私の轍 WatasiのWadachi

2022-03-25 10:40:23 | 日記
私の轍 第5回
5 大学生のころ

① 学び 
● 志望した京都大学 文学部に合格した。難しいとされている数学で出題されたうち、関数・グラフの問題に取り組んでできたという感触は今も懐かしい。周りの理系の秀才の友達が色々助言してくれたおかげと感謝した。
● 守口から京阪線で三条まで、当時まだ走っていた市電に乗って吉田の「教養」に着く。第二外国語の選択によるでクラス分けがあった。ドイツ語を選択したが、ここでも、やはり少なからずカルチャーショックを受けた。浪人生が多く、女子が少ない。語学の時間になると、休憩時にセクトの連中がオルグに来る。クラス討論もあって活発に意見を言う猛者も多い。高校時に、民青のフラクションに誘われたこともあり、全く免疫力がないわけではなかったが、政治的党派の多彩な主張には驚かされたが同時に胡散臭さも感じられた。 結果、高校と同じく陸上部に所属し、農学部グランドまで通う生活が始まった。
● 自由・自主的な学びこそが大学生活の醍醐味と考えていたが、試行錯誤の連続であったといいえよう。党派に属する諸君の政治的主張は随分偏狭なように思えて、もっと緩やかなものを求めるうち、鶴見俊輔らの「思想の科学」に依拠するようになった。アメリカのデユーイらのプラグマティズムを啓発的に広めようとする月刊誌である。実用主義と訳されることが多いが、必ずしも内実を伝えきっていないと思っている。観念世界にとらわれるより、現実生活にどう生かすかというほうが大事と考える流派と解釈している。(私の父の冗談「鏡台、飯台、寝台」論から考えると、父もプラグマティストの素質十分であったと言えると思う。) だから、現実の問題の解決に役立たない空理空論や、議論のための議論はきらいだし、公平性や正義を踏みにじるようなことは許せないという心性が出来上がってきたと思う。

● 学部に進学してからの専攻は、哲学科社会学。研究者・学者の数だけ〇〇社会学があるように思えるほど、テーマ、方法論が多様である一方。確立した理論構成や方法論については未成熟な学であると感じてた。社会学の「実習」では、農村調査に行ったが、閉鎖性―開放性といった常識的な二項対立の概念軸を使って聞き取り調査をやって、どんな意義があるのか疑問だった。だから、社会学を学ぶことによるスキルを磨いたとは言えない。何か語学をマスターするのに注力すれば良かったと思っても、もはや遅い。

● 就職希望者は事務室に掲示されている求人表をみて申し込む。複数いれば指定された時間に行き「じゃんけん」で応募することになる。経済学部や法学部の場合はいざ知らず、文学部はそんな様子だった。私も凸版印刷の求人票を見て、じゃんけんに勝ち、就職試験を受けて、筆記は合格した。ほどなくして、東京での面接に来い、ということだったが、気乗りがせず行かなかった。しかし、文学部内でも社会学講座の学生は、はなからマスコミ関係志望者が多く、広告業界、TV局、新聞社等々に就職していった。個人情報に無頓着だった私も、どこかにチャレンジしなければまずいと考え、無謀にも倍率ウン十倍の出版社、雑誌「展望」を出していた筑摩書房と、世界哲学全集等の河出書房新社などを受験した。恐ろしいほどの難しい入社試験で歯が立たなかった。
● 一方で中学・高校の教員免状の課程をとれるようにはしていたので、京都府の高校教員採用試験を受けた。G判定(合格)の通知が送付されてきたが、個別の連絡はなかった。年が改まり、大学院の試験もあるのに、やはり何の連絡もないので京都府教育委員会に連絡を取った。「G判定であっても、公務員ですから、そのポストがあかないと採用にはなりません」「倫理社会の欠員は、専門の先生がおられなくとも他の社会科の先生で回すことが多く、さあー 来春の人事については3月にならないと分からない。丹波のほうで定年の先生がおられますが・・サアーなんとも」 なんとあやふやなものかと愕然なったが、さすがに焦る気持ちが強まった。
● 研究者になることも魅力的な選択肢であったので、修士課程の試験を受け合格したので、結局京都府の教員にはならなかった。人生の岐路なんて分からない。もしかして、冬になれば毎日のように蟹に舌鼓を打っている老後を送っていたかもしれない。ナーンちゃって

②  陸上部
● 高校のときにはビリから何番という選手が、大学に入ってからも運動部活動を続けるなんどは、いかにも物好きと思われるかもしれない。実際、京の町を京大陸上部のエンブレムをつけて長距離走で駆け抜けるとき、町のおばちゃん方が「あの人ら、京大まで入って走らんでも、他にやることあるやろうに」と話し合っていることを聞いたこともある。この時期に、ついてきては、噛みにかかる犬が嫌いになりました。
● 入学年の昭和39年(1964年)は東京オリンピックが開催された年ある。農学部のグランド(1周500mで公式競技場より広い)に行き、自分  でもやれるのかなと思ったし、慣れてくると授業をサボりがちになるので生活のけじめをつけるためには、教養課程の「吉田」から農学部のグランドまで毎日半時間は歩いて練習をしたほうがいいに決まっている。入部してみると多士済々、生涯にわたる友はここでできた。
● 当時の陸上部の長距離陣は強化する必要があり、コーチが4人ほどの上級生に毎日特訓を課しているようであった。たまたま我々の学年は、数えてみると10名が中・長距離志望であった。活気はあったしすぐに馴染んだ。パートだけでなく部全体の雰囲気も良かった。一部私学に見られるようないわゆる「運動部」の人権無視の体質、しごきという名の非科学的トレーニング、など一切無いところも気に入った。自由投稿で文集を創ったり、合宿所で読書会などをやる運動部など、あまりないでショ。
● グランド練習以外に長距離陣の特性を生かして、「今日は大原三千院」、「明日は休養日で哲学の道から南禅寺の疎水コース」、「来週は 嵐山 渡月橋」など、帰りの市電・バス代と入山料だけ携えた観光地巡りは楽しかった。正月2日?の初詣には、比叡山の自動車道を使って三井寺から琵琶湖を眺めたこともある。
● 今のアスリートからみると、「何だ」という記録だったし、大会で通用するような選手ではなかったが、ま、生涯スポーツの基礎体力はこの4年間で鍛えられたと思う。曲がりなりにもマラソンも完走?しました。公式記録=2時間52分2秒(1967年福知山マラソン)、3時間きり=サブ3です。遅いなりに頑張っていましたが、30Km過ぎたあたりから、もうろうとなりました。徹夜明けの朝は、太陽が眩しすぎて、意識がまともでない、というアノ感じなのです。補給処でジュース2杯、両手にバナナをもって歩いているうちに回復しましたガ・・二度と挑戦しようとは思いません!
● それに冬場には駅伝がある。陸上でリレーと並んで団体戦の要素のある種目は面白い。4回生にもなって一人だけ関西駅伝のメンバー、それもアンカーと決まり、練習に注力していました。進路未定でよーヤルワ!という声が聞こえてきそうです。当時のコースは京都西京極競技場~丹波路で、最終区間は、「敵は本能寺にあり」と言った明智光秀で有名な「老いの坂」を超え、京都の街並みに入っていく。登りで追いついてきた京都教育大をあっさり引き離したのだが、下りで左右ともこむら返りを起こし、走っては伸ばし、つっては立ち止まりまた伸ばすという涙ぐましい走り。再び追いつかれたが、最後は置いてけぼりにして順位は守りました。一生記憶に残る駅伝でした。

私の轍 第3回

2022-03-16 11:08:53 | 日記
私の轍 WatashiのWadachi 第3回
 読者の皆さん、申し訳ない。これがアップされずに、第4回が先に出たなんて・・

第1章 4 高校時代

① カルチャーショック
● 多くの皆さんもそうであるように、高校生活によって世界が格段に広がり、少なからぬカルチャーショックを受けた。
 中間考査 教師「数学試験範囲、P○までと、問題集の何番まで」 生徒「問題集で分からない所があるんですが」 教師「次の時間は先に進まず、問題集の質問タイムとします」。 私(内心)「何 それ。そういえば一緒に買わされたなあ。授業でちっとも使わなかったから、参考に持ってるだけやと思っていたが・・ それよりビックリしたのは、それをやっているやつがいたこと。 次の時間 私(内心)「エ! こんなにたくさんのやつが質問するなんて・・ゲゲ 」
 音楽の授業でレコード鑑賞などすれば、冒頭の部分で曲名を言い当てるやつがいる。
 1時間目の授業に遅刻した生徒が教師に叱責された。「遅刻の理由は?」「本を夜中まで読んで寝不足で朝起きられませんでした」「そうか、何の本を読んでいた」「ソクラテスの弁明」 中学では当時ほとんどが丸刈りで、高校では頭髪を伸ばすことが一つの楽しみになっていたものだが、まだ、いがぐり頭のままの生徒が、教師とこんなやり取りをしている。
 誕生日パーティに御呼ばれに行ったら広い屋敷の庭で、初めて食するような料理を用意するお嬢様がいる。ハイソサイティの子女のように見えた。
● 昭和36年4月、守口一中から大手前高校に進学したのは6名ほどであったと思う。多くは市内有名中の出身者で、東中や船場中といった中学名、あと守口に近い旭区の中学の出身者だったと思う。しかし、小学校で見知っていたのに、中学では姿を見なかった者、あるいは、当時の5学区制での京阪沿線で言うと守口や門真までのはずなのに、枚方からかよっていた者も多かった。ナンデヤネン! 形式的には越境入学の禁止と言われていたようだが、内実はざるの底だった。守口一中出身と言っても、認知もされておらず、マイノリティとして高校生活はスタートしたわけです。

② 部活動
● バスケット部の練習を見に行く。中学府予選の準決勝で完璧に抑えられた旭東中新入生の選手が、先輩にぼろくそに怒られている。
「アカン、バスケは無理。僕は陸上に入って、ひたすら、この大阪城のまわりを走ろう」と決めて陸上部に入りました。弱小クラブでインターハイにひっかかるような選手もおらず、上級生はと言えば、中長距離・跳躍・ハードル・投擲などはほとんど一人の状態で、400リレーがなんとか出場できるくらい、当然私も、指導者もおらず、他の部員と同じようにスタート練習をしたあとは、一人でフラフラと大阪城の周りを指導者もおらず、ふらふらとjogしていました。だから、戦績など恥ずかしいもので、大阪の大会などでは、いつもビリにはなるまいという有様でした。初めてのインターハイ大阪府予選5000mに出場しました。当時高校No1の日本記録を作った沢木圭介?が3年生で同じ組です。400mトラックを12周半するわけですが、2周抜かれました。横を風が通り過ぎるようでした。それでも、素人とは練習量も違うので、3学期の寒い時期に学校行事としてあるマラソン大会には、2年の時には優勝したものです。おまけがついておって、昔の女学校の伝統からか、金蘭祭?とかいう自治会主催のキャンプファイアーが当時は開かれておったわけですが、その点火役が、前年のマラソン大会の優勝者なのです。後に、大手前出身の後輩の女の子が、「あの時の、Aさん、かっこよかった」とかいっているではありませんか! 惜しいことをしました。そんな時期もあったのです!!

③ 2年のクラス
● 2年になると、高校生活が楽しくなっていった。友人も増えた。それまでの学級担任が府教委の指導主事と抜かれたあと、大学卒後間もないと思われる若い教師に替わった。中文を専攻していたようで、「楊貴妃の沐浴の下り」など、ヤニ下がって嬉しそうに講義していたことを思い出す。
 しかし、教師としては経験不足から、学級経営など念頭にも無ければノウハウも持っていない。生徒二人の個人懇談をよびかけられ、当時仲のよかった友人と担任の下に行ったのだが、先生からの話とてない。気の毒になり、友人と二人で話題を探して喋っていたことを思い出す。クラス経営も、ホームルームの運営も生徒にほとんど任されていた。ということは、出席番号1番だから学級代表の私の責任は重大だ。ホームルームの時間を仕切るはめになった。学園ドラマみたいに、何回も討論会を続けたりする一方、休み時間には即決のトランプに興じたりして、忘れられないクラスとなった。男女の関係なく「仲良し」だった。中国・九州方面への修学旅行も忘れ得ない。3学期、盛り上がりクラスの解散会をやろうという話になった。学校の近所に医者の息子(木本君)が住んでいるので、そこの1室(といっても、広間が凄い)を借りることに話がついた。学級委員長としては、後顧の憂いを残さぬよう、担任に通告しておいた。デ゙、あやふやな記憶であるが、30人くらいは集まったと思う。それもビール抜きで、よくあれだけ盛り上がれたものと思う。(純朴であった・・酒なしで・・)
● 勉強のできるやつも多かった。例えばK君。模擬試験でトップの座を譲らなかったK君は、早くから東大間違いなしという折り紙つきだったが、「僕は数学の岡潔先生に習いたい。(当時)奈良女の先生で女子大には行けないが京大には講師で来ている。だから、京大に行く」と宣言していた。しばしば、短い鉛筆をなめ、手帳を開けては何か書き付けている。「何をしている」と尋ねると「思いついた俳句を忘れないよう書き留めている」とのこと。また、カナヅチなので「泳げるようになりたい」という理由で水泳部に入ったという人物。彼は、私が3年で悩んだときはカウンセラーになってくれた。どんな人生を歩むかと思ってたら、やはり大学の数学の先生となった。他にも難関大学や医学部に行った者も多かった。


私の轍 第4回

2022-03-05 16:50:16 | 日記
(ウクライナ侵略がえらいことになってる中で、日常生活も何やかやあって、気が付きゃ、第3回 高校生活①が無い、手入れしようと思って、少しの間、そのままにしておいたら、無い!!  プレビューまではできたのに、どっか行ってしまった???
 ということで、できるだけ早く 第3回をアップしますので、この第4回を読むのを待ってネ
4 高校時代② 続
③ 学び・進路
● 3年生となる。さすがに、受験プレッシャーはかかってくる。文系・理系・文理系のクラスわけで私は文系にしたのだが、2年生の親しい友人の多くは理系・文理系に行き、クラス内に見知ったものはあまりいず、ひたすら暗い受験生となったのである。青春の悩み多き時期だった。(だから、当時のカリキュラムでは、数学Ⅲの微積分や行列・確率などは全然学ばなかったことは、後から考えると残念んzことだった。)
● 一つは大学進学か?就職か?の進路についてである。当時は、大手前といえども少数ながら就職者もいた。家に帰ると長兄と次兄が父に仕込まれながら、大工修行に励んでいる。建築ブームの時流に乗って家業は成功してきたとはいえ。大きな店ではなく、数人の大工職人と息子2人がいる。3人もいらぬ。私はと言えば、勉強はよくできるが、不器用で大工は不向きだから、「好きな方面に行け」と言われ大学進学を目指した。兄姉4人いても、大学に行った者はだれもいない。なかでも長兄は学業面もかなりでき大学進学の意思も成績も備わっていたように聞く。しかし、父は認めなかった。父と長男の確執めいたものを、高校生くらいになると感じていた。自分の勉強部屋は道路に面した二階にあり、向かい側は建築現場の資材置き場兼作業場があった。作業の音が聞こえてくると、自分一人がのうのうと受験勉強をしていていいものかと悩んだ。大学に進学することに後ろめたさを抱えていた。だから、授業料の高い私学は鼻から受験する気はなく、ダメなら就職しようと決意した。
● 今一つは、2年時に憧れていたマドンナに対して本気で人を恋うる感情が強まった。かつての青年が愛読書としていた安倍次郎の「三太郎の日記」で鎮めようとした。この本に触発されて、哲学的なしこう志向であり、
思考でもあり、嗜好でもあった)に興味を持った。試行敵に、ニーチェの「ツアッラートストラかく語りき」を読んだ。2年生の時だったか、堀江謙一さんの「太平洋ひとりぼっち」が評判になった時で、所詮世界は違うので憧れ以上のものではなかった。「哲学」に関して生齧りの知識でも知っていることが、私の知的プライドだった。
国語の時間に例の楊貴妃好きの元担任から、弁証法を説明するに当たって私に「知ってるか」と尋ねたのでドイツ語の「アウフヘーベン」と答えて得意になったことはいまだに記憶に残っている。
● 受験勉強については、文系で上述のような哲学しこうもあるからして、一番得意にしていたのは、現代文の評論である。文法的知識の欠如していた(真面目に努力しなかった)古典は苦手で合計は大したことはなかったが、小説・評論・古文・漢文で25点づつの配点中25点は任せとけくらい
の自信を持っていた。社会や英語はまあまあだが、数学は分からないのではないのだが点数がとれない。よくできる友人に相談したら、当時出版されていた「大学への数学がいいぜ」ということで、夏休みに2回仕上げた。2学期になってからの校内模試や、腕試しの予備校模試でも何とかなると思うようになった。
● そこで、大学選びである。文学部に照準を定めたが、京都・大阪・神戸の中でいずれを選ぶかが問題である。当時の試験は3月上旬一斉で、入試科目に違いがあったが、今のような偏差値で判断するという風習はなく、担任は「受けたいところを受けよ」以上のことは言わない。(そもそも進路指導という観念そのものが大手前の教師には無かったのかもしれない。)理科は京大だけ2科目、阪大・神戸は1科目で、生物の対応をしていたが、そのあたりが一番のネックであった。他の多くの級友とは違い、浪人は許されぬ、私学には行く金がないと思い込んだ上で、父に言った。冒頭の生い立ちところで述べた「鏡台、飯台、寝台」のダジャレ、諧謔の話に、気も楽になり、2科目目の「化学」に急遽取組み京都を受験することにした。京大の数学は難関という話だが、合格したのは分からなかった数学で点数が取れたおかげと思っている。

④ 青春いろいろ
● 陸上部や2年時のクラス仲間以外にも、よく付き合ったグループがいた。東京の山手線を夜中に徒歩で歩いた話題になった大学生の弟が、われらも規模は小さいが大阪環状線徒歩1周をしようと企画した。私もなぜか誘われ、民放に計画を持ち込み、各駅に着くたび電話し、電波に乗せてもらったのである。その時のメンバーに誘われて、小坊主修行をすることになった。二人の友人のどちらかがお寺さんに知り合いがおり、「大徳寺は大仙院で、受験勉強しないか」という誘いに安易に乗り、1週間ほど生活したのだ。馬鹿だね俺も! 寺では早朝に起き、まずは掃除、座禅の真似事をして、昼間に勉強したというもの。私たち3人の生活指導係が尾関宗園さんという方で、楽しい思い出となった。これを書いているにうちに懐かしくなりWEB検索すればこのあとすぐ、住職となり著作・テレビも含めた説法で有名となった僧侶であった。
● この友人に誘われ、今で言うボランティア活動にも2~3回参加した。知的障害児の宿泊施設で労働奉仕し、職員や園児と交流するというもの。
 この活動は、大学入学後に本格的にやりだすので、詳細はそこで記す。
● 2年生の時、政治にも目覚めた。部は陸上だったが、別のクラブの尊敬できそうな先輩に誘われ、ある会合に呼ばれた。20人くらいだったか?何人か見知った顔もあり、熱心に討議していた。場の中心にいたのは、文化祭で演劇のヒロインを演じていた女性だった。それこそ、校内一のヒロインだ。社会問題や政治について熱っぽく論議する姿に感動した。2回目に行ったときは、様子も知れたことだし、大して心動かされることもなかった。他の人から、子のヒロインの父は、政党色明らかなバリバリの市会議員と聞いて、「なるほどな」と思い、それ以降参加することもなかった。