私の轍 WatashiのWadachi 第16回

2022-07-07 10:36:58 | 日記
私の轍 WatashiのWadachi 第16回

④ 教員との闘い 留年をめぐって
頭の痛いことも当然あった。国旗・国歌問題がその一つだが、この学校ではそれなりの妥協点がみつかっていた。しかし、留年に対する考え方は、それぞれの教員の教育観に応じて実に多様である。教科担当者は出席時数と学習成績によって成績を評価し、当該教科の単位を認定する権限をもっており、進級・卒業のためには、各学校で定められている単位を取得しなければならない。生徒の中には、教科内容が不得手・苦手ゆえ単位を落とす場合もある。しかし生徒指導上の問題が出欠や成績に影響を及ぼす場合も少なくない。
 問題は、単位認定についての各教員の考え方がバラバラであることだ。もちろん内規や申し合わせでできるだけ齟齬が無いように努めているが、最後の判断に迫られたとき、生徒の「自己責任」と考えるか、何とかしようとするかは、いわば各教員の教育観に任されているといっても過言ではない。すでに「平野高校」のところで述べたが、3年生の卒業認定に関して、疑義を提出して論争を引き起こした。平野の場合では、生徒実態等から何とかすべきだろうと思う教員も少なくなかったと思われ、内規の見直しにまで及んだ。
 ところが、この学校の判定会議には驚いた。単位不認定による留年者が予想以上に多かった。形式でいうと、教員の判定会議結果を校長が認めることによって進級-留年が決定する。
各学期ごとに、「この生徒は、こんな状態ですよ」という情報交換を行い、担任等は指導の参考にする。最終の判定会議には、それでも無理と判断された生徒名があがる、と私は思っていた。甘かった・・、なんと、多くの生徒が不認定になっていた。私は、「認められない」と宣言したところ、多くの教員からの反論は、結局は「自己責任」だった。若いころの論争を思い出す。「馬を水飲み場に連れていくまでは教員の責任ですが、水を飲むか、飲まないかは馬次第です」
生徒は馬ちゃうゾ。水が欲しくなるような引っ張って行き方が、教師のスキルじゃ!
 のちに、ある教員から言われた。「あの時の校長、片手をズボンのポケットに突っ込み、目線鋭かった」 スイマセン、育ちがあまりおよろしくないんで。結局、何人が助かったかまでは覚えていない。しかし、直後の選抜試験で、冒頭にあげた全員合格が明らかになり、教員の学力に対する危機意識も高まったのか、学年主任の教員が、「校長の意向は理解されていたので、できるだけ不認定をださないよう努力しました」と言ってくれた。
 この論議を経て、上述の取り組みにつながっていったと思っている。

  ちょっと自慢
(大阪の教育専門ジャーナル紙 「教育タイムス」記者の取材感想記事 2001.11.26)
「高校教育の新しい流れ」
 先日、大東市人権教育協議会主催の研修会で、高校の教育について、野崎高校と大東高校の先生の話を聞きました。ここ数年、変化していることを知らなかったので、少し驚いて帰ってきました。7~8年くらいまでの大東高校は、どちらかといえば暗い感じの学校でした。学校の中もゴミがよく落ちていたし、汚い感じでした。私の子どもが通っていたころは、先生たちも「大東の生徒は勉強しない。これじゃあ大学に行けないのも当たり前だ。もっとましな子を送ってきてくれ。地元集中なんていらん。内申の低い子は敬遠」といった感じでした。 
 ところが今回話を聞いた先生からは全く違う印象を受けて帰って来ました。まず、大東の中学の先生たちの取り組みのおかげで、大東と野崎が協力して高校の統廃合に立ち向かってがんばれているんです、という言葉から始まって、とても精力的な話になりました。元気が出る話でした。九九ができない生徒に7限目を作って教え込んでいるそうです。また大学受験者には、0時間目があって、早朝学習だそうです。私は、九九が出来ない中学や小学校が問題だというより、高校で7時間目に勉強しているということにすくなからず感動しました。子どもたちは「あきらめていない」という感じがしました。高校の先生も子どものニーズによく応えているからでしょう。子どもたちの「学びたい」という思いがなんとなく感じられる話でした。・・・

私の轍 WatashiのWadachi

2022-06-10 21:48:52 | 日記
私の轍 WatashiのWadachi 第15回

このブログの読者へ  5月末に 第12回の平野高校以来、全然アップされていない、どうなっているのかという疑念をお持ちの方も少なくないかと思います。それ以降の大阪府教育委員会時代について、第13回と第14回の原稿を投稿したのです。しかし、「アフェリエイト、商用利用、公序良俗」にかかるgooの規定にひっかかり、公開できないというのです。どこがどういけないのかは示されません。そら、いろいろ書きましたよ。委員会業務の幅広さ大変さ、体質の問題、上司との意見衝突、おかげで健康を損なうどころか、命さえとられかけた話とか・・また何かの折に読んでいただく機会もあるでしょう。このままでは進みませんので、次 行こう!

第4章 校長時代 1校目 大東高校

2000年4月、校長として現場への転出が命じられた。大東高校どころか、JR学研都市線でしか行けない大東市にもあまりなじみがない。守口で生まれ育ったので、京阪沿線の街のほうがよほど知っており、近場でないことに少しがっくりした。羽曳野から通うには1時間半かかる。懲戒でも停学以上は校長が申し渡すことになっており、バスの始発が6:43だったので、まず生徒指導部長に要請したのは、「8時の校長申し渡しは無理だ。8:15にしてくれ」という通勤事情だった。不安を抱きつつも、現場復帰できる、高校生の顔が見れることに期待して赴任した。
ところが、大東高校校長の初年度と2年目、嫁さんがいなかった。JICA(国際協力機構)のシニア海外協力隊に応募してラオスに行ってしまったのだ。理学療法士PTの仕事をしていたが、海外旅行が好き、ボランティア活動を何度も経験しており、募集のあったPTの職種で行くことになった。子どもはとっくに成人となっており、妻の一生の望みであったので、反対はしなかった。昼食は学校で、夜の食事は、下校が遅くなる時は外食となるので、先生方ともよく飲みに行った。顔ぶれが偏っていると、他の先生から苦情を受けたこともあったが、あまりこだわりなく振舞った。 思いっきり仕事できたと思うし、思いっきり生活も楽しめた。

① 大東高校の状況
2000年当時の大東高校は、入学試験の競争倍率が低く定員割れを起こしかねない状況であったし、過去4回実際に定員割れを経験している。また、生徒の学力差が大きい、大きすぎるという特有の問題があった。北摂・三島地域と並んで、北河内の中学校は地元校育成を目指す「地元校集中受験運動」という取り組みの歴史を持っていた。赴任した当時、この運動は功罪相半ばしていると思った。中卒者の漸減で、府立高校全体が私立とどう拮抗できるかという問題があった。そこで中学からいえば、地元校育成のスローガンのもと、学力の高い生徒も低い生徒も一緒に同じ地元校に行かせて、進路を確保しようと努めていた。このことは、障害のある生徒の高校への進路保障とも連動する。しかし高校の側から言えば、教育効率が甚だしく悪い。実際、赴任1年目の初めての高校選抜の陣頭指揮に当たってたまげた。定数320名に対し、志願者320名、つまりふたを開けた途端、基本的には全員合格が約束されているのだ。しかも、中学校からの内申書は10段階から1段階まで、中学校の学年トップとベッタが、地元校というだけで一緒に受験しに来ている。そして両者とも合格、桜の樹の下でともに手を取り合い、障害生徒も高校に進学できた、保護者も感激の涙・・・絵にしたらキレイ、だがキレイなだけでは現実に対処できるわけではない。学力低位の生徒に対するケアには人的措置が必要なのだ。

② 特色づくり ア 習熟度別授業の導入、 
府教委は先をにらんで、定員割れやそれに準ずる府立高校については、統廃合の対象と考えており、本校も将来的な候補校の一つと考えていたようだ。しかし、現今の対応としては甚だしい学力差をどのような方法で克服するかが、教員がそれにむかって目標を共有し、日々実践しようという方向にもっていくのが校長のやるべき道であろうと考えた。
戦略は、より徹底した中高連携の強化、地元校育成の質的充実がそれである。特に、もう一つの府立高校である野崎高校とも一緒に、大東市8中学校校長会との協議・連携、大東市教育委員会との懇談を中心に、地元校の育成に注力してもらうとともに、それまではほとんど送り込まれてこなかった門真市の中学校訪問も行った。とりわけ隣接の深野中学校や、同和教育推進中学校との相互訪問、意見交換は頻繁に行った。また、大東市教委には、府教委時代に机を共にした方がおられ、中高連携に理解を示され協力して頂いたことはラッキーであった。
 校内的には、英数の習熟度別学習の必要性を説いてまわった。意外なことに、革新を標榜する労働組合員の中には、学習指導に関しては旧式な考えをもっている者が少なくなかった。「差別につながる」という幼稚な論理であった。もちろん習熟度別学習の実施には教員の加配が必要で、財政逼迫の当時、そんな要望は通らないと思われていた。何度もまさに粘り強く「内申書1~10が一緒に学ぶ学校に対して、何も手を打てないのか」と、担当者に恫喝めいた言説で折衝し、数学と英語の講師時間を取ってきた。これには、組合教員が驚いたくらいで、「それなら・・」ということで2クラス3展開の習熟度別学習が始まった。

③ 特色づくり イ 中高・地域連携
次の一手はこうだ。やはり、この周辺地区で何か特徴をもって保護者や中学校教員の話題に上るような学校づくりをすることだ。ちょうど、府教委が私学との競合に打ち勝てるように、各学区のトップ校に知恵を出さすための施策として、「エル・ハイスクール」の募集があったので、それに応募することにした。非常に優秀な教員が何人もおり、彼らと知恵を出し合って書類を作った。学校宣伝用パンフレットの表紙に大東のアルファベットDA I T Oを頭にすえた英語を使った「アイウエオ作文」
  D―diversity多様な個性を持った生徒が、
  A―activity様々な活動を通して、
  I― interest自分の興味・関心を発見し、
  T―trialいろんな可能性を試みる、
  O―organizationそんな組織(=学校)です
を掲げ、改編したカリキュラムを説明したものだ。従来の標準コース、理数コースから、文科コース、理文コース、理数専門コースにした。(後2006年、総合学科と普通科専門コースをもつ高校として再編統合された)
 
さてエル・ハイスクールの選考は書類審査を経て、面接プレゼンテーションによるが、書類審査の予選は合格したが、担当指導主事に呼ばれて「降りてくれないか」と打診されたことがあった。府教委の方では意中の高校は決めているらしい。学区のトップ校+αのようだ。もと府教委にいた者としては言いにくいが、やり方が汚い。うたい文句はともかく、大阪型進学重点校の制度化が狙いだ。プレゼンもしたが、最終選考は落ちた。審査結果は見事に予想通りだった。こんなことなら、募集―審査などという手続き無しで決めたらいいのに、と思わぬえもなかった。しかし私にとっては、スタッフになってくれた先生方はそれぞれ有能で、生徒指導、教科指導、進路指導、同和教育実践などで力を発揮しており、ともに論議した経験は楽しかったし、教員の実力もついていくことを実感した。(スタッフのうち5人がその後校長になった。)
 生徒たちは学力も多様だが、授業での反抗や、生徒指導上の問題をおこす生徒も少なくなかった。また、経済的にも府下の平均なみで、授業料減免生徒や滞納者もそこそこいた。
生徒指導主事や担任等が、問題が生起すれば丁寧に家庭訪問をする一方、教員も多様で家庭訪問などした経験がない者もおり、驚いた。
平成13年(2001年)創立30周年記念式典の中で、地元の同和地区が太鼓文化を継承しているので、教えを請い、立派に演奏しきった。日ごろから同和教育主担が連携に勤めていたからだ。
 この記念行事や、エル・ハイスクールの立案の過程で、教員のやる気も盛り上がり、「丸かじり 大東高校」という企画につながっていった。PTAや、小中学校の教職員・保護者と、約300人の地元の中学生の学校訪問時に、同じ中学校出身の生徒に校内のガイド役を任せたり、希望で公開授業を受けてもらったりした。その後3つの分科会で、保幼小中高の教職員、保護者とで意見交換、交流をした。中学校での出前授業や、ボランティア・サークルを立ち上げ、デイサービスや保育所等との交流など地域社会との連携協力に取り組むなどが始まった。おもしろい企画を実行にうつす取り組みは面白く、3年はすぐに過ぎた。(妻も2年の派遣という約束通り、戻ってきた。
(大東高校は次回も続きます)


レダック 私の轍 WatashiのWadachi 第12回

2022-05-11 23:14:54 | 日記
 私の轍 WatashiのWadachi 第12回
教員生活3 平野高校 


① 平野高校の立ち位置

 大阪府中学校卒業者数は増加の一途を辿り、ために新設校の建設ラッシュが続いた時期があった。通常はその学区内で新設校が一つできるたびに、学区内のポジションが下から一つ上がるというような格差構造があった。新設高校は目標や主観的願望というより、中学校や地元中学生の保護者の意識が、そのような格差を暗黙の内に認めていたといえよう。もちろん、居住区が比較的富裕な保護者が占められている所や、何かしらの特徴を持つ学校は、その格差構造から外れていた。
 藤井寺高校勤務は12年の長きにわたっていたので転勤すべき時期に差し掛かってはいた。藤井寺の創設が1974(昭和49)年、平野高校は1980(昭和55)年であり、7学区ではすでに新設校の計画はなくなっていた。さらに、学校用地はひっ迫している状況であるから、大和川の南の平野区の飛び地で隣接の小学校は松原市立という特殊条件であった。転勤時にはすでに8年目を迎えていたが、このようなポジションから、困難校であった。
 もちろん、指導力もあり熱心な教員もいたが、腰が引けて転勤を願っていることを公言する教員の存在には驚いた。生徒にいいようになめられ、遊ばれているのに教員の信念として「いつか、あの子らも分ってくれる」と(今度は)高言する教員もいて、そのアンバランスぶりには呆れた。行った年、2年生の担任なり手が不足していたので応じたら「大丈夫か」と心配された。担任になることにしり込みをするなんど私には理解不能だったが、やってみてりかいできなくもない。

 学校生活の様子 に驚いて、最初の年の卒業文集に書いた贈る文章がコレ
四(五)字熟語 感想 贈る言葉
 今年転勤 初持授業 驚天動地 口     紅妖艶 茶髪脱色 怠学大好 睡眠又好
 授業騒然 叱声無視 憤怒爆発 暫時静粛  試験欠点 平気平左 方針変更 少々甘言 時々冗談 空気白白
 補充授業 人数少数 就職解禁 又々少数
 二学期中間 少々努力 初見是誰 今迄長欠 自縄自縛 未履修目前 残零時間 予想的中 留年確定
 冬休課題 皆目無視 増々増加 不認定単位      然祝卒業 摩訶不思議
 頑張人生 不撓不屈
 君達長所 要領愛嬌 君達不足 誠実努力
 苦楽禍福 色々存在 某所再見 乾杯期待


平野分会新聞に出た私の紹介記事  (1987.6.9付)                   
ようこそ平野へ 腰に 光る除けベルト
 着任早々2年9組を担任し、SHRで愛しい生徒諸君から「不二夫―(漫画家の赤塚不二夫のイメージから)早よ終わろうやあ~」、「俺は不二夫とちゃう。タミゾーや」生徒ドワアと爆笑、という日々を送っていらっしゃいますのは赤塚民三先生です。・・中略
 学生時代から現在まで一貫していることは大の左きき。・・中略・・〇前校長とは藤井寺時代によく飲みに行って、二人で交代で競い合うように眼鏡を失くした話とか、その武勇伝は枚挙にいとまがありません。ご家族は・・中略・・家事能力抜群! 冷蔵庫の中を見て酒の肴を手早く作る、昔は子供を連れてHRをしたこともあるとか、・・中略・・
 腰に光るのは厄除けベルト、旧き良き時代の旧人類中の旧人類にお会いできたという感じで、なぜか私はホッとしました。


② 担任として
 授業は結構シンドカッタが、2年時の担任クラスとしてはまずまずであったと思う。文化祭の模擬店は、優秀賞をいただいた。残念ながら2名の退学者を出してしまった。一人は遊ぶ方が好きで、学校生活を真面目に続ける意思にかけていた。もう一人は典型的な不登校で、家庭訪問しても出てこない、何を考えているのかよくわからないままやめてしまった。10年ほどたって、たまたま行った中華料理店で店員をしていた。「ああ、どうも」という程度であったが、それから何回か行ったものだ。ヨカッタ!
3年時は、文理系クラスということで看護師志望の生徒もいたが、2年よりしんどかった。3年になったのだから、今更学校を辞めようなどと考える生徒はいなかったが、こちらの指導が入らない。長欠気味の生徒が多く、手がまわらない。欠席が多すぎるので面談したら、「家は出るのだが、公園でボーとして鳩さんの動きを見ている」と言った生徒に気づいたのは、1学期も半分過ぎており、うかつさに今更のように悔やんだことを思い出す。体育の結果時数オーバーで通常なら留年になるが、多すぎるので、運動場の長距離走で代替してもらえるのに、それも来ず、家庭まで行って無理やり引っ張り出して生徒もいた。

③ 教育相談の取り組み
 校内でも、不登校生徒への取り組みは、創立当初より熱心に展開されていたようだ。私の赴任した時には、Y先生が、知り合いになったドクターを定期的に招請しており、研究会が持たれていたので参加させてもらった。これは大阪府の保健事業の一環として行われていたようで、精神科のH医師と保健所のAさんとが、教員の持ち込んだ相談事例に対して指導助言を与えてくれるもので、実践的にも大いに役立った。(後に教育委員会に行ったときの教育相談施策化のイメージは、この時の経験が参考になった)
青年期に好発する統合失調症で精神科に通院している生徒への対応も含めて、生活指導的観点と保健指導的観点の両側面、校内での生徒指導部と保健部の連携が必要であることを教示してもらった。当該生徒の通う病院の主治医と懇談したこともある。
自分なりに保護者啓発が重要と考え、学校新聞に保護者向けの「心の窓」を掲載してH理論をかみ砕いて解説するなどの活動もした。保護者アンケートでは一番好評だったようだ。

④ 教務内規への問題提起
 職員会議で論争を挑んだのは、生徒の卒業・進級判定をめぐっての問題で、教務内規の検討にまでつながった。上記漢文擬きにもあげたように、ビックリするような成績で課題も不十分なまま、判定会議の俎上に上がっても、何とか通す傾向が強くあったように思う。留年させても翌年改善が見込めるか?結局退学者を増やすだけではないか?という問いに応えきれないという側面もあるからだ。その代わり、欠席日数、結果時数は厳しく審査する。初めての卒業判定会議に臨んで、一人の生徒の卒業取り消しに反対したのだ。就職も決まっている韓国籍の女子生徒の欠課時数が少しだけ規定オーバーであったと記憶する。留年させればやめてしまうのは確定的だった。せっかく学校斡旋で就職が決まったのに、それをパーにする権限があるのか、と言って粘り勝ちだった。しかし、教務の先生方には、翌年規定そのものの検討をおしつけることになり、恨まれた。

⑤ 1988(昭和63)年 差別落書き教科書放置事件
 卒業を目前にした3年生が教科書を整理処分することとした。ただ捨てるのではなく、昔住んでいた小学校区には寄せ屋があることを思い出した。古着や紙くずなどを再利用する、今の言葉ならリサイクルショップだが、教科書がひょっとしたら売れて金になるかもしれないと思ったのである。懐かしい地でもあるし、自転車に教科書を積んで寄せ屋を探したが昔のことでもあり、見つけられなかった。このまま持って帰るのもしゃくなので、どこかに捨てよう、どうせ捨てるなら思い切り悪口を落書きしようと思いついた。熱心な阪神ファンであった彼は、まず巨人の悪口、それもこの年活躍した黒人選手のクロマティの悪口を考えた。「二グロ クソマティ」 クロをクソと表記したのは糞、汚いのイメージだからである。それから、次々悪口を書いていくうち、この近辺にあった同和地区へのマイナスイメージを喚起し、何冊もあった教科書の表・裏表紙に書き付けていった。そのまま放置した場所は、同和地区内の保育所の外壁であった。翌日、登園してきた職員が捨ててある大量の教科書に気が付き、手に取ってみれば、差別の言葉が並んでいる。職員にすれば、当該保育所、同和地区への攻撃と受け取ってもやむを得ない。
 当該支部で大問題になり、行為者探しが始まった。府教委には、毎年使用教科書を届け出ることになっており、その組み合わせから、平野高校で使用されているものと判明した。さて、そこからが問題である。府教委は学校に当該学年の入試作文との字体を照合させ、生徒(仮にA君)を特定したのである。それなら、A君の意図や気持ちを調べ指導する必要がある。ところが、同和問題に対しては意見対立が激しく、特に高校は組合が〇党系で、担任が党員、学年主任はこの学校の党員のリーダーであり、適切な聞き取り、指導ができるか府教委や校長は危ぶんだらしい。そこで、学年主任がその任を果たしたという、複雑な、そして問題のある経過をたどった。
 私は、当初知らなかった。教頭から相談を受けたのは、職員会議で全体に初めて経緯を報告する直前であった。これはヤバい、関わり方が問題だと思った。教頭が、子どもの書いた文章を見せてくれた。クロマティに始まり書いているうちに、どんどん差別意識が覚醒されていった様子、自分も母子家庭で育ち苦労した話などが綴られていたと思う。職員会議でも一度だけ教頭が読んだ。失礼な言い方だが、平野高校生としてはかなり高い見識、文章力であったように思う。
 職員会議では、予想通り猛反発が起こった。入試作文が利用された点(これは後に文部省にも取り上げられ、新聞にも報道された)、担任ぬきの不適切な指導の二点が教頭、校長への攻撃だった。そのうち、「彼らが解放同盟支部とあっている。解放同盟の糾弾を受けたら、灰皿が飛び暴力も受けかねない。八鹿高校では重傷を受けた先生もいる」というあたりまで発言が続いた。こちらもプッツンきてしまった。幸い、同推校からの中高派遣教員もおり、圧倒的少数ながら、議論は続ける、Aの差別行動は、本校の同和教育が計画だけで何も実施されていない点にも責任があることを突き付けることができた。
 翌年、とにかく人権教育を始めましょう、という合意をとりつけ、野坂昭如原作「火垂るの墓」の上映と指導HRを行うことができた。マ、当たり障りの少ない妥協の産物の平和教育だが、指導案を私が書いて、一歩でも進めることができた。後に府教委に勤め、その支部の方にあった時、「先生方には、私らの悔しい、哀しい気持ちは分からないでしょうネ」と言われた。

 翌年、新1年生の学年生徒指導を担当したが、これがスゴイ。平野区・東住吉区・松原市等の中学校の番長クラスが「集中受験」するという噂を聞いていたが、それに近い顔ぶれだった。一方で、教育委員会指導主事試験を受けるよう勧められたところ合格し、1年の学年主任だった先生も教頭試験に合格した。2年の新主任になった先生かと3人で飲み明かしたが、ぼやかれることしきり・・。

 かくて、堺市工4年、藤井寺12年、平野3年の教員生活だった。




私の轍 WatashiのWadachi 第11回

2022-05-03 10:03:08 | 日記
教員生活 2 藤井寺高校

藤井寺高校 その2

③ 5期生担任の思い出 教員として 絶好調の時期
 同和教育主担者をやりながら、しかし、担任を持たないのが寂しくなってきたので、1978年入学の5期生の3年生の担任をした。文系クラスで男18名女子28名であったが、本当に楽しいクラスであった。潤滑油的存在としてひょうきんな野球部のG君、アイデアマンの放送部のH君を軸に、女子も活発、快活、大人しくまじめ、無口等々、数グループが競い合って、2学期以降、学園ドラマのような事件?出来事が続く毎日であった。
クラスが最高の盛り上がりを見せたのは文化祭でのクラス出し物としての「盆踊り」だった。盆踊り+フォークダンス+流行しているディスコ様の踊りを、自分たちで作った法被を着て、当時流行った山下達郎などの曲に振り付け、踊るのだ。練習が始まると、見学していた3年の他のクラスが負けじと、自分のクラスのシンボルカラーの法被を作って競い合い、以降何年か、藤高文化祭のメインイベントに定着していった。集会台を基礎にして、櫓まで組んでの演舞だったので見どころもあったし、参加している生徒たちも陶酔して、さながらTVの青春番組のようであったと未だに私も卒業生も懐かしがっている。
 2学期末から3学期、少なくない進学者にとって最後の追い込みのはずであるが、クラスみんなで楽しむという空気が勝ち、結果、進路実績は惨敗に近かった。それを問い詰めるのではなく、卒業式の日には校舎の4階から、手製のくす玉わりをやって中から「先生ありがとう」という垂れ幕(紙)が現れたのは、少々気恥ずかしかったが、人生最高の瞬間といってもいいほど嬉しかった。卒業後も毎年のように同窓会が続いている。
 反省も多い。国語の教材に出てきた「白痴」という言葉をある生徒を指すときの呼び名としているという噂が耳に入った。冗談ではない。その生徒は2年時の修学旅行を前にして宿泊を伴う頻繁な対人接触の恐怖から、破瓜型の精神障害を発症したため、知り合いのドクターに繋げ、3年時にわがクラスに引っ張ってきたという経緯がある。関係生徒の親玉を呼び説諭したところ、以降ぴたりとやみ、同窓会にもたまに顔を出す。また、喧騒を伴う女子グループの中で、独自の物静かな世界に浸っている異色の2人の一方が、家庭では暴力的であると聞かされた。見守ることしかできなかったが、無事卒業、専門学校進学ができた。

 これ以降、生徒指導部長、学年主任等で3年の担任を持てなかったのは残念であった。

 *1980(昭和55)年、羽曳野市にマイホームを購入した。府住宅供給公社の抽選に当たった。大工の棟梁だった父親が建築途中を見に来て、OK  を出してくれた。私の勤務地には近いが、資金繰りには苦労したし、祖母の支援も受けれなくなるが、チャンスだと思った。兄は小学生だからまだしも、弟は保育所なので、環境変化に不安を抱き、朝送るとき、自転車の荷台にしがみつき引き剥がすのに苦労したことを思い出す。

④ K君の自死
そして1985年(昭和60年)、教員として最大の衝撃を受けたK君が自死するという出来事に立ち会った。K君の母親は韓国籍、父親とは内縁の関係で庶子。母は家を飛び出し、養育者たる父は新聞購読の勧誘員として各地を飛び回っていたことから、社会監護施設で生活していた。複雑な成育歴から、私たちも当初より彼の言行には関心を持っていたが、まじめで快活、文化祭等ではスターとして活躍、2年生の後期生徒会では会長に立候補して信任されるなど、好感を持って受け止めていた。そのK君が、施設を飛び出したという一報を受けて、捜索したが、力及ばず。3日後、グランドで縊死していた。あまりにもショックが大きく、実際に深く関わっていたこともあって、記録とフィクション化し小説風に文章を書きつけたが、公表するような気になれない。
そこで、K君と一緒に入学した藤高11期生「卒業文集」に学年主任として掲載した「卒業生に贈る言葉」
 この原稿を書いている今、追試も期末考査も終わっていない。心配な諸君も多く、素直に「卒業おめでとう」とは言いにくい。色々な事情で、入学の時に並んだ顔が欠けたのは残念だ。特に僕たちは、二年の時K君の死という悲しい体験を共有した。生徒会やバンドで活動していた時の快活な笑顔が思い出されるが。彼の背負っていた「重い荷物」の意味を、どう自分の中で生かせるかが問題だろう。勿論、彼の中断された生を、代わりに生きるなんてことは誰にもできないことだ。君たちは自分の人生を自信をもって生き抜いていってほしいと思うだけだ。それが体験を生かすことになるだろうと思う。
 では、自分の人生を自信をもって生き抜くとはどういうことだろうか。僕の考えでは、一つは、結果万能の世の中だけれど、過程を大切にするという考えだ。仮に結果が不運であったとしてもどうせ偶然性もあることだし、「自分は悔いなくやりきった」と言える姿勢を持つことだ。「今ここで」を大事にするともいえる。反省はしても後悔はしない気構えを持つことだ。
 今一つは、人間には個性差・財産や社会的地位・権力等、分断する条件が山ほどあるが、同時代の人間は通じ合える、人間性は通底していると観念しておくことだと思う。権威におもねることなく、人を差別することなく生活できると信ずれば、多分自信をもって人生を送れるんではないかと思う。 元気でがんばって下さい。


1987(昭和62)年3月、11期生を送り出し、4月平野高校に転勤した。 



私の轍 WatashiのWadachi 第10回

2022-04-18 22:26:13 | 日記
私の轍 WatashiのWadachi 第10回

教員生活 2 府立藤井寺高校
① 府立新設校への転勤 1期生との出会い
 
 1975年、堺市工から府立藤井寺高校に転勤した。設置者が別だが、府の教員採用試験は合格しているので、ペーパー試験はないが、府の教育委員会に呼ばれて面接のようなものは受けた記憶がある。
 赴任した学校は開校2年目、まだ建設工事が続いており、雨の時などぬかるみに足をとられることもあった。2学年分の生徒、教員も2学年分でスタート。私の担当する倫理社会は2年時に履修するので、2年に入り担任もついてきた。生徒急増期にあって、新設校が続々と建てられ、府立高校としては87番目であった。ために職員の親睦団体を八七会と称した。
初代校長は今から思うとやり手で、いろんな人材を集めてきて、多士済々ではあった。私も校長のお目に留まったのかな? 教室を転用した2年生職員室に用意された机の左手には学年主任のI先生、右手は後に教育監になったO先生だったので、どれだけ指導・薫陶を受けたか、想像できるかと思う。生徒は地元藤井寺、羽曳野、松原だけでなく、当初の学区調整から大阪市内からも通学してきていた。近鉄を利用してくる生徒は、藤井寺駅からは約半時間、高鷲駅からでも20分ほど要したので、駅前の自転車を寸借(占有物離脱)する不心得者もいた。自転車を取られたら、「藤高へ行け」という噂までたち、また事実そうだった。
 やんちゃな堺市工生に十分鍛えられてきたので、半分は女子生徒もいる藤高生がなんぼのもんヤ、とは思っていたが、いやいやどうして、手を焼いた。教職員間での情報交換、職員会議での議論で侃々諤々の日々が続いた。当時を振り返って、駅を降りて足が動かず通勤拒否になりかけた先生もいたほどである。コミュニケーションを図るため、駅前の飲み屋が第2職員室となった日も多かった。遅刻や欠席を繰り返す、あるいは喫煙を何度か繰り返す生徒への指導方針の議論でサッサと退学勧告をうつべきだ、とする論調に対して、粘り強い指導の重要性の論陣を張った記憶がある。しかし、言うは易くとも行うは難し、を思い知らされた。
 一つの工夫は「倫理社会」の授業でいかに生徒に興味関心をもたせるかだ。「青年期」も大きな分野なので、永山則夫の「無知の涙」や、小児科医松田道夫の「恋愛なんかやめておけ」の一部を増す刷りして教材にした。また、生徒にさまざまなアンケートを実施して、その結果を返しながらみんなで考えようとした。アンケート集計などいたずらに手間暇がかかるものだが、マ、生徒に関心を持たせる意味で比較的成果はあったと自負している。
いきなり担任したクラス(2年11組)は割合大人しい生徒だったと思う。しかし一つの事件があった。生徒連絡のために2階のホームルーム教室へ行くと、一人の生徒がタバコを吸っていた。当然、懲戒指導にかけるわけだが、その生徒はラグビー部で、他のクラスのラグビー部員が猛反発し、私の授業になると、廊下との間の窓や扉を取り外すのだ。「この方が捕まえやすいだろう」というあてつけだが、印象深く覚えている。
翌年持ち上がった1期生3年のクラスは、理系2、文系10クラスで、私は文系(3年4組)の担任となった。2年から引き続いてもった生徒も多くいて、楽しかった。やんちゃ・ゴンタが多いクラスでの授業はやはり大変だったが、生徒の進路指導は勉強になった。普通科新設校なので、生徒の進学希望と実力とのギャップがよくわからないまま、相談に応じざるを得なかった。詳細はよく覚えていないが、卒業すぐの時点はともかく、その後看護師になったり社会福祉施設理事や職員もいる。彼らも還暦を過ぎ既に64歳(2022年3月現在)であり、同窓会で会うのが楽しみ、教師冥利といえよう。
▲有名人のエピソードを一つ紹介しておこう。別クラスだが、進路相談を受けた生徒がいた。1年目から文化祭の時に体育館でのバンド演奏に際  し、学校の放送設備以外にPA(パワーアンプ)を借りてほしい旨交渉され、生徒会主顧問とともに実現させた時以来のつきあいである。自分らのバンド活動が「かまやつひろし」に見込まれ、「プロ」の誘いを受けている。バンドのメンバーの一人は既に退学しており、自分もやめようか、3年がんばって卒業しようか」ということで悩んでいるとのこと。当然のことながら、もう1年のことだから頑張って卒業目指すようアドバイスした。この男がロック界では有名な後の「ラウドネス」のドラマー樋口であった。夭折したのは残念である。こんな才能ある者は、卒業しようがしまいが大して変わりがないように思うが、あくまでもレアケースであろう。▼

翌年の2月には、次男亨が誕生した。20歳代の終わりから三十路へと、やはり大きな転機であったのだろう

② 同和教育推進委員長として 人権教育の取り組み
1期生を送り出してからは、3,5,7期生を担当した。2年倫理社会、3年政治経済というカリキュラムになっていたからである。政治経済も割合人気ある科目である。特に理系大学を狙うには私学しか目標とできないが、受験に関係なく聞けるからであろう。日本国憲法はかなりの時間をかけてやった。
 転勤3年目選挙で同和教育推進委員長に選ばれた。当時は、校務分掌の長などは、職員による選挙によって選ばれていた。(現在はあの橋下府政によって校長任命制に変えられたのだが・・)
 当時は、部落解放運動の教育に対する要望や影響も強く、学校でも同和教育推進は主要な教育課題の一つだった。建設当初は学区に調整区を含んでいたので、地元羽曳野だけでなく大阪市内からも同和地区在住生徒も通学してきていた。藤井寺市にも水平社創設当時から同和地区があるのだが、同対法で地区指定されず、無いことになっていた。堺での経験もあるので、その役職については前向きに取り組もうと考えていた。
 ▲しかし大阪では、教員の同和教育に対するスタンスが、矢田教育差別事件と隣の兵庫県で生起した八鹿高校事件によって激しい対立をもたらしていた。校内でもその亀裂は深かった。私は、生徒が差別や偏見にさらされているという不合理は許せなかったので、彼らを支援、応援する立場で発言や行動をした。違う立場の先生方から見れば、問題と感じられたかもしれない。▼
 教員間の対立を見越したうえで、生徒の実態を基にした研修や指導方針を提起していった。具体的には同和地区在住生徒、外国籍生徒(障害のある生徒については実際に在籍するようになってから)の成績や出欠、卒業後の進路の共通理解を図るようにした。当該生徒を理解してもらうために、生徒情報はできるだけ共有したいと考えた。個人情報が漏れたというような問題は起こらなかったが、その在り方については議論する必要があろう。さらに3期生まで卒業させたので、同和地区在住生徒と外国籍生徒について、往復はがきを出して進路状況を調査したこともある。その結果、退学率が高いこと、大学・専門校への進学率は低く、進路先未定または不明者が多い、などが明らかになり、職員への報告とともに、府高同研でも発表した。生徒啓発としては、3年「社用紙から統一用紙への意義」のHRを一つのゴールにした。
 教科 倫社・政経でも人権問題を取り上げるようにした。3年最後の試験で、私の方では把握していなかった生徒が、答案用紙の裏に「僕は〇〇部落に住んでいます。」に続いて人権問題を学習してよかったという趣旨の短文を書いていた。
 当然、在日外国人問題も授業でとりあげてきた。3期生になってからだが、韓国・朝鮮人文化研究サークルを立ち上げて、本名使用し始めた生徒もいたが、後を続けられなかった。
また、近所に藤井寺支援学校ができた。4期生に肢体不自由生徒が入学してきたことあって、障害生徒の教育について理解を深めるため、学校見学→職員交流→文化祭への生徒招待→文化部等の生徒交流等の取り組みを数年にわたって展開した。その影響もあってか、生徒のボランティアサークルもできた。このサークル部員と一緒に支援学校生徒と琵琶湖なんとかパラダイスのプールで下肢マヒの生徒と遊んだ記憶も書いているうちに蘇ってきた。全体のHRで車いす体験、二人一組で目隠しして校内を歩き回る視覚不自由者の疑似体験などの工夫も、1980年代の初めにはやっていた。
 これらの取り組みができたのは、多くの教員の理解と協力が得られたからだと感謝している。