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ノルウェーのノーベル賞委員会は2024年10月11日、2024年のノーベル平和賞を日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)に授与すると発表しました!!!!
日本被団協は広島と長崎の被爆者の全国組織で、原爆投下の11年後の1956年に結成されました。
当時は、日本のマグロ漁船「第五福竜丸」の乗組員が、太平洋のビキニ環礁で行われたアメリカの水爆実験で被ばくしたことをきっかけに国内で原水爆禁止運動が高まりを見せていました。
その核兵器の非人道性を広めるための草の根運動が評価されたもので、本当にめでたいです。
ノーベル賞委員会のフリードネス委員長は授賞理由として
「核兵器のない世界の実現に向けた努力」
を挙げ、
「核兵器の使用がもたらす人道的惨事に対する認識を高めるために尽力してきた」
と語りました。
もう20年以上前のこと、ノーベル賞が今年こそ授与されそうだということで、今は亡き被爆医師肥田舜太郎先生らが東京都大田区の日本被団協の本部に詰めて、受賞の一報を待ったけど空振りで、肥田先生が苦笑いをされたという一夜もあったのですが、今年はどうだったんでしょうね。
とにかく被団協がノーベル平和賞に推薦されるようになってかれこれ30年近くて、それこそ今年もノーベル文学賞の受賞を逃した村上春樹さん以上に待ちぼうけを食わされてきたので、今年は本部に誰もいなくて写真が取れないで新聞社やテレビ局が困っているかもしれません。
今ごろ、田中熙巳さんたちがおっとり刀で本部に向かっていたりして。
私と日本被団協の関りを思い返せば、それは1981年。
東京大学に合格して1年生の時に、8月6日と9日に広島・長崎に読書会で訪問して、被爆者のお話を伺わせていただいたのが最初でした。
秋には、当時、日本被団協が進めていたアメリカの原爆投下の国際法違反性を追及する「国民法廷運動」に参加して、駒場祭で
「STOP THE 核兵器 国民大法廷」
という法廷劇をしたんです。
あのとき、日本被団協の本部で元になる脚本をいただいたり、一橋大学社会学部の濱谷正晴教授や栗原淑江先生のご指導をいただいて、なんと脚本わたくし、演出わたくし、音楽わたくし、主演わたくしを含む東大生という法廷劇をやったのです。
あの頃の先輩たちはみんな良い方で、被爆者・国民側代理人弁護士は我々1年生にやらしてくださって、その感激で1年生はみんな人権派弁護士になりました。
敵役の政府側代理人弁護士役をしてくれた2年生はみんな学者になり、照明や道具係をやってくれた仲間はみんな裁判官になったという、見事な人生模様になったものです。
被爆者たちの戦後50年 (岩波ブックレット NO. 376)
弁護士になってからも核兵器による威嚇と使用は国際法違反であると国際司法裁判所の勧告的意見を勝ち取った「世界法廷運動」などでも、いつも被団協の被爆者の方々とはご一緒してきました。
関西にいたころは原爆症訴訟にも関わらせていただきました。
その日本被団協は、結成以来68年間にわたり、被爆者の立場から核兵器廃絶を世界に訴える活動や被爆者の援護を国に求める運動を続けてきました。
いつも賢く、謙虚な被爆者の方々が世界各地の平和運動で要になってこられたのを見てきた私たちには感慨ひとしおです。
もう平均年齢が80歳以上になった被爆者の皆さん。
なんとか生き残りの方がおられる間に念願のノーベル平和賞受賞がかなって本当によかったです。
おめでとうございます!
日本被団協は、原爆被害の実相を伝えるため積極的に海外に代表を派遣し、1982年には代表委員の山口仙二さんが、国連の軍縮特別総会で被爆者として初めて演壇に立ちました。
エセ「核のない世界」を看板にしていた岸田首相が辞めたとたんに、本物の核廃絶のために努力されてこられた被爆者の団体である日本被団協がノーベル平和賞を受賞したのも痛快です。
日本被団協が最も強く批判するであろう核共有が持論の石破茂首相、ノーベル平和賞受賞を祝う談話かなんかを発表した際に、日本被団協の被爆者の方々からこっぴどく怒られたらいいんです。
いま、ウクライナ戦争で核大国であるロシアがウクライナに核兵器を使うぞと威嚇をしまくる中、核の恐怖、原爆投下の地獄を味わってこられた被爆者の方々の存在と声はますます世界で重要です。
ぜひいつまでもお元気で、私たちを導いてください。
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ことしのノーベル平和賞は、被爆者の立場から核兵器廃絶を訴えてきた日本被団協=日本原水爆被害者団体協議会が受賞することになりました。核兵器のない世界を実現するための努力と核兵器が2度と使用されてはならないことを証言によって示してきたことが受賞理由となっています。日本のノーベル平和賞受賞は、1974年の佐藤栄作元総理大臣以来、50年ぶりです。
目次
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【ライブ配信中】
68年間にわたり核兵器廃絶 世界に訴える活動
日本被団協は、広島や長崎で被爆した人たちの全国組織で、原爆投下から11年後の1956年に結成されました。
当時は、日本のマグロ漁船、「第五福竜丸」の乗組員が、太平洋のビキニ環礁で行われたアメリカの水爆実験で被ばくしたことをきっかけに国内で原水爆禁止運動が高まりを見せていました。
日本被団協は、それから68年間にわたり、被爆者の立場から核兵器廃絶を世界に訴える活動や被爆者の援護を国に求める運動を続けてきました。
東西冷戦のさなか、国連の軍縮特別総会に3回にわたって代表団を派遣し、被爆者が、みずからの体験をもとに「ノーモア・ヒバクシャ」と訴え核兵器の廃絶を迫りました。
また、国連や世界各地で原爆の写真展を開くなど地道な活動を続け、原爆投下から60年となる2005年のノーベル平和賞の授賞式では、ノーベル委員会の委員長が、日本被団協について「長年、核廃絶に取り組んできた」と敬意を表しました。
核兵器の開発や保有などを法的に禁止する核兵器禁止条約の交渉会議では、日本被団協が中心となっておよそ300万人分の署名を集め採択を後押ししました。
その後はすべての国が条約に参加することを求める「ヒバクシャ国際署名」を続けておよそ1370万人分あまりの署名を国連に提出。
また、核兵器禁止条約は2021年1月に発効し、おととし6月にオーストリアで開かれた初めての締約国会議では、日本被団協から派遣された被爆者が核兵器廃絶への思いを訴えました。
近年では新型コロナウイルスの影響や被爆者の高齢化によって被爆体験を伝える催しの中止や縮小を余儀なくされてきましたが、オンラインを活用して被爆者の証言を伝える取り組みにも力を入れています。
ノルウェー・ノーベル平和委員会は、日本被団協の受賞理由について、核兵器のない世界を実現するための努力と核兵器が2度と使用されてはならないことを証言によって示してきたことが評価され、平和賞の受賞に至ったとしています。
日本のノーベル平和賞は、非核三原則を表明し、NPTに署名をした佐藤栄作元総理大臣が1974年に受賞して以来、50年ぶりです。
受賞理由は
ノルウェー・ノーベル平和委員会は、日本被団協の受賞理由について、核兵器のない世界を実現するための努力と核兵器が2度と使用されてはならないことを証言によって示してきたことが評価され、平和賞の受賞に至ったとしています。
その上で、広島と長崎の被爆者の証言は世界中で核兵器に対する広範な反対意見を生み出しそれを強化するのに貢献してきた。
被爆者は筆舌に尽くしがたいものを描写し考えられないことを考え、核兵器によって引き起こされた理解を超えた苦痛を何とか理解する手助けをしてくれます。
日本被団協をはじめとする被爆者代表の並々ならぬ努力は核兵器使用のタブーの確立に大きく貢献した。
日本被団協は、何千もの証言を提出し決議や公開アピールを発表し毎年、代表団を国連やさまざまな平和会議に派遣し核軍縮の緊急性を世界に訴え続けてきました。
記憶をとどめるという強い文化と継続的な取り組みにより日本の新しい世代は被爆者の経験とメッセージを継承しています。彼らは世界中の人々を鼓舞し教育しています。彼らは核兵器のタブーを維持することに貢献しています。
被団協 箕牧智之代表委員「本当にうそみたい」
ことしのノーベル平和賞に日本被団協=日本原水爆被害者団体協議会が選ばれたことを受けて箕牧智之代表委員は、「本当にうそみたいだ」と涙を流して喜びました。
日本被団協の箕牧智之代表委員は、広島市役所でノルウェーのオスロで行われたノーベル平和賞の発表の様子をネットの配信を通して見守りました。
日本時間の午後6時ごろに日本被団協がことしのノーベル平和賞に選ばれたことが発表されると「夢の夢。うそみたいだ」とほおをつねって、涙を流して喜びました。
その上で、ともに核兵器廃絶を訴える活動を行い3年前に亡くなった箕牧さんの前の広島県被団協の理事長で、日本被団協の代表委員だった坪井直さんについて「坪井さんのようにこれまで活動してきた被爆者も喜んだと思う。お墓に報告に行きたいと思う」と話していました。
また今後の活動について問われると「引きつづぎ核兵器廃絶、恒久平和の実現を世界のみなさんに訴えていきたいです」と話していました。
被団協事務局長 木戸季市さん「先輩たちの顔が次々と浮かぶ」
被団協の事務局長を務める岐阜市在住の木戸季市さんは「核兵器禁止条約の採択と発効を被爆者が実現させた。そういう働きに対する受賞だと思う。広島・長崎の反人間的行為から始まって、アメリカからは弾圧され、日本政府から長い間見捨てられた。その心の悩み、苦しみとあらがいながら再び被爆者をつくるなという願いでやってきた先輩たちの顔が次々と浮かぶ」と話していました。
被団協 九州ブロック代表理事 中村国利さん「大変うれしい」
1歳の時に長崎市の飽の浦町の自宅で被爆した日本被団協の九州ブロックの代表理事、中村国利さんは、NHKの取材に対し、「大変うれしいです。核兵器禁止条約はじめ、核の非人道性を訴えてこれまでずっと活動してきたのが評価され、こんなにうれしいことはありません。みなさんのご支援のおかげです。これからも核兵器をなくすように、戦争も核もなくすように頑張っていきます」と話していました。
長崎 「高校生平和大使」や被爆者から驚きの声
被団協がノーベル平和賞を受賞することが決まったことがわかると、「高校生平和大使」や被爆者からは、驚きの声が上がり、全員で発表を真剣な表情で見守っていました。
海外メディアも速報で伝える
イギリスのBBCやアメリカのCNNなどの海外メディアも日本被団協=日本原水爆被害者団体協議会がノーベル平和賞に選ばれたと速報で伝えました。
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ノーベル平和賞の価値がドーンと下がってから、ちょうど50年ですか。
「音楽わたくし」とのことですが、おこのみの音楽はなんでしょうか?
音楽は普段はJ-POP、寝る時はバロックという極端な趣味ですが、この時はもちろん、原爆許すまじ、や、明日への伝言、などの原爆投下にまつわる曲ばかりを使いました
良い出会いのある良い青春時代でした
私、一時期ですが埼玉県原水協の活動に携わっていたことがあり、肥田舜太郎先生とも田中煕巳さんとも何度かお会いしたことがあり、感動の涙を禁じ得ませんでした。
しかし、あまりにも遅い受賞であったという感もぬぐえません。せめて肥田先生がご存命中に受賞してほしかったと思います。100歳までがんばられたのですから。
肥田先生は、最晩年には福島の原発事故避難者のための活動に力を尽くし、お亡くなりなる直前まで核兵器禁止条約の交渉の行方を案じていらしたとうかがっています。条約成立の前に亡くなられてしまったのも残念でしたが、ノーベル賞受賞にも間に合わなかったのが悲しいです。
多くの人が思いを馳せていると思いますので、天国の肥田先生に届いているとよいと思います。
改めて、お祝いの記事をありがとございました。
肥田舜太郎先生は本当の歴史に残る大人物でした。
広島の肥田舜太郎先生と長崎の山口仙二さん、特に特に記憶に残る傑物でした。
それに引き換え、田中煕巳さんは実務家型の堅実な方で、長く被団協事務局長を務められましたが、個性豊かな被団協のメンバーや周りの団体の我々に右往左往させられて(笑)。
次に書いた記事に田中さんが出てくる記事がいっぱい引用できたのですが、お元気そうで本当によかったです。
石破首相とも電話で直接話されたようですね。
肥田先生は俗世間から超越された方でしたから、ノーベル平和賞なんてあまり重要視されていませんでしたが、我々が大喜びしているのは目を細めて天から眺めておられると思います。
スクウォッター師匠にもおすすめいただいたので、山口さんのことを含めて近いうちにまた書いてみたいと思います。
そして、被爆者自身が核廃絶を訴える、並大抵のことじゃないですよね。
でも、残念ながら、核廃絶はまだまだ…
後続世代がその意志を受け取って、もっともっと頑張らなければいけない、と襟を正すための「受賞」でもありますね。
「ノーベル」でなく「ノーモア」で
ノーモア・プーチン !
ノーモア・シオニズム!
https://www.nobelprize.org/prizes/peace/2024/press-release/
委員会は、80年近くもの間、核兵器が戦争で使われていない現実を、被団協や被爆者の尊い努力によってなされたものと評価をした。そして、「肉体的な苦しみやつらい記憶にもかかわらず、犠牲の大きい経験を生かして平和への希望と関与を育むことを選んだすべての生存者に敬意を表したい」とのことである。
その一方で、核兵器使用のタブーが圧力を受けていることを憂慮している。その現実は核兵器廃絶の道はまだ遙か彼方にあると言わざるを得ない。また、ロシアによる核の恫喝に対して何ら批判を加えない一部の自称護憲派の思考の歪みを見るにつけ、日本の平和運動も改善されるべき点があるように思う。
ともあれ、委員会のプレスリリースに賛同すると共に、関係者の皆様に祝意を表したい。