<はじめに>
「レダック ピースボートに乗る」をアップしていましたが、下船してから1年以上たち、別の紀行文や身辺雑記・随想など衣替えいたします。
なお、今年69歳となり、古希となりました(いわゆる「数え年」では、ゼロ歳がないので69歳で古希です)。勤めに類するものが一切なくなったこともあって、生活様式や思うことも変わってきました。戦後70年世代としてはっしんしていきたいと思います。ちなみにアラコキとは、かつて「アラフォー」とから「アラサー」大方40台、30台という言葉がはやったことを踏襲(近年ではアラカン=還暦)したものでほとんど古希の意味合いです。少子高齢化の中で、医学的にも、就業・雇用や福祉の面でも、今の70歳はかつての60歳ー還暦に相当するそうです。終戦の年に生まれた世代がどう奮闘できるか?という観点からお読みいただいても結構です。
<パート1>陸前高田でのチョビボラ奮闘記
① 奇跡の一本松と希望の架け橋
2015年6月23日、私とIさんは、「奇跡の一本松」を見上げていた。すでに何度も国道45号線(註)から遠望していたが、根元にまで行ったのはIさんも私も初めてであった。名古屋のIさんと私は、ここから少し南、つまりは気仙沼のほうに下った福伏という地で、「陸前高田カモメネット」のボランティア活動に来ていたのだが、翌日帰ることにしたので、土産物買いと最後の「観光」に来たのである。
註 国道45号線を走っているといたるところで「前方○○m、後方△△m」と、合計が4550mとなる同様の標識が見られる。4.5Kmにわたって津波に浸水した区間を表示したものだ。歩いたら1時間の距離ですよね、想像しがたい! また、この区間を超えても、海水の押し寄せた区間については、「ここから」「ここまで」と標識で分かるようになっている。
5年目を迎えた被災地、とりわけ陸前高田の象徴とも言われる一本松そのものは有名になり今も観光客が訪れている。7万本の松林が津波で根こそぎ持っていかれた(想像できます?!)なかで1本だけ残り、有名になってから枯死し、さらにその幼苗からの復活の物語は確かに奇跡と言ってもいいだろう。
しかし、松よりも私が圧倒されたのは、フェンスで周囲を囲われた区画にある広大な盛り土の群、その盛り土の上に区画を超えて、はるか上方につながりあう巨大なベルトコンベアである。小学生から募った愛称を「希望の架け橋」という。
土砂の山も人間の背丈+アルファ程度のものもあれば、はるかに高く5mくらいのものもある。低地平野部はこの土の山があちこちに築かれ低地からでは海が見えないところもできているようだ。
陸前高田市の復興計画は、防潮堤を5.5mから12.5mに上げて復旧し、すべて押し流され壊滅した低地については、土砂をベルトコンベア群で運び海抜10mまで嵩上げする、そして、ここは商業地、ここは○○という形で計画的に街をつくりなおすという壮大なもの。嵩上げにまず驚く。10mならビルの3階分くらいある。これまた想像を越える!!だから、各区画のあちこちにダンプカー、ブルドーザーが並んでいる。またまたビックリの55トン車(車輪が2mをはるかに超える)も高田には100台ほど集められているそうだ。
おおよその街のかつての中心部だけでも嵩上げまでにあと何年かかるのか? (夢の架け橋は来年には撤去されるという話もある) 呆然とした思いで、頭上の架け橋を仰ぎ見る。私がこの光景を見ることは、多分もうあるまい・・
「レダック ピースボートに乗る」をアップしていましたが、下船してから1年以上たち、別の紀行文や身辺雑記・随想など衣替えいたします。
なお、今年69歳となり、古希となりました(いわゆる「数え年」では、ゼロ歳がないので69歳で古希です)。勤めに類するものが一切なくなったこともあって、生活様式や思うことも変わってきました。戦後70年世代としてはっしんしていきたいと思います。ちなみにアラコキとは、かつて「アラフォー」とから「アラサー」大方40台、30台という言葉がはやったことを踏襲(近年ではアラカン=還暦)したものでほとんど古希の意味合いです。少子高齢化の中で、医学的にも、就業・雇用や福祉の面でも、今の70歳はかつての60歳ー還暦に相当するそうです。終戦の年に生まれた世代がどう奮闘できるか?という観点からお読みいただいても結構です。
<パート1>陸前高田でのチョビボラ奮闘記
① 奇跡の一本松と希望の架け橋
2015年6月23日、私とIさんは、「奇跡の一本松」を見上げていた。すでに何度も国道45号線(註)から遠望していたが、根元にまで行ったのはIさんも私も初めてであった。名古屋のIさんと私は、ここから少し南、つまりは気仙沼のほうに下った福伏という地で、「陸前高田カモメネット」のボランティア活動に来ていたのだが、翌日帰ることにしたので、土産物買いと最後の「観光」に来たのである。
註 国道45号線を走っているといたるところで「前方○○m、後方△△m」と、合計が4550mとなる同様の標識が見られる。4.5Kmにわたって津波に浸水した区間を表示したものだ。歩いたら1時間の距離ですよね、想像しがたい! また、この区間を超えても、海水の押し寄せた区間については、「ここから」「ここまで」と標識で分かるようになっている。
5年目を迎えた被災地、とりわけ陸前高田の象徴とも言われる一本松そのものは有名になり今も観光客が訪れている。7万本の松林が津波で根こそぎ持っていかれた(想像できます?!)なかで1本だけ残り、有名になってから枯死し、さらにその幼苗からの復活の物語は確かに奇跡と言ってもいいだろう。
しかし、松よりも私が圧倒されたのは、フェンスで周囲を囲われた区画にある広大な盛り土の群、その盛り土の上に区画を超えて、はるか上方につながりあう巨大なベルトコンベアである。小学生から募った愛称を「希望の架け橋」という。
土砂の山も人間の背丈+アルファ程度のものもあれば、はるかに高く5mくらいのものもある。低地平野部はこの土の山があちこちに築かれ低地からでは海が見えないところもできているようだ。
陸前高田市の復興計画は、防潮堤を5.5mから12.5mに上げて復旧し、すべて押し流され壊滅した低地については、土砂をベルトコンベア群で運び海抜10mまで嵩上げする、そして、ここは商業地、ここは○○という形で計画的に街をつくりなおすという壮大なもの。嵩上げにまず驚く。10mならビルの3階分くらいある。これまた想像を越える!!だから、各区画のあちこちにダンプカー、ブルドーザーが並んでいる。またまたビックリの55トン車(車輪が2mをはるかに超える)も高田には100台ほど集められているそうだ。
おおよその街のかつての中心部だけでも嵩上げまでにあと何年かかるのか? (夢の架け橋は来年には撤去されるという話もある) 呆然とした思いで、頭上の架け橋を仰ぎ見る。私がこの光景を見ることは、多分もうあるまい・・