レダックのアラコキ奮闘記 10Kmに挑戦

2016-02-16 12:05:33 | 日記
① 去年の初挑戦
 昨年(2015年)、69歳を迎えた。古希となったのだ(旧暦だと生まれたら1歳だから、70歳になる)。今や仕事だけでなく、諸活動もリタイアしてしまうと、きょうよう(今日用)もきょういく(今日行く)も、自分で作りださない限り、無い。
 老後生活をどう生きるか?ということをめぐっては、現役時代以上に多様であるが、先輩や友達を見ていると、大雑把に言って、二通りあるように思う。一つは、やりたいと思っていてもいろんな条件のためにできなかったことをやり始めるというタイプだ。自分に対する投資をいとわない人もいる。今一つは、これまでの経験や知見を活かし、今までの生活パタンを踏襲していくというタイプだ。もちろん、心身の不具合のために、やむなく療養や闘病が主になる人々も多いだろうが・・
 私は、結局は後者のタイプだ。新しいことを始めようと意図したこともあったが、今更、高すぎる自己投資は見送った。一昨年のピースボートの旅行関係以降は、日常的に続けているのはジム通いだけだ。別に取り立てての趣味もなく、昔の長距離走者の追憶と未練から、というより生来の運動音痴で走ることしか能が無かったせいか、トレーニングにいそしんでいる。体は堅いしリズム感も悪いので、スタジオのレッスンに参加することは稀で、走るしか能がない。
 ある日、そのジムに置いている「堺市民マラソン大会」のパンフを見ると、年齢によっていくつかの種目があり、15歳以上10Kmもある。ジムのランニングマシンは、一人30分に制限されているので、5Kmは走れても10Kmは30年ほど走ったことはない。せめて、古希記念に、「これは、一つ挑戦してみようか!」「古希の年だし、当面の目標としていいかもしれない」とレダックは決意したのでありました。1年前のことです。

② 僕の幼児~小学校時代の運動歴は悲惨なものだった。「早行き」で体も小さく、鉄棒・跳び箱ができず、友達とのゴムボール野球もほとんどやった覚えもない。「これではいかん」と、中学時代の部活にバスケットボールを選んだ。その成果はともかくとして、基礎体力養成のためとにかく走らされた。デ、(陸上部は出場しない)校内マラソン大会で優勝したのだ。そこで、高校時代には陸上部に入ったのだが、顧問の指導は望めないうえ校庭も狭く、一人大阪城の周りをまわるという練習だった。強くなれずに、大会に出ても5000mは周回遅れ、ベッタにならないようにがんばるという有様だった。
 それでも、大学入学後、選んだのは、結局陸上部であった。あれからもう半世紀経ってしまったのだなあ! 大会に出場はしても入賞はできない二流、イヤ三流選手だったが、友に恵まれ、楽しかった。だんだん授業をサボりだすと、生活の核をなすのは陸上部の練習だった。長距離走者には駅伝という場がある。チーム選手に選ばれなくとも、大会によってはBチームも出場できて励みになった。四回生の時には関西大学駅伝のアンカーを任され、12月に、就職決まらず、卒論もほっぽらかして練習に励んだ思い出が懐かしい。
 
③ その頃、エイジ・マラソンという言葉を覚えた。年老いても、長距離が走れることの目途として10Kmをその年齢に相応する記録、40歳なら40分、60歳なら1時間で走れることを指し、具体的な目標・励みとなる。そんなことができたらステキだと思ったものだ。大学卒業後、高校社会科の教員となったから、陸上部の顧問を続ければ、それも可能であったかもしれない。実際には、3校に勤めたが、陸上を専門種目としてやっていた体育科の先生がおられたり、文科系含めて他の部の顧問だったり、何より校務多忙で、実際に生徒とともに走る機会はそんなになかった。それでも30代後半のころ、顧問になった年には生徒とともに走り、マラソン大会で長居公園10,5Kmくらいを43分位、生徒の中でも20番くらいで走れたのだから、マ、エイジ・マラソンができていたといってよかろう。
 ところが、43歳から教育委員会に勤めだすと、余暇を見つけて走るなんどということは年頭にも浮かばなかった。少しでも余裕があれば、ひたすら休養をとることに努めるばかりであった。デスクワーク、交渉、関係部署や関係団体との折衝、さらに責任が重くなると判断・指示・・・運動習慣がなくなるだけではなく、じわじわと体を痛めつけてしまっていた。理想的な血圧値だったのに、不整脈が出はじめ、検診ではメタボ状態、血がドロドロ・・・挙句の果てには、脳動脈瘤が見つかり、脳の開頭手術までして・・・。
学校現場に戻ってから、少し余裕も出始めたが、2校目は全日制だけでなく定時制の存廃・再編の時期にぶち当たり、両方にわたる勤務が当たり前で、この時期も運動習慣に程遠い生活。何とか定年退職(当時は60歳)にこぎつけることができ、自分でもよくもったと思う。退職後の職場は週3日であったので、非出勤日にはジム通いし、また走り出したという次第。

④ 去年の結果
先に書いたが、ランニングマシンの使用者が多く、30分で交代しなければならない。だから、5Km30分ならいけそうであるが、限度はそこまでで10Kmを続けて走れるかどうか自信がない。そこで、1月に入り、とにかく10Kmをロードで走り切れることを練習目標にした。目標タイムはエイジマラソンを念頭に置いて69分。  そのためには、
・ランニングマシンを2回使うなど距離を延ばすこと、・
・戸外の道路練習を3回ほどし、1万mを一度は走っておくこと
・会場の堺市大泉緑地を1回は試走しておくこと
という作戦をたてた。試走はやっておいて良かった。1周=3080mだから、3周して(3080×3=)9240m、残りは(10000-9240=)760mで、スタート位置がゴールから遡った大きな噴水のある地点ということになる。もし1周20分±α、あと760mを4分半として65分くらいで走れればエイジマラソンはクリアできると、捕らぬ狸の皮算用・・・問題は練習量が増える分、故障をしないことが一番大切だ。今下手に故障しようものなら、それこそ一生持ち越しかねない。疲労を持ち越さず、筋肉や関節が悲鳴上げそうになったら、無理しないことだ。
 幸い、特に故障もなく、当日を迎えた。大会本部でゼッケン等をもらう。何年ぶりだろう? ほとんど半世紀ぶりか。更衣荷物を預け、アップをかねてスタート地点に向かう。快晴であまり寒く無くコンディションに恵まれた。気がかりは、のどの渇き。常用薬の副作用だが、水分補給して、これまた半世紀ぶりのコールを受けて噴水周辺に並ぶ。15歳以上男女同時スタートで、300人くらいいるだろうか。
 そして、スタートした。760m先のゴール地点には、デジタル計時ボードがあることに気付いたが、まだ人の群れでよく分からぬ。1周目(760+3080=)3840mが22‘40“、2周目(3840+3080)6920mが42’20”、そしてゴールが61‘22“だった。エイジマラソンははるかにクリア、あわよくば1時間ぎりも狙えるタイムで、嬉しい。満足です。来年は70歳で60分の目標を立てようかなあ! しかし、よくもったものだ。1周目は時速10K/h超、2周目にバテテ、3周目少し戻しだがいずれも19分台でクリアできた。何よりも完走できたのだから、祝杯をあげてもよかろう。

⑤ 今年の結果
結論は、ゴールはできたがヨレヨレの状態で、途中止まるなど、64‘48“と去年より3
分以上遅い。同年代と思われるおばあさんに、スーと抜いていかれ、ついて行こうと思ってもおいていかれ、3周目何度は3回ほど歩いたという具合に、走っていても情けなかったが、ゴールだけはしようと意地で完走はした。大会役員の多くの方がヨレヨレの年寄を「頑張れ」「ガンバレ」と応援していただいたのはありがたかった。
以下は言い訳の文章である。
・去年の大会以降に二回吐血した。最初は4月、次は年末、いずれも飲みすぎと食べ過ぎ。不摂生だ。夜中に吐血し、大慌てで翌朝病院へ行き、胃カメラを呑んだ。逆流性胃炎であった。普段は気を付けているつもりであったが、つい、気の置けない飲み会があると過ぎる。老化で胃の入り口―噴門の機能が低下し、食べ過ぎると胸焼けすることが多くなった。ために、腹がはったり、胸やけする時、トレーニングを控えたり、中断することが増えた。
・なかなか調子が上がらないので、距離走ができぬ。2本目走っても続かない。
・屋外走を2回しかしなかった。足を迎えに来るランニングマシンと、自力で蹴って進まなければならない通常の走りとは、微妙に異なる。それもしんどくなり、6Kmしかできなかった。

ということで、何事も努力の積み重ねと結果とは比例することを痛感。年齢による衰えも
意識しながら、またボチボチやっていくことにしましょう。
  (ゴールは遠い!!)



レダックのアラコキ紀行 台湾中南部徘徊 その5(この回終わり)

2016-02-08 10:01:40 | 日記
⑪ 19日(火)、最終日です。
 昨日の「三鳳中街」の近所の「三鳳宮」という道教寺院を見学に行きました。台湾で最大級とのことなので、やはり見ておこうということになりました。朝8時過ぎのこととて、観光客というより数人の地元の人がお参りをしているようです。赤と黒・黄色で彩色した木片を二つ投げています。よくわからないまま、奥まで行くと、寺の人と思しきおばちゃんに手招きされ、茶をふるまわれ、先ほどの木片を示されました。二つセットで放り投げ、地面に落ちた形状で何か占っているようです。サンプルを示されましたので、分からぬまま、二つの木片を投げました。「ウン、ウン」と頷いているようなので、悪い卦でないのでしょう。「謝謝」。二階のある部屋では、室内の壁に100くらいの神様?天?の顔の像がひしめきあって展示されています。それぞれが〇○年と表示されているので、どうやらその年に生まれた人の守り神かなと?勝手に推測しました。
 
 帰り道、また迷いながら行くと三民路とあります。近くまで行くと昨日の商店街と全く同じ雰囲気でしたが、こちらはより日常品の市場みたいな品ぞろいの活気ある庶民の市場でした。「ちまき」と、日本のものとは違うが「天ぷら」様のものを求めた。観光はこれでおしまいだ。

⑫ ホテルで荷物を取り、空港に向かう。台湾ドルを使うことはもう無かろう(多分、一生)。手持ちの台湾ドルが途中で残り少なくなり、追加でもう2万円換金したのだが、余った分は日本円8千円あった。だから、交通費、食事代、土産物など台湾ドルを使ったのは4万2千円分となる。ついでに旅行費用を計算すると、4泊の宿泊費がカード払いだが1室当りで1万円弱で3万5千円、ピーチが往復2人分=3980円×4+持ち込み荷物で2万円弱ということで、ざっと10万円弱、一人当り5万円弱ということになった。
パック旅行なら、LCCでなく普通の飛行機、道に迷うこともないが、現地の人との接触や、お気に入りのところ、ぜひ見たいところで時間を好きなだけ取るということはできない。お得で、B級グルメを求めるのを旅の楽しみとする我々としては、迷い迷い出たとこ勝負の今回も日月タンを除けば楽しめた。一日平均1万5千歩も歩いている。しかし、年々、年老いていくのを感じる。妻も企画と手配に疲れて、こんな気ままな旅を出切るのももうあまり無かろうとしみじみ語っていた。
 
 さて、三民商店街で買った「ちまき」君です。LCCでは機内食が出ず、座席間が狭いことは有名だが、「ちまき」は外装の笹を剥くだけで食べれて、かつ、おいしかったので正解でした。ただし、もう一つの台湾天ぷらは匂いがきつくて、機内で広げる勇気はありませんでした。
 到着した夕方の関空はやはり寒かった。特に帰りの阪和線は、日根野で車両連結している間に雪模様になり、地吹雪のように車内に雪が舞い込み、いっぺんに寒さと疲れを覚えました。



レダックのアラコキ紀行 台湾中南部徘徊 その4

2016-02-07 12:27:02 | 日記
⑨ 18日(月)旅の4日目、台南の街は古くからの名所に事欠かない。まずはホテルの前の通りを一直線に歩いて行ける「赤崁楼セキカンロウ パンフレットの表記はChihkan Tower」を見学する。17世紀中ごろ、台湾南部を支配下においたオランダ人の築いた砦兼役所だそうだ。中に入ると十数人?の小学生(中学年と思われる)が、昔の西洋人の恰好をした数人と台湾人数人が手製の刀や槍のようなものを持って、戦いの真似をしている。それも1グループだけでなく、他の場所でもやっている。衣装まで作っているから、学芸会的なところで発表するのかもしれない。きっとこの建物をめぐっての攻防戦を、子どもが実習しているのだろう。確かに各グループには先生もついていた。おもしろいものを見せてもらった。
 

その後、今度は同じくオランダが軍事的拠点にしていた古い砦のある「安平 アンピン」へタクシーで向かった。ここにはかつて使われていた大砲も陳列している。
このオランダを追い出したのが「鄭成功」である。中国人の貿易商・海賊の父と日本人の母を両親に持つ彼は日本の平戸で育ち日本名ももっていたそうな。大陸中国での明から清への転換に抵抗し、敗れて台湾に逃れオランダ支配を打ち破ったので、国の礎をつくった人物の一人として今も人気があるらしい。近松門左衛門が人形浄瑠璃「国姓爺合戦」(のちに歌舞伎にも)として著したので、日本人にもお馴染みの名前になっている。
近くの商店街は「延平街」として有名な土産物屋・食堂街がひしめいていた。ぶらついた末、「エビせんべい」を贖った。「かっぱえびせん」とは違い、厚めのせんべいの上に本物の小さなエビが載せられており、お土産としてなかなかのものである。その店でサービス券をもらった。ソフトクリーム屋のもので、ありがたく使用させてもらったが、コーンがV字状に連結しており、同時に二人が食べられるという変わったもので楽しく味わった。 時間があれば、もっとゆっくりノンビリ廻りたい街だが、残念、明日の飛行機のため高尾に戻らねばならぬ。

⑩ またまた台鉄で高雄は例の親切ホテルへ。まずはウェルカムドリンクを。時間もあるので、まずは妻がとても行きたがっていた「三鳳中街」を探す。例によって間違いながら聞きながらもたどり着いた。道を挟んで乾物や薬草などの店が軒を接しているのだが、道の真ん中はバイクが端から端まで置かれている。自然とバイクが分離帯で両側が一方通行のようになってしまっている。バイクが歩行者の流れに逆らわず突っ込んでいき、少し余地がある空間を見つけると、そこにバイクを止める。デ、買い物が終わると、またバイクのところに戻り、商店街の切れるところまで人の流れに沿って進む。いや、猛烈だが、それなりに秩序だっており、たまげながらも感心した。妻も乾燥エビや健康茶をゲットしてご満悦であった。

 いったんホテルに荷物を置き、高雄港のある「旗津」という地区に出かけた。MRTの終点の一つ手前である。ここからフェリーに乗る。橋もあるのだが、バイクが主な乗客というフェリーに乗った。10分もしないうちについた。広く港を概観できたから、マ、いいか。昔の砂州が島になったのか、反対側まで数分、本当に狭く細長い島だ。ちょうど太陽が沈む時間に間に合った。この島が観光地になっているのは、この景色と新鮮な海鮮料理の店、屋台が多いせいだ。台湾料理は味わったが、満足できる海鮮料理には出会わなかったので、最後の晩餐と行きましょう! 店頭に並んだ魚介類を指定して料理してもらい店内で食するシステム。何軒もあり困ってしまうが、やはりガイドブック掲載店で足を止めると、日本語で話しかけてくるので、焼き魚と刺身で注文した。日本と違いはないので感激するほどでもないが、マ、いけた。
 
 またフェリーで帰り駅目指して歩こうとしていたら、バス停があり、ちょうど到着したバスの運転手に「ステーション」と聞いたらうなずいたので乗ることにした。右に左に繁華街を縫って行く。初日の夜市の横も通り抜けて行く。気が付けばバス代の小銭が14元しかない。一人12元だそうだ。駅前につき100元紙幣を出したが、お釣りが出てくる機械ではなくコインのみ使える。若い運転手も説明しても無駄と思ったのか、どうも「あるだけ入れて早く降りてくれ」というボディ・ランゲッジのようだったので、ご好意に甘えてしまいました。
 9時になりました。あの夜食タイムです。海鮮の魚は魚。麺少々と肉まん1ケとアイスクリーム3種類を、やっぱりいただいちゃいました

レダックのアラコキ紀行 台湾中南部徘徊 その3

2016-02-06 11:12:20 | 日記
⑥ 17日(日)、台湾最大の湖「日月タン」行はあいにくの雨にたたられ散々な1日となった。しかし、同時に台湾人の親切に感激する1日でもあった。日月タン近く、台湾の先住民族の集住する「九族文化村」を経由するバス便を利用したのだが、それらしい入り口のあるバス停らしき所で降りた客は一人だったので、躊躇している間にバスは出発してしまった。こんな時、言葉が分からないハンディを痛感する。ママヨ、とともかくみんなの降りる終点らしきところまで行った。「水社」というところらしい。情報センターと思しき一角には日本語の分かるガイドがいるので、筆談まじりで「九族文化村を降りそびれた。どうすれば行けるのか」と尋ねたところ、「この湖を観光船で渡り、向こう岸にあるロープウェイで上がるしかない」とのこと。
 
 やむなく乗りたくもない観光船に300元(1200円)も支払って向こう岸に渡る。

風光明媚な景勝地らしいが、雨がザンザカザン、湖面が波立つようでは、船室の中に避難せざるを得ない。着いた港は土産物屋、食堂が続いており、その中をロープウエイ目指して歩くも、何回かスコールで店屋の軒先に避難。コリャダメだ、寒いし・・。嘆きながら店屋の前をボトボトになりながらトボトボ歩いていると、
  「先住民族のサオ族の歌と踊り、上演時間11:30~」(書かれた漢字から意味判断)
と書かれたポスターを見かけた。九族は無理でも、サオ族だけでもあっておこうと、雨中、何とかそこにたどり着いた。40人くらいが階段上に座れる野外音楽堂みたいな建造物に着くと、民族衣装を着たかなり年配の男性の歌声に合わせ、数人の女性が舞台の上で踊りを披露していた。MCが説明してくれても分かるわけがない


半時間ほどそこでやり過ごしたが、雨脚は止まないので、また、やむなく連絡船でバス発着場の「水社」にもどり、可能な限りタオル、ハンカチを使ったが、袖口や足元の濡れた状態が乾くわけもない。台中行のバスの乗客は幸い少数だったので、座席の一つを占領し靴下まで脱いで汗かき着替え用に持ってきたシャツで足を温める・・。
 行きとは違う経路だったようで、途中で小都市に寄ると満員の状態となり靴を履かざるを得ない。台中とは2時間ほどの行程だが、体が冷えている分、おしっこが近くなる。そうでなくとも、前立腺肥大と言う男性特有の症状で服薬しているほどだから、得も言われぬ切なさ、やるせなさに見舞われる・・・。それで「ウ・・ウ」とあえいでいる私の窮状をおもんばかってくれた嫁さんの発案で、バス発着場まで帰らずに、台中駅で降車した。トイレ目指し、脱兎のごとく走・・れないのです。下手に刺激すれば〇〇そうで・・

⑦ 今晩は台南のホテル泊です。ピンチを脱して僕がホテルに荷物を取りに帰っている間に妻が切符を購入したわけですが、
日曜のことでもあり、座席指定が二駅先までしか取れないとのこと。それでも立ちっ放しよりまし、やむをえない。予測通り満員で、その座席のところまでスーツケース抱えて立っている乗客の間をすり抜けていくのは、かなり困難なようだ。立ち往生していると若い兄ちゃんが、「どこまで運ぶのか」と聞いてくれた(んだと思う)ので、動作で示すと、やにわにスーツケースを持ち上げ運んでくれた。謝謝です。3時間ほどの行程のうち40分ほどで、座席指定の権利は終わりです。
 
 乗り込んできた権利保持乗客は若いカップルでしたが、スーツケースを持ち上げ替わろうとすると、どうやら「そのまま座っていろ」と言ってるようで、「いや、そら悪い」と日本語で呟き、妻も立ち上がろうとすると、周りの乗客も、どうも「座っていろ」と言ってる?動作をしているようです。2回目の「謝謝」です。お尻こそばいながら好意に甘えて半時間強、2つほど先の駅で乗客の大きな移動があった時、再度「謝謝」と言って車両の端に移動したら、またまた、「ここに座れ」と言ってくれた若い女性がいた。今度は一人分だったので、後で妻と交代したのだけれど、なんでこんなに親切なのか?

 私はリタイア後、鳥打帽をかぶり、ピースボートに乗ってからは、あごひげを生やしている。頭髪のはみ出た部分もあごひげも白いので、かなりの年寄に見られるのだろうし、実際そうでもある。日本でも2度席を譲られそうになったことがあるが、長い時間で2度である。優先座席に長い足を投げ出している若者の前に嫌味を込めて立った経験は何度かある。台湾では、お年寄りに席を譲ったり何かヘルプをするという道徳が当然のこととして行われているように感じられる。パック旅行ではチョット味わえない体験だろう。濡れた体に、ハート温めてもらえて、と何とも言い難い一日でした。

⑧ ト、感心する一方で、台南駅に着くと、あきれる風景に出くわす。この日のホテルは駅から距離がありそうなのでタクシーを探したが、どこが乗り場なのか表示が見当たらぬ。雨の日曜日の駅前、奪い合いの様相を呈している。並んでいる人の列の前から止まったタクシーが乗客を乗せていく。後ろで乗り込もうとした客には、前の客がブーイングであきらめさす。それでも、後ろから乗る者もいる。ようやく先頭近くまで行けたのに、またズルをする者がおりそうなので、関西弁で「こっちが先や」と乗り込んだ。
 (タクシーには3回使ったが、高くないし、運転手は親切だと感じた)
 
 夕食は、ガイドブックに出ている担仔麺の店が近くにある。1杯が50元(200円)と安すぎると思ったが出てきたものを見て納得。少量なのだ。でも、さすがにおいしい。
酒を飲まない妻が一つだけ頼んだが味は良いし少量なのでもう一つ、エビや野菜、飲茶など、当たりはずれの多い夜市よりはよほど安心して台湾料理を満喫できた。
 
 帰り路、ホテルの向かいにある林百貨店に立ち寄った。これまた、戦前日本の統治下にできた建造物で 当時台湾唯一のエレベーターがあるので有名だったとか。日本式イメージの百貨店というより、5階もある各フロアを種別・飾りつけで分けた大きな土産物店というべきものだ。階段を使えばさらに6階?屋上?に出て、街並を展望できる。百貨店そのものもイルミネーションできれいだ。
ト、家で編集作業をしていると「台湾南部」で地震とのニュースが飛び込んできました。死者も出ているとのことで、冥福を祈り、一刻でも早い救出を願ってやみません。

レダックのアラコキ紀行 台湾中南部徘徊 その2

2016-02-05 22:04:23 | 日記
④ 翌16日、一夜明ければ腹もすく。朝のバイキングも、和・洋食もあれば、これぞ中華料理と思しき品々・・またまた、理性と欲望の戦いに悩まされました。ガ、シカシ、いつまでも食事の話ばかりというわけにはいきません。
 
 午前中、観光地「蓮池」に行き、昼ホテルに戻り荷物を取って、「台中」に向かうという計画を立てた。KRTで「左栄」という駅まで行く。ここには高鉄の駅もあるくらいだから、大きな観光地で、駅を降りたら分かるだろうと能天気に歩みだしたが、どうも違うようだ。駅前のバス停に人がたまっていたなあと思い返して戻ったが、既に出た後。やむなくバス路線と思われる道を歩きだしたが分からない。広い路上で車を出し入れしていたおじさんがいたので、漢字で「蓮池」と書いたメモを見せて聞く。向こう側と手で示してくれるが、かなり先のようだ。ハアとため息をつきながら数歩歩むと、おじさんが何か言っている。車に2人の女性と幼児が乗っており、「この車に乗れ」というサインを出している。いったん手を振ったが、ドアまで開けてくれたので、好意に甘えることにした。おじさんのおかみさんと若奥さん、孫の女の子の3人が乗っている。ちょうど出かけるところなので送ってくれるようだ。結構距離があるなか、出店が並び、急に人通りの激しくなった地点まで連れてきてくれた。「謝謝シェシェ」しか知らないので、連呼して幼児とも手を振りあった。
 この後も、このパタンが繰り返されることになる。つまり、台湾旅行では、外部の表示、案内板などに頼れない。あまり見かけられない。人に尋ねる時は、言葉がしゃべれないのだから、メモ用紙を携帯し漢字で書きこむことが必要だ。その代り応対はしてくれれば、めちゃくちゃ親切にしてくれ恐縮するほどだ。
 
Anyway、ともかく蓮池という風光明媚な湖畔に佇むことができた。池の周囲を散策するのだが、野菜や靴などを売る行商人の店が続いており、ぶらぶら見ながら歩くのが楽しい。でかくて、金キラキンの寺がいくつもある。道教の寺院のようだ。そのうちの一つに入っていくと、境内の空き地にテントが張られ、別の一角に人が並んで、何か区切られた空間で書き物をしているようだ。そうです! 今日1/16は台湾総統選挙の日なんですね。そうか、お寺も使われるのか、と変に納得した。ちなみに、ご存知の通り蔡英文が大差で選ばれたのだが、その夜のTVのどのチャンネルをまわしても、開票結果の放映ばかりであった。
さらに足を運んでいると、池のほとりから水上にかけられた橋の先に、これまた金キラキンの建造物が3つ続く。一つは、北極玄天上帝の像、上帝って中国の神様らしい?。つぎは龍の口から入り龍のお尻からでるもの、そして一番有名な龍虎塔、龍の口から入り、7階建てくらいの二つの塔を経てトラの口が出口というもの。もちろん、うれしがってそれぞれに入りました。周囲5Kmほどの池だが、観光客も多く、市民の憩いの地になっている。帰りはバス停も方角も分からないのでタクシーのお世話になる。

⑤ 午後、「台中」に向かう。台湾で3番目の人口だそうだ。翌日、名所「日月タン(サンズイ編に「譚」のつくり IMEパッドでもでてこないのでご容赦を)」に行くためだ。駅売店で駅弁を求める。ライスの上に焼き鳥のようなものが乗っており50元(200円)だから、こんなものか?! 結構うまかった。 
 ホテルは台中駅から見て左側10分ほどの距離で、反対右側に行くと日月タンへの長距離バスの発着所がある。荷物を置いて、切符を買いがてらそちらへ向かう。帰り道地図を頼りに「宮崎眼科」を探す。なんで眼科になんど行くのかと言うと、戦前、日本の台湾統治下時代の医院をリニューアルし1階をスィーツ、2階をレストランにしてあるのだ。店の前には、アイスクリームを食べているカップルや家族であふれて、歩道が占拠されている状態。まずは、土産物を求める。主力は豆菓子、クッキーなんだが、CDや単行本のパックのような多種、多様なおしゃれデザインがあり、妻と私もそれぞれのお気に入りをゲットした。その後、アイスクリーム売り場に向かい、目移りする程多種多様なクリームに、大きなクッキーなどのトッピング。路上で味わったのは言うまでもない。このお店が確かに人気があるというのもうなずける。
 ホテルに帰ったが、アイスクリームだけでお腹が持つはずもなく、夜市に向かう。探しあぐねてポリボックスでも聞いてやっとたどり着いたが、交通激しい広い道路上に作られているので、じっくり店定めしている余裕はない。結局、和風の鍋を食したが、遠距離で、出かけるほどのことはなかった。