レダック 東北岬巡り紀行(4)

2015-04-19 10:38:27 | 日記
6日目(3月14日)
 出発までに、星野リゾート青森屋に隣接している旧渋沢(栄一)邸を大急ぎで見てバスに乗り込む。

 昨日の到着時にはあまり意識していなかったけれど、今日から走るコースは太平洋側です。つい3日前の3/11、東日本大震災4年目をむかえたばかりです。私は過去2回、岩手県陸前高田市で花・畑つくりのボランティア団体を訪れたことがあり、その後の状況にも関心がありますので、今日の行程に一番期待しています(これまでのブログに掲載)。
 朝ホテルを出た我々は、三陸鉄道北リアス線の始発駅である久慈駅に向かいます。天候も順調です。冬の日本海岸は波高く風強し、太平洋岸は太陽の恵みを受け、というイメージがありますが、ほとんどイメージ通りの道中となりました。北リアス線は津波の被害をもろに受け、部分復旧を重ねながら去年(2014年)4月全線復旧開通しました。
 NHK連ドラ「あまちゃん」の舞台となった久慈駅を出発した列車は、時々車内放送を流し、時には停車して説明してくれます。津波の大被害がいかにすさまじかったは、海面と説明されている建造物等の高さの隔絶感が実感させてくれます。あの「あまちゃん」にも、大震災が起こった場面を、東京に出ていこうとしたユイ役の橋本愛が演じていました。トンネル内で停車した列車を降りトンネルの出口から見た光景は・・・というところも、停車して放送説明してくれました。春の到来を思わせる様な穏やかな気候に恵まれ、普代という駅までわずか40分ほどの乗車でしたが、重い濃密な時間であったと思います。
 
堤防と水門の復旧作業 
落下したが復旧なった橋

 昼食会場の羅賀のホテルへまたバスで向かいます。羅賀という語感からすれば、やはりアイヌ語の地名なのでしょう。このホテルも入り江の道路に面した10階建てですが5階まで津波が押し寄せたということで、外に出て海岸からホテルを仰ぎ見てため息をつくことになります。

 さらに行くと、田老地区を眼下に見る形で通過しました。ここは、何度も報道されていますが、過去の津波被害の教訓から、高さ10mを超える防潮堤を、なんと2.5Kmにわたり築きあげたことで有名で「万里の長城」とさえ言われたのですが、それをも超えた今回の津波(十数m)の猛威によって500mほどが壊され200人近い死者・不明者が出た地区です。一部震災遺構として保存され、高さを15mくらいにするという復興計画らしいのですが・・。
 次は、宮古市内には入らずに、景勝地浄土ヶ浜に着きました。ここも入り江であるからこそ景勝地になっているのですから、津波逆巻いた様は土産物屋の片隅に立てかけられたパネルの写真からうかがい知ることができます。しかし、その写真に注目する人よりも、おびただしい海鳥が人間の手からかっぱえびせんを咥えようとギャーギャー鳴きわめきながら群がるさまに唖然とする人のほうが多い。

 海鳥といえば、
 ~~どこへ帰るの 海鳥たちよ シベリアおろしの・・悲しみ本線日本海~~
の曲もあれば
 ~~ゴメが鳴くから、ニシンが来るとー 赤い筒袖のヤン衆が騒ぐー~~ アこれは「石狩挽歌」やから、北海道か、と私の頭の中を演歌が駆け巡っています。(そうなんです、レダックはカラオケ好きなんです。)この海鳥は、ウミネコなんですね! まあ、脱線はこれくらいにして・・

 釜石、大船渡と大きな被害を出した街も通り過ぎ、この日の宿泊地は陸前高田です。
 先ほど触れたように、「陸前高田カモメネット」に2度訪れ、チョビット、畑仕事のボランティア活動をするとともに、この団体を支援する活動を続けています。また、陸前高田の仮設住宅の主婦たちによる「ちーむ麻の葉」とも連絡をとっています。この団体から頂いた新年挨拶が4年目の「復興」状況について述べているので(少し長い引用ですが・・)お読みいただきたいと思います。
 ―――・・麻の葉の母ちゃんの中にも住宅を再建し仮設住宅を卒業した方もいて、今年こそは年賀状をと思ったのですが、復興住宅の抽選に外れた母ちゃん等、「おめでとう」というには現実は厳しく、今年も寒中見舞いとさせていただきました。
「何も変わらない」と言い続けてきた被災地ですが、昨年3月「希望の架け橋」と命名された、川向うの山から土を運ぶ巨大なベルトコンベヤーの出現で旧市街地の高台造成工事が進み、その容貌が大きく変わりつつあります。
国道45号線沿いの被災地区には、商業集積地域、国営メモリアル公園用地等線引がなされた未来図に沿って、次々と海抜10mの高台が形成されています。震災後、建物を失った街のあらゆる地点から見ることのできた海は、立ちはだかる土の壁の向こうとなり、今では見ることはできません。
昨秋、陸前高田市では第1号となる復興住宅が完成し、入居が始まりました。被災地区の眼前に建てられた住宅に灯りが点ると、それまで明かりのなかった街に人の気配が感じられ、なにやらうれしく思います。またわずかではありますが、集団移転に伴う造成工事の完了した地域もあり、住宅再建も進んできました。
農業においては、被災した田に初めての田植えが行われ、3年ぶりに収穫の喜びがあり、漁業においては、3年かけて成長する牡蠣の本格出荷となり、正月明けも3日から作業に追われています。・・・――― (仮設住宅 場所?)  

 宿泊したキャピタルホテル1000(千と読む、千昌夫が始めたが、かさ上げの必要から移転オープンした。なかなか作りは小洒落ている)も造成された高台の上に立っている。
 (ホテル横に積まれた土ー車と比較)
 4年目の被災地(原発を除く)を垣間見た(バス中から見てどれだけのことが言えるのかは大いに問題があろうが)私の印象では、
 ・陸前高田のように、土地そのものを盛り土し、かさ上げすることによって、復興が始まる  所では、ベルトコンベア休みなく土を運搬し、重機が走り回っており、土の山が連なって  いる(10mのかさ上げって想像できます?!ある地域一帯がすべてビルの3階ほどまで土が  運ばれ高くなるのですよ!  
 ・まずはインフラ整備ということかもしれないが、「復興道路」の建造・整備は精力的に取  り組まれているようだ。(釜石ー気仙沼間の鉄道の復旧は困難、かわりにBRTという代替赤いバスが通っている。そのためにまず道路が嵩あげされた)
 ・「復興」の優先順位、スピードは、地理的条件などによって違うようだ。
(私が陸前高田を初めて訪れた2年前、市立気仙中学校が被災した状況のままに置かれていたことにショックを受けた。今回、翌朝にそのそばの道を通ったが、今もそのままだ。教員だっただけに心が痛かった。まずはかさ上げだから仕方ないのか!!)
   
 また、近々に来たいと思う。

 そうそう、被災地の話ではないが、このホテルでの夕食時、台湾の夫婦との話が弾んだことを記しておこう。マアマア日本語のできる奥さんと妻がしゃべりだし、夫も話に加わり、ノートに筆談しながら大いに盛り上がり、食堂を出たのは最後の組になったほどだ。この夫婦は、海外それも日本旅行を趣味としており、台湾に帰ってすぐ、花見に東京に来るそうだ。私たちが台湾旅行に行ったとしたら、「連絡してください」と住所まで教えあったのも、何かのご縁だろう。

7・8日目(3月15・6日)
 それが目的というわけではないけれど、被災各地の状況を垣間見ることのできた一日を終え、あとは松島観光をして、仙台港からフェリーで名古屋港まで帰るだけである。松島では自由行動であったので、瑞巌寺の入り口までと円通院だけ観光し、蒲鉾屋で買い食いをした。土産物屋も酒店に絞り地酒と醤油や牛タンなどまとめて宅送。仙台からの船旅も、まずまず快適で、台湾人夫婦ともしゃべったりした。翌朝10時前、名古屋港に着き、バスに乗り換え、13時過ぎ、無事 梅田に着きました。冬の雪山から帰って来たようないでたちでバスから降り立った初老~老人の30人ほどの夫婦は、すでに春の陽気の中に沸き立つ梅田の街で、完全に浮いていました。了

レダック 東北岬巡り紀行(3)

2015-04-18 10:28:00 | 日記
5日目(3月13日)
 浅虫温泉を出発した私たち一行は、むつ湾に沿う形で、東から今度は北へ向かう。下北半島を一路駆け抜け、本州最北端の大間埼を目指す。いろんなモニュメントがあり、鮪の一本釣りを模した像も面白いんだが、こぶしから先の釣糸の部分がなくなっているのがおかしい。土産物屋で昆布等を求める。さて、昼食は念願の「大間の鮪丼🍚」だ。
港近くの小さな寿司屋の2階に上がり、いただくこととする。大きな鮪の切り身6切れほどがきゅうりの、千切りの上に乗せられているんだが、マ、予想どおりというべきか、感激に打ち震えるというほどでもない。それより、夫婦が机に向き合って座っているのだが、私たちの両隣とも奥さんが生ものがダメということで、旦那に自分の丼を差し出しており、代わりの巻物などを特注していたのを見て思いついた。「注文できますか?」「え~どうぞ」。これはチャンスだ。港に近い寿司屋で食べるチャンスなど、団体行動だから今しかない。帆立とホッキ貝を2貫づつ頼んだ。美味であったことは言うまでもない、妻の顔もほころんでいた。
 
 満足・満腹の昼食を終え、向かうは尻屋崎。鉞のような下北半島の柄の先端部分に当たる所である。バスガイドさんの案内では、運が良ければ「放牧されているカンダチメに会えるかもしれない」とのこと。「んー?!カンダチメ?」 寒立馬と書く。寒さに強い農耕馬で、一時絶滅しかけたので、青森県の天然記念物指定され、草を求めにくい冬場は、一定囲った地に放牧されているという。道の途中で突然バスが止まる。一応は囲っている柵の門を開け、ぬかるみの放牧場に入っていくと、先のほうに塊になった数頭の馬の群れが見える。秣が積んである。向こうのほうでは2頭ほどが駆けている。サラブレッドのような美しい容姿ではなく、ずんぐりむっくりしている。冬に強く逞しい体格が求められる農耕用だもんね。でも、音の響きがいいじゃありませんか。
そこで一句(俳句はやったことがないんだけれど、最近、暇になってよく見るようになったTV番組に俳句の寸評があり、おもしろいので、興味を持ち出したところ)。
   地吹雪を  切り裂き走る 寒立馬     (お粗末さまでした。)

 
 ここからは一路南下し、古牧温泉は星野リゾート 青森屋に向かいました。この日の移動距離 バスでは最長の305kmだったそうです。他の日の宿泊施設まで書いていませんでしたが、ここは触れないわけにはいかないでしょう。全国に展開している星野リゾートの一つで、宿泊施設内に様々な見ものがある、食事はバイキング形式で老若男女の注文に対応できるなど評判を博しているということです。この青森屋も客があふれており、野天風呂にはねぶたが浮かべられている、催し物広場で津軽三味線やスコップ三味線などのショーが見られる、食事も和洋中の品数も豊かで満足できる、という具合に評判の良さに納得しました。


レダック 東北岬巡り紀行(2)

2015-04-17 16:20:24 | 日記
まずは、前回載せ忘れた写真を。最初の入道崎(風速27m)と、千畳敷で、強風に逆らって撮ってもらった写真。

4日目(3月12日)
 鯵ケ沢温泉から向かうは、五所川原駅、JRと津軽鉄道の駅が隣り合わせにある。私らは金木までの半時間ほど、津軽ストーブ列車の旅を体験しようというものです。9:21発は1両だけで、乗客のほとんどは我らが一行、鉄道のガイドさんともいうべき女性が一緒に乗車し、いろいろ説明してくれる。車内には2つストーブがあり、それで焼くするめは300円。私らも注文し、焼いてもらった。
天候も回復し始め、雪に埋もれた景色を楽しめる。吉幾三もこのあたりの出身だとか。9:46下車を指示された金木に着く。ここでは自由行動だが、だれが何と言おうと、(エ、誰も何も言ってない? 20人くらいは同一行動だ)太宰治の生家「斜陽館」見学だ(500円)。大地主津島家の住宅はいうまでもなく豪邸で目を見張るべきものだが、地主としての機能を果たすべき土間や茶の間、1トンの金庫、今なら2千万はするだろう立派な仏壇にフーンと感心していると、2階に案内される。この階段が何とも洒落たものであり上がった先の客室が洋間となっているという対比的つくりが印象的である。私が太宰作品の洗礼を受けたのは、高校の課題図書として読まされた「人間失格」であったが、少なからず打ちのめされ、すぐに「斜陽」に飛びついたことを思い出す。その後ほとんど読み返した覚えはないが、成長の過程で必読すべき作家と思う。11人の子どもがいて6男として生まれ育ち、母からのめったにかわいがってもらえなかったという。奉公人に「自分の母は誰か」と聞いて回ったというエピソードも聞かされた葉はったことがどのような影響を及ぼしているのか分からないが、太宰作品に登場する津軽のことを記した本を、昼食をとった土産物屋で妻が買い求めていたので、それでも読むことにしましょう。
 
 午後、バスは津軽半島北端の竜飛崎を目指す。北海道まで20Km。
~~ご覧 あれが竜飛岬 北のはずれと  見知らぬ人が指をさす・・・~~
演歌の旅は続く。名曲 石川さゆりの「津軽海峡・冬景色」は私のカラオケ持ち歌の一つだ。バスガイドさんによれば、岬の碑のボタンをおせば、このメロディ、ただし2番だけ、が流れそうだ。途中でまた雪道対策用のチェ―ンを巻き、狭い集落の道を上がっていく。雪が残り豪風が吹き荒れる駐車場には他の車は見えない。できるだけトイレに近いところに止めたのだが数m先のトイレにまともに行けないほどだ。風に体を持っていかれて滑った人もいる。入道崎以上の突風だ。頬に当たる風が痛いーー。 何とか竜飛埼の記念碑まで・・その前に、例の石川さゆりの歌を奏でるコンクリートがある、踏ん張り踏ん張りしながらにじり寄り、何とか飛び出しているボタンを押す。
ト、流れてきましたネ。「~~ごらん、あれが竜飛岬~」歌に聞きほれている余裕などない、トイレも終われば、「~~私は~」(バスへ)「~帰ります。風の音が~」(体を)「揺する」・・デモ、凄絶なまでの強風を体験して竜飛岬の印象は鮮やかで満足できました。
 今度は青森市内を抜け、本日の宿泊地浅虫温泉に向かう。途中からは積雪も稀になってきた。三内丸山古墳も少し行けばあるんだが・・これまた、残念ながらコースには入っていませんでした。この日の移動距離210Kmとか。

レダック 東北岬巡り紀行

2015-04-17 15:28:11 | 日記
1・2日目(2015/3/09~10)
 3月10日、私たちは新潟港 新日本フェリーの乗り場ビルの待合室中にいた。私たちとは、旅行会社の「夫婦限定みちのく紀行」に参加した30名ほどのメンバーだ。このツアーは、通常よくある東北旅行とは違い、フェリー、ローカル鉄道、その間をバスでつなぎ、なかなか行くことの難しい地を探訪できる旅程である。いわば東北ツアー代表的観光名所を回る定番に対する裏メニューといったところである。かなりお高いが、嫁さんが興味津々で申し込んだ。   
旅程では3月9日に、バスで明石・神戸・梅田を回って敦賀まで行き、敦賀港からフェリーで秋田港まで向かう予定であった。ところが、である。近年はもう異常気象の異常ともいえぬほど天候不順が続いているが、3月の10日前後といえば、天気予報でも「本年最強の冬将軍」とか「爆弾低気圧」とか叫んでおり、時化の中、寒さ目指していくようなもので大丈夫かな、という危惧がはやくも現実化してしまった。共同風呂に入っていても、揺れで湯船から湯が2回こぼれた。このフェリーは新潟・秋田に寄港し、苫小牧までの予定であるのだが、秋田港には寄港できぬということになったということが、添乗員から知らされた。この人は丁寧な語り口をされるおばさんで、初っ端からハプニングに見舞われ、真っ青になりながらも、「秋田まで代替バスを頼んでいる、それが到着するまで、待合所で待機していただきたい」ということであった。前途多難を思わせる。
8泊9日のこんなツアーに申し込み、しかも夫婦限定というのだから、参加者は限られてくるわけで、多分70歳台がほとんで、私たちより明らかに若そうなのは2、3組であろう。
だから、食ってかかる人もいなかった。仮に個人では血気盛んな人でも、夫婦連れならブレーキもかかるのであろうと、レダックは推測したのでした。
小一時間ほどまって、バスが来て、予定ルートにはない町を通り抜け、無事?秋田でもともと契約していたバスに乗り換え、宿泊予定地である男鹿温泉に向かったのでありました。

3日目(3月11日)
 男鹿半島といえば「なまはげ」で有名だ。今日まず向かったのは、男鹿半島の先端の入道崎。バスの車窓からも、なまはげのモニュメントや看板、イラストが多く見える。

このツアーは男鹿・津軽・下北のみちのく3つの半島周遊をうたい文句にしている。従って、温泉ツアー、岬めぐりでもある。昔、流行りましたね・・「岬めぐりの、バスはー走るー」。そうなんです、いい企画だと思うんです。しかし、何しろ、秋田のバスガイドさんが、「例を見ないほどの雪が続いている」というほどの悪天候。目的地は突風が吹きすさんでいるようだという事前情報通り、激しい風のようだ。先に降り立った人がよろけている。すぐに1軒だけ開けている土産物屋の軒先、そして室内に逃れていく。マア、年寄が多いからなあ・・自分の番だ。降り立つ、「オイ、チョット・・」、経験したことのないほどの風速、抵抗しなければ立っておれぬ。妻がカメラを向けるも、「チョ、チョ、チョット」。何とかとれた。土産物屋の中に避難する。店の親父が言う。「今日の風は風速27mと言っていた」。なるほど、台風報道での「瞬間最大風速○○m以上」とは、こんなに凄まじいものなのか、初めて実感した次第である。記念碑もあるらしいが行けるはずもない。「次行こう、次!」ということにあいなる。
バスは男鹿半島から、日本海沿いに北上し、能代を越え、いつの間にか青森県に入っている。この街道は、五能線と並行して走っており、もっと内陸部は世界遺産である白神山地のぶな林が広がっているのだが、今回のコースにはない。車窓から時たま線路が見えるが、走っている列車とは出会わないままだった。これも演歌に登場する。演歌歌手 水森かおりが「~~、五能線~~」と唄っていましたネ!(ン、知らん?) ちなみに五能線とは五所川原と能代を結ぶところから名づけられたようだが、朝夕3便しか走ってないという、しかし、車窓から日本海を眺める旅が鉄ちゃんの人気を博し臨時のリゾート列車も走る季節があるという。
デ、次の観光スポットは、割合有名な不老ふ死温泉。旅行案内には「日本海を望む茶褐色の秘湯に入浴」とある。昼食をとって、風呂に入って、「アー極楽極楽」の予定でしたが、しかしこの天候、確かにそれらしい湯船は見えるんですが・・。雪交じりの雨に打たれた湯船の色は見えるんですが・・「次行こう、次!」
千畳敷?! これも海水の下、おまけに強風で記念写真撮ろうと思っても、踏ん張ってないと、体が持っていかれる・・バスの中がいい・・・次行こう、次! 宿泊地である鰺ヶ沢のホテルに近づくと、一面の雪、まるでスキーツアーに来たみたい。ホワイトアウトってこんな感じ? 到着できてホッと一息つきました。突風と戦った一日でした。この日の移動距離は160kmだそうです。