竹内街道と、當麻寺お練り竹内街道  その2

2017-05-23 11:00:35 | 日記
② 當麻寺お練り
 お練りは4時からと聞いていたのに、私のたどり着いた3時ころには、マアすごい人出。山門をくぐる本部と露店のテントが並んでおり、案内プリントをもらう。とりあえず中の様子を把握しておこう。特徴的なことはお練りの舞台であろう幅2~3mくらいの廊下様のものが、入口付近の建物から、奥のほうの建物に伸びている。斜度がつき奥に行くほど高くスロープ状になっていて、その下も潜れるほどで、早くも周りに人が蝟集している。ゴールと見えたところは本殿で、目測100mは優にありそうだ(帰りに本部受付の人に聞くと約120mらしい)。今日だけ、入口の建物のほうを娑婆堂、本殿を極楽堂と呼ぶそうで、俗界と極楽浄土と想定しているのだろう。だからこの橋も来迎橋という。警備員が「ステージに手や物をおかないで下さい」と注意して回っていたが、昔からの伝統行事の舞台に「ステージ」とよぶのはいかがなものか、なんどと余計なことを考えていた。
しかし、それにしても暑い。夏の強烈な陽射しとまではいかないけれど、やはり3時間ほど歩き詰めだったので、「陰に行ってくれ、座ってくれ」と体が悲鳴を上げ始めている。来迎橋の下は陰になるので、グターと座り込んでいる人もいる。とにかく日陰は誰か座っていり、しかたないので、本殿(今日はここが浄土ですナ)に上がり込み一応お詣りする。靴を脱いで上がり込めば、仏教美術の絵画や仏像が見られそうだが、入場料500円もいるので止めにして、そのまま本殿側面に回ると、木の廊下にもかかわらず人があまりいないので、リュックをおろし私もグターとなる。でもすぐに、「ここの人は、皆、下に降りてください」と注意される。日陰ですわれるところなどやみくもに探してもあろうはずはない。

気がつくと囲いの中に中将姫の銅像があった。今日の「お練り」は中将姫供養のためだというから話の都合上、當麻寺境内の案内板によって中将姫のことに述べておこう。


――中将姫は、奈良時代の右大臣藤原豊成公の娘で、幼くして母を失い、継母に育てられました。しかし、継母から嫌われ、山に捨てられました。その後、父と再会し一度は都に戻りましたが、姫の願いにより当麻寺に入った。(そのあと、一千巻の写経、仏門に入り一夜にして一丈五尺―約4m四方の曼陀羅を織ったとかの伝説が書かれている)デ・・姫が29歳の春、雲間から一丈の光明とともに阿弥陀如来をはじめとする25菩薩が来迎され、姫は、西方極楽浄土へ向かわれたと伝えられています。練供養はその伝承を再現したもので、毎年5月14日に当麻寺において行われています。――
父の藤原豊成というのは、古代律令制国家の枠組みを編み出し、藤原氏の栄華の土台を仕組んだあの怪物 藤原不比等の孫というから、スゴイ貴族の家柄だ。幼少のころから才あふれ、にもかかわらず不遇で、出家してからの業績も色々伝えられ・・、ト、色々伝説が膨らんできたのだろう。それにしても8世紀の女性の供養が1300年以上たった今も行われて、観光資源になっているとは、驚きだ。
4時少し前、ついにお練りが始まったのだろう、本殿近くはざわめきだした。私は結局グターと座り込んだのが娑婆堂から20mくらいのところで本殿から出発したお練りご一行からはかなり時間がたってはじめて何がわたっているのかが分かる。
最初、数人で担げるくらいのお神輿のようなものが下ってきて娑婆堂に入る。遅々たる歩みで、娑婆堂の中に入っていく?来迎橋のかぶりつきにも行けてないので、前の人波でなかなか見えない・・。
(以下の記述は帰ってから読んだ案内プリント等などからの説明でその時は、訳が分からないことも多かった)
この輿の中には中将姫の小さな像が安置されていたようだ。


 数分おいて今度は、ちょうど私の見ている場所の対面の塔頭から、正装の僧侶の集団が出てきて(20人くらい?)来迎橋に上がり、本堂へと向かっていった。
そのまま10分ほど待つ。次の展開が読めないと不安になりますね。4時を回ると、雅楽の音が響き渡った。
やっと本番だ、と爪先立ってカメラを構えたが、何?!違うやんこれ、稚児行列ヤ。

みんな、ぞろぞろと結婚式並みの和服に着飾ったご婦人に手を引かれてぞろぞろ歩いている。七五三の祝いみたいなきれいなべべをきせてもらっていた。見物人から「〇〇ちゃん」と声をかけられ、はにかむ子もおる。30人やそこらはいただろう。分かった、この稚児行列の参加費が行事運営費に充てられるのだろう。でも、知らんガキがほんとにゆっくり歩くさまを見ていてもすぐ飽きてくる・・シンドイ、前座は早く終わって本番やってくれ。デ、またしばし時間がたつ。
 辛抱がきれるまでにはヤット本番が始まった。本殿から娑婆堂にむかって、仮面軍団が下りてくる。

和服の人と並んで、前後1mくらいの間隔で歩んできた。先ほどまでと同じ、ゆっくりゆっくり最小限の歩幅である。最初は頭を丸めた人? すぐに仏像、はやりのことばでいえば「ゆるキャラ」か!
最初の3体は地蔵さん、
続くのはすべて別キャラの25体?25人?の菩薩さん・・・ン・ット、地蔵さんも弥勒菩薩降臨の先ぶれの菩薩さんだったかなあ? 
マ、難しい議論はさておいてそれぞれの衣装、手に持つもの――雅楽の楽器とか蓮台とかが異なる。子細に観察するよりも人波の中でいかにうまく写真を撮るかに気を取られる。(後で見たら、やはり多く失敗していました) 菩薩さんと並んで歩いている人は僧形ではないので、やはり當麻寺の檀家総代格の人?? 考えてみると、菩薩のお面からは、うっすらとしか外が見えないようで、菩薩さんが誤って来迎橋から落ちないようにガイドヘルパーの役目もあるのかもしれない。デ、みんな娑婆堂に着いたころ?本殿側ではひときわ大きいどよめきが起こります。ガイドヘルパーもひきつれず、手に持つものをすくいあげるように左右に振りながらまず二人、そして最後尾をしずしずと歩む者がやってきます。
①観音菩薩、

②勢至菩薩―「オガミボトケ」ともいわれる
③普賢菩薩―天蓋を持つ、だそうです。
 たしかに面白かった。しかし、疲れてきたのと一通り見たので、帰り始めてゴールの娑婆堂近くに行くと、今まで見えなかった様子がよくわかります。菩薩さんたちが(ごめんなさいね、何だかお友達みたいな書き方をして)みんな集結したままで待っておられるのです。3人の、多分 格上の菩薩が到着し、娑婆堂の中で何か動作をしたあとで、また来迎橋に立ち戻っていきます。最初に輿で運ばれた中将姫の像を、観音菩薩さんが空で運んできた蓮台の上にセットして置き、行きと同じく左右にすくう動作をしながら連れて帰り始めました。そして、他の菩薩も、それに続いて、またぞろぞろと極楽堂に戻っていきます。そうです、片道ではだめなのです。娑婆の俗界の中だけでは25人もの菩薩さんは行き場所を失います。
 悩める大衆(仏教では衆生と言いますが)を極楽に連れていくのが使命のはずです。なるほど、これで像の姿をした中将姫は、行きは輿の中であっても、帰りは観音菩薩に抱かれた蓮台の中で極楽往生できると衆生に知らしめてくれるということでしょう。奈良~平安時代の浄土信仰と相まって衆生の間で中将姫伝説が定着したのだと思います。何百年を経た今日も、年に一度、中将姫は衆生の前に立ち現われ西方極楽浄土の信仰心を培うことに寄与していることになります。これが當麻のお練りの意味だと感じました。ト、最後は抹香臭いミニ旅行記となりました。

 PS 極楽殿に帰るお練り軍団を眺めていると、肩をたかかれ、振り向くと妻でした。彼女の団体は時間を持て余し、その時はみんなバラバラになっていたとのことでした。マ、こんな人混みの中でも会えるものなんですネ


竹内街道と、當麻寺お練り

2017-05-18 00:32:06 | 日記
 さて、この前は歌唱ボランティアの話を書くと宣言したが、5月14日(日)ハイキングと珍しいものを見たので、当初の旅行記から始まったレダック紀行の原点にもどってその体験を書く。

話のきっかけは妻が活動している傾聴ボランティアサークルの親睦会の話を聞きこんだことに始まる。5月14日という日は、奈良県は葛城郡當麻寺で中将姫の「お練り」があるという。私は全然知らなかったが、案内を見ると仮面をつけた仏さんたちがぞろぞろ歩く、いわゆる「お練り」=練り歩くのだそうだ。見たことはない。昔の仮面ライダーごっこか?おもしろそうだ。ただ、4時からの行事であり、電車で行って近所を見学し時間をつぶすようなので、私は所属もしていない団体についていくよりも、一人でハイキングすることとした。ジムでのトレーニング代わりにもなる。ちょうど、家から當麻寺までのコースは、竹内街道を歩いていけばいい。数年前にもやはり一人で行ったことがある。しかも最近の新聞記事で竹内街道が「日本遺産」に指定されたというニュースがあったように記憶している。今日は快晴だ。コンビニで弁当でも買ってと・・心も浮き立ち、ハイキングに出かけたのでありました。

① 竹内街道ハイキング
「日本遺産」と書いたがご存じ? 世界遺産はあまりにも有名だし一大観光スポットになっているが、こちらはあまり知られていない、私もよく知らぬ。このブログを書くために調べたら、「日本遺産Japan Heritageとは、地域の文化財はじめ伝承、風習などを一体的にストーリーのもとでつなげていく文化庁の認定制度」らしい。ごく最近平成27年から認定が始まり今年で3年目、たとえば能登のキリコ祭り、鯖街道、琵琶湖、京都の宇治ほかの日本茶800年の歴史散歩など54件にのぼるという。だから、知らないほうが当たり前なのでしょう。ハハーン2020年東京オリンピックをあてこもうという魂胆か?と推察するのでありました。
 とまれ、「1400年に渡る悠久の歴史を伝える最古の国道~竹内街道・横大路~」が今年の4月28日に認定されたということらしいです。わが家族は1980年に羽曳野市に引っ越してきたのですが、竹内街道のことは早くから聞き及んでいました。我が家の400mほど北側にある「中の太子 野中寺」の前の道を堺―羽曳野線といいますが、その1本南の狭い道が竹内街道で、曲がり角には道標があります。南下して峯塚古墳―白鳥古墳のわきを通り、古市を越えて石川を渡り・・というコースなのですが、そこから先は行ったことがないので、とりあえず、古市から上ノ太子まで2駅近鉄電車を利用することとしました。ついでのことに、街道からは少し外れることになりますが「上の太子」の叡福寺・聖徳太子墓も見学したかったからです。
「太子」という言葉を何回も使っていますが、いうまでもなく聖徳太子のこと。一時は、お札の肖像だったから誰にとってもありがたい方でありました。羽曳野市の隣が太子町ということで、いたるところに古墳・御陵があり、王陵の谷と言われています。かの推古天皇陵や小野妹子の墓もあります。しかし、観光名所として有名とまでは言えないようです。だから、「太子町」にとっては、日本遺産指定は地域おこしの絶好のチャンスなのでしょう。だから、竹内街道を歩む前に「聖徳太子廟」と「叡福寺」に立ち寄りました。聖徳太子とその母・妃が眠るとされており、「上の太子」と言われているのです。そして推古天皇がこれを祀るために建立したとされるのが叡福寺です。駅からの道沿いは瀟洒な一戸建の住宅が続きます。数年前に来た時の印象とまるで違います。なだらかな登りが終わり下りに入りかけると右手にこんもりした古墳らしきものを目指していくと果たして叡福寺でした。
 これからの体力温存のため、広い境内を歩く回るのやめ、早々に竹内街道に戻る道に行く。
太子町役場の前を通り、六郷橋に着く。バス停で一休みし、サア、いよいよここからが竹内
街道本番だ。そもそも堺から奈良県葛城市の長尾神社までの26キロほどの道のりを指すが、
日本遺産認定に向けて提出されたストーリーを引用しておく。 
 「春分と秋分の日、太陽は三輪山から昇り、二上山を越えて大阪湾に沈む。このことから推古天皇21年(613年)に東西の直線で敷設された幅20mを超える大道(竹内街道・横大路)は太陽の道と言われる。古代には、大陸からの使節団が難波宮から飛鳥京を訪れ、先進技術や仏教文化を伝えた。中世には経済都市を結び、近世には伊勢参りの宿場町としての賑わいを見せ、場所ごとに様々な表情を浮かべる。1400年の歴史の移り変わりを周辺の歴史遺産を通して感じさせる日本最古の国道。それが竹内街道・横大路なのである。」

 この機会に建造されたのであろうでっかい道標をこえて街道を歩んでいく。結構登りもある。道沿いの民家が出しているプランターにも「竹内街道」の文字が描かれている。太子町あげて日本遺産認定を活用しようとしている様子が分かる。有名な民家の隣に「竹内街道交流館」なる施設ができていた。これは知らなかったので立ち寄った。この街道にまつわる文学作品などの展示がしてあるようだったが、中にいた職員が「竹内街道が日本遺産になったのをご存知ですか?」と話しかけてくる。また、「アンケートにご協力を」とも言ってくる。たしか竹内街道歴史資料館があるので、そこで休憩しようと思っていたのだが、話しかけてくるものだから、リュックをおろしここで小休止をとることにした。奥にいたお母さん二人が「暑いでしょ!」といって冷水をサービスしてくれる。ありがたい。給水器のほうを見ると「コーヒー100円」と表示してある。これはいい! 「アイスコーヒーで」と注文する。気さくそうなお母さんが「お昼は?」と問いかけてくるので「まだだが・・」と答えると「サンドイッチいかが?」とまたまた聞かれた。「いや、私らのお昼の分なんやけど、たくさん作ってきたんで」「エ、いいの?」というわけで、ラッキー、100円でツメターイ アイスコーヒーと手作りのサンドイッチにありつけたのでした。これも太子さまのご加護?でしょう。デ、ここでしばらく駄弁り、アンケートを書かぬまま、英気をやしなって再出発しました。青年は町役場の日曜出勤の吏員(日本遺産になって、日曜日に町立施設をクローズできるわけはないネ)、お母さんは地元のボランティアということでした。
 行く間もなく、「歴史資料館」200円の入場料でしたが、マ、それなりに工夫されていたと思います。そして、またそれほど行かぬうちに道の駅がありました。ここでお昼と思っていたのですが、もう済ませたモンネ。

 問題はここからです。国道166号線に沿って歩くことになるわけですが、ずーっと竹内峠まで登りで、これが結構きつい。国道は当然車が飛ばしている。好天気であるから、汗ばむ。でも、みどりの風?青い風?は絶えず応援してくれるようで、頬に心地よい。途中人との接触は3度、登りで自転車を押してる人は追い抜いた。立ち止まって多分地図を熱心に調べている若者に追いつきかけたら、顔をあげて声かける間もなく先行していった。愛想のない奴! 一人は反対側から上ってきて道を聞かれた。知るわけないだろう。
 デ、二上山登り口をやりすごし、下りに入っていくと、またもなぜか166号線のむこう側に「竹内街道」の大きな木の看板がある。国道を横切りそこに入ると昔の街道にまた出会う。杉木立で陽光も遮られたところもあり、イイ感じ。そんなに続かなかったが、林と田んぼを縫ってしばらく歩みを続ける。また国道と合流したので、どこかで左折すれば當麻寺の方向とあたりをつけたが、ここからがシンドカッタ。ちょうど正午頃に上ノ太子駅を出発し2時間以上経過して、遮るものとてない陽光はきびしい。かなり登っていたようで、遠くに見える街並みはかなり低いところにあるように見える。石光寺・當麻寺の看板が見えてからもなかなか着かぬ。思わず、ソフトクリームの看板を見つけて店に入ったら、順番待ちのようで有名な蕎麦屋と知る。ソフトクリームだけを贖い外で食べると注文して324円を払う。ソフトをなめなめ、元気を出して何とか交差点にたどり着くとそこはもうエライ人出。
 ソフトを人に触れないように気を使いながら山門にたどりついたのがちょうど午後3時でした。帰ってから地図ソフトで距離を測るとほぼ10Km、叡福寺・交流館・歴史資料館
の見学・休憩の時間が1時間としたら、昔の街道は時速5k/hくらいだったわけで、マ、十分トレーニングにもなったのでしょう。 (とりあえず今日はここまで)


レダック アラコキ日記 再開

2017-05-01 14:49:23 | 日記
 素材はあるのに、書く気力を喪失し、かなり長期にわたってこのブログも開店休業状態が続いていたが、やはり、覗いてくれている方がおられるようで
再開したいと思う。次に気力無くしたら、その時は、閉店します。

 今回は、まだ原稿が固まっていないので、とりあえず、我が家のモッコウバラ。なんか普通のブログみたいですが・・

ついでに花の名は知りませんが・・

次回はまじめに報告します。地域活動の歌声ボランティアについてです。