(前回、WatashiのWadachi 第1回目はブログに揚げる理由ーもともと書き散らかした文章をまとめて本にしたいということと、コロナ禍で突然ポックリ逝ってこれまでの作業が無になることが残念だーを述べた。今回は生い立ちの記に続いて小・中学校時代の思い出となる)
第1章 生い立ちの記(その2)
第1章 生い立ちの記(その2)
2 小学校時代
●入学した守口小学校というのは、創設が明治5年(1872年)というから、学制の始まった最も古い学校の一つだそうだ。守口市は大阪市に隣接し、 戦後市町村合併している。
● 父は大工仕事に忙しく、長兄とは13歳も年が離れており、中卒後すぐ父について大工修行するとともに、定時制工業高校で建築を学んでいた。だから、私の養育は母親や二人の姉によるところが大きく、おとなしい子どもだったようだ。2月生まれの早行きということもあり、低学年の頃の記憶もないが、体力的には劣るほうだった。ただ50音順の出席簿のいつも1番だったので、何かと先生のご指名におよび、それがまた嫌ではなかった。先生との相性も良かったのだろう、忠実であったから、授業もよく聞いた。中学年のころからは成績も伸びていった。ただ、いわゆる座学はよくできたが、体育や図工など実技的なものは全然という「優等生」タイプで、手先も不器用だったと自認している。担任の自宅に何人かの友人と遊びに行った思い出もある。たぶん、自我構造が素直だったのだろう。言われた指示を守らないと怒られるという臆病さも手伝ったのだろうが、高学年になるほど、勉強はトップクラスになり、児童会の会長にもなった。
● ある日、小学校から帰ってきて、お茶を飲もうとしたら水屋にシールみたいなものがが貼ってあって、母親から「剥がしたらアカン」と注意され たという記憶がある。「税務署」「差し押さえ」という言葉を覚えた。なんやかんやありながらも、数人の職人さんを使うようになっていった。戦後復興の建築業界の波に乗って、個人ながら注文・請負建築があたり、家業も好転していったように思う。
● 小学校6年時、桜町から守口駅前の寺内町に転居した。もと質屋であったことから、立派な土蔵があり、厚い漆喰の扉とまさに時代劇さながらの南京錠に興奮したくらいだ。それまでの長屋と大違い! 親が少し頭を痛めたのは、転居によって校区が替わることだ。京阪線を挟んで北側なら、守口小の校区のままだが、新しいお屋敷?(当時はそう見えた)は違う校区だ。2学期からであったと思う。児童会会長であったことも関係あったのかどうかは定かでないが、卒業まであまり時間もないし、そのまま守口小に通いたいと言ったら、その通りになった。ン?!・・
3 中学校時代
● 小6の引越しによる校区変更―居座り=越境通学は、そのまま中学校にも引き継がれ、昭和33年(1958)守口一中に進んだ。部活動が活発で、野球部や陸上部(駅伝)で大阪を制覇したこともあるようだし、弁論部という中学ではユニークな部もあったようだ。私は、多分友人から勧められてだったと思うが、バスケット部に入部した。
小学校以来の運動音痴で、横目で先輩や同級生のうまいやつを見ながら、ドリブルの練習、シュート練習にいそしんだ。顧問だったM先生が熱血先生タイプで、その指導力に感心したからだ。見よう見まねで3年生の時には何とかガードのポジションを得た。身体の小さい先輩のガードがミドルシュートを得意にしていたので、それなりに自分も努力し、練習試合で決めたときには、得意満面になったものだ。5人のチームは大型選手の主将に引っ張られ、そこそこの強豪に数えられるようになってきた。すぐ近所の旭区には、府下でもトップクラスのチームがあり、いい練習試合ができるようになっていった。その結果、府の中学校大会で、準決勝まで進出を果たしたのである。準決勝の相手は、手合わせをしたK中、手の内を読まれており、完敗した。敗因の大きなものは私である。オールプレスをかけられ、ガードの私がボールを運びきれず、あるいは攻撃時にセンターにボールを回しきれず、何度かボールを奪われた。どうしようもなくなって打つミドルシュートは決まるわけも無い。かくて、高校入学して見知った敵メンバーもおり、早々にバスケットを続ける意欲もわかなかった。
● その後も運動音痴だが、とにかくガンバルという性格的なものの結果か、運動スキルはほとんど要求されない長距離走がドンドン速くなり、何と中2の時、校内マラソン大会で優勝してしまったのである。陸上部員はレベルが違うから参加できなかったためだ。このため陸上部の顧問に眼をつけられ、中3の途中から陸上部にもダブル登録され、駅伝に駆り出されることになった。そして、中3マラソン大会で、順当に優勝した後、余勢をかって出場した大阪府中学校駅伝大会で、アンカーを任された。優勝争いには噛んでなかったが、強豪校の一角として8番くらいで来たと思う。もう一つのチームと競ってほとんど同時にたすきを受け継いだ。素人の怖さ、距離を考えながらペース配分するなんてできなくて、とにかく引き離してやろうと飛ばした、飛ばした。相手がいつの間にか離れ始めたと思ったらゴールは間近、結果は区間優勝。顧問もチームメートも唖然、私も呆然。表彰されたものとしては運動系では、その時貰った楯が唯一のもの。ちゃちだが、珍しいお宝となっている。(自慢です)
しかし、長距離はともかく、表面的には他の運動も勉強も良くできると見られていたのだろう。校内球技大会でまともにレシーブできないのにバレーの選手に選ばれるなどは迷惑至極な思い出もあった。
● 学校の近くに塾ができ、友人の多くはそこに通っていたようで、塾の話を漏れ聞くこともあったが、羨ましいとは思わなかった。行く必要がなかったからだ。またまた自慢話めくが、座学5科目では勉強になんら困ったことはなかった。学校の近所にできた塾に多くの友人が行き、一種の流行になったこともあったが、その必要は無かったし、経済的余裕があるとも思えず、親にそんな話は一切しなかった。(ただし、唯一、あまりにも字が汚いので、小6のとき、習字(書道?)を習いに行ったことがあった。結局半年くらいでやめたため、悪筆は私の代名詞みたいなものとなってしまった。) 中3の進路でも当時5学区制であったが、公立の学区トップ校以外は考えられなかった。(当時は私立高は、あまりできない子の行くところと考えられていた。)
● 勉強で苦労はしなかった分、生徒会にエネルギーを使った。生徒会顧問の先生が熱心で、いろんな活動をしたと思う。活動の活性化をみて、学校が「生徒会の部屋」をつくってもくれた。役員連中とその部屋にたむろしていたが、他の生徒から見たら、なんとも鼻持ちならない連中と見られたかもしれない。
● 3年生のクラスでは、担任がゴンタの横の席を指定した(当時は二人の連結机)。早弁や授業妨害などの阻止のためのお目付け役みたいなもんだ。この友人のゴンタNo2が、座席の座布団みたいなものを握り、けんかではなくボクシングの真似ということで何回か相手にさせられたのは少々まいった。今でいえばいじめということになるだろうが当時そんな認識は無い。生徒会長で成績は学年トップ、どんくさいわりにマラソン大会の優勝者相手(自慢のオンパレードでスイマセン)に、憂さ晴らしをしようとしたら、そんな形しかなかったのだろうし、実際、私もそんな余裕をもって対応していたのかもしれない。ボコボコにされることは無かった。
一つの忘れられない事件は、家庭科の授業ボイコットだ。昼休みに、男子の誰かが言い出して、近くの淀川堤防で遊ぼうということになったようだ。自分から乗る者もいたし、勢いから参加せざるを得ない羽目になった者もいて、気がつけば私を除く男子全員がボイコット組になっていた。この先生は1年生の担任でもあったし、サボりたいなどと考えたことももとより無かったのだが、なんともいえない男子の視線に負けてしまった。いやな思いをしながら小1時間うろついて戻ったらその先生は泣いているし、他の先生からは謝りに行けとおこられる。後は夢中でよく覚えていないのだが、中学の同窓会でよくこのことが言われる。「A君までサボったんやったネ」と。
友人はバスケット部の連中と、級友では2人、一人は中卒ですぐK製鋼に就職し、卒業後2~3年で親交は途絶えた。もう一人は断続的なつきあいだったが、40歳の時同じ教員であることがわかって交流するようになった(残念ながら、病をえて夭折した)。
● 今から思えば、家庭の教育・文化・教養的環境に恵まれていたわけではない。高校以降、幅広く世間を知り始めると、文化芸術的素養がないという自覚は、コンプレックスにもなった。しかし、小学校の児童会・中学校の生徒会活動や部活動によって、学校や教員というものにポジティブなイメージを持ち、いろんな経験をしたことで、悩みというほどのことではないと思えたのは幸せであった。