年度の107件(128人)から77件(88人)へと減少したことが同日、児童虐待を検証する厚労省の専門委員会(座長・才村純関西学院大教授)の分析で分かった。
うち心中と心中未遂を除く47件(49人)で、児童相談所が事前に関わっていたケースが12件あることも判明。子供49人のうち身体的虐待は29人、ネグレクトが19人、不明が1人だった。
厚労省は「単年度で見れば死亡例は減少しているが、相談件数は増加しており、虐待そのものも増えているという指摘もある」として、依然厳しい状況にあるとの見方を示している。
このままではだめだと思っているのに虐待をやめられませんでした。
どこかに助けを求めることも考えましたが、怖くてできませんでした。
やめたいのにやめられないどん底の日々でした。
自分でも悪いと思っているからこそ止めたい、けれど相談も出来ないのですよね。
本当にありがとうございました。
お幸せをお祈りしています。
この記事で少し元気が出ました。
ありがとうございます。
自分に余裕が無いと、子どもの行動、言動に隠れた子どもの気持ちを考えて受け止めることが難しくなります。
毎回反省するけれど、同じ失敗を繰り返しているみたい。子どもに言ってはいけない言葉を発し、子どもも自分も傷つけて。。。
暴力こそふるわないものの、言葉でも、子どもの心を傷つける点では「虐待」に等しいんだろうと思います。
優先順位を考え直さなくちゃ。
・・・・どっかで耳に挟んだんだろうか、私。
少年事件などを通じて、実感を伴って『愛の反対語は無関心』とrayさんは感じられたのでしょう。
言葉を知っているだけでなく、言葉の意味の現実まで理解できるという点で、rayさんと、マザーテレサは、同じ感性を持たれているということでしょうね。
自分の弱さも、引き受けて生きていくことにします。
コメント、ありがとうございます。
あと、ロバート・キャパの「戦場カメラマンの最大の望みは、失業する事だ。」と。
たまたま、虐待しなくてすんだ私の子育て経験からいいますと、「付かず離れず」ですかね。
思いを溜めこまないでぶちまけましょう。但し、我が家のような絶叫家族にはならないように。
それから、rayさん、原田芳雄さん追悼記事書いてね。
実際に考えたことがなかったのではなく、この愛と憎しみの問題について洋の東西、すなわち歴史と文化、宗教、近代の社会科学、哲学、教育、政治など、色々な分野と個人、集団とコミュニテイなどにとって、決定的に重要なテーマだから、考えても分からないのが正直のところです。
しかし、このray様の「関心を持つことで無関心にならない」趣旨の視点は、確かにある。
「無関心が愛の対極にはなくても、問題点は関心を抱かれない子供が”愛されていないと直感的に自覚する常態に陥ること”だから、人間一般に対する不信を持ってしまう。
これを「スポイル」と称して、すなわち「子供が無視され、粗雑に扱われる結果として、心の中に自分が人の存在感として悪い子供だから、人間としての人格を自ら、及び他人の評価で求められる、レベル以下に入らると、知らない内に子供が自分に対して評価を下してしまう。
これが生育する中で、一種のトラウマとなって、心の底へ沈殿する。
これを生涯背負ってしまうと、悪い心、悪い態度、行動に走る結果を、齎す可能性があるので、大切な論点となってくる。
これを、英語(英語の訳80パーセントがラテン語の語源だから、西ヨーロッパの共通語と捕らえて良い)では、care aboutといって、愛の一般的な意義(意味)に用いる。
勿論、男女の性愛、ロマンチックな純愛とは異なり、一般的な概念の家族、友人、隣人などに用いられる言葉の用い方です。
しかし、さらに踏み込むと、このような愛を定義づける憎しみという対極的概念が出る。
深い愛情の愛と憎しみ、善と悪、評価の肯定と否定から罪と罰へ、さらに思想と哲学、宗教など固有の愛へ、またその反対概念へと展開して行くのです。
「愛のない世界は耐えられない」から、ギリシャではAGAPE(アガペ)となって、”神が人間に対し自己犠牲となる、宗教的な恩寵がキリストの愛となって、新約聖書に現れた。
また、仏教でも同様に、親鸞が「善人は救われて極楽に行くが、まして悪人をや」、とゴーダマジッダルダが悪しきを救う、仏典の教えとなっている。
しかし仏教では、諸悪の根源に、愛欲、愛着、渇愛、強い欲望が、人間の因縁となって迷う根源とされ、むしろ愛=欲は広い概念として、否定的に見られている。これは、一理、当たっていると言えよう。
いずれにしても、その先に博愛と人類愛が発展する。
これは並行して、世界戦争へと愛憎共に強化されてゆくので、人の迷いは尽きない。
この中にあって、日本の古典では、源氏物語で紫式部が「愛は子に過ぎたりといふこと無し」として、”親兄弟のいつくしみ合う心”を述べている。
広く、人間、生物などへ思いやりを抱くことが、古代に共通の大和の国、社会で、「おおらかな愛」の気持ちであった文学の一節でした。おそらく今日でも、日本社会、日本人の心に、同様の愛の概念があるものと思われます。
フロイドに発する近代の臨床心理学、児童心理学など、フランス学派の心理学に基づく、現代の心理療法、カウンセリングが発達してきました。その成果を導入して、日本でも利用する傾向にあります。
かくして、愛は永遠の課題でもあって、日常的であると同時に難題ですから、時の内閣総理大臣、文部科学大臣などに一言、お話を伺うのも悪くない。しかし、いづれにしも人間の信頼感がないところに愛はないので、”care about”の関心を抱いて、「もしも離れていたとしても、深い関心と失わない心の持ち方」が、欠かせない。これは、一般の人間関係でも、必要な人のあり方に相違ない。ただし、現代社会では、これが喪失の転換期に立っている。
そのためには、先ず第一に、生命財産を尊重する社会の基盤を、その根幹において確立することでしょう。この点に、不安が忍び寄っている事態は、世紀末的な世相を反映したものです。
この一番目に、原発危機の基本問題を解決する新しいテーマが、目の前に生じた。日本社会が向かう今後の進路を、定める時が来たものと思われます。愛と憎しみの問題は、個人の問題、子供の教育問題であると同時に、その基盤を確かめる課題でもある。
直近の重要な視点となって、これからの重大テーマが横たわっている。
迷える子羊様、ほか皆様。
cafeさん、professorさん、educationさん、politicsさん、academicさんなどなど最近コメントしてくださる方が一見増えたように見えるのですが、一体、ほんとは何人なのでしょうか。。。。。
まさかお一人がハンドルネームを使い分け??
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