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日本を代表する名優のひとり、西田敏行さんが76歳で亡くなられたそうですね。
だいぶ長い間、お体の調子が悪かったのか、顔色が悪いなあと思っていました。
先月母が亡くなってから、なんだかやたら父と母が夢に出てくるのですが、10数年前に亡くなった父とちょうど同じ年で逝かれました。
うちのブログでは福島県郡山市出身の西田さんが、2011年9月に同市で行われた東日本大震災の復興支援イベント「LIVE 福島 風とロック SUPER野馬追」に登場したというご紹介をしたことがあります。
このイベントで西田さんは
「このパワーを復興に向けた力にして頑張ろう」
と訴えたそうです。
いい人そうにテレビに出てきて、中身も本当にいい人だという珍しい方でした。
安らかにお眠りくださいm(__)m。
I love you&I need youふくしま いつか脱原発ソングを福山雅治と観客が大合唱する日
これも名優三國連太郎さんと主演をされた「釣りバカ日誌」や北野武監督の「アウトレイジ」シリーズなど、出演した映画も数知れずの西田さんですが、私が好きだったのは三谷幸喜脚本・監督で深津絵里ちゃんと共演した「ステキな金縛り」。
これ、一応法廷物なんですが、落ち武者の霊である西田さんがなぜか事件の唯一の目撃者かなんかで、この人?!に証言してもらわないと裁判に勝てない!という弁護士が深津絵里さんというね(笑)。
深津さん以外には見えていない。。。。西田さんがどうやって証言するのか!
でも、ほとんどの方がご存じないと思うのですが、私が西田さんの出演作品で忘れられないのは、TBSのドラマで「淋しいのはお前だけじゃない」。
市川森一脚本の1982年の作品だということですから、わたくし20歳、大学2年生の時に毎週14インチのテレビの前に座って、一話終わるたびに最後の西田さんの同名の歌を聞いて泣いてたんですなあ。
いま、実はÙ-NEXTで探し出して、第1話を見てきてしまいました。
なにしろ、42年も前に見たっきりだったので、なんで借金の取り立てる側と取り立てられる側の登場人物がみんなで旅芝居の一座を作って回ることになるのか、前からどうしてだったんだろうと思い出すたびに不思議だったんですよ。
西田さんの演技に思わず笑ってる梅沢富美男さんw
西田さんは泉ピン子さんと夫婦で街金(サラ金よりさらにグレードの低い金貸し)をやっている、かなりなクズの取り立て屋です。
私の記憶に残っているのは、たいしてその夫の西田さんに愛されずにきた泉ピン子さんがたぶん最終回で舞台に立ってですね、そん時のピン子さんが実に、実に美しかったんです。
それまで夫に大切にもされずに何の感動もなく生きていたピン子さんが、愛し愛されるだけでこんなに美しくなる。。。
人の美しさは見目麗しいかどうかという外形で決まるもんじゃないんですよね。
20歳の時に、なにか人生の真理の一片に触れた思いがしたもんでした。
この女性が人生で一番輝くあの瞬間に大泣きしたなあ。
で、第1話を見てみると、やくざの親分で大手のサラ金をやっている財津一郎さんが西田さんへ、自分の元から逃げ出して旅役者の梅沢富美男さんと駆け落ちして逃げた木の実ナナさんと梅沢さんに、2000万円の借用書を書かせて取り立ててこいと命じて。
西田さんが雪深い温泉街の芝居小屋まで取り立てに行ってみると、木の実ナナさんは西田さんが子どものころに山を越えて観に行った旅芝居の一座の座長の娘さんだったとわかる。
西田さんはその子どもの時に、アメリカ製のチョコレートをくれて、一銭もないのにお芝居を見せてくれた座長真屋順子さんへの恩返しとばかりに、一世一代の大芝居を売って財津さんから梅沢さんと木の実さんを逃がしてやろうと決心をする。。。
それが第一話でした。
この第一話の前半で、西田さんが暴利で取り立てている債務者が次々と出てくるんですが、河原崎長一郎さんとか、矢崎滋さんとか、橋爪功さんと萬田久子さん夫妻とか、いずれ劣らぬ風采の上がらぬ貧乏人の面々(笑)。
その、今日出てきた役者さんの中では、なんと梅沢さんが一番の大根でした(笑)。
テレビドラマの撮影にまだ慣れていなかったんでしょうね、既に貫禄の西田さんと木の実さんに挟まれて割とひどいことになってますw
そして、当時は今と違って出資法の最高金利が4割以上だわ、貸金業法が整備されていなくて無理な取り立てがし放題だわで、そういう世相もうまく描かれています。
なにしろ市川森一さんは山田太一さんとならぶ社会派の書き手で、ウルトラマンの脚本なんかも書いていて、このドラマの第一話にもそれらしい場面が出てきます。
ちなみにこの「淋しいのはお前だけじゃない」、地味すぎて視聴率が上がらず、落ち込む市川さんを山田太一さんが激励して完走させ、後にこの作品で第一回向田邦子賞を受賞したとさっき読んだウィキペディアに書いてありました。
戦争とその直後の日本人の貧しさを知っている人たちがテレビを作っている、そういう時代でした。
追記
忘れてました!
三谷幸喜に匹敵する天才、宮藤官九郎脚本でTOKIOの長瀬君の引退作品になった「俺の家の話」。
これも西田さんが素晴らしかった。泣きました。
「池中玄太80キロ」も良かったよね~
人間、元気で長生きせなあかんな!憎まれっ子、世にはばかれ!!
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映画「釣りバカ日誌」シリーズやNHKの大河ドラマ「翔ぶが如く」など、数々の映画やドラマで幅広い役柄を演じてきた俳優の西田敏行さんが17日午後0時半すぎ、東京 世田谷区の自宅のベッドの上で倒れているのが見つかり、その場で死亡が確認されたということです。76歳でした。
西田さんは福島県郡山市出身で、1970年に劇団青年座に入団、その後、映画やテレビで人間味あふれる役から暴力的な悪役まで幅広く演じる俳優として活躍しました。
1993年に公開された山田洋次監督の映画「学校」では夜間中学の生徒をまとめる教師を演じ、日本アカデミー賞の最優秀主演男優賞に選ばれたほか、映画「釣りバカ日誌」シリーズでは、釣りをこよなく愛するハマちゃんを演じ、人気を集めました。
また、NHKの大河ドラマでは1990年に放送された「翔ぶが如く」で西郷隆盛を、「八代将軍 吉宗」でも徳川吉宗を演じるなど多くの作品に出演しました。
歌手としても温かみのある歌声で聴かせる「もしもピアノが弾けたなら」がヒットし、紅白歌合戦に出場したほか、バラエティー番組でも幅広く活躍し、人気を集めました。
警視庁によりますと、17日午後0時半すぎ、東京 世田谷区の自宅のベッドの上で倒れているのが見つかり、その場で死亡が確認されたということです。
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昔、山嵐役で、迫力のおっぺけぺ節も披露してましたね。
坊ちゃんが竹脇無我、のだいこが小松政夫?!
いろんな坊ちゃんがごっちゃになってるかな笑笑
「白い巨塔」で西田さん扮する財前又一の名言を思いだしてたところです
西田さんは「二枚目」とも「マッチョ」とも違う役者さんのステイタスを確立したお一人だと思います
それは常連だった大河ドラマの配役ロールの扱いに表れてますね
1977年の「花神」の山県狂介役以外では、他にどんな大スターが出演していようと「トメ(最後に名前の出る人)」の座を譲らなかったようです
と思ったら1988年の「武田信玄」の山本勘助役では北条氏康役の杉良太郎にその座を奪われたようですが、それ以外は鶴田浩二や世界のミフネでさえ中ドメに押しやるほどのVIP待遇でした
でも76歳は早すぎますね
凄く意外です。
ドクターXの蛭間院長か!笑笑
私が子どもの頃に視た「池中玄太80キロ」の西田さんの姿は今でも覚えています。
「鶴」にこだわるカメラマン役で、所属の雑誌のキャップ(長門裕之さん)とのぶつかりや、娘役の杉田かおるさんとのやり取り…不器用ながら一生懸命な姿を演じる西田さんに、幼いながらも強い印象を受けました。
番組スピンオフの、西田さんの「もしもピアノが弾けたなら」や、杉田さんの「鳥の歌」がヒットし、歌番組にも出演されましたね。
また、西田さんは俳優組合の理事長をされ、俳優たちの待遇向上にも尽力されておられました(「弁護士ドットコム・ニュース」に記事があります)。
ご冥福をお祈りいたします。
>ブログ主さん
>戦争とその直後の日本人の貧しさを知っている人たちがテレビを作っている、そういう時代でした。
昔は、今に比べれば稚拙だったかも知れませんが、熱意がすごかったように思います。
バラエティ番組は生放送でしたし…あの緊張感は「今は昔」になってしまいましたが…
でも、当時は今でいうパワハラ・セクハラ等の暴力が当たり前だったことには留意が必要ですね。
「池中玄太83キロ」
になってたのは笑いました。
あの頃のドラマでいつも気の強いヒロイン役だった坂口良子さんもよかったなー
第6話だけ権利関係の問題で放映出来ないということで予告編だけだったんですが、もう全13話中8話まで来てしまいました。
今から3分の1以下の年齢だった二十歳のときと同じかそれ以上に夢中になってみていまして、今も第8話であんまり泣いてしまい、書斎に頭を冷やしに来ました。
東大に入って漠然と弁護士になろうと思っていたけど、なんとなく、自分もこの債務者の群れ(笑)と同じくうだつがあがらない、日の差すところに縁などない人生のような予感がしてたんかもしれんなあ。
出てくるどの人もどの人も、なかなかに人生が難しい。
もちろん天使でもなければ悪魔でもない生身の人間、いろいろ問題だらけだけど、市川森一さんの目線はどこまでも優しく、20歳でも62歳でも泣いてしまう、本当に素晴らしい作品でした。
この作品がやはりテレビドラマ初出演だった梅沢富美男さんも西田さんたちに支えられたらしく、ちょっとずつ上手になってます。
大衆演芸の舞台の場面ではそれはそれは見事なのに、普通に話している(ように見せる)ってことがいかに難しいかなんですね。
『梅沢富美男 西田敏行さん訃報に沈痛…「ただただ驚いている」 ドラマ共演「彼こそ300人に一人の役者」』
[ 2024年10月17日 17:07 ]
俳優の西田敏行さんが東京都内の自宅で死去したことが17日、分かった。76歳だった。訃報を受け、俳優の梅沢富美男(73)が自身のインスタグラムを更新し、故人を悼んだ。
梅沢は「西田敏行さんの訃報にただただ驚いています」と胸中を吐露。「僕がドラマデビューしたとき すでに大スターだったのにすごく仲良くしてくれたあにさん」「舞台 テレビ 映画にナレーション ミュージカルまでなんでも出来たあにさん」と西田さんとの思い出を記した。
「彼こそ300年に一人の役者でした また共演したかった 残念です ご冥福を心よりお祈りいたします」と故人を悼んだ。
二人は1982年放送のTBS系ドラマ「淋しいのはお前だけじゃない」で初共演して以降、親交が深かった。
次のインタビューに淋しいのはお前だけじゃないの話が出てこないのが本当に淋しいのですが(笑)。
第8話もほんまに夫婦役のお二人がよかった。
めっちゃ泣きました。
泉ピン子さん、西田敏行さんに聞いた財布の中身 嗚咽「名優だった」
聞き手 編集委員・後藤洋平2024年10月18日 5時00分
1947年生まれの同学年で、駆け出しの頃から西田敏行さんと共演を重ねて公私ともに親交があった泉ピン子さんが17日、朝日新聞の取材に応じて思い出を語った。「西田君」「西やん」「敏ちゃん」「あの人」「あの男」……。西田さんについて語る時、泉さんは様々な呼び方で優しくその名を口にして、インタビュー中に何度も嗚咽(おえつ)。「お互いに貧乏な時から、何でも言い合って生きてきたのよ……」と声を絞り出した。
長い、本当に長い間、一緒にいた親友でした。私が結婚した時、最初に夫を連れて行ったのは西田君の家。見定めをしてもらったんです。西田君は夫に「そんなかしこまったスーツを着る必要ないから」って言って、作務衣とげたを出してきた。その格好で、みんなで一緒にすし屋に行ったんです。
「妻がピンちゃんのファンだからウチに遊びに来てくんないか」。若手の頃にそう言われて初めて招かれた時、夫妻は2間のアパートに住んでいました。お互いに貧乏だった。
言いたいことも言い合った。もちろん、けんかもした。あの人、すごく調子がいいから、プライベートな約束はなんでもすぐに安請け合いするのに、当日になって「やっぱり行かない」なんて言い出すドタキャン男の一面もあるんです。だから、わざと「来なくていいよ」と言ったら来るんですよね。
「ピンちゃん、最後まで独身だったらウチの屋根裏に住んでもいいよ。飯ぐらい食わせてあげられるから」。大きな家を買った時、まだ独身だった私に、そう言ってくれたこともあった。
初めて彼に会ったのは76年、「いごこち満点」というTBSドラマでの共演がきっかけでした。制作陣から「お相手役は新劇の役者です」って聞いていたから、こっちは「どんな山崎努さんみたいな男前がくるんだろう」って思ってたら、東北なまりの「西田敏行です」ってあいさつで、あの男がやってきた。
二人であの人に食事をおねだり
とにかく、それ以降は彼との共演がめちゃくちゃ多かった。NHK大河ドラマ「おんな太閤記」(81年)では、私が演じたあさひが死ぬシーンで敏ちゃんが「あさひ~!」って抱きしめるんだけど、その時私本当に泣いちゃって。そしたら「死んだ人間は泣かねえだろう!」って怒られた。でも実際にはあの人が私の顔が映り込まないように抱きしめてくれたのでOKをもらいました。
同じ頃に彼の「もしもピアノが弾けたなら」がヒットした時、「生放送の番組で花を持ってきてくれ」と頼まれた。その番組放送後に「せっかくだし、ウチに寄って帰りなよ」と言われて行ったら、娘さんに「ピン子姉ちゃん嫌い。番組でパパの横に立ってて、まるでママみたいだったから嫌い」って言われたこともありました。
実は私がテレビ朝日の「ドクターX」に出るようになった時、奥さんから「トシはピン子さんの言うことだったら聞くから、お酒を飲ませないで」と言われていたの。当時から体調が悪い時があった。でも、私はあのドラマはシーズン4からの出演だったから遠慮して「飲んじゃダメ」って言い出せなかった。何より、西やんは米倉涼子さんや岸部一徳さんとの交流を楽しみにしていただろうし、米倉さんがどれだけ西やんのことを慕っていたか。そしてそれは、本人にも伝わっていたと思う。ご家族は当然だけれど、米ちゃんをはじめ、「ドクターX」のメンバーも本当にショックでしょうね。
私も男女とか共演者の関係ではなく、もう完全に人と人との付き合いで親友だった。日劇のワンマンショーに初めて出演した際、東宝の人に「垂れ幕で『西田敏行友情出演』って書いてほしい」と言ったんです。でも「西田さんはそんなに有名じゃないから、そんなことは出来ません」と断られた。でも、次の年ぐらいには日劇で「西田敏行ワンマンショー」をやってたんじゃないかな。芸能界って分からないですよね。
あの人、適当な即興の歌を作るのもうまいのよ。私のワンマンショーで出てもらうと、西田君の即興にお客がすずなり。劇場前に献血の車が来ている日には「献血の歌」みたいなのを作っちゃう。それがめちゃくちゃ面白いんです。だから演奏が終わったバンドさんも、西田君のそれを見たくて引っ込まない。ある日、舞台を降りてきたら「ピンちゃん、前から3列目に渥美清さんが来てるよ」と教えてくれた。私たちが憧れていた渥美さんが見に来てくれた思い出です。いつも一緒だったなぁ。
彼がどんな俳優だったか、それはもう「名優だった」としか言えない。具体的にどういうところがなんて……もう全部ですよね。
初めて会った時から、いい意味でいい加減で先輩にかわいがられた。山城新伍さんにもそうだし、森繁久彌先生にも、ものすごくかわいがってもらっていた。
TBSの「三男三女婿一匹」っていう、森繁先生主演のシリーズ(76~80年)では私、西やんと夫婦役だった。まだ2人とも駆け出しだった頃です。ある時、森繁先生が「僕の出番を減らしてでも、西田とピン子の出番を増やしてくれ。あの2人は必ず売れるから」って言ってくれたんですよね。
当時の私たちの会話といえば、「敏ちゃんあんたいくら持ってる?」「800円。ピンちゃんは?」「1千円……」みたいな、いかに自分が貧乏かということばかりだった。「きょう1日どうやって暮らそうか」と思っていたら、敏ちゃんが「おじいちゃん(森繁さん)のところに行って、ごはんをねだろうよ!」って言うんだよ。で、2人で「ごはんをごちそうしてもらえないでしょうか?」ってお願いに行った。
森繁先生は「もちろんいいぞ。何がいい?」って優しかった。最初はうなぎ。翌週からは先生のほうから「今日は何が食いたいんだ?」って聞いてくれるようになった。2人してステーキ丼とか食べさせてもらってね。
西やんは「屋根の上のヴァイオリン弾き」の主人公テヴィエ役を先生から引き継いでいますよね。あの仕事の依頼が来た時に私、「おじいちゃんのところに報告に行ったほうがいいよ。絶対に『やれ』と背中を押してくれるはず」と言いました。そして彼は最初に先生のところに報告と相談に行って、舞台での彼の代表作になりました。
一度始めると、作品が長いシリーズになる役者でした。それは演技力が評価されたこともあるだろうし、人柄も備わっていたからでしょう。
同じ時代を歩んだ人生で、なんでも相談した仲でした。とにかくお金がなくて、若かった頃から。
でも、今実感するのは、やっぱりみんな死ぬのねということです……。きっと次は私ですよ。だから、「待っててよ」って思います。そんなに長くはかかんないから、その時がきたら、橋田(寿賀子)先生も、西やんも一緒に、迎えに来てほしい。もちろん今は嫌よ。でも私もきっと、もうちょっと経ったら行くと思いますので。(聞き手 編集委員・後藤洋平)
西田さん良すぎる!!
他の共演者もいい!
「クイズダービー・3択の女王」竹下景子さん!
「青大将」田中邦衛さん!
(「青大将」は、現役どころか出生世代ではありません、悪しからず)
あと、端役が豪華すぎ!
知られた役者さんが多くチョイ役で出演されていまししたね(以下、略)
その他他…
山田洋二監督にとっても渥美清さんとは違ったキャラですが、渥美さん、西田さんは監督にとってはお二方とも唯一無二だったのかと
(「学校Ⅰ」にもチョイ役で渥美さんが出演されてましたね)
以下、余談ですが
役者で、現ETV「バリバラ!」ナレーターの神戸浩さん
「学校1」にも出演されたましたが「学校2」での神戸さんの様々な熱演に圧倒され、感動てしまいました。
当該作品で、日本アカデミー賞で受賞されました
「西田さん」つながりで、あっちこっちいって、…(^^;)