私の轍 第2回

2022-02-20 10:56:13 | 日記
(前回、WatashiのWadachi 第1回目はブログに揚げる理由ーもともと書き散らかした文章をまとめて本にしたいということと、コロナ禍で突然ポックリ逝ってこれまでの作業が無になることが残念だーを述べた。今回は生い立ちの記に続いて小・中学校時代の思い出となる)

第1章 生い立ちの記(その2)
 

2 小学校時代
 
●入学した守口小学校というのは、創設が明治5年(1872年)というから、学制の始まった最も古い学校の一つだそうだ。守口市は大阪市に隣接し、 戦後市町村合併している。

● 父は大工仕事に忙しく、長兄とは13歳も年が離れており、中卒後すぐ父について大工修行するとともに、定時制工業高校で建築を学んでいた。だから、私の養育は母親や二人の姉によるところが大きく、おとなしい子どもだったようだ。2月生まれの早行きということもあり、低学年の頃の記憶もないが、体力的には劣るほうだった。ただ50音順の出席簿のいつも1番だったので、何かと先生のご指名におよび、それがまた嫌ではなかった。先生との相性も良かったのだろう、忠実であったから、授業もよく聞いた。中学年のころからは成績も伸びていった。ただ、いわゆる座学はよくできたが、体育や図工など実技的なものは全然という「優等生」タイプで、手先も不器用だったと自認している。担任の自宅に何人かの友人と遊びに行った思い出もある。たぶん、自我構造が素直だったのだろう。言われた指示を守らないと怒られるという臆病さも手伝ったのだろうが、高学年になるほど、勉強はトップクラスになり、児童会の会長にもなった。

● ある日、小学校から帰ってきて、お茶を飲もうとしたら水屋にシールみたいなものがが貼ってあって、母親から「剥がしたらアカン」と注意され たという記憶がある。「税務署」「差し押さえ」という言葉を覚えた。なんやかんやありながらも、数人の職人さんを使うようになっていった。戦後復興の建築業界の波に乗って、個人ながら注文・請負建築があたり、家業も好転していったように思う。 

● 小学校6年時、桜町から守口駅前の寺内町に転居した。もと質屋であったことから、立派な土蔵があり、厚い漆喰の扉とまさに時代劇さながらの南京錠に興奮したくらいだ。それまでの長屋と大違い! 親が少し頭を痛めたのは、転居によって校区が替わることだ。京阪線を挟んで北側なら、守口小の校区のままだが、新しいお屋敷?(当時はそう見えた)は違う校区だ。2学期からであったと思う。児童会会長であったことも関係あったのかどうかは定かでないが、卒業まであまり時間もないし、そのまま守口小に通いたいと言ったら、その通りになった。ン?!・・

3 中学校時代
● 小6の引越しによる校区変更―居座り=越境通学は、そのまま中学校にも引き継がれ、昭和33年(1958)守口一中に進んだ。部活動が活発で、野球部や陸上部(駅伝)で大阪を制覇したこともあるようだし、弁論部という中学ではユニークな部もあったようだ。私は、多分友人から勧められてだったと思うが、バスケット部に入部した。
 小学校以来の運動音痴で、横目で先輩や同級生のうまいやつを見ながら、ドリブルの練習、シュート練習にいそしんだ。顧問だったM先生が熱血先生タイプで、その指導力に感心したからだ。見よう見まねで3年生の時には何とかガードのポジションを得た。身体の小さい先輩のガードがミドルシュートを得意にしていたので、それなりに自分も努力し、練習試合で決めたときには、得意満面になったものだ。5人のチームは大型選手の主将に引っ張られ、そこそこの強豪に数えられるようになってきた。すぐ近所の旭区には、府下でもトップクラスのチームがあり、いい練習試合ができるようになっていった。その結果、府の中学校大会で、準決勝まで進出を果たしたのである。準決勝の相手は、手合わせをしたK中、手の内を読まれており、完敗した。敗因の大きなものは私である。オールプレスをかけられ、ガードの私がボールを運びきれず、あるいは攻撃時にセンターにボールを回しきれず、何度かボールを奪われた。どうしようもなくなって打つミドルシュートは決まるわけも無い。かくて、高校入学して見知った敵メンバーもおり、早々にバスケットを続ける意欲もわかなかった。

● その後も運動音痴だが、とにかくガンバルという性格的なものの結果か、運動スキルはほとんど要求されない長距離走がドンドン速くなり、何と中2の時、校内マラソン大会で優勝してしまったのである。陸上部員はレベルが違うから参加できなかったためだ。このため陸上部の顧問に眼をつけられ、中3の途中から陸上部にもダブル登録され、駅伝に駆り出されることになった。そして、中3マラソン大会で、順当に優勝した後、余勢をかって出場した大阪府中学校駅伝大会で、アンカーを任された。優勝争いには噛んでなかったが、強豪校の一角として8番くらいで来たと思う。もう一つのチームと競ってほとんど同時にたすきを受け継いだ。素人の怖さ、距離を考えながらペース配分するなんてできなくて、とにかく引き離してやろうと飛ばした、飛ばした。相手がいつの間にか離れ始めたと思ったらゴールは間近、結果は区間優勝。顧問もチームメートも唖然、私も呆然。表彰されたものとしては運動系では、その時貰った楯が唯一のもの。ちゃちだが、珍しいお宝となっている。(自慢です)
 しかし、長距離はともかく、表面的には他の運動も勉強も良くできると見られていたのだろう。校内球技大会でまともにレシーブできないのにバレーの選手に選ばれるなどは迷惑至極な思い出もあった。
 
● 学校の近くに塾ができ、友人の多くはそこに通っていたようで、塾の話を漏れ聞くこともあったが、羨ましいとは思わなかった。行く必要がなかったからだ。またまた自慢話めくが、座学5科目では勉強になんら困ったことはなかった。学校の近所にできた塾に多くの友人が行き、一種の流行になったこともあったが、その必要は無かったし、経済的余裕があるとも思えず、親にそんな話は一切しなかった。(ただし、唯一、あまりにも字が汚いので、小6のとき、習字(書道?)を習いに行ったことがあった。結局半年くらいでやめたため、悪筆は私の代名詞みたいなものとなってしまった。) 中3の進路でも当時5学区制であったが、公立の学区トップ校以外は考えられなかった。(当時は私立高は、あまりできない子の行くところと考えられていた。)

● 勉強で苦労はしなかった分、生徒会にエネルギーを使った。生徒会顧問の先生が熱心で、いろんな活動をしたと思う。活動の活性化をみて、学校が「生徒会の部屋」をつくってもくれた。役員連中とその部屋にたむろしていたが、他の生徒から見たら、なんとも鼻持ちならない連中と見られたかもしれない。

● 3年生のクラスでは、担任がゴンタの横の席を指定した(当時は二人の連結机)。早弁や授業妨害などの阻止のためのお目付け役みたいなもんだ。この友人のゴンタNo2が、座席の座布団みたいなものを握り、けんかではなくボクシングの真似ということで何回か相手にさせられたのは少々まいった。今でいえばいじめということになるだろうが当時そんな認識は無い。生徒会長で成績は学年トップ、どんくさいわりにマラソン大会の優勝者相手(自慢のオンパレードでスイマセン)に、憂さ晴らしをしようとしたら、そんな形しかなかったのだろうし、実際、私もそんな余裕をもって対応していたのかもしれない。ボコボコにされることは無かった。
 一つの忘れられない事件は、家庭科の授業ボイコットだ。昼休みに、男子の誰かが言い出して、近くの淀川堤防で遊ぼうということになったようだ。自分から乗る者もいたし、勢いから参加せざるを得ない羽目になった者もいて、気がつけば私を除く男子全員がボイコット組になっていた。この先生は1年生の担任でもあったし、サボりたいなどと考えたことももとより無かったのだが、なんともいえない男子の視線に負けてしまった。いやな思いをしながら小1時間うろついて戻ったらその先生は泣いているし、他の先生からは謝りに行けとおこられる。後は夢中でよく覚えていないのだが、中学の同窓会でよくこのことが言われる。「A君までサボったんやったネ」と。
 友人はバスケット部の連中と、級友では2人、一人は中卒ですぐK製鋼に就職し、卒業後2~3年で親交は途絶えた。もう一人は断続的なつきあいだったが、40歳の時同じ教員であることがわかって交流するようになった(残念ながら、病をえて夭折した)。

● 今から思えば、家庭の教育・文化・教養的環境に恵まれていたわけではない。高校以降、幅広く世間を知り始めると、文化芸術的素養がないという自覚は、コンプレックスにもなった。しかし、小学校の児童会・中学校の生徒会活動や部活動によって、学校や教員というものにポジティブなイメージを持ち、いろんな経験をしたことで、悩みというほどのことではないと思えたのは幸せであった。



watashiのwadachi

2022-02-19 00:00:00 | 日記
76歳になった。来年は喜寿の年である。20年以上も前、自分の寿命がいくつくらいまでか考えたことがあった。平均寿命も短く、定年も60歳定年だった。知り合いの先輩で63歳で亡くなった人が二人続いたので、マ、生きてお勤めが果たせたらいいな!ぐらいにしか思っていなかった。
 しかるに、喜寿に手が届こうとしている。ならば、何かしようと決意することとした。コロナ禍の時代、つくづく思ったのは、突然の感染、重篤化によって死に至った人々の無念さである。生きてきた時の思い、考えが伝えきれずに去ってゆかざるを得ないくやしさはいかばかりか?
 もともと、リビングウィルで、葬儀が不必要であることを書くつもりであったが、それでもただ消え去るのみ、とまでは悟りきれていない。いや、むしろ、文学部を志向し、こんなブログを続けているのも、書いたものを読んでほしいという欲求の強い人間なのだ。それで、喜寿の祝いは、書き溜めた文を集めて自費出版した出版記念パーティにしようかな?と思っていた。タイトルは「私の轍」WatashiのWadachi
 しかし、ここで少し冷静になる。本にして誰が読む? 無料の謹呈として送っても、膨大であればあるほど、ともに生きた時期を別にして、隅から隅まで読む人は少なかろう。この種の本なら、古本屋も引き取ってくれないだろう。
 ということで、gooのブログを借りまして、気の向いた時、気の向いた箇所にお目通しいただければ幸いです。
大雑把な構成は、第1章 生い立ち(誕生ー小ー中ー高校時代ー大学ー大学院)
        第2章 教員生活(堺市立工業ー府立藤井寺ー府立平野)
        第3章 府教育委員会時代
        第4章 校長時代(府立大東ー府立三国丘)
        第5章 定年退職後の生活(海外子女教育相談、ボランティア活動等)
            その他
第3章までは大筋書き溜めたので、割合、定期的にアップできるかと思います。

では1回目
      第1章 生い立ちの記 
 1 誕生
 昭和20年8月、昭和天皇のポツダム宣言受諾の詔勅を聞いたのは母の胎内においてであった。21年2月の誕生は、5番目の3男 末っ子であった。
 父は滋賀県の農家の次男坊であったため、京都の大工の丁稚奉公からはじめ、独立して守口の地で開業した。兵役を免除されたが、私が生まれた時には40歳を超えていた。30代の半ばですでに4名の子どもを育てた母は、当時としては多産というほどではなかったが、「出産直前の夢枕に祖母(母の母)が立った」と言っており、この子が多分最後の子宝であろうと思っていたらしい。
 戦火拡大中の1939年生まれの次男に勝次、真珠湾攻撃の翌年1942年生まれの次女には洋子と名付けた父は、敗戦で民主主義の世の中になった私を民三とした。なんとも時節便乗型というか、プラグマチックというか、ともあれ民主主義の申し子という自覚は早くからあった。
 母だけでなく兄・姉にも面倒を見てもらったようで、幼児期の記憶はないが、何となく貧しかったという感じはあった。幼稚園には上の兄姉と同じく行かなかった。母は末っ子(おとんぼ)ということで溺愛してくれたという感触をもっている。年の離れた長姉なども、よく「ねんねこ」でおんぶしてくれたと聞かされた。
終戦から数年、小学校に入学するくらいまでは、相当金銭的にも大変だったようで、おやつの取り合いなどわずかに記憶しているものの、家族の愛情には恵まれていたと思う。

●父が40を回ってからの子どもだから、物心ついてからの最も古い記憶は、1枚のスナップだ。父が使っていたオートバイの後の荷台にたち父の肩に手を置いている姿だ。しかし、その写真でも既に父の眼窩が窪んでいた。大工の棟梁で朝は8時前に家の前に集まった職人にその日の指示をするわけだが、「こーつと」というのが口癖であった。何のことかよく分からないままであったが、「甲乙と」、まず一番は・・といった意だと、後にに思い至った。浪曲と映画が好きで、東映の時代劇によく連れて行ってもらったという記憶がある。
 大学進学および、結婚の時の相談した記憶は鮮明だ。「国立しか受けないが、行きたい文学部でのうち京大・阪大・神大のいずれにするかで迷っている。大阪・神戸はなんとかなるかもしれないが、京都は厳しい。行きたいのは京都だが・・」。父の言葉はこうだった。「お前、京大は自分の姿を映すだけのことやろ、阪大なら飯が食える。神大は寝るしか役に立たん。阪大にせい」・・ズッコケた。なんと分かっていながら「鏡台・飯台・寝台」と家財にたとえて、交通費の一番かからない阪大を薦めたのであった。一生忘れられそうにも無い。私のダジャレ好きも、このおやじの血かもしれない。
 就職先も決まり、専門学校に入学が決まった今のカミさんと同棲することにしたが、哀しいことに住居の敷金がない。父に相談したところ、「そんなふしだらなことはイカン。」と諭され、それからひと月経たぬ間に結婚することになった。

●独立開業しても得意先をほとんど持たなかっただろう地に来た大工の一家7人は、数軒続きの長屋に居を構えた。夕暮れ時には、近所の空を蝙蝠が飛び回っていたことを思い出す。また官憲が隣人宅に摘発に来たのでびびったこともあった(どぶろくの密造)。記憶では、入り口を開けたら三和土から2畳の玄関、襖の西側が台所、北側が奥の間(6畳?)、その北には便所と離れに通じる廊下で少しの庭があったと記憶している。

●戦後すぐの混乱もあったのだろうが、出産直後の写真は無い。幼稚園には(兄弟の誰も)行っていない。小学校入学式の集合写真も兄からのお下がりだった国防色の服を着ている。その内、請負建築や修理の家業も顧客がついてきたようで、私の中では、貧しいとは感じていなかったとと思うし、ましてや恥じるという感覚は持っていなかったと思う。


watashiのwadachi

2022-02-19 00:00:00 | 日記
76歳になった。来年は喜寿の年である。20年以上も前、自分の寿命がいくつくらいまでか考えたことがあった。平均寿命も短く、定年も60歳定年だった。知り合いの先輩で63歳で亡くなった人が二人続いたので、マ、生きてお勤めが果たせたらいいな!ぐらいにしか思っていなかった。
 しかるに、喜寿に手が届こうとしている。ならば、何かしようと決意することとした。コロナ禍の時代、つくづく思ったのは、突然の感染、重篤化によって死に至った人々の無念さである。生きてきた時の思い、考えが伝えきれずに去ってゆかざるを得ないくやしさはいかばかりか?
 もともと、リビングウィルで、葬儀が不必要であることを書くつもりであったが、それでもただ消え去るのみ、とまでは悟りきれていない。いや、むしろ、文学部を志向し、こんなブログを続けているのも、書いたものを読んでほしいという欲求の強い人間なのだ。それで、喜寿の祝いは、書き溜めた文を集めて自費出版した出版記念パーティにしようかな?と思っていた。タイトルは「私の轍」WatashiのWadachi
 しかし、ここで少し冷静になる。本にして誰が読む? 無料の謹呈として送っても、膨大であればあるほど、ともに生きた時期を別にして、隅から隅まで読む人は少なかろう。この種の本なら、古本屋も引き取ってくれないだろう。
 ということで、gooのブログを借りまして、気の向いた時、気の向いた箇所にお目通しいただければ幸いです。
大雑把な構成は、第1章 生い立ち(誕生ー小ー中ー高校時代ー大学ー大学院)
        第2章 教員生活(堺市立工業ー府立藤井寺ー府立平野)
        第3章 府教育委員会時代
        第4章 校長時代(府立大東ー府立三国丘)
        第5章 定年退職後の生活(海外子女教育相談、ボランティア活動等)
            その他
第3章までは大筋書き溜めたので、割合、定期的にアップできるかと思います。

では1回目
      第1章 生い立ちの記 
 1 誕生
 昭和20年8月、昭和天皇のポツダム宣言受諾の詔勅を聞いたのは母の胎内においてであった。21年2月の誕生は、5番目の3男 末っ子であった。
 父は滋賀県の農家の次男坊であったため、京都の大工の丁稚奉公からはじめ、独立して守口の地で開業した。兵役を免除されたが、私が生まれた時には40歳を超えていた。30代の半ばですでに4名の子どもを育てた母は、当時としては多産というほどではなかったが、「出産直前の夢枕に祖母(母の母)が立った」と言っており、この子が多分最後の子宝であろうと思っていたらしい。
 戦火拡大中の1939年生まれの次男に勝次、真珠湾攻撃の翌年1942年生まれの次女には洋子と名付けた父は、敗戦で民主主義の世の中になった私を民三とした。なんとも時節便乗型というか、プラグマチックというか、ともあれ民主主義の申し子という自覚は早くからあった。
 母だけでなく兄・姉にも面倒を見てもらったようで、幼児期の記憶はないが、何となく貧しかったという感じはあった。幼稚園には上の兄姉と同じく行かなかった。母は末っ子(おとんぼ)ということで溺愛してくれたという感触をもっている。年の離れた長姉なども、よく「ねんねこ」でおんぶしてくれたと聞かされた。
終戦から数年、小学校に入学するくらいまでは、相当金銭的にも大変だったようで、おやつの取り合いなどわずかに記憶しているものの、家族の愛情には恵まれていたと思う。

●父が40を回ってからの子どもだから、物心ついてからの最も古い記憶は、1枚のスナップだ。父が使っていたオートバイの後の荷台にたち父の肩に手を置いている姿だ。しかし、その写真でも既に父の眼窩が窪んでいた。大工の棟梁で朝は8時前に家の前に集まった職人にその日の指示をするわけだが、「こーつと」というのが口癖であった。何のことかよく分からないままであったが、「甲乙と」、まず一番は・・といった意だと、後にに思い至った。浪曲と映画が好きで、東映の時代劇によく連れて行ってもらったという記憶がある。
 大学進学および、結婚の時の相談した記憶は鮮明だ。「国立しか受けないが、行きたい文学部でのうち京大・阪大・神大のいずれにするかで迷っている。大阪・神戸はなんとかなるかもしれないが、京都は厳しい。行きたいのは京都だが・・」。父の言葉はこうだった。「お前、京大は自分の姿を映すだけのことやろ、阪大なら飯が食える。神大は寝るしか役に立たん。阪大にせい」・・ズッコケた。なんと分かっていながら「鏡台・飯台・寝台」と家財にたとえて、交通費の一番かからない阪大を薦めたのであった。一生忘れられそうにも無い。私のダジャレ好きも、このおやじの血かもしれない。
 就職先も決まり、専門学校に入学が決まった今のカミさんと同棲することにしたが、哀しいことに住居の敷金がない。父に相談したところ、「そんなふしだらなことはイカン。」と諭され、それからひと月経たぬ間に結婚することになった。

●独立開業しても得意先をほとんど持たなかっただろう地に来た大工の一家7人は、数軒続きの長屋に居を構えた。夕暮れ時には、近所の空を蝙蝠が飛び回っていたことを思い出す。また官憲が隣人宅に摘発に来たのでびびったこともあった(どぶろくの密造)。記憶では、入り口を開けたら三和土から2畳の玄関、襖の西側が台所、北側が奥の間(6畳?)、その北には便所と離れに通じる廊下で少しの庭があったと記憶している。

●戦後すぐの混乱もあったのだろうが、出産直後の写真は無い。幼稚園には(兄弟の誰も)行っていない。小学校入学式の集合写真も兄からのお下がりだった国防色の服を着ている。その内、請負建築や修理の家業も顧客がついてきたようで、私の中では、貧しいとは感じていなかったとと思うし、ましてや恥じるという感覚は持っていなかったと思う。