その4 太平洋編
① イースター島 モアイとご対面(5/25~26)、ラパヌイの人
5/25(日)未明 イースター島を目前にする。ピースボートのような大型客船が接岸できるような港はない。投錨して、テンダーボートで渉るのだそうだ。おまけに入国に関しての協定の加減で税関書類、持ち込み品チェックがある。だから大変時間がかかる。これまでは運行予定の変更はなかったが、1日の予定が2日になった。ところで、どこの国か、ご存知ですか?ペルーではなくて、チリ(スペイン語ではチレ)なのです。そして、一時オランダが領有していた時があって、その領有した日がキリスト教の復活祭だったのでイースターと呼んだということ、だから島民自らはラパ・ヌイと呼んでいる。
投錨は暗いと危険な作業とかで、8時ころ行われたようだ。私のOPは、英語ガイド半日観光(15,000円)で、CC通訳付きだともう2千円高い。この費用には、チリの国立公園指定による入園料7千円が含まれているそうだ。我々は、本日の一番最後のグループで、結局昼前、救命胴衣をつけてテンダーボートに乗り込む。波に漂っているのでクルーの差し出す手を握りながらでないと難しい。3列3人の9人乗りで、前に一人の先導役と後ろのエンジン操作役、11人乗だ。5分ほど波しぶきをたて、着いたところがアナケナ浜という、すでに昼頃なので、数十人が水着で水と戯れていた。書類提出と簡単な荷物チェックがあり、入園料を払った目印の腕輪をつける。バスではなく、10人乗りくらいのワゴン車2台で1班、ガイドが一人つく。地図を見たら、二等辺三角形を斜めにおいて右の底角だけをちょん切ったような形だが、その右辺の中点からから左の底角まで伸びているのが島の縦断道路、後は海岸沿いに道が走っている。海底火山の噴火で溶岩流が冷えて固まりできた島だそうで、なだらかな丘陵と平地が続き、小高い所も山というよりなだらかな古墳が点在するような、はたまた女体の乳房のように伏せたお椀がところどころに、といったやさしい地形である。木もまばらで、森がないのだが・・。
遠い昔から、ニュージーランド・イースター・ハワイを結ぶ巨大な海域の三角形内で海に暮らす人々が行き来していたという。ポリネシアの民であり、当然文化も類似している。(2年前に行ったニュージーランドのマリオも同じルーツを持つ。次の寄港地、タヒチも当然その中にある。)
各見どころでパンフとガイドから語られたラパ・ヌイの歴史は、次のようなものであった(と思う、CCはいないんだから)。
ここラパヌイでは、人々は氏族clan、つまりは共通の先祖を持つとされる血縁集団の中で暮らしていた。複数の氏族の中のある氏族の長が島全体の中で王となり統治するというルールがあった。どうも、モアイは氏族ごとの祖先のシンボル、あるいは守り神として造られたということのようだ。だから、モアイは海に向かって建てられているのかというとそうでなく、海沿いではあるが氏族の住む内陸に向かって建てられたというのが正解。そこらに気まぐれに建てられた(置かれた?)のでなく、おそらくは墓所として造られた石の祭壇(アフと言われる)の上に建てられたというのが公的?正式?のようだ。しかし、人口増加などの要因で、王を決めるルールが守れず、氏族間戦争みたいのものがおこったらしい。氏族同士が血を流すと同時に、敵のシンボルであるモアイを倒す、文字どうり立っているものをこかす、横にする、さんごや真珠をモアイの目として張り付けたりはめ込んでいる場合はそれを取る、という時代があったとうことだ(モアイ倒し戦争って、何とも運動会のようなのどかな名前で呼ばれている)。それで、倒されたり明後日の方向を向いたモアイが見られるし、海に沈んだものもある。(モアイにも不幸な星の下に生まれたモノがあったんですね)
デ、このモアイを、造っていたのがラノ・ララクという岩山。モアイ工場があったんだ!岩山の岩に直接、長い耳をもった顔と、肩から下という具合に、いわばモアイ原型として切り出す。それを山の斜面を利用して作業しやすい足場のある部分までおろし細部まで刻む、そして、できた完成品を運ぶ、ということで1丁上り! そのとてつもない作業にはテコやコロみたいな道具(地元藤井寺の修羅を思い出す)を使うためおびただしい木が必要とされ、ために森が無くなってしまったという話だ。また、作業途中で放棄されたため(その理由は認識できてません、また調べておきます)刻みかけのモノ、やりかけのモノなどの出荷前モアイ、生産途中モアイ、移動失敗でうつむきに倒れ顔面がめりこんだと思われるモノなどが累々とある。(こんな形容詞でいいのかな? 死体みたいだね、2~3mくらいのモノから、大きいものなら10mを超すーー地上に6mくらいの顔と肩からの一部が現れていても、地下には同じ長さの胴体が埋まっているーーモアイ君もいる、この表現もおかしいネ、あるが正しい? だんだん擬人化が激しくなってきた。ゴロン ゴロンとが一番近いのかな)ちなみに、ラノ・ララクで最大と推測されるのは作業しかけで、まだ岩に一部刻みかけたモノだが、完成すれば22m(1階で3mとっているマンションなら7~8階の屋上!)に及ぶそうだし、通常男性だが女性のもあるという話だし(見ていない)、立っているのではなく正座しているモアイ君もいる(これは見た、おかしい)。
これに対し復元されちゃんと立っているモノの中で、観光写真でも知られている完成モアイは、アフ(覚えてますか?数行前にありましたね、石の祭壇)・トンガリキの15体です。その中で、茶色の帽子を被っているように見えるモアイ君は身長も高く目立っています。でも、帽子ではなく、ラパヌイの人の髪型(長髪をちょんまげのようにして括る)という説もあります。チリ地震で倒されたモアイを日本の重機会社が立て直したという話を聞きました。
もう1ケ所、最初に上陸した浜には7体のモアイ(4体は帽子・髪付き)と、別の所の最初に修復されたモアイがありました。9百体ほどがあると言われる中で、結局見たのは50くらいですが十分ご対面は果たせました。(書く方も読む方も、モアイの話は、もー飽きた、もー飽い、た、ようなので)これ以外の見どころとしては、ラノ・カウ山という噴火山の火口に雨水がたまり湖となったところがあります。外輪山の直径は1.5Kmもあるそうですから珍しい。また、隣接するオロンゴ岬にはかつての住民の石積みの住居址も珍しいものでした。掘られた地下の空間が家というべきで地上の石積みは1mもなく、人一人がくぐれるかどうかという狭い入り口含めると、まるで塹壕(トーチカ?)のようだ。立って歩けないほど狭いので膝を抱えて眠ったと推測されている。それでも、ヨーロッパの外敵の前では無力で、天井に書かれた絵が珍しいというので剥がされ持って行かれたということだ。
帰りのテンダーボートで一瞬ヒヤッとした場面があった。ピースボート本船に着き下船のためにロープで固定しようとしたちょうどその時、止まる前の船の勢いと波のため、テンダーボートの舳がピースボートの舷門の一部に食い込み、その衝撃で大きく傾き、目の前の婦人が危うく落ちかけた。ピースボートの人間も必死でロープを操作し、食い込みが離れたので結局難に至らなかったが、どこにでも事故の要素は転がっている。
さて、ラパヌイについては、水先案内人として乗船していたEと、Eの活動を抜きにして語ることはできない。かつての王の一族の子孫である彼は、チリの大学で建築工学も学んだが、今はラパヌイの文化――民族音楽・ダンスなどの継承と伝播に奔走する音楽家である。
20代後半の肉体たるや頑健で、たまたまトレーニング室で一緒になったんだけれど、ロープを使って一流アスリート並みの筋トレをしていた。ラグビーのNZオールブラックスで有名な試合前ダンス(ハカ?といった?記憶違い?)とよくにたダンス、ラパヌイに伝わる、あるいは彼が作曲した歌(ギターやパーカッションも操りながら)を我々に披露してくれたり、ワークショップを開いて彼がこの船に来てから作詞作曲した音楽とダンスを教えてくれるなど、E旋風が吹き荒れた。韓流ヨン様ブームが沸き起こったと同じように、おば(あ)さま族にE様ブームが起こったのだ。25日の夜、彼が島で育成している音楽・舞踊NGOのメンバー数人も乗船し、発表会は熱気に包まれた。ワークショップの数十人の?メンバーも舞台に上がりラパヌイ語の歌と踊りを披露した時は、短時間のうちに見事なものだとしかいいようがない。
妻もE様ファンになったのだが、妻だけが知る体験がある。26日に彼の一族や、NGOで学ぶ子供たちも乗船してきて船内を見学していたのだが、妻がトレーニング室で一人ウオーキング中に、4名の子どもたちが入ってきてトレーニング・マシンとともに自販機に興味を示したということであった。船内の自販機はすべて現金は使えず、いつも身につけているIDカードをかざして清算するので、妻はおごってやったらしい(すごい!)。話していると(学校では英語を学習している)、Eの話になり、「結婚はしていないが恋人はいる、同棲はしていない」というような情報がもたらされたらしい。どこでも「女の子はやはり関心があり、よく知っているんだ」というのが妻の感想。
Eやラパヌイの人々、そして千人(じゃなかった)、千体近いモアイ君、マウルル(ありがとう)、イオラナ(さよなら)。26日夕刻錨を引き上げ、6月2日に間に合うよう、タヒチ パペートに向かう。デモ、ラパヌイで予定を1日延したため、遅れを取り戻すかのように、船足が早まったんじゃーナイ?、その後の揺れはかなり激しい。ランニングマシンに危なくて乗れないよー。
① イースター島 モアイとご対面(5/25~26)、ラパヌイの人
5/25(日)未明 イースター島を目前にする。ピースボートのような大型客船が接岸できるような港はない。投錨して、テンダーボートで渉るのだそうだ。おまけに入国に関しての協定の加減で税関書類、持ち込み品チェックがある。だから大変時間がかかる。これまでは運行予定の変更はなかったが、1日の予定が2日になった。ところで、どこの国か、ご存知ですか?ペルーではなくて、チリ(スペイン語ではチレ)なのです。そして、一時オランダが領有していた時があって、その領有した日がキリスト教の復活祭だったのでイースターと呼んだということ、だから島民自らはラパ・ヌイと呼んでいる。
投錨は暗いと危険な作業とかで、8時ころ行われたようだ。私のOPは、英語ガイド半日観光(15,000円)で、CC通訳付きだともう2千円高い。この費用には、チリの国立公園指定による入園料7千円が含まれているそうだ。我々は、本日の一番最後のグループで、結局昼前、救命胴衣をつけてテンダーボートに乗り込む。波に漂っているのでクルーの差し出す手を握りながらでないと難しい。3列3人の9人乗りで、前に一人の先導役と後ろのエンジン操作役、11人乗だ。5分ほど波しぶきをたて、着いたところがアナケナ浜という、すでに昼頃なので、数十人が水着で水と戯れていた。書類提出と簡単な荷物チェックがあり、入園料を払った目印の腕輪をつける。バスではなく、10人乗りくらいのワゴン車2台で1班、ガイドが一人つく。地図を見たら、二等辺三角形を斜めにおいて右の底角だけをちょん切ったような形だが、その右辺の中点からから左の底角まで伸びているのが島の縦断道路、後は海岸沿いに道が走っている。海底火山の噴火で溶岩流が冷えて固まりできた島だそうで、なだらかな丘陵と平地が続き、小高い所も山というよりなだらかな古墳が点在するような、はたまた女体の乳房のように伏せたお椀がところどころに、といったやさしい地形である。木もまばらで、森がないのだが・・。
遠い昔から、ニュージーランド・イースター・ハワイを結ぶ巨大な海域の三角形内で海に暮らす人々が行き来していたという。ポリネシアの民であり、当然文化も類似している。(2年前に行ったニュージーランドのマリオも同じルーツを持つ。次の寄港地、タヒチも当然その中にある。)
各見どころでパンフとガイドから語られたラパ・ヌイの歴史は、次のようなものであった(と思う、CCはいないんだから)。
ここラパヌイでは、人々は氏族clan、つまりは共通の先祖を持つとされる血縁集団の中で暮らしていた。複数の氏族の中のある氏族の長が島全体の中で王となり統治するというルールがあった。どうも、モアイは氏族ごとの祖先のシンボル、あるいは守り神として造られたということのようだ。だから、モアイは海に向かって建てられているのかというとそうでなく、海沿いではあるが氏族の住む内陸に向かって建てられたというのが正解。そこらに気まぐれに建てられた(置かれた?)のでなく、おそらくは墓所として造られた石の祭壇(アフと言われる)の上に建てられたというのが公的?正式?のようだ。しかし、人口増加などの要因で、王を決めるルールが守れず、氏族間戦争みたいのものがおこったらしい。氏族同士が血を流すと同時に、敵のシンボルであるモアイを倒す、文字どうり立っているものをこかす、横にする、さんごや真珠をモアイの目として張り付けたりはめ込んでいる場合はそれを取る、という時代があったとうことだ(モアイ倒し戦争って、何とも運動会のようなのどかな名前で呼ばれている)。それで、倒されたり明後日の方向を向いたモアイが見られるし、海に沈んだものもある。(モアイにも不幸な星の下に生まれたモノがあったんですね)
デ、このモアイを、造っていたのがラノ・ララクという岩山。モアイ工場があったんだ!岩山の岩に直接、長い耳をもった顔と、肩から下という具合に、いわばモアイ原型として切り出す。それを山の斜面を利用して作業しやすい足場のある部分までおろし細部まで刻む、そして、できた完成品を運ぶ、ということで1丁上り! そのとてつもない作業にはテコやコロみたいな道具(地元藤井寺の修羅を思い出す)を使うためおびただしい木が必要とされ、ために森が無くなってしまったという話だ。また、作業途中で放棄されたため(その理由は認識できてません、また調べておきます)刻みかけのモノ、やりかけのモノなどの出荷前モアイ、生産途中モアイ、移動失敗でうつむきに倒れ顔面がめりこんだと思われるモノなどが累々とある。(こんな形容詞でいいのかな? 死体みたいだね、2~3mくらいのモノから、大きいものなら10mを超すーー地上に6mくらいの顔と肩からの一部が現れていても、地下には同じ長さの胴体が埋まっているーーモアイ君もいる、この表現もおかしいネ、あるが正しい? だんだん擬人化が激しくなってきた。ゴロン ゴロンとが一番近いのかな)ちなみに、ラノ・ララクで最大と推測されるのは作業しかけで、まだ岩に一部刻みかけたモノだが、完成すれば22m(1階で3mとっているマンションなら7~8階の屋上!)に及ぶそうだし、通常男性だが女性のもあるという話だし(見ていない)、立っているのではなく正座しているモアイ君もいる(これは見た、おかしい)。
これに対し復元されちゃんと立っているモノの中で、観光写真でも知られている完成モアイは、アフ(覚えてますか?数行前にありましたね、石の祭壇)・トンガリキの15体です。その中で、茶色の帽子を被っているように見えるモアイ君は身長も高く目立っています。でも、帽子ではなく、ラパヌイの人の髪型(長髪をちょんまげのようにして括る)という説もあります。チリ地震で倒されたモアイを日本の重機会社が立て直したという話を聞きました。
もう1ケ所、最初に上陸した浜には7体のモアイ(4体は帽子・髪付き)と、別の所の最初に修復されたモアイがありました。9百体ほどがあると言われる中で、結局見たのは50くらいですが十分ご対面は果たせました。(書く方も読む方も、モアイの話は、もー飽きた、もー飽い、た、ようなので)これ以外の見どころとしては、ラノ・カウ山という噴火山の火口に雨水がたまり湖となったところがあります。外輪山の直径は1.5Kmもあるそうですから珍しい。また、隣接するオロンゴ岬にはかつての住民の石積みの住居址も珍しいものでした。掘られた地下の空間が家というべきで地上の石積みは1mもなく、人一人がくぐれるかどうかという狭い入り口含めると、まるで塹壕(トーチカ?)のようだ。立って歩けないほど狭いので膝を抱えて眠ったと推測されている。それでも、ヨーロッパの外敵の前では無力で、天井に書かれた絵が珍しいというので剥がされ持って行かれたということだ。
帰りのテンダーボートで一瞬ヒヤッとした場面があった。ピースボート本船に着き下船のためにロープで固定しようとしたちょうどその時、止まる前の船の勢いと波のため、テンダーボートの舳がピースボートの舷門の一部に食い込み、その衝撃で大きく傾き、目の前の婦人が危うく落ちかけた。ピースボートの人間も必死でロープを操作し、食い込みが離れたので結局難に至らなかったが、どこにでも事故の要素は転がっている。
さて、ラパヌイについては、水先案内人として乗船していたEと、Eの活動を抜きにして語ることはできない。かつての王の一族の子孫である彼は、チリの大学で建築工学も学んだが、今はラパヌイの文化――民族音楽・ダンスなどの継承と伝播に奔走する音楽家である。
20代後半の肉体たるや頑健で、たまたまトレーニング室で一緒になったんだけれど、ロープを使って一流アスリート並みの筋トレをしていた。ラグビーのNZオールブラックスで有名な試合前ダンス(ハカ?といった?記憶違い?)とよくにたダンス、ラパヌイに伝わる、あるいは彼が作曲した歌(ギターやパーカッションも操りながら)を我々に披露してくれたり、ワークショップを開いて彼がこの船に来てから作詞作曲した音楽とダンスを教えてくれるなど、E旋風が吹き荒れた。韓流ヨン様ブームが沸き起こったと同じように、おば(あ)さま族にE様ブームが起こったのだ。25日の夜、彼が島で育成している音楽・舞踊NGOのメンバー数人も乗船し、発表会は熱気に包まれた。ワークショップの数十人の?メンバーも舞台に上がりラパヌイ語の歌と踊りを披露した時は、短時間のうちに見事なものだとしかいいようがない。
妻もE様ファンになったのだが、妻だけが知る体験がある。26日に彼の一族や、NGOで学ぶ子供たちも乗船してきて船内を見学していたのだが、妻がトレーニング室で一人ウオーキング中に、4名の子どもたちが入ってきてトレーニング・マシンとともに自販機に興味を示したということであった。船内の自販機はすべて現金は使えず、いつも身につけているIDカードをかざして清算するので、妻はおごってやったらしい(すごい!)。話していると(学校では英語を学習している)、Eの話になり、「結婚はしていないが恋人はいる、同棲はしていない」というような情報がもたらされたらしい。どこでも「女の子はやはり関心があり、よく知っているんだ」というのが妻の感想。
Eやラパヌイの人々、そして千人(じゃなかった)、千体近いモアイ君、マウルル(ありがとう)、イオラナ(さよなら)。26日夕刻錨を引き上げ、6月2日に間に合うよう、タヒチ パペートに向かう。デモ、ラパヌイで予定を1日延したため、遅れを取り戻すかのように、船足が早まったんじゃーナイ?、その後の揺れはかなり激しい。ランニングマシンに危なくて乗れないよー。