レダック 私の轍 WatashiのWadachi 第12回

2022-05-11 23:14:54 | 日記
 私の轍 WatashiのWadachi 第12回
教員生活3 平野高校 


① 平野高校の立ち位置

 大阪府中学校卒業者数は増加の一途を辿り、ために新設校の建設ラッシュが続いた時期があった。通常はその学区内で新設校が一つできるたびに、学区内のポジションが下から一つ上がるというような格差構造があった。新設高校は目標や主観的願望というより、中学校や地元中学生の保護者の意識が、そのような格差を暗黙の内に認めていたといえよう。もちろん、居住区が比較的富裕な保護者が占められている所や、何かしらの特徴を持つ学校は、その格差構造から外れていた。
 藤井寺高校勤務は12年の長きにわたっていたので転勤すべき時期に差し掛かってはいた。藤井寺の創設が1974(昭和49)年、平野高校は1980(昭和55)年であり、7学区ではすでに新設校の計画はなくなっていた。さらに、学校用地はひっ迫している状況であるから、大和川の南の平野区の飛び地で隣接の小学校は松原市立という特殊条件であった。転勤時にはすでに8年目を迎えていたが、このようなポジションから、困難校であった。
 もちろん、指導力もあり熱心な教員もいたが、腰が引けて転勤を願っていることを公言する教員の存在には驚いた。生徒にいいようになめられ、遊ばれているのに教員の信念として「いつか、あの子らも分ってくれる」と(今度は)高言する教員もいて、そのアンバランスぶりには呆れた。行った年、2年生の担任なり手が不足していたので応じたら「大丈夫か」と心配された。担任になることにしり込みをするなんど私には理解不能だったが、やってみてりかいできなくもない。

 学校生活の様子 に驚いて、最初の年の卒業文集に書いた贈る文章がコレ
四(五)字熟語 感想 贈る言葉
 今年転勤 初持授業 驚天動地 口     紅妖艶 茶髪脱色 怠学大好 睡眠又好
 授業騒然 叱声無視 憤怒爆発 暫時静粛  試験欠点 平気平左 方針変更 少々甘言 時々冗談 空気白白
 補充授業 人数少数 就職解禁 又々少数
 二学期中間 少々努力 初見是誰 今迄長欠 自縄自縛 未履修目前 残零時間 予想的中 留年確定
 冬休課題 皆目無視 増々増加 不認定単位      然祝卒業 摩訶不思議
 頑張人生 不撓不屈
 君達長所 要領愛嬌 君達不足 誠実努力
 苦楽禍福 色々存在 某所再見 乾杯期待


平野分会新聞に出た私の紹介記事  (1987.6.9付)                   
ようこそ平野へ 腰に 光る除けベルト
 着任早々2年9組を担任し、SHRで愛しい生徒諸君から「不二夫―(漫画家の赤塚不二夫のイメージから)早よ終わろうやあ~」、「俺は不二夫とちゃう。タミゾーや」生徒ドワアと爆笑、という日々を送っていらっしゃいますのは赤塚民三先生です。・・中略
 学生時代から現在まで一貫していることは大の左きき。・・中略・・〇前校長とは藤井寺時代によく飲みに行って、二人で交代で競い合うように眼鏡を失くした話とか、その武勇伝は枚挙にいとまがありません。ご家族は・・中略・・家事能力抜群! 冷蔵庫の中を見て酒の肴を手早く作る、昔は子供を連れてHRをしたこともあるとか、・・中略・・
 腰に光るのは厄除けベルト、旧き良き時代の旧人類中の旧人類にお会いできたという感じで、なぜか私はホッとしました。


② 担任として
 授業は結構シンドカッタが、2年時の担任クラスとしてはまずまずであったと思う。文化祭の模擬店は、優秀賞をいただいた。残念ながら2名の退学者を出してしまった。一人は遊ぶ方が好きで、学校生活を真面目に続ける意思にかけていた。もう一人は典型的な不登校で、家庭訪問しても出てこない、何を考えているのかよくわからないままやめてしまった。10年ほどたって、たまたま行った中華料理店で店員をしていた。「ああ、どうも」という程度であったが、それから何回か行ったものだ。ヨカッタ!
3年時は、文理系クラスということで看護師志望の生徒もいたが、2年よりしんどかった。3年になったのだから、今更学校を辞めようなどと考える生徒はいなかったが、こちらの指導が入らない。長欠気味の生徒が多く、手がまわらない。欠席が多すぎるので面談したら、「家は出るのだが、公園でボーとして鳩さんの動きを見ている」と言った生徒に気づいたのは、1学期も半分過ぎており、うかつさに今更のように悔やんだことを思い出す。体育の結果時数オーバーで通常なら留年になるが、多すぎるので、運動場の長距離走で代替してもらえるのに、それも来ず、家庭まで行って無理やり引っ張り出して生徒もいた。

③ 教育相談の取り組み
 校内でも、不登校生徒への取り組みは、創立当初より熱心に展開されていたようだ。私の赴任した時には、Y先生が、知り合いになったドクターを定期的に招請しており、研究会が持たれていたので参加させてもらった。これは大阪府の保健事業の一環として行われていたようで、精神科のH医師と保健所のAさんとが、教員の持ち込んだ相談事例に対して指導助言を与えてくれるもので、実践的にも大いに役立った。(後に教育委員会に行ったときの教育相談施策化のイメージは、この時の経験が参考になった)
青年期に好発する統合失調症で精神科に通院している生徒への対応も含めて、生活指導的観点と保健指導的観点の両側面、校内での生徒指導部と保健部の連携が必要であることを教示してもらった。当該生徒の通う病院の主治医と懇談したこともある。
自分なりに保護者啓発が重要と考え、学校新聞に保護者向けの「心の窓」を掲載してH理論をかみ砕いて解説するなどの活動もした。保護者アンケートでは一番好評だったようだ。

④ 教務内規への問題提起
 職員会議で論争を挑んだのは、生徒の卒業・進級判定をめぐっての問題で、教務内規の検討にまでつながった。上記漢文擬きにもあげたように、ビックリするような成績で課題も不十分なまま、判定会議の俎上に上がっても、何とか通す傾向が強くあったように思う。留年させても翌年改善が見込めるか?結局退学者を増やすだけではないか?という問いに応えきれないという側面もあるからだ。その代わり、欠席日数、結果時数は厳しく審査する。初めての卒業判定会議に臨んで、一人の生徒の卒業取り消しに反対したのだ。就職も決まっている韓国籍の女子生徒の欠課時数が少しだけ規定オーバーであったと記憶する。留年させればやめてしまうのは確定的だった。せっかく学校斡旋で就職が決まったのに、それをパーにする権限があるのか、と言って粘り勝ちだった。しかし、教務の先生方には、翌年規定そのものの検討をおしつけることになり、恨まれた。

⑤ 1988(昭和63)年 差別落書き教科書放置事件
 卒業を目前にした3年生が教科書を整理処分することとした。ただ捨てるのではなく、昔住んでいた小学校区には寄せ屋があることを思い出した。古着や紙くずなどを再利用する、今の言葉ならリサイクルショップだが、教科書がひょっとしたら売れて金になるかもしれないと思ったのである。懐かしい地でもあるし、自転車に教科書を積んで寄せ屋を探したが昔のことでもあり、見つけられなかった。このまま持って帰るのもしゃくなので、どこかに捨てよう、どうせ捨てるなら思い切り悪口を落書きしようと思いついた。熱心な阪神ファンであった彼は、まず巨人の悪口、それもこの年活躍した黒人選手のクロマティの悪口を考えた。「二グロ クソマティ」 クロをクソと表記したのは糞、汚いのイメージだからである。それから、次々悪口を書いていくうち、この近辺にあった同和地区へのマイナスイメージを喚起し、何冊もあった教科書の表・裏表紙に書き付けていった。そのまま放置した場所は、同和地区内の保育所の外壁であった。翌日、登園してきた職員が捨ててある大量の教科書に気が付き、手に取ってみれば、差別の言葉が並んでいる。職員にすれば、当該保育所、同和地区への攻撃と受け取ってもやむを得ない。
 当該支部で大問題になり、行為者探しが始まった。府教委には、毎年使用教科書を届け出ることになっており、その組み合わせから、平野高校で使用されているものと判明した。さて、そこからが問題である。府教委は学校に当該学年の入試作文との字体を照合させ、生徒(仮にA君)を特定したのである。それなら、A君の意図や気持ちを調べ指導する必要がある。ところが、同和問題に対しては意見対立が激しく、特に高校は組合が〇党系で、担任が党員、学年主任はこの学校の党員のリーダーであり、適切な聞き取り、指導ができるか府教委や校長は危ぶんだらしい。そこで、学年主任がその任を果たしたという、複雑な、そして問題のある経過をたどった。
 私は、当初知らなかった。教頭から相談を受けたのは、職員会議で全体に初めて経緯を報告する直前であった。これはヤバい、関わり方が問題だと思った。教頭が、子どもの書いた文章を見せてくれた。クロマティに始まり書いているうちに、どんどん差別意識が覚醒されていった様子、自分も母子家庭で育ち苦労した話などが綴られていたと思う。職員会議でも一度だけ教頭が読んだ。失礼な言い方だが、平野高校生としてはかなり高い見識、文章力であったように思う。
 職員会議では、予想通り猛反発が起こった。入試作文が利用された点(これは後に文部省にも取り上げられ、新聞にも報道された)、担任ぬきの不適切な指導の二点が教頭、校長への攻撃だった。そのうち、「彼らが解放同盟支部とあっている。解放同盟の糾弾を受けたら、灰皿が飛び暴力も受けかねない。八鹿高校では重傷を受けた先生もいる」というあたりまで発言が続いた。こちらもプッツンきてしまった。幸い、同推校からの中高派遣教員もおり、圧倒的少数ながら、議論は続ける、Aの差別行動は、本校の同和教育が計画だけで何も実施されていない点にも責任があることを突き付けることができた。
 翌年、とにかく人権教育を始めましょう、という合意をとりつけ、野坂昭如原作「火垂るの墓」の上映と指導HRを行うことができた。マ、当たり障りの少ない妥協の産物の平和教育だが、指導案を私が書いて、一歩でも進めることができた。後に府教委に勤め、その支部の方にあった時、「先生方には、私らの悔しい、哀しい気持ちは分からないでしょうネ」と言われた。

 翌年、新1年生の学年生徒指導を担当したが、これがスゴイ。平野区・東住吉区・松原市等の中学校の番長クラスが「集中受験」するという噂を聞いていたが、それに近い顔ぶれだった。一方で、教育委員会指導主事試験を受けるよう勧められたところ合格し、1年の学年主任だった先生も教頭試験に合格した。2年の新主任になった先生かと3人で飲み明かしたが、ぼやかれることしきり・・。

 かくて、堺市工4年、藤井寺12年、平野3年の教員生活だった。




私の轍 WatashiのWadachi 第11回

2022-05-03 10:03:08 | 日記
教員生活 2 藤井寺高校

藤井寺高校 その2

③ 5期生担任の思い出 教員として 絶好調の時期
 同和教育主担者をやりながら、しかし、担任を持たないのが寂しくなってきたので、1978年入学の5期生の3年生の担任をした。文系クラスで男18名女子28名であったが、本当に楽しいクラスであった。潤滑油的存在としてひょうきんな野球部のG君、アイデアマンの放送部のH君を軸に、女子も活発、快活、大人しくまじめ、無口等々、数グループが競い合って、2学期以降、学園ドラマのような事件?出来事が続く毎日であった。
クラスが最高の盛り上がりを見せたのは文化祭でのクラス出し物としての「盆踊り」だった。盆踊り+フォークダンス+流行しているディスコ様の踊りを、自分たちで作った法被を着て、当時流行った山下達郎などの曲に振り付け、踊るのだ。練習が始まると、見学していた3年の他のクラスが負けじと、自分のクラスのシンボルカラーの法被を作って競い合い、以降何年か、藤高文化祭のメインイベントに定着していった。集会台を基礎にして、櫓まで組んでの演舞だったので見どころもあったし、参加している生徒たちも陶酔して、さながらTVの青春番組のようであったと未だに私も卒業生も懐かしがっている。
 2学期末から3学期、少なくない進学者にとって最後の追い込みのはずであるが、クラスみんなで楽しむという空気が勝ち、結果、進路実績は惨敗に近かった。それを問い詰めるのではなく、卒業式の日には校舎の4階から、手製のくす玉わりをやって中から「先生ありがとう」という垂れ幕(紙)が現れたのは、少々気恥ずかしかったが、人生最高の瞬間といってもいいほど嬉しかった。卒業後も毎年のように同窓会が続いている。
 反省も多い。国語の教材に出てきた「白痴」という言葉をある生徒を指すときの呼び名としているという噂が耳に入った。冗談ではない。その生徒は2年時の修学旅行を前にして宿泊を伴う頻繁な対人接触の恐怖から、破瓜型の精神障害を発症したため、知り合いのドクターに繋げ、3年時にわがクラスに引っ張ってきたという経緯がある。関係生徒の親玉を呼び説諭したところ、以降ぴたりとやみ、同窓会にもたまに顔を出す。また、喧騒を伴う女子グループの中で、独自の物静かな世界に浸っている異色の2人の一方が、家庭では暴力的であると聞かされた。見守ることしかできなかったが、無事卒業、専門学校進学ができた。

 これ以降、生徒指導部長、学年主任等で3年の担任を持てなかったのは残念であった。

 *1980(昭和55)年、羽曳野市にマイホームを購入した。府住宅供給公社の抽選に当たった。大工の棟梁だった父親が建築途中を見に来て、OK  を出してくれた。私の勤務地には近いが、資金繰りには苦労したし、祖母の支援も受けれなくなるが、チャンスだと思った。兄は小学生だからまだしも、弟は保育所なので、環境変化に不安を抱き、朝送るとき、自転車の荷台にしがみつき引き剥がすのに苦労したことを思い出す。

④ K君の自死
そして1985年(昭和60年)、教員として最大の衝撃を受けたK君が自死するという出来事に立ち会った。K君の母親は韓国籍、父親とは内縁の関係で庶子。母は家を飛び出し、養育者たる父は新聞購読の勧誘員として各地を飛び回っていたことから、社会監護施設で生活していた。複雑な成育歴から、私たちも当初より彼の言行には関心を持っていたが、まじめで快活、文化祭等ではスターとして活躍、2年生の後期生徒会では会長に立候補して信任されるなど、好感を持って受け止めていた。そのK君が、施設を飛び出したという一報を受けて、捜索したが、力及ばず。3日後、グランドで縊死していた。あまりにもショックが大きく、実際に深く関わっていたこともあって、記録とフィクション化し小説風に文章を書きつけたが、公表するような気になれない。
そこで、K君と一緒に入学した藤高11期生「卒業文集」に学年主任として掲載した「卒業生に贈る言葉」
 この原稿を書いている今、追試も期末考査も終わっていない。心配な諸君も多く、素直に「卒業おめでとう」とは言いにくい。色々な事情で、入学の時に並んだ顔が欠けたのは残念だ。特に僕たちは、二年の時K君の死という悲しい体験を共有した。生徒会やバンドで活動していた時の快活な笑顔が思い出されるが。彼の背負っていた「重い荷物」の意味を、どう自分の中で生かせるかが問題だろう。勿論、彼の中断された生を、代わりに生きるなんてことは誰にもできないことだ。君たちは自分の人生を自信をもって生き抜いていってほしいと思うだけだ。それが体験を生かすことになるだろうと思う。
 では、自分の人生を自信をもって生き抜くとはどういうことだろうか。僕の考えでは、一つは、結果万能の世の中だけれど、過程を大切にするという考えだ。仮に結果が不運であったとしてもどうせ偶然性もあることだし、「自分は悔いなくやりきった」と言える姿勢を持つことだ。「今ここで」を大事にするともいえる。反省はしても後悔はしない気構えを持つことだ。
 今一つは、人間には個性差・財産や社会的地位・権力等、分断する条件が山ほどあるが、同時代の人間は通じ合える、人間性は通底していると観念しておくことだと思う。権威におもねることなく、人を差別することなく生活できると信ずれば、多分自信をもって人生を送れるんではないかと思う。 元気でがんばって下さい。


1987(昭和62)年3月、11期生を送り出し、4月平野高校に転勤した。