① 去年の初挑戦
昨年(2015年)、69歳を迎えた。古希となったのだ(旧暦だと生まれたら1歳だから、70歳になる)。今や仕事だけでなく、諸活動もリタイアしてしまうと、きょうよう(今日用)もきょういく(今日行く)も、自分で作りださない限り、無い。
老後生活をどう生きるか?ということをめぐっては、現役時代以上に多様であるが、先輩や友達を見ていると、大雑把に言って、二通りあるように思う。一つは、やりたいと思っていてもいろんな条件のためにできなかったことをやり始めるというタイプだ。自分に対する投資をいとわない人もいる。今一つは、これまでの経験や知見を活かし、今までの生活パタンを踏襲していくというタイプだ。もちろん、心身の不具合のために、やむなく療養や闘病が主になる人々も多いだろうが・・
私は、結局は後者のタイプだ。新しいことを始めようと意図したこともあったが、今更、高すぎる自己投資は見送った。一昨年のピースボートの旅行関係以降は、日常的に続けているのはジム通いだけだ。別に取り立てての趣味もなく、昔の長距離走者の追憶と未練から、というより生来の運動音痴で走ることしか能が無かったせいか、トレーニングにいそしんでいる。体は堅いしリズム感も悪いので、スタジオのレッスンに参加することは稀で、走るしか能がない。
ある日、そのジムに置いている「堺市民マラソン大会」のパンフを見ると、年齢によっていくつかの種目があり、15歳以上10Kmもある。ジムのランニングマシンは、一人30分に制限されているので、5Kmは走れても10Kmは30年ほど走ったことはない。せめて、古希記念に、「これは、一つ挑戦してみようか!」「古希の年だし、当面の目標としていいかもしれない」とレダックは決意したのでありました。1年前のことです。
② 僕の幼児~小学校時代の運動歴は悲惨なものだった。「早行き」で体も小さく、鉄棒・跳び箱ができず、友達とのゴムボール野球もほとんどやった覚えもない。「これではいかん」と、中学時代の部活にバスケットボールを選んだ。その成果はともかくとして、基礎体力養成のためとにかく走らされた。デ、(陸上部は出場しない)校内マラソン大会で優勝したのだ。そこで、高校時代には陸上部に入ったのだが、顧問の指導は望めないうえ校庭も狭く、一人大阪城の周りをまわるという練習だった。強くなれずに、大会に出ても5000mは周回遅れ、ベッタにならないようにがんばるという有様だった。
それでも、大学入学後、選んだのは、結局陸上部であった。あれからもう半世紀経ってしまったのだなあ! 大会に出場はしても入賞はできない二流、イヤ三流選手だったが、友に恵まれ、楽しかった。だんだん授業をサボりだすと、生活の核をなすのは陸上部の練習だった。長距離走者には駅伝という場がある。チーム選手に選ばれなくとも、大会によってはBチームも出場できて励みになった。四回生の時には関西大学駅伝のアンカーを任され、12月に、就職決まらず、卒論もほっぽらかして練習に励んだ思い出が懐かしい。
③ その頃、エイジ・マラソンという言葉を覚えた。年老いても、長距離が走れることの目途として10Kmをその年齢に相応する記録、40歳なら40分、60歳なら1時間で走れることを指し、具体的な目標・励みとなる。そんなことができたらステキだと思ったものだ。大学卒業後、高校社会科の教員となったから、陸上部の顧問を続ければ、それも可能であったかもしれない。実際には、3校に勤めたが、陸上を専門種目としてやっていた体育科の先生がおられたり、文科系含めて他の部の顧問だったり、何より校務多忙で、実際に生徒とともに走る機会はそんなになかった。それでも30代後半のころ、顧問になった年には生徒とともに走り、マラソン大会で長居公園10,5Kmくらいを43分位、生徒の中でも20番くらいで走れたのだから、マ、エイジ・マラソンができていたといってよかろう。
ところが、43歳から教育委員会に勤めだすと、余暇を見つけて走るなんどということは年頭にも浮かばなかった。少しでも余裕があれば、ひたすら休養をとることに努めるばかりであった。デスクワーク、交渉、関係部署や関係団体との折衝、さらに責任が重くなると判断・指示・・・運動習慣がなくなるだけではなく、じわじわと体を痛めつけてしまっていた。理想的な血圧値だったのに、不整脈が出はじめ、検診ではメタボ状態、血がドロドロ・・・挙句の果てには、脳動脈瘤が見つかり、脳の開頭手術までして・・・。
学校現場に戻ってから、少し余裕も出始めたが、2校目は全日制だけでなく定時制の存廃・再編の時期にぶち当たり、両方にわたる勤務が当たり前で、この時期も運動習慣に程遠い生活。何とか定年退職(当時は60歳)にこぎつけることができ、自分でもよくもったと思う。退職後の職場は週3日であったので、非出勤日にはジム通いし、また走り出したという次第。
④ 去年の結果
先に書いたが、ランニングマシンの使用者が多く、30分で交代しなければならない。だから、5Km30分ならいけそうであるが、限度はそこまでで10Kmを続けて走れるかどうか自信がない。そこで、1月に入り、とにかく10Kmをロードで走り切れることを練習目標にした。目標タイムはエイジマラソンを念頭に置いて69分。 そのためには、
・ランニングマシンを2回使うなど距離を延ばすこと、・
・戸外の道路練習を3回ほどし、1万mを一度は走っておくこと
・会場の堺市大泉緑地を1回は試走しておくこと
という作戦をたてた。試走はやっておいて良かった。1周=3080mだから、3周して(3080×3=)9240m、残りは(10000-9240=)760mで、スタート位置がゴールから遡った大きな噴水のある地点ということになる。もし1周20分±α、あと760mを4分半として65分くらいで走れればエイジマラソンはクリアできると、捕らぬ狸の皮算用・・・問題は練習量が増える分、故障をしないことが一番大切だ。今下手に故障しようものなら、それこそ一生持ち越しかねない。疲労を持ち越さず、筋肉や関節が悲鳴上げそうになったら、無理しないことだ。
幸い、特に故障もなく、当日を迎えた。大会本部でゼッケン等をもらう。何年ぶりだろう? ほとんど半世紀ぶりか。更衣荷物を預け、アップをかねてスタート地点に向かう。快晴であまり寒く無くコンディションに恵まれた。気がかりは、のどの渇き。常用薬の副作用だが、水分補給して、これまた半世紀ぶりのコールを受けて噴水周辺に並ぶ。15歳以上男女同時スタートで、300人くらいいるだろうか。
そして、スタートした。760m先のゴール地点には、デジタル計時ボードがあることに気付いたが、まだ人の群れでよく分からぬ。1周目(760+3080=)3840mが22‘40“、2周目(3840+3080)6920mが42’20”、そしてゴールが61‘22“だった。エイジマラソンははるかにクリア、あわよくば1時間ぎりも狙えるタイムで、嬉しい。満足です。来年は70歳で60分の目標を立てようかなあ! しかし、よくもったものだ。1周目は時速10K/h超、2周目にバテテ、3周目少し戻しだがいずれも19分台でクリアできた。何よりも完走できたのだから、祝杯をあげてもよかろう。
⑤ 今年の結果
結論は、ゴールはできたがヨレヨレの状態で、途中止まるなど、64‘48“と去年より3
分以上遅い。同年代と思われるおばあさんに、スーと抜いていかれ、ついて行こうと思ってもおいていかれ、3周目何度は3回ほど歩いたという具合に、走っていても情けなかったが、ゴールだけはしようと意地で完走はした。大会役員の多くの方がヨレヨレの年寄を「頑張れ」「ガンバレ」と応援していただいたのはありがたかった。
以下は言い訳の文章である。
・去年の大会以降に二回吐血した。最初は4月、次は年末、いずれも飲みすぎと食べ過ぎ。不摂生だ。夜中に吐血し、大慌てで翌朝病院へ行き、胃カメラを呑んだ。逆流性胃炎であった。普段は気を付けているつもりであったが、つい、気の置けない飲み会があると過ぎる。老化で胃の入り口―噴門の機能が低下し、食べ過ぎると胸焼けすることが多くなった。ために、腹がはったり、胸やけする時、トレーニングを控えたり、中断することが増えた。
・なかなか調子が上がらないので、距離走ができぬ。2本目走っても続かない。
・屋外走を2回しかしなかった。足を迎えに来るランニングマシンと、自力で蹴って進まなければならない通常の走りとは、微妙に異なる。それもしんどくなり、6Kmしかできなかった。
ということで、何事も努力の積み重ねと結果とは比例することを痛感。年齢による衰えも
意識しながら、またボチボチやっていくことにしましょう。
(ゴールは遠い!!)
昨年(2015年)、69歳を迎えた。古希となったのだ(旧暦だと生まれたら1歳だから、70歳になる)。今や仕事だけでなく、諸活動もリタイアしてしまうと、きょうよう(今日用)もきょういく(今日行く)も、自分で作りださない限り、無い。
老後生活をどう生きるか?ということをめぐっては、現役時代以上に多様であるが、先輩や友達を見ていると、大雑把に言って、二通りあるように思う。一つは、やりたいと思っていてもいろんな条件のためにできなかったことをやり始めるというタイプだ。自分に対する投資をいとわない人もいる。今一つは、これまでの経験や知見を活かし、今までの生活パタンを踏襲していくというタイプだ。もちろん、心身の不具合のために、やむなく療養や闘病が主になる人々も多いだろうが・・
私は、結局は後者のタイプだ。新しいことを始めようと意図したこともあったが、今更、高すぎる自己投資は見送った。一昨年のピースボートの旅行関係以降は、日常的に続けているのはジム通いだけだ。別に取り立てての趣味もなく、昔の長距離走者の追憶と未練から、というより生来の運動音痴で走ることしか能が無かったせいか、トレーニングにいそしんでいる。体は堅いしリズム感も悪いので、スタジオのレッスンに参加することは稀で、走るしか能がない。
ある日、そのジムに置いている「堺市民マラソン大会」のパンフを見ると、年齢によっていくつかの種目があり、15歳以上10Kmもある。ジムのランニングマシンは、一人30分に制限されているので、5Kmは走れても10Kmは30年ほど走ったことはない。せめて、古希記念に、「これは、一つ挑戦してみようか!」「古希の年だし、当面の目標としていいかもしれない」とレダックは決意したのでありました。1年前のことです。
② 僕の幼児~小学校時代の運動歴は悲惨なものだった。「早行き」で体も小さく、鉄棒・跳び箱ができず、友達とのゴムボール野球もほとんどやった覚えもない。「これではいかん」と、中学時代の部活にバスケットボールを選んだ。その成果はともかくとして、基礎体力養成のためとにかく走らされた。デ、(陸上部は出場しない)校内マラソン大会で優勝したのだ。そこで、高校時代には陸上部に入ったのだが、顧問の指導は望めないうえ校庭も狭く、一人大阪城の周りをまわるという練習だった。強くなれずに、大会に出ても5000mは周回遅れ、ベッタにならないようにがんばるという有様だった。
それでも、大学入学後、選んだのは、結局陸上部であった。あれからもう半世紀経ってしまったのだなあ! 大会に出場はしても入賞はできない二流、イヤ三流選手だったが、友に恵まれ、楽しかった。だんだん授業をサボりだすと、生活の核をなすのは陸上部の練習だった。長距離走者には駅伝という場がある。チーム選手に選ばれなくとも、大会によってはBチームも出場できて励みになった。四回生の時には関西大学駅伝のアンカーを任され、12月に、就職決まらず、卒論もほっぽらかして練習に励んだ思い出が懐かしい。
③ その頃、エイジ・マラソンという言葉を覚えた。年老いても、長距離が走れることの目途として10Kmをその年齢に相応する記録、40歳なら40分、60歳なら1時間で走れることを指し、具体的な目標・励みとなる。そんなことができたらステキだと思ったものだ。大学卒業後、高校社会科の教員となったから、陸上部の顧問を続ければ、それも可能であったかもしれない。実際には、3校に勤めたが、陸上を専門種目としてやっていた体育科の先生がおられたり、文科系含めて他の部の顧問だったり、何より校務多忙で、実際に生徒とともに走る機会はそんなになかった。それでも30代後半のころ、顧問になった年には生徒とともに走り、マラソン大会で長居公園10,5Kmくらいを43分位、生徒の中でも20番くらいで走れたのだから、マ、エイジ・マラソンができていたといってよかろう。
ところが、43歳から教育委員会に勤めだすと、余暇を見つけて走るなんどということは年頭にも浮かばなかった。少しでも余裕があれば、ひたすら休養をとることに努めるばかりであった。デスクワーク、交渉、関係部署や関係団体との折衝、さらに責任が重くなると判断・指示・・・運動習慣がなくなるだけではなく、じわじわと体を痛めつけてしまっていた。理想的な血圧値だったのに、不整脈が出はじめ、検診ではメタボ状態、血がドロドロ・・・挙句の果てには、脳動脈瘤が見つかり、脳の開頭手術までして・・・。
学校現場に戻ってから、少し余裕も出始めたが、2校目は全日制だけでなく定時制の存廃・再編の時期にぶち当たり、両方にわたる勤務が当たり前で、この時期も運動習慣に程遠い生活。何とか定年退職(当時は60歳)にこぎつけることができ、自分でもよくもったと思う。退職後の職場は週3日であったので、非出勤日にはジム通いし、また走り出したという次第。
④ 去年の結果
先に書いたが、ランニングマシンの使用者が多く、30分で交代しなければならない。だから、5Km30分ならいけそうであるが、限度はそこまでで10Kmを続けて走れるかどうか自信がない。そこで、1月に入り、とにかく10Kmをロードで走り切れることを練習目標にした。目標タイムはエイジマラソンを念頭に置いて69分。 そのためには、
・ランニングマシンを2回使うなど距離を延ばすこと、・
・戸外の道路練習を3回ほどし、1万mを一度は走っておくこと
・会場の堺市大泉緑地を1回は試走しておくこと
という作戦をたてた。試走はやっておいて良かった。1周=3080mだから、3周して(3080×3=)9240m、残りは(10000-9240=)760mで、スタート位置がゴールから遡った大きな噴水のある地点ということになる。もし1周20分±α、あと760mを4分半として65分くらいで走れればエイジマラソンはクリアできると、捕らぬ狸の皮算用・・・問題は練習量が増える分、故障をしないことが一番大切だ。今下手に故障しようものなら、それこそ一生持ち越しかねない。疲労を持ち越さず、筋肉や関節が悲鳴上げそうになったら、無理しないことだ。
幸い、特に故障もなく、当日を迎えた。大会本部でゼッケン等をもらう。何年ぶりだろう? ほとんど半世紀ぶりか。更衣荷物を預け、アップをかねてスタート地点に向かう。快晴であまり寒く無くコンディションに恵まれた。気がかりは、のどの渇き。常用薬の副作用だが、水分補給して、これまた半世紀ぶりのコールを受けて噴水周辺に並ぶ。15歳以上男女同時スタートで、300人くらいいるだろうか。
そして、スタートした。760m先のゴール地点には、デジタル計時ボードがあることに気付いたが、まだ人の群れでよく分からぬ。1周目(760+3080=)3840mが22‘40“、2周目(3840+3080)6920mが42’20”、そしてゴールが61‘22“だった。エイジマラソンははるかにクリア、あわよくば1時間ぎりも狙えるタイムで、嬉しい。満足です。来年は70歳で60分の目標を立てようかなあ! しかし、よくもったものだ。1周目は時速10K/h超、2周目にバテテ、3周目少し戻しだがいずれも19分台でクリアできた。何よりも完走できたのだから、祝杯をあげてもよかろう。
⑤ 今年の結果
結論は、ゴールはできたがヨレヨレの状態で、途中止まるなど、64‘48“と去年より3
分以上遅い。同年代と思われるおばあさんに、スーと抜いていかれ、ついて行こうと思ってもおいていかれ、3周目何度は3回ほど歩いたという具合に、走っていても情けなかったが、ゴールだけはしようと意地で完走はした。大会役員の多くの方がヨレヨレの年寄を「頑張れ」「ガンバレ」と応援していただいたのはありがたかった。
以下は言い訳の文章である。
・去年の大会以降に二回吐血した。最初は4月、次は年末、いずれも飲みすぎと食べ過ぎ。不摂生だ。夜中に吐血し、大慌てで翌朝病院へ行き、胃カメラを呑んだ。逆流性胃炎であった。普段は気を付けているつもりであったが、つい、気の置けない飲み会があると過ぎる。老化で胃の入り口―噴門の機能が低下し、食べ過ぎると胸焼けすることが多くなった。ために、腹がはったり、胸やけする時、トレーニングを控えたり、中断することが増えた。
・なかなか調子が上がらないので、距離走ができぬ。2本目走っても続かない。
・屋外走を2回しかしなかった。足を迎えに来るランニングマシンと、自力で蹴って進まなければならない通常の走りとは、微妙に異なる。それもしんどくなり、6Kmしかできなかった。
ということで、何事も努力の積み重ねと結果とは比例することを痛感。年齢による衰えも
意識しながら、またボチボチやっていくことにしましょう。
(ゴールは遠い!!)