② 當麻寺お練り
お練りは4時からと聞いていたのに、私のたどり着いた3時ころには、マアすごい人出。山門をくぐる本部と露店のテントが並んでおり、案内プリントをもらう。とりあえず中の様子を把握しておこう。特徴的なことはお練りの舞台であろう幅2~3mくらいの廊下様のものが、入口付近の建物から、奥のほうの建物に伸びている。斜度がつき奥に行くほど高くスロープ状になっていて、その下も潜れるほどで、早くも周りに人が蝟集している。ゴールと見えたところは本殿で、目測100mは優にありそうだ(帰りに本部受付の人に聞くと約120mらしい)。今日だけ、入口の建物のほうを娑婆堂、本殿を極楽堂と呼ぶそうで、俗界と極楽浄土と想定しているのだろう。だからこの橋も来迎橋という。警備員が「ステージに手や物をおかないで下さい」と注意して回っていたが、昔からの伝統行事の舞台に「ステージ」とよぶのはいかがなものか、なんどと余計なことを考えていた。
しかし、それにしても暑い。夏の強烈な陽射しとまではいかないけれど、やはり3時間ほど歩き詰めだったので、「陰に行ってくれ、座ってくれ」と体が悲鳴を上げ始めている。来迎橋の下は陰になるので、グターと座り込んでいる人もいる。とにかく日陰は誰か座っていり、しかたないので、本殿(今日はここが浄土ですナ)に上がり込み一応お詣りする。靴を脱いで上がり込めば、仏教美術の絵画や仏像が見られそうだが、入場料500円もいるので止めにして、そのまま本殿側面に回ると、木の廊下にもかかわらず人があまりいないので、リュックをおろし私もグターとなる。でもすぐに、「ここの人は、皆、下に降りてください」と注意される。日陰ですわれるところなどやみくもに探してもあろうはずはない。
気がつくと囲いの中に中将姫の銅像があった。今日の「お練り」は中将姫供養のためだというから話の都合上、當麻寺境内の案内板によって中将姫のことに述べておこう。
――中将姫は、奈良時代の右大臣藤原豊成公の娘で、幼くして母を失い、継母に育てられました。しかし、継母から嫌われ、山に捨てられました。その後、父と再会し一度は都に戻りましたが、姫の願いにより当麻寺に入った。(そのあと、一千巻の写経、仏門に入り一夜にして一丈五尺―約4m四方の曼陀羅を織ったとかの伝説が書かれている)デ・・姫が29歳の春、雲間から一丈の光明とともに阿弥陀如来をはじめとする25菩薩が来迎され、姫は、西方極楽浄土へ向かわれたと伝えられています。練供養はその伝承を再現したもので、毎年5月14日に当麻寺において行われています。――
父の藤原豊成というのは、古代律令制国家の枠組みを編み出し、藤原氏の栄華の土台を仕組んだあの怪物 藤原不比等の孫というから、スゴイ貴族の家柄だ。幼少のころから才あふれ、にもかかわらず不遇で、出家してからの業績も色々伝えられ・・、ト、色々伝説が膨らんできたのだろう。それにしても8世紀の女性の供養が1300年以上たった今も行われて、観光資源になっているとは、驚きだ。
4時少し前、ついにお練りが始まったのだろう、本殿近くはざわめきだした。私は結局グターと座り込んだのが娑婆堂から20mくらいのところで本殿から出発したお練りご一行からはかなり時間がたってはじめて何がわたっているのかが分かる。
最初、数人で担げるくらいのお神輿のようなものが下ってきて娑婆堂に入る。遅々たる歩みで、娑婆堂の中に入っていく?来迎橋のかぶりつきにも行けてないので、前の人波でなかなか見えない・・。
(以下の記述は帰ってから読んだ案内プリント等などからの説明でその時は、訳が分からないことも多かった)
この輿の中には中将姫の小さな像が安置されていたようだ。
数分おいて今度は、ちょうど私の見ている場所の対面の塔頭から、正装の僧侶の集団が出てきて(20人くらい?)来迎橋に上がり、本堂へと向かっていった。
そのまま10分ほど待つ。次の展開が読めないと不安になりますね。4時を回ると、雅楽の音が響き渡った。
やっと本番だ、と爪先立ってカメラを構えたが、何?!違うやんこれ、稚児行列ヤ。
みんな、ぞろぞろと結婚式並みの和服に着飾ったご婦人に手を引かれてぞろぞろ歩いている。七五三の祝いみたいなきれいなべべをきせてもらっていた。見物人から「〇〇ちゃん」と声をかけられ、はにかむ子もおる。30人やそこらはいただろう。分かった、この稚児行列の参加費が行事運営費に充てられるのだろう。でも、知らんガキがほんとにゆっくり歩くさまを見ていてもすぐ飽きてくる・・シンドイ、前座は早く終わって本番やってくれ。デ、またしばし時間がたつ。
辛抱がきれるまでにはヤット本番が始まった。本殿から娑婆堂にむかって、仮面軍団が下りてくる。
和服の人と並んで、前後1mくらいの間隔で歩んできた。先ほどまでと同じ、ゆっくりゆっくり最小限の歩幅である。最初は頭を丸めた人? すぐに仏像、はやりのことばでいえば「ゆるキャラ」か!
最初の3体は地蔵さん、
続くのはすべて別キャラの25体?25人?の菩薩さん・・・ン・ット、地蔵さんも弥勒菩薩降臨の先ぶれの菩薩さんだったかなあ?
マ、難しい議論はさておいてそれぞれの衣装、手に持つもの――雅楽の楽器とか蓮台とかが異なる。子細に観察するよりも人波の中でいかにうまく写真を撮るかに気を取られる。(後で見たら、やはり多く失敗していました) 菩薩さんと並んで歩いている人は僧形ではないので、やはり當麻寺の檀家総代格の人?? 考えてみると、菩薩のお面からは、うっすらとしか外が見えないようで、菩薩さんが誤って来迎橋から落ちないようにガイドヘルパーの役目もあるのかもしれない。デ、みんな娑婆堂に着いたころ?本殿側ではひときわ大きいどよめきが起こります。ガイドヘルパーもひきつれず、手に持つものをすくいあげるように左右に振りながらまず二人、そして最後尾をしずしずと歩む者がやってきます。
①観音菩薩、
②勢至菩薩―「オガミボトケ」ともいわれる、
③普賢菩薩―天蓋を持つ、だそうです。
たしかに面白かった。しかし、疲れてきたのと一通り見たので、帰り始めてゴールの娑婆堂近くに行くと、今まで見えなかった様子がよくわかります。菩薩さんたちが(ごめんなさいね、何だかお友達みたいな書き方をして)みんな集結したままで待っておられるのです。3人の、多分 格上の菩薩が到着し、娑婆堂の中で何か動作をしたあとで、また来迎橋に立ち戻っていきます。最初に輿で運ばれた中将姫の像を、観音菩薩さんが空で運んできた蓮台の上にセットして置き、行きと同じく左右にすくう動作をしながら連れて帰り始めました。そして、他の菩薩も、それに続いて、またぞろぞろと極楽堂に戻っていきます。そうです、片道ではだめなのです。娑婆の俗界の中だけでは25人もの菩薩さんは行き場所を失います。
悩める大衆(仏教では衆生と言いますが)を極楽に連れていくのが使命のはずです。なるほど、これで像の姿をした中将姫は、行きは輿の中であっても、帰りは観音菩薩に抱かれた蓮台の中で極楽往生できると衆生に知らしめてくれるということでしょう。奈良~平安時代の浄土信仰と相まって衆生の間で中将姫伝説が定着したのだと思います。何百年を経た今日も、年に一度、中将姫は衆生の前に立ち現われ西方極楽浄土の信仰心を培うことに寄与していることになります。これが當麻のお練りの意味だと感じました。ト、最後は抹香臭いミニ旅行記となりました。
PS 極楽殿に帰るお練り軍団を眺めていると、肩をたかかれ、振り向くと妻でした。彼女の団体は時間を持て余し、その時はみんなバラバラになっていたとのことでした。マ、こんな人混みの中でも会えるものなんですネ
お練りは4時からと聞いていたのに、私のたどり着いた3時ころには、マアすごい人出。山門をくぐる本部と露店のテントが並んでおり、案内プリントをもらう。とりあえず中の様子を把握しておこう。特徴的なことはお練りの舞台であろう幅2~3mくらいの廊下様のものが、入口付近の建物から、奥のほうの建物に伸びている。斜度がつき奥に行くほど高くスロープ状になっていて、その下も潜れるほどで、早くも周りに人が蝟集している。ゴールと見えたところは本殿で、目測100mは優にありそうだ(帰りに本部受付の人に聞くと約120mらしい)。今日だけ、入口の建物のほうを娑婆堂、本殿を極楽堂と呼ぶそうで、俗界と極楽浄土と想定しているのだろう。だからこの橋も来迎橋という。警備員が「ステージに手や物をおかないで下さい」と注意して回っていたが、昔からの伝統行事の舞台に「ステージ」とよぶのはいかがなものか、なんどと余計なことを考えていた。
しかし、それにしても暑い。夏の強烈な陽射しとまではいかないけれど、やはり3時間ほど歩き詰めだったので、「陰に行ってくれ、座ってくれ」と体が悲鳴を上げ始めている。来迎橋の下は陰になるので、グターと座り込んでいる人もいる。とにかく日陰は誰か座っていり、しかたないので、本殿(今日はここが浄土ですナ)に上がり込み一応お詣りする。靴を脱いで上がり込めば、仏教美術の絵画や仏像が見られそうだが、入場料500円もいるので止めにして、そのまま本殿側面に回ると、木の廊下にもかかわらず人があまりいないので、リュックをおろし私もグターとなる。でもすぐに、「ここの人は、皆、下に降りてください」と注意される。日陰ですわれるところなどやみくもに探してもあろうはずはない。
気がつくと囲いの中に中将姫の銅像があった。今日の「お練り」は中将姫供養のためだというから話の都合上、當麻寺境内の案内板によって中将姫のことに述べておこう。
――中将姫は、奈良時代の右大臣藤原豊成公の娘で、幼くして母を失い、継母に育てられました。しかし、継母から嫌われ、山に捨てられました。その後、父と再会し一度は都に戻りましたが、姫の願いにより当麻寺に入った。(そのあと、一千巻の写経、仏門に入り一夜にして一丈五尺―約4m四方の曼陀羅を織ったとかの伝説が書かれている)デ・・姫が29歳の春、雲間から一丈の光明とともに阿弥陀如来をはじめとする25菩薩が来迎され、姫は、西方極楽浄土へ向かわれたと伝えられています。練供養はその伝承を再現したもので、毎年5月14日に当麻寺において行われています。――
父の藤原豊成というのは、古代律令制国家の枠組みを編み出し、藤原氏の栄華の土台を仕組んだあの怪物 藤原不比等の孫というから、スゴイ貴族の家柄だ。幼少のころから才あふれ、にもかかわらず不遇で、出家してからの業績も色々伝えられ・・、ト、色々伝説が膨らんできたのだろう。それにしても8世紀の女性の供養が1300年以上たった今も行われて、観光資源になっているとは、驚きだ。
4時少し前、ついにお練りが始まったのだろう、本殿近くはざわめきだした。私は結局グターと座り込んだのが娑婆堂から20mくらいのところで本殿から出発したお練りご一行からはかなり時間がたってはじめて何がわたっているのかが分かる。
最初、数人で担げるくらいのお神輿のようなものが下ってきて娑婆堂に入る。遅々たる歩みで、娑婆堂の中に入っていく?来迎橋のかぶりつきにも行けてないので、前の人波でなかなか見えない・・。
(以下の記述は帰ってから読んだ案内プリント等などからの説明でその時は、訳が分からないことも多かった)
この輿の中には中将姫の小さな像が安置されていたようだ。
数分おいて今度は、ちょうど私の見ている場所の対面の塔頭から、正装の僧侶の集団が出てきて(20人くらい?)来迎橋に上がり、本堂へと向かっていった。
そのまま10分ほど待つ。次の展開が読めないと不安になりますね。4時を回ると、雅楽の音が響き渡った。
やっと本番だ、と爪先立ってカメラを構えたが、何?!違うやんこれ、稚児行列ヤ。
みんな、ぞろぞろと結婚式並みの和服に着飾ったご婦人に手を引かれてぞろぞろ歩いている。七五三の祝いみたいなきれいなべべをきせてもらっていた。見物人から「〇〇ちゃん」と声をかけられ、はにかむ子もおる。30人やそこらはいただろう。分かった、この稚児行列の参加費が行事運営費に充てられるのだろう。でも、知らんガキがほんとにゆっくり歩くさまを見ていてもすぐ飽きてくる・・シンドイ、前座は早く終わって本番やってくれ。デ、またしばし時間がたつ。
辛抱がきれるまでにはヤット本番が始まった。本殿から娑婆堂にむかって、仮面軍団が下りてくる。
和服の人と並んで、前後1mくらいの間隔で歩んできた。先ほどまでと同じ、ゆっくりゆっくり最小限の歩幅である。最初は頭を丸めた人? すぐに仏像、はやりのことばでいえば「ゆるキャラ」か!
最初の3体は地蔵さん、
続くのはすべて別キャラの25体?25人?の菩薩さん・・・ン・ット、地蔵さんも弥勒菩薩降臨の先ぶれの菩薩さんだったかなあ?
マ、難しい議論はさておいてそれぞれの衣装、手に持つもの――雅楽の楽器とか蓮台とかが異なる。子細に観察するよりも人波の中でいかにうまく写真を撮るかに気を取られる。(後で見たら、やはり多く失敗していました) 菩薩さんと並んで歩いている人は僧形ではないので、やはり當麻寺の檀家総代格の人?? 考えてみると、菩薩のお面からは、うっすらとしか外が見えないようで、菩薩さんが誤って来迎橋から落ちないようにガイドヘルパーの役目もあるのかもしれない。デ、みんな娑婆堂に着いたころ?本殿側ではひときわ大きいどよめきが起こります。ガイドヘルパーもひきつれず、手に持つものをすくいあげるように左右に振りながらまず二人、そして最後尾をしずしずと歩む者がやってきます。
①観音菩薩、
②勢至菩薩―「オガミボトケ」ともいわれる、
③普賢菩薩―天蓋を持つ、だそうです。
たしかに面白かった。しかし、疲れてきたのと一通り見たので、帰り始めてゴールの娑婆堂近くに行くと、今まで見えなかった様子がよくわかります。菩薩さんたちが(ごめんなさいね、何だかお友達みたいな書き方をして)みんな集結したままで待っておられるのです。3人の、多分 格上の菩薩が到着し、娑婆堂の中で何か動作をしたあとで、また来迎橋に立ち戻っていきます。最初に輿で運ばれた中将姫の像を、観音菩薩さんが空で運んできた蓮台の上にセットして置き、行きと同じく左右にすくう動作をしながら連れて帰り始めました。そして、他の菩薩も、それに続いて、またぞろぞろと極楽堂に戻っていきます。そうです、片道ではだめなのです。娑婆の俗界の中だけでは25人もの菩薩さんは行き場所を失います。
悩める大衆(仏教では衆生と言いますが)を極楽に連れていくのが使命のはずです。なるほど、これで像の姿をした中将姫は、行きは輿の中であっても、帰りは観音菩薩に抱かれた蓮台の中で極楽往生できると衆生に知らしめてくれるということでしょう。奈良~平安時代の浄土信仰と相まって衆生の間で中将姫伝説が定着したのだと思います。何百年を経た今日も、年に一度、中将姫は衆生の前に立ち現われ西方極楽浄土の信仰心を培うことに寄与していることになります。これが當麻のお練りの意味だと感じました。ト、最後は抹香臭いミニ旅行記となりました。
PS 極楽殿に帰るお練り軍団を眺めていると、肩をたかかれ、振り向くと妻でした。彼女の団体は時間を持て余し、その時はみんなバラバラになっていたとのことでした。マ、こんな人混みの中でも会えるものなんですネ