私の轍 WatashiのWadachi

2022-06-10 21:48:52 | 日記
私の轍 WatashiのWadachi 第15回

このブログの読者へ  5月末に 第12回の平野高校以来、全然アップされていない、どうなっているのかという疑念をお持ちの方も少なくないかと思います。それ以降の大阪府教育委員会時代について、第13回と第14回の原稿を投稿したのです。しかし、「アフェリエイト、商用利用、公序良俗」にかかるgooの規定にひっかかり、公開できないというのです。どこがどういけないのかは示されません。そら、いろいろ書きましたよ。委員会業務の幅広さ大変さ、体質の問題、上司との意見衝突、おかげで健康を損なうどころか、命さえとられかけた話とか・・また何かの折に読んでいただく機会もあるでしょう。このままでは進みませんので、次 行こう!

第4章 校長時代 1校目 大東高校

2000年4月、校長として現場への転出が命じられた。大東高校どころか、JR学研都市線でしか行けない大東市にもあまりなじみがない。守口で生まれ育ったので、京阪沿線の街のほうがよほど知っており、近場でないことに少しがっくりした。羽曳野から通うには1時間半かかる。懲戒でも停学以上は校長が申し渡すことになっており、バスの始発が6:43だったので、まず生徒指導部長に要請したのは、「8時の校長申し渡しは無理だ。8:15にしてくれ」という通勤事情だった。不安を抱きつつも、現場復帰できる、高校生の顔が見れることに期待して赴任した。
ところが、大東高校校長の初年度と2年目、嫁さんがいなかった。JICA(国際協力機構)のシニア海外協力隊に応募してラオスに行ってしまったのだ。理学療法士PTの仕事をしていたが、海外旅行が好き、ボランティア活動を何度も経験しており、募集のあったPTの職種で行くことになった。子どもはとっくに成人となっており、妻の一生の望みであったので、反対はしなかった。昼食は学校で、夜の食事は、下校が遅くなる時は外食となるので、先生方ともよく飲みに行った。顔ぶれが偏っていると、他の先生から苦情を受けたこともあったが、あまりこだわりなく振舞った。 思いっきり仕事できたと思うし、思いっきり生活も楽しめた。

① 大東高校の状況
2000年当時の大東高校は、入学試験の競争倍率が低く定員割れを起こしかねない状況であったし、過去4回実際に定員割れを経験している。また、生徒の学力差が大きい、大きすぎるという特有の問題があった。北摂・三島地域と並んで、北河内の中学校は地元校育成を目指す「地元校集中受験運動」という取り組みの歴史を持っていた。赴任した当時、この運動は功罪相半ばしていると思った。中卒者の漸減で、府立高校全体が私立とどう拮抗できるかという問題があった。そこで中学からいえば、地元校育成のスローガンのもと、学力の高い生徒も低い生徒も一緒に同じ地元校に行かせて、進路を確保しようと努めていた。このことは、障害のある生徒の高校への進路保障とも連動する。しかし高校の側から言えば、教育効率が甚だしく悪い。実際、赴任1年目の初めての高校選抜の陣頭指揮に当たってたまげた。定数320名に対し、志願者320名、つまりふたを開けた途端、基本的には全員合格が約束されているのだ。しかも、中学校からの内申書は10段階から1段階まで、中学校の学年トップとベッタが、地元校というだけで一緒に受験しに来ている。そして両者とも合格、桜の樹の下でともに手を取り合い、障害生徒も高校に進学できた、保護者も感激の涙・・・絵にしたらキレイ、だがキレイなだけでは現実に対処できるわけではない。学力低位の生徒に対するケアには人的措置が必要なのだ。

② 特色づくり ア 習熟度別授業の導入、 
府教委は先をにらんで、定員割れやそれに準ずる府立高校については、統廃合の対象と考えており、本校も将来的な候補校の一つと考えていたようだ。しかし、現今の対応としては甚だしい学力差をどのような方法で克服するかが、教員がそれにむかって目標を共有し、日々実践しようという方向にもっていくのが校長のやるべき道であろうと考えた。
戦略は、より徹底した中高連携の強化、地元校育成の質的充実がそれである。特に、もう一つの府立高校である野崎高校とも一緒に、大東市8中学校校長会との協議・連携、大東市教育委員会との懇談を中心に、地元校の育成に注力してもらうとともに、それまではほとんど送り込まれてこなかった門真市の中学校訪問も行った。とりわけ隣接の深野中学校や、同和教育推進中学校との相互訪問、意見交換は頻繁に行った。また、大東市教委には、府教委時代に机を共にした方がおられ、中高連携に理解を示され協力して頂いたことはラッキーであった。
 校内的には、英数の習熟度別学習の必要性を説いてまわった。意外なことに、革新を標榜する労働組合員の中には、学習指導に関しては旧式な考えをもっている者が少なくなかった。「差別につながる」という幼稚な論理であった。もちろん習熟度別学習の実施には教員の加配が必要で、財政逼迫の当時、そんな要望は通らないと思われていた。何度もまさに粘り強く「内申書1~10が一緒に学ぶ学校に対して、何も手を打てないのか」と、担当者に恫喝めいた言説で折衝し、数学と英語の講師時間を取ってきた。これには、組合教員が驚いたくらいで、「それなら・・」ということで2クラス3展開の習熟度別学習が始まった。

③ 特色づくり イ 中高・地域連携
次の一手はこうだ。やはり、この周辺地区で何か特徴をもって保護者や中学校教員の話題に上るような学校づくりをすることだ。ちょうど、府教委が私学との競合に打ち勝てるように、各学区のトップ校に知恵を出さすための施策として、「エル・ハイスクール」の募集があったので、それに応募することにした。非常に優秀な教員が何人もおり、彼らと知恵を出し合って書類を作った。学校宣伝用パンフレットの表紙に大東のアルファベットDA I T Oを頭にすえた英語を使った「アイウエオ作文」
  D―diversity多様な個性を持った生徒が、
  A―activity様々な活動を通して、
  I― interest自分の興味・関心を発見し、
  T―trialいろんな可能性を試みる、
  O―organizationそんな組織(=学校)です
を掲げ、改編したカリキュラムを説明したものだ。従来の標準コース、理数コースから、文科コース、理文コース、理数専門コースにした。(後2006年、総合学科と普通科専門コースをもつ高校として再編統合された)
 
さてエル・ハイスクールの選考は書類審査を経て、面接プレゼンテーションによるが、書類審査の予選は合格したが、担当指導主事に呼ばれて「降りてくれないか」と打診されたことがあった。府教委の方では意中の高校は決めているらしい。学区のトップ校+αのようだ。もと府教委にいた者としては言いにくいが、やり方が汚い。うたい文句はともかく、大阪型進学重点校の制度化が狙いだ。プレゼンもしたが、最終選考は落ちた。審査結果は見事に予想通りだった。こんなことなら、募集―審査などという手続き無しで決めたらいいのに、と思わぬえもなかった。しかし私にとっては、スタッフになってくれた先生方はそれぞれ有能で、生徒指導、教科指導、進路指導、同和教育実践などで力を発揮しており、ともに論議した経験は楽しかったし、教員の実力もついていくことを実感した。(スタッフのうち5人がその後校長になった。)
 生徒たちは学力も多様だが、授業での反抗や、生徒指導上の問題をおこす生徒も少なくなかった。また、経済的にも府下の平均なみで、授業料減免生徒や滞納者もそこそこいた。
生徒指導主事や担任等が、問題が生起すれば丁寧に家庭訪問をする一方、教員も多様で家庭訪問などした経験がない者もおり、驚いた。
平成13年(2001年)創立30周年記念式典の中で、地元の同和地区が太鼓文化を継承しているので、教えを請い、立派に演奏しきった。日ごろから同和教育主担が連携に勤めていたからだ。
 この記念行事や、エル・ハイスクールの立案の過程で、教員のやる気も盛り上がり、「丸かじり 大東高校」という企画につながっていった。PTAや、小中学校の教職員・保護者と、約300人の地元の中学生の学校訪問時に、同じ中学校出身の生徒に校内のガイド役を任せたり、希望で公開授業を受けてもらったりした。その後3つの分科会で、保幼小中高の教職員、保護者とで意見交換、交流をした。中学校での出前授業や、ボランティア・サークルを立ち上げ、デイサービスや保育所等との交流など地域社会との連携協力に取り組むなどが始まった。おもしろい企画を実行にうつす取り組みは面白く、3年はすぐに過ぎた。(妻も2年の派遣という約束通り、戻ってきた。
(大東高校は次回も続きます)