レダック ピースボートに乗る

2014-05-28 08:21:15 | 日記
その4 太平洋編
 ① イースター島 モアイとご対面(5/25~26)、ラパヌイの人
  5/25(日)未明 イースター島を目前にする。ピースボートのような大型客船が接岸できるような港はない。投錨して、テンダーボートで渉るのだそうだ。おまけに入国に関しての協定の加減で税関書類、持ち込み品チェックがある。だから大変時間がかかる。これまでは運行予定の変更はなかったが、1日の予定が2日になった。ところで、どこの国か、ご存知ですか?ペルーではなくて、チリ(スペイン語ではチレ)なのです。そして、一時オランダが領有していた時があって、その領有した日がキリスト教の復活祭だったのでイースターと呼んだということ、だから島民自らはラパ・ヌイと呼んでいる。
  投錨は暗いと危険な作業とかで、8時ころ行われたようだ。私のOPは、英語ガイド半日観光(15,000円)で、CC通訳付きだともう2千円高い。この費用には、チリの国立公園指定による入園料7千円が含まれているそうだ。我々は、本日の一番最後のグループで、結局昼前、救命胴衣をつけてテンダーボートに乗り込む。波に漂っているのでクルーの差し出す手を握りながらでないと難しい。3列3人の9人乗りで、前に一人の先導役と後ろのエンジン操作役、11人乗だ。5分ほど波しぶきをたて、着いたところがアナケナ浜という、すでに昼頃なので、数十人が水着で水と戯れていた。書類提出と簡単な荷物チェックがあり、入園料を払った目印の腕輪をつける。バスではなく、10人乗りくらいのワゴン車2台で1班、ガイドが一人つく。地図を見たら、二等辺三角形を斜めにおいて右の底角だけをちょん切ったような形だが、その右辺の中点からから左の底角まで伸びているのが島の縦断道路、後は海岸沿いに道が走っている。海底火山の噴火で溶岩流が冷えて固まりできた島だそうで、なだらかな丘陵と平地が続き、小高い所も山というよりなだらかな古墳が点在するような、はたまた女体の乳房のように伏せたお椀がところどころに、といったやさしい地形である。木もまばらで、森がないのだが・・。
遠い昔から、ニュージーランド・イースター・ハワイを結ぶ巨大な海域の三角形内で海に暮らす人々が行き来していたという。ポリネシアの民であり、当然文化も類似している。(2年前に行ったニュージーランドのマリオも同じルーツを持つ。次の寄港地、タヒチも当然その中にある。)
各見どころでパンフとガイドから語られたラパ・ヌイの歴史は、次のようなものであった(と思う、CCはいないんだから)。
ここラパヌイでは、人々は氏族clan、つまりは共通の先祖を持つとされる血縁集団の中で暮らしていた。複数の氏族の中のある氏族の長が島全体の中で王となり統治するというルールがあった。どうも、モアイは氏族ごとの祖先のシンボル、あるいは守り神として造られたということのようだ。だから、モアイは海に向かって建てられているのかというとそうでなく、海沿いではあるが氏族の住む内陸に向かって建てられたというのが正解。そこらに気まぐれに建てられた(置かれた?)のでなく、おそらくは墓所として造られた石の祭壇(アフと言われる)の上に建てられたというのが公的?正式?のようだ。しかし、人口増加などの要因で、王を決めるルールが守れず、氏族間戦争みたいのものがおこったらしい。氏族同士が血を流すと同時に、敵のシンボルであるモアイを倒す、文字どうり立っているものをこかす、横にする、さんごや真珠をモアイの目として張り付けたりはめ込んでいる場合はそれを取る、という時代があったとうことだ(モアイ倒し戦争って、何とも運動会のようなのどかな名前で呼ばれている)。それで、倒されたり明後日の方向を向いたモアイが見られるし、海に沈んだものもある。(モアイにも不幸な星の下に生まれたモノがあったんですね)
デ、このモアイを、造っていたのがラノ・ララクという岩山。モアイ工場があったんだ!岩山の岩に直接、長い耳をもった顔と、肩から下という具合に、いわばモアイ原型として切り出す。それを山の斜面を利用して作業しやすい足場のある部分までおろし細部まで刻む、そして、できた完成品を運ぶ、ということで1丁上り! そのとてつもない作業にはテコやコロみたいな道具(地元藤井寺の修羅を思い出す)を使うためおびただしい木が必要とされ、ために森が無くなってしまったという話だ。また、作業途中で放棄されたため(その理由は認識できてません、また調べておきます)刻みかけのモノ、やりかけのモノなどの出荷前モアイ、生産途中モアイ、移動失敗でうつむきに倒れ顔面がめりこんだと思われるモノなどが累々とある。(こんな形容詞でいいのかな? 死体みたいだね、2~3mくらいのモノから、大きいものなら10mを超すーー地上に6mくらいの顔と肩からの一部が現れていても、地下には同じ長さの胴体が埋まっているーーモアイ君もいる、この表現もおかしいネ、あるが正しい? だんだん擬人化が激しくなってきた。ゴロン ゴロンとが一番近いのかな)ちなみに、ラノ・ララクで最大と推測されるのは作業しかけで、まだ岩に一部刻みかけたモノだが、完成すれば22m(1階で3mとっているマンションなら7~8階の屋上!)に及ぶそうだし、通常男性だが女性のもあるという話だし(見ていない)、立っているのではなく正座しているモアイ君もいる(これは見た、おかしい)。
これに対し復元されちゃんと立っているモノの中で、観光写真でも知られている完成モアイは、アフ(覚えてますか?数行前にありましたね、石の祭壇)・トンガリキの15体です。その中で、茶色の帽子を被っているように見えるモアイ君は身長も高く目立っています。でも、帽子ではなく、ラパヌイの人の髪型(長髪をちょんまげのようにして括る)という説もあります。チリ地震で倒されたモアイを日本の重機会社が立て直したという話を聞きました。
もう1ケ所、最初に上陸した浜には7体のモアイ(4体は帽子・髪付き)と、別の所の最初に修復されたモアイがありました。9百体ほどがあると言われる中で、結局見たのは50くらいですが十分ご対面は果たせました。(書く方も読む方も、モアイの話は、もー飽きた、もー飽い、た、ようなので)これ以外の見どころとしては、ラノ・カウ山という噴火山の火口に雨水がたまり湖となったところがあります。外輪山の直径は1.5Kmもあるそうですから珍しい。また、隣接するオロンゴ岬にはかつての住民の石積みの住居址も珍しいものでした。掘られた地下の空間が家というべきで地上の石積みは1mもなく、人一人がくぐれるかどうかという狭い入り口含めると、まるで塹壕(トーチカ?)のようだ。立って歩けないほど狭いので膝を抱えて眠ったと推測されている。それでも、ヨーロッパの外敵の前では無力で、天井に書かれた絵が珍しいというので剥がされ持って行かれたということだ。
帰りのテンダーボートで一瞬ヒヤッとした場面があった。ピースボート本船に着き下船のためにロープで固定しようとしたちょうどその時、止まる前の船の勢いと波のため、テンダーボートの舳がピースボートの舷門の一部に食い込み、その衝撃で大きく傾き、目の前の婦人が危うく落ちかけた。ピースボートの人間も必死でロープを操作し、食い込みが離れたので結局難に至らなかったが、どこにでも事故の要素は転がっている。
さて、ラパヌイについては、水先案内人として乗船していたEと、Eの活動を抜きにして語ることはできない。かつての王の一族の子孫である彼は、チリの大学で建築工学も学んだが、今はラパヌイの文化――民族音楽・ダンスなどの継承と伝播に奔走する音楽家である。
20代後半の肉体たるや頑健で、たまたまトレーニング室で一緒になったんだけれど、ロープを使って一流アスリート並みの筋トレをしていた。ラグビーのNZオールブラックスで有名な試合前ダンス(ハカ?といった?記憶違い?)とよくにたダンス、ラパヌイに伝わる、あるいは彼が作曲した歌(ギターやパーカッションも操りながら)を我々に披露してくれたり、ワークショップを開いて彼がこの船に来てから作詞作曲した音楽とダンスを教えてくれるなど、E旋風が吹き荒れた。韓流ヨン様ブームが沸き起こったと同じように、おば(あ)さま族にE様ブームが起こったのだ。25日の夜、彼が島で育成している音楽・舞踊NGOのメンバー数人も乗船し、発表会は熱気に包まれた。ワークショップの数十人の?メンバーも舞台に上がりラパヌイ語の歌と踊りを披露した時は、短時間のうちに見事なものだとしかいいようがない。
 妻もE様ファンになったのだが、妻だけが知る体験がある。26日に彼の一族や、NGOで学ぶ子供たちも乗船してきて船内を見学していたのだが、妻がトレーニング室で一人ウオーキング中に、4名の子どもたちが入ってきてトレーニング・マシンとともに自販機に興味を示したということであった。船内の自販機はすべて現金は使えず、いつも身につけているIDカードをかざして清算するので、妻はおごってやったらしい(すごい!)。話していると(学校では英語を学習している)、Eの話になり、「結婚はしていないが恋人はいる、同棲はしていない」というような情報がもたらされたらしい。どこでも「女の子はやはり関心があり、よく知っているんだ」というのが妻の感想。
 Eやラパヌイの人々、そして千人(じゃなかった)、千体近いモアイ君、マウルル(ありがとう)、イオラナ(さよなら)。26日夕刻錨を引き上げ、6月2日に間に合うよう、タヒチ パペートに向かう。デモ、ラパヌイで予定を1日延したため、遅れを取り戻すかのように、船足が早まったんじゃーナイ?、その後の揺れはかなり激しい。ランニングマシンに危なくて乗れないよー。 

レダック ピースボートに乗る

2014-05-27 02:35:56 | 日記
その4 太平洋編
① 洋上生活<5>(5/20~5/24)
よく揺れる。海面を眺めていると、白い波濤の変化でなかなか飽きない。海の色も濃くなってきた。突然の虹を5日の内2回見た。2回目は特に強烈だった。5/24昼間の雨があがり、しばらくして、時間調整のためホールのソファで本を海を眺めながら読書を始めて数分、突然、すぐ目の前の海面から飛び出すように虹が見えた。まわりも気づき「虹だ」のざわめき。本当に、すぐそこ、救命ボートで接近すれば捕まえられる(わけはないんだが)くらい。5分くらいして飽きて、読書にもどり、目を挙げると消えていた。ビックリ!!
ご報告2題。前の(4/22 ロマの差別問題に関連して起こった)問題発言後も進行担当者のKさんと話し合いを続けていた。Kさんも同和教育を受けた経験がなく、大変前向きに今後の対処を含めて考えており、自主企画で取り扱えないかという提言については断ったが、自分らも研修したいという意向は大事にしたいと思い、その申し出には応じた。デ5/20、Kさんを含むスタッフ自主研修を行った。60分で同和問題を語り、少し質疑もおこなった。
ただ、こういった状況に置かれた時の対処について知りたいという意向もあり、出席者の全員の意向とすれ違った一面もあったので、再度、話し合うこととした。
もう一つは5/23の自主企画発表会に積極的に参加した。前に文化祭があったが、今度は乗客自らが講師・インストラクターになって行っている自主企画の発表を文化祭と同じようにホールで行うものだ。ウクレレ・詩吟・タヒチアンダンス・フラダンス・社交ダンス・ベリーダンス(後の二つは文化祭でもやったのに・・そんなに見せたいわけ?)など。で、私はこの間、「花は咲くプロジェクト」で2日に1日はノドを鍛えていたわけ。新沼健二の「ふるさとは今もかわらず」との2曲。ザーッと40人、最初は若い子も数人来ていたがオジン・オバンばかりで逃げ出したみたい。その代り、直前に来て、低音部なのにメロディばっかり歌って、気がついたのが3日前とか・・私は、パナマ帽を衝動買いしたものの、多分、日本ではよう被らんだろうからと、一人帽子をかぶってステージに上がり、きっと目立ってしまったと思う。発声のほうは相変わらず、1オクターブの音域内がやっとくらいですが、何とか声は出るようになったので、今度はカラオケ大会にでようかな! もう、他のシニアと同じ。恥は太平洋の藻屑にナーレ。
 
ほんとの 閑話休題 ピ-スボート上の人々
A 船(パナマ船籍)会社⇒船長以下航海士等 クルーは当然として、ほとんど顔もあわさずメンテナンス等に携わる人・客室清掃・食堂の調理人やサービスする人。人数不明だが200~300人いるという噂。ほとんど外国人で、接触している範囲ではインドネシア・フィリピン、インドなど、中には流暢に日本語を喋って人気のあるウクライナ人もいるが稀。清掃・食堂などは分業が徹底している。給料も職種によって違うらしいが特別のスキルを要しないものは低いとみられる。メインレストランのディナーでは①席まで案内する人(椅子も引く) ②コップに水を注ぐ人 ③4~6、8人くらいのテーブルには先付けの料理がセットされているが、客がそろうと汁物や主菜、ゴハンを持ってくる人(それも種類ごとに分担)、④飲み物のオーダーを聞く人=客のIDカードでの精算もする。そして、料理も終盤にさしかかると、⑤お茶かコーヒーを入れる人、⑥「フィニシュ?」と聞いてお盆を下げ、すぐにその日のデザートを持ってくる人、とマアこれくらいいる。労働条件がどんな契約かは分からないが、④飲み物オーダー係が、またまた夜のバーなどで働いていて「ヤア」ということも起こる。
  客室担当の女性と妻がかなり親しくなったが、彼女の客室分担は25室で、その区域の廊下はもちろん階段、手すりも守備範囲で、例の洗濯の注文も聞いている。ムスリムなので、カサブランカでは、「ハッサンⅡ世モスク」に行ったが、バス代が無かったので、歩いて行って今日は足が痛いという話も聞いた。
B旅行会社 ジャパングレース 不明 OPの仕切り役。合わす顔から見て20名くらい?
C ピース・ボート スタッフは26名、CCと呼ばれる通訳(Communication Coordinator)が14名、外国人の英語・スペイン語の語学講師が9名。だから総勢50名ほど。だが、CCは費用はタダだが給料は出ないボランティア。そもそもNGOなので、スタッフの給料も安いとのこと。Tというディレクターはモデル並みの長身の肢体の持ち主で、特段の美人というほどではないけれど笑みを絶やさずかっこいい。おまけにサルサの指導者で、オークションの司会をやらせたら、吉本の芸人も真っ青な話芸など、有能多芸な女カリスマ然としている。特に男性客に心酔者がたくさん出始めているとみられる。
(辻元清美が議員立候補の際、ピースボートから手を引いたわけだが、Tさんはこの時の立候補演説を高校生として高槻駅前で聞いたという。そこで、Tさんに、ある時「元 大阪の高校の教師だが、良ければどこに行っていたか教えて」と聞いた。有名進学校ではなかった、進路もお菓子?料理?の専門学校という。大阪府では、有名進学校10校にグローバル・リーダー・ハイスクールとか名付けた学校を作り出したが、時代のはやり言葉としてそんな用語を使っているだけでは? この世界1周を生業にしている女カリスマの話でも聞いたらどうかな。
D乗客 横浜港、最初からの乗客は600名ほど。僕らのようにフライトで先に観光してヨルダン アカバ港からが300余名。(乗客が急に1.5倍に増えたため、最初からの人は少し窮屈になったと戸惑い、デザートの例えばみつ豆の量が減ったそうである。(定員は1400余人)。また、モロッコで帰国したのが90名ほどだったので、それ以降は800余名とみられる。
  年齢4歳~94歳? 60・70歳代が2/3近く。80歳代も少なくない。車いすの人が2人、
杖がいる人が二けたはいそう。次いで10代と20代。30~50歳代はごく少ないというし、
事実そういう印象を受ける。シニアは私のようにリタイアして夫婦でとい
う組み合わせが多いように思うが、それぞれ一人で、も少なくない。特に女性の中には、
最初は夫婦で来たが、2回目とか3回目は旦那をほっといて来たという人に何人か出会っ
た。男性の一人組は、連れ添いに先立たれたというケースと、ぬれ落ち葉のダンナに、「あ
んた、行って来たら」と言われた人もいるであろう。
D‘シニアの乗客 私の好み、まさに予断と偏見だが、前少し書いたように、このシニア集団はかなり特異である(と思う)。(もちろん何事にも例外、少数者はいる)
・まず、総じて元気である(でないと、旅行にこれないもの)。そして、よく食べる。私も
 食は太い方と自負しているものの、いやあ、ご立派な食欲をほこり、食事を2つの食堂
で梯子する人もいる。妻は、真実、当初目を丸くしていた。朝食などはバイキング方式
でデザートの果物も摂っていくのだが、常識的には?2~3切れですよね? 8~10切れ
も持って行けば、それって、グレープフルーツなら1個分だよね。
ひどいのは15時~16時までのアフタヌーン・ティー。3種類のクッキー・ミニケーキ
と紅茶のティーバッグ・レモン・砂糖をとり熱湯を注ぐ。ほとんど1個をとるが、なか
に3つづつでトレイが溢れかえってる人。そして、見てしまったのだ、包んで持ちかえ
る人も・・。いつ食べるの?
・次に、自己顕示意欲の高い人がやたら目に付く。日本語に通訳する前の、現地ガイドの英語説明の間にやたら大げさにうなずいたり笑ったりする人。
講演会のあとで、毎回のように質問する人(その枕詞に自分のことを言うーお前の趣味など誰も聞きたない)。行事的なものに、必ずリーダー的に登場する人。
この変形として、顔を会わせて数分なのに、人生を語りだす人。朝食時、ツアー参加動機を喋っていたら、介護した肉親を失い、遺骨抱えて世界をまわっていると話しかけてきた。(世界のお遍路さんかいな?朝食の席でそんな重い話しんどいガナ。)
私も相当仕切り屋と見られていようが、出る幕などございません。
・上記ほどではないが、「失った青春 取り戻そう」派の人。このタイプが一番多い。特に女性。家事一切から解放され、ダンナと一緒であろうが、個人・グループであろうが、「まるまる時間を好きなように使える、何でもやってやろうじゃない、アー楽しい」と言明している人の言葉を実際に聞いた。
・だから、集団活動を好まず、マイペースで本を読む、海を眺めるといった孤独を常とする人でなければ、苦痛なものかもしれない。ある寄港地でピースボート(?旅行社?)のスタッフが付き添いスーツケースを押して有名地へのバスに乗り込むおじ(い)さんの姿を見た。離脱者なのだろう。これ以外に事故による離脱者もいるという。OPで滝壺の裏を歩く際足を滑らせ頭?をうち病院送りの人も帰国したという話を複数の人から聞いた。
D“若者 今考えていることがあるので、後日。


レダック ピースボートに乗る

2014-05-23 12:35:48 | 日記
④ ペルー いよいよマチュピチュ編
 5月13~15日、ペルー海流(フンボルト海流ともいう、寒流だし、南半球なので冬に向
かうところで結構寒い)に逆らって太平洋に南下したピースボートが、首都リマの外港カ
ヤオに着いて上陸許可が出たのは16日10時過ぎでした。あまりにも有名になった世界遺
産マチュピチュへのOPが2日・3日・4日コースやナスカの地上絵も見るなど5種類ほど
用意されており、違いまでよく分からないまま、私は3日間のKコースを選びました(代
金がナ、ナント174、000円!でもこのために来たようなものダカラネ。)実際の観光体験・
疲労度・高山病体験など満喫したのだと思います。
(なんて無責任と言われるかも知れませんが、19日20時現在、帰船し文章を書き始めた段
階では、ホッとしているというのが当たり障りのない表現なのでしょう)
 入港日の16日は、ツアーを取りやめ、港からリマ繁華街へのチャーターバス代だけ申し
込んだ。それでも3千円。
(段々状況が分かってくると、OPは団体行動だから、自由がきかないー博物館まで来て見学できないとか、買い物やお茶が決められた地域以外でできないーとか。さらに、上に書いたように代金が割高。そこでインターネットを駆使でき行動力に富む若者は、乗船中に調べて現地旅行社に申し込むとおよそ2/3程度でいける場合がある。そこまでの根性はまだないから、近場の場合だけ見習った)
是非じっくりとラファエル・ラルコ(人名)考古学博物館を見て回りたいからだ。ここ
は、人名が冠してあることから分かるように個人の収集を3年ほど前から公開するようになったものだ。まわりの2~3mの白壁に、多彩で可憐な花が打ちかけられた簾のようにして咲き誇っていた。民間だから入館料は必要なわけで、30ソレス(1ソル 複数はソレス=36円、ほぼ千円)を払ったら、目ざとく妻がシニアなら25ソレスと見つけてくれた。紀元前後からのアンデス文明を示す土・石の展示品は、是非一見の価値がある。素朴なものや、アニメにでも出てきそうなデフォルメした顔など、土器文様や祭祀用装飾品などに描かれた人間・動物の姿は、現代の商業デザインでも通用すると思わせる。別棟は「エロチック」な展示と表示してあり、それぞれの性器をデフォルメした土器や交合する人形が(女性上位が多い)の土人形が3室にわたり展示されていた。こちとらは、ニンマリしながら見て回ったが、前を歩く欧米系のカップルとすれ違う時あまりに真剣な眼差しであったこともおかしい。ギリシャ ミコノス島でも眼福と思ったが、ここの収蔵品は質量ともに遥かにしのぐ(ゴメンネ 写真送れなくて、日本に帰ったら送ります)。
 1時間半ほど要したが、往路値段交渉をしたタクシードライバーが待っていてくれた。盛り場で客引き婆さん(なぜか客引きは婆さん)が50ソレスと言ったので「話にならん、20だ」と言って返したら、一人の運ちゃんが印刷した行先別値段表みたいなものをもって来て、協定?で30 と決まっていると説明した(多分?妻が全部仕切ってます)ので、その人に頼んだのだ。不安定な稼ぎよりも確実性を彼は選んだのだろう。地下の「ラルコ・マル」という大きなマートの中の海岸線に面したリゾート風レストランで夕食をとっていると、どこの国に旅行しているのか全く分からない。一方、繁華街に来るまでの家は、焼き煉瓦で屋根が葺いてあるとは限らず、古典的貧しさが目に付く。往復2千円ほどを確実に手にすることが彼にとっては必須であったのだろう。(マ、レダックの屁理屈はさておき)
 いよいよマチュピチュへの出発日、17日は2時半集合(昼ではない。ピースボートは早朝と言ってるが深夜が正しい)。6時のチャーター便に間に合わすためにはやむを得ないのだそうだ。バスで空港―バス内で日本のから揚げ弁当配布―空港着手続き、と半ば寝ぼけながらともかくクスコ空港に到着しました、7時半です。海抜3400m、思ったほど寒くはない。人口40万人の一大都市ということだが、驚いたことに果実や肉を売る道端の店が多く開かれているだけでなく、小学生らしき姿(教育改革で公立校は制服着用とのことですが、アンデスの服装や大人の華美とはいえない姿と比べるとよそいきの立派なものに見えます)も動き回っている。そうです。「アンデスの朝は早い」。また、地中海寄港中は野良猫を至る所で見かけましたが(それを「アラ、かわいい」とか言って写真を撮りまくる、触りまくるピ-スボート乗客の能天気さ・・)、野良犬を多く見かける。昼間は例外なく1匹で怠惰に寝そべってるのを見てきたが、朝の内は食糧確保のためか数頭の集団が動き回ってる。
 この地のガイドは日本人Tさん、3日間お世話になったが、まず案内してくれたところはenden、最初何を言っているのかよく分からなかったが、やっぱり塩田。3千数百mのアンデス山脈で連れてこられたの所が、白い田んぼ、びっしりと何区画にも及ぶ。田が4千枚(田の単位は枚でよかったのでしょうか)にも及ぶそうな。かつての海底が隆起したためとのことだが、理解を超えている。湧き出る水が塩辛いことに注目したアンデスの民が、水を順番にひき、天日で乾燥させて残った塩分を土とともにこそぎとり、精製したものをもって生業にしているということだ。「流れくる水をなめてみなさい」とガイドに言われて掬い取ったが、ぬるいその水は海水よりはもっと濃くてえづきそうになるほどだった(馬鹿な私は「舐めろ」と言われたのに、ゴクっといってしまったのです)。土産物屋のNo1商品は、断然そこでできた塩。妻も嬉しそうに買っていた。「帰り重くなるヤロ。しおがないなあ」とは・・、言ってません。
続いては、段々畑。日本でも棚田で有名な観光地もいくつか聞くが、スケールが違う。きれいな円形の最深部から、同心円上に上の方に段々畑が続き、上部の直径100m以上?もあろうか? 上部と底とでは温度差があるので、インカの農場研究所でもあったという説がある。縦に線が下まで続いているように見えるのは水路あと。インカは(我田)引水も得意であったのだ(まともに読むな)。昼食は、多人数が入れるのはここしかないというレストランで、庭にはアルパカとリャマも観光客用に飼われていた。 
 昼食後、「ペルー・レール」鉄道のオリャンタイタンポというわけのわからぬ名の駅に向
かう。車両は、超豪華で高級レストランのようなハイラム・ビンガム(マチュピチュを発見した人の名)号、観光用ビスタドーム車、通常の列車の3種類ある。我々は松竹梅の竹で、屋根の一部が透明のドーム型になっているため、見上げると、そそりたつ山肌がすぐ上に迫っているように見える。進行方向に向かって左側を流れるのがウルバンバ川。なんか言いにくい固有名詞が続くのは、古代アンデスからのケチア語からとったため。ちなみにマチュは古い、ピチュは山、古山ってわけ。ウルは忘れた、バンバはパンパと同じで平原。立派なテーブルを前にした座席で、山を見上げるのに忙しく、ために首が凝る。「後ろのあの山は5千○○級のベロニカ山」とか、ガイドTさんが説明するが、「富士山がどうした」といわれているようで想像さえできない。ある橋の所からは「インカ道は徒歩ではこの道以外はいまだに無い」という説明も衝撃的。クスコに比べ約1400mも低いマチュピチュ駅(当然終点)に着くと、イメージは一変。ここが秘境の入口? 人口3千人ほどの町の人々は、ホテル・土産物屋・遺跡入場口までのバス運転手などに従事しており観光一色。細い何本かの通路は土産物屋が連なり、そこを抜けると、もうまるっきり日本の温泉街?! 「加賀屋」とかなんとかが出てきそう。
 ホテルで窓のない部屋が割り当てられたのは許せるとしても、夕食の5$のビールは許せない。キャップは回して開けよ、ということだが、泡は立たず気抜け状態。他の注文者も一緒に抗議して替えてもらった、でもまた同じ。結局返金で、休肝日となりました。
  翌18日、7時半にホテルを出ると土産物屋はオープンしており、細い道を何台もの空バスが到着しては、次々に出発していく。九十九折とはこの道のことかというくらい、鋭角的に10数回?曲がり、早くもスリルを味わわせてくれる。対向車はすべて空バス。どこかにバスの駐車場から出発して、マチュピチュ駅まで客を迎えに行く。「アンデスの朝は早い」のだ。何でも遺跡保護のために一日バス60台?分、2千数百人しか入山させないそうだ。そこにピースボートから500人ほど参加しているという、ゲゲ!。ちなみに入場料を計算すると5500円くらい。他国の観光客も同じように旗を立ててグループ行動しているから、急峻な角度の狭い足場で、頻繁に混雑し、すれ違うのに一苦労する。
そもそも、一体何のためにこのような高地(標高2400mくらい)に大変な建造物群を作ったのか?、さらに鉄器を持たなかったとされるインカが、どうして岩石(花崗岩)を切り出し、石を組み合すことができたのか? 謎とされている。はじめの疑問に関しては、都クスコに代々の王の館があるが、神殿はじめ残されている石の組み合わせから見て何代目かの王の時代(9代目?)に別荘兼祭祀用に造られたという見方が有力だそうだ。そのためにここに住居を構える家屋(といっても屋根のない石の間取りから推測すると)500軒?くらい、だから神官や、王の世話をする者たちなどの定住者は2千人?と推測される。インカの宗教は太陽神崇拝で、世界は天界・この世・地下世界で構成されており、それぞれの世界を象徴する動物がコンドル・ピューマ・蛇なのだそうだ。そうすると、名曲「コンドルが飛んでいる」は滅びたインカへのオマージュでもあるのだと思えてくる。征服者ピサロは、クスコを膝下に置き、その後のスペイン人の流入とともにキリスト教を持ち込んだ結果、ペルー全体では今は85%がクリスチャンということだが、アンデスの住民だけをとってみればどうなんだろうと思う。だが、征服者たちはマチュピチュにはたどり着くことはなかったがために、20世紀に「発見」されるまで、遺跡として保たれたのだろう。
二つ目の疑問は、磨いた石で切断したのではないか?としか答えようがないらしい。石斧みたいなものか?しかし、石積みを見ていると信じられない。
  話を遺跡に戻そう。特別の都であるから、先ほど書いた「インカ道」を通り、1ケ所だけの門にたどり着く(3泊4日かかるそうだ)。この門から都に入る者をチェックするために「見張り小屋」がある。ここからの眺望は遺跡全体を捉えることができ、宣伝用写真はここからものが多い。(私も写真を撮ってもらったのだが、足がすくみおよび腰。どうも歩いていると揺れっぱなしのような感覚が続いているのだが、これって高山病?)
着いた時点では霧のせいで遠望しても分かりにくかった遺跡が、晴れるにしたがって姿をあらわす。古い山に対し、後背には「ワイナ=新しい、ピチュ=山」がそびえており、とんがりコーンのような山肌に人が蠢いているように見えるのも凄い! あと、天界の象徴たるコンドルを意味する岩石群、ピラミッドパワーに対抗してマチュピチュパワーの気を発するという1枚の岩石、地震にも耐えれるよう窓は台形の構造、生活するうえで欠かせない水路、その水路の水を貯めれる沐浴場、そしてその湯あみ眺めることのできる王の玉座(ウラヤマシイ)、そしてそれらの岩石を組み合わせて積み上げられた建造物、等々、たっぷり3時間半見て回りました。
降りてきたのが昼食時のため、入口に一軒しかないレストランに入るのに25分待ち、帰る人と午後からの客とでバス発着所も満員、マチュピチュ駅も周辺の土産物屋もまたまた人が溢れている。人気ある秘境はツカレルーー。昨日のペルーレイルで、オリャンなんちゃら駅へ帰ることになる。ところが、である。例のビスタドーム車両の隣のボックスにガイドさんがいたが、発車して間もなく入った電話は、隣のバスの組の添乗員からのもので、「2人が戻れず私も待っている」というものだった。幸い30分後の次の便(秘境なのによく走っているなあ)で追いつくそうだ。ために、隣の組は、オリャンなんちゃら駅で半時間ほど待ったそうな。列車でよかった、船ならどうするの・・
我がバスはスイスイとホテル到着、夕食はまた昨日の昼と同じところダッテ。でも、この日のはビールは立派に泡立つビールだったし、ケーナなど生演奏とダンス付きだった。でも多くの人が感動したのは、夜空の星の素晴らしさだった。ついに南十字星を認識できたのです。ホテルへのバスの中も灯りを消して、運転手以外は夜空を見上げていました。
  19日、バスでクスコに戻る。サンドミンゴ教会に入ったのだが、これが珍しい。征服者は、インカの神殿、王の住居を破壊しそこに教会を建てたのだが、破壊せずに残した石積みなどが共存しているのだ。特に太陽の神殿の間と言われる空間の石積みは、間に接着材的なものを一切挟まず、一分の隙もない。剃刀の刃1枚通さないという。ガイドさんが米1$紙幣を取り出し、「隙間が無いので入りません」と実験した後で、「しかし、ここには入ります」と自分の胸元のポケットにしまいこんだのは笑えた。街のあちこちに、破壊されず残った石積みを利用した建物を見て歩く。
  さらにバス移動してサクサイワマン遺跡にも行く。入口から出口まで1Km近くはありそうな草原の真ん中に、またまた石積みが小高い丘の様になっている。ピサロに降伏した後も抵抗したインカの砦だったという。ガイドさんの説明ではなんか凄い名前がついていた。「満足した鷲?鷹?コンドル」。スペイン人に抵抗し虐殺されたインカの肢体をついばむ鳥が満足するほどであったという由来だというからスゴイ。マーしかし、前にウルグアイに行ったとき、各国の人種を調べたら、ウルグアイなどは原住民はほぼ全滅し欧米人で占められていたことを知ったのだが、ここでも200人でインカを滅ぼすなど、大航海時代以降の欧、そして20世紀以降の米って、ラ米(だけではないが)にとって本当にエグイのネ。
  ペルービアン航空で、3千m以上降下し、かくて、マチュピチュ・クスコの旅は終わりましたが、カヤオを出ても私はなお揺れています。エ?みんな揺れてるって、西南西にイースター島に向け針路をとるピースボートを、太平洋がボチボチ荒波で手荒く迎えてくれだしたようです。


レダック ピースボートに乗る

2014-05-20 07:37:32 | 日記
その3 大西洋横断 ラテン・アメリカ編
(訂正 お詫び 前回アップした③パナマの下から4行目 パナマ運河の方向に関して 大西洋から太平洋へ抜けるのを「西から東へ」は、間違いで「東から西へ」ですね。
混乱してゴメンナサイ)
② ベネズエラ(5/7~8)
ピースボートにとってベネズエラは、特別な思い入れのある国に見える。先述した「エル システマ」英語なら「The System」、だから、体系、制度などの無味乾燥な固有名詞なのでいささか説明を要す。1975年、音楽家で大学の先生だった人が、ベネズエラのスラムの子どもたちに音楽の素晴らしさを通じて自信をつけさせようとして始めた音楽教育の施設、およびその運動のことで、40万人の子どもたちが学ぶまでに拡大し、今や政府の支援も受けるようになっている。ここで学び、一流の音楽家になっていった者たちで構成する交響楽団は名声を博している。5月8日にOPで見学することになったその本部は、個人・グループ練習室が100室以上を数え、様々な講義・実習室・コンピューターを駆使して作曲できる部屋や、演奏会場も有し、近くの大学の音楽学部の学生が借用するなど想像を超えていた。
PBは、2008年から楽器を寄付するなど交流を始め、今年も日本で集めた楽器を贈呈するという任務とともに、今回はカサブランカから8名の「エル システマ」のメンバーを乗船させ、船内での演奏会を開くなどより一層の交流活動を深めることが大きな狙いとなっていた(ようだ)。
また、前項で書いたように、(前大統領となってしまったが)チャベス率いたベネズエラに対して親近性をPBは感じているかに思える。これも前述「折鶴」のメンバーが、現大統領に面会できるなどとは想像をこえている。「船内新聞5月10日号」の冒頭だけ紹介する。
「ベネズエラに寄港していた8日、カラカス市内において第83回クルーズおりづるプロジェクトの被爆者6名がベネズエラのマドウーロ大統領に面会しました。・・・」
このためか、寄港地ラグアイアに着いた5月7日の朝、港は吹奏楽で包まれるワ、PB総ディレクターTさんは和服で答礼の意を表すワ、夜には港から数分の近くの公園で歓迎パーティーは開かれるワ、そこにTさんを見習ってかオバ(ア)さんの数人は浴衣姿で現れるワ(エ、こんなんまで持ってきたの!)、地元の人も子や孫がでているからと大挙して押しかけるワ、
マ、エライ騒ぎでした。
 この日、私はOPとして「首都カラカス観光」(12000円)を選んだ。休日でもないのに盛り場は人にあふれかえっており、ガイドの旗を頼りにスペイン統治時代の建物のある旧市街をまわったが、見どころのシモン・ボリーバルの生家・博物館、国会議事堂、教会すべて外観だけで中に入れず、不満が残った。何回か前のブログを見れば、内部見学できており、「どういうこと?」。バスを止めるスペース、昼食の場所、トイレ等々観光地としてのインフラ整備もまだまだの感がある。
 それよりも、私も含め多くの参加者(このコースもバス4台)の耳目を引きつけたものは、ある地点からパラパラ、気がつくとびっしりと山にへばりついて建てられている家々が続いている光景であった。そして、私も含めそれこそ多くの参加者は、この間のIさんの講義を思い出していたに違いない。市街地を挟んで、石油資源の利権構造で甘い汁を吸えた富裕層の住宅地一帯の反対側に、職を求めて勝手に住み着いた貧民層の住居群がどんどん拡大していったということだ。その貧民率(具体的にはどんな指標か?までは分からないが)が75%(4人に3人)であったものを20%までに改革していったのがチャベス前大統領であったのだが、クーデター(20?年)によって大統領官邸で身柄拘束→近くの島に拉致された際も、「大統領を辞任しない」姿勢を貫き、そのメッセージを側近の気転により国営放送で流すことができると、何千?何万?という家々から、わらわらと、そう、わらわらと、人が降りてきて大統領官邸を取り囲んだそうで、ためにクーデター政権は3日で倒れチャベスは復帰したのだ。そのドキュメント映画を見る企画もあり胸が熱くなった。
 そう、車窓からえんえん続くこの光景こそ、現代史の舞台なのだ。(神戸の街の山手が貧民の住居群、そして街がどんどん伸びていくというイメージ)何しろ、区画整理された道に沿って作られたものではないので、山の上方では降りてきて、また帰りに登っていくのは大変、だからびっくりするものがあった。ケーブルカーがついているのですよ。もちろんスペイン語だが英語にすればmetro cableとの表記があったので、思わず注視していると、そこはケーブル駅だったらしく、車窓から見上げると確かにゴンドラが往復していた。その後にガイドさんの説明があり、3路線あり、運賃は日本円で30円くらいだそうだ。
 そういう具合に観光隊御一行様のほうでプラスイメージをもっていたせいか、街の人々は陽気に声をかけてくるように感じられた。現大統領も基本的にチャベス路線を踏襲する線で動いているが、例のクーデター勢力も根強く流動的である。情勢のいかんにかかわらず、PBがこの国との親交を厚く保つ路線は当面続きそうだ。
 8日、「エル システマ」との交流プログラムに参加(7000円)。午前中、冒頭に述べた本部見学。ところが、である。昼食は、カラカスから、も一度ラグアイラへの道を引き返し、PBを横目に見て通り過ぎ、港町のレストランにおいて焼き魚料理ということであった。上で、現代史の舞台と書きすぎたのかも知れないが、昨日も含め2往復してくれなくてもいいのに・・午後もまた、通るの? レストランの通常メニューを見れば600円くらいで、結局バス代? でも、午後は違う道だった。カラカス市域というより、ラグアイラに属する地域の「エル システマ」の音楽練習所を訪問・交流したのだった。元保養所?の施設を入手した「エル システマ」が、この地域の3つのグループ(小学校ごとのようだが、就学前とみられる子もいる)の会員の練習・発表会場としているものだ。小学校ごとの服の色が違うがバスから降りるなり、パーカッションの凄いリズム、数人の子が、タイコ(皮が貼ってあるのは片側だけ)を手で、(なんというのだろうか)中空の木の柱を木の棒で叩いているのが最初の歓迎。2回ホールにあがると別の地域の子どもたちの演奏で、盛り上がる。答礼に訪問団のほうはバス中で練習した「大きな栗の木の下で」や「幸せなら手をたたこ」を身振り付きで発表する(こんなところではレダックは照れない)。そして、正当な国歌ではないが、国民に愛され第2国歌と言われる「ベネズエラ」をスペイン語で合同で歌う(参加者は船上で練習させられたのです)。私もかなり声をはりあげ歌ったのだが、横に来たオバ(ア)サンがまた凄い声、後の交流で分かったのだが、どうも声楽の指導者らしく、数人で彼女と交流している際、いろんなベネズエラの民謡?をゴスペルチックに教えてもらった。「オレーオライローー」とかなんとか(即興ではもう覚えていません)。フリータイムになると、子ども相手だからみんなはしゃぐこと。写真撮影、折り紙、ダンス、贈呈のためある程度まで作成した垂れ幕の共同仕上げ(子供の手やコブシに絵具を塗り、手形として押させる)、パーカッション演奏、名前はともかく電話番号を尋ねること(聞いてどうするの?)などなど・・・帰る時間になり、「もう終わりなので記念撮影しましょう」という趣旨を可愛いCCのAさんが呼びかけても子どもたちはもう熱中、この時ばかりは、もどうしようもないとばかりに、やけくそでスペイン語をがなりたてておりました。
 やはり、子ども相手はいいものです。バスで連れまわされたという悪印象は、帰るころにはすっかり消えていました。

レダック ピースボートに乗る

2014-05-14 10:34:51 | 日記
その3 大西洋横断 ラテン・アメリカ編
② ベネズエラ(5/7~8)
 この項、記事多く、今書ききれない。また遡って書きます。ご寛恕を!

③ パナマ(5/11~5/12)
 ピースボートとしてはベネズエラでの一大ミッションを終え、5/9・10の2日間でカリブ
海を回り込み次の寄港地はパナマ。スエズに続き、今度はパナマ運河を超えるのです。11
日朝8時ころクリストバルという港町に着く。申し込んでいるOPは昼集合なので、早々に多くの乗客が飛び出す。ターミナル周辺の店・スーパーに殺到するのだ。それに、ターミナルならインターネットが使えるので、やっと「その3 ①」を投稿する。
蒸し暑い。西経80度くらいで北緯は10度を切る。ターミナルと船を往復すればシャツ
が汗ばみ替えなければならないほどだ。だから持ってきたのが少ないTシャツを仕入れる。どうせ洗濯すればペラペラになりそうな生地なのに、世界の要衝だけあって土産物屋は高い。それでも25$(パナマ固有の通貨はあるが、米国の影響大で$が通用する)を20$に値切る。
午後、OPとして「パナマ鉄道乗車とパナマシティ観光」に行く(14000円)。パナマ鉄道とは、コロン駅―パナマシティ駅(約80Km 1時間半)を結び、運河にほぼ沿って走る鉄道ではあるが、貨物および観光用にしか使わないため、中間駅は無い。なぜとなれば、運賃が2500円。バスなら250円程度なので地元民は使わないそうだ。しかも、我々のための特別便のようだ。中は、いかにも観光列車仕様で、校長の執務机なみの大きなテーブル、かわいい照明灯が目を引く。車両間には展望デッキも付いている。また、鉄道と運河の地図を箱の上面に記したミニ・スナックとコーヒーがサービスされる。そのサービスまで無給のCCにやらせるとは、ピースボートも、相当エグイ人使いではある。
マ、それはさておき、この鉄道に乗る値打ちは、明日渉る運河の様子を陸から見ようというものだ。大西洋と太平洋をつなぐ道への願望は古くから存在した。征服者スペインが
ボリビアの銀などを欧州に運びこむ道が模索され、やがてペルーのカヤオ(5/16に行く港)
からマゼラン海峡を抜ける航路が使われるようになったという。でも大回り過ぎる。昔からメキシコ・ニカラグアも検討されていたという。ここに現れたのが、スエズ運河を開削したあのレセップス。だが、中国人の苦役など人夫2万人もの人命の犠牲を出しながらも失敗し、彼の壮大な夢は頓挫した。砂漠の開削と、アンデス山脈と同じ岩盤を持つパナマ地峡とでは、事情は違ったのだ。そこで、全面に登場するのが米国。前に書いたように米西戦争での勝利によって、スペインの権益を奪い取り、二つの海の支配を目指す意欲を示す。岩盤の固さ以上に、技術的問題は二つの海の水面は26mもの高度差があるが、レセップスと同じ轍は踏まぬよう、閘門式を取り入れやってのけたのだ。ガツン湖という人工の湖(琵琶湖よりはるかに大きいというから恐れ入る!)を掘り進め、もう一つのミラフローレスという湖に大掛かりな閘門を作ったのだ。フロリダ=キューバのガンタナモ基地=パナマ運河と続けば米太平洋艦隊との連携作戦は容易だ。ラテン・アメリカ諸国の動きの中でパナマが独立しても、パナマ運河だけは手放さなかったのは軍事的にも要衝だからだ、と例のIさんは指摘する。戦後も「パナマ運河をパナマに」という政権指導者(トリホス)を暗殺したり、突然の米軍のパナマ侵攻など相当固執し、最終的にパナマに返還されたのは1999年末になってからであったという。
鉄道列車からは、ガツン湖面上を、伐採したはずの木のてっぺんや土地の一部が表れているのを見ることができ結構楽しめた。
  なお、到着駅パナマ・シティには、チャーターバスが待っており、車窓からの市内観光と、カスコ旧市街の徒歩観光があった。大体人口3千万級の首都に、東京並みの1、200万人が集中すればひどい格差が生まれるのは当然と思われる。運河景気の到来で高層ビルがバンバン建っても、スラム街もバンバン広がっているのではないか? 世界遺産の旧市街も手入れ行き届かぬ建造物も少なからず見られ、土産物屋の商売意欲も熱気を感じられず、前途多難という印象を受けた。
  翌12日、いよいよ運河を通過する。「船内新聞」では、早朝4時ころからの予定と書かれ、また航路説明会でも早朝から放送を入れる了解をとりつけていたのだが、実際には5時半頃、今から運河通行するとの放送。デッキにはすでに結構な人が出ており、特に普段は立入禁止となっている7階前方の手すりには3重くらいの人垣、やがて例のガツン湖の閘門にさしかかると、若い子も起きだし頭上はカメラ、iパッドの花盛り。ロックと呼ばれる閘門の仕組みはこうだ。両サイドに一人乗りの小さなフォークリフトのような機関車が並んでおり、船の前方2ケ所、後方1ケ所、船と綱で結ばれる。左右だから計6つの機関車が、エンジンを停止した船を引っ張り閉まっている閘門の前で止まる。すると後ろの閘門が閉まるので船を浮かべたプールができることになる。そこに注水(または減水)し、次のプールと同じ高さの水面になると今度は前の閘門が開くという作業で3つのプールを抜け出て行くことになる。しかし、それが実に時間がかかる。6台の機関車は人間が歩くより遅い上に、各動作の間が空くこと。ガツン・ロックを抜けたころは8時をまわっており、やおら食堂が混雑する。というわけで、太平洋に出たころはもう夕方6時、ほぼ12時間の作業で、じっと忍耐の子
 を交替で皆さん繰り返したのでした。(80Km/12時間⇒jog以前の早歩き) でも、スエズより遥かにおもしろい。あの機関車も可愛いくて力持ち。日本製と聞いてちょっとニンマリ。
 日本なら、「パナッピー」とかなんとか、ゆるキャラ風の愛称をつけ、飾りなど土産物にしたら、当たるのになあ・・と俗世界を離れられないレダックでした。
  で、まだ追加コーナーがあるのです。大西洋から太平洋に抜けるのだから、パナマ運河は西から東へと思うでしょう? 海図で見ると北西から南東への斜めに近い感じなのです。
  それから、閘門の幅以上の船腹では通れませんから、ガツン閘門の近くに新たに掘り進める工事が始まっており巨大クレーンも見えました。また、21世紀の海洋覇権を狙う中国が、ニカラグアに新運河建設の話を進めているそうです。

④ ペルー いよいよマチュピチュ編