6日目(3月14日)
出発までに、星野リゾート青森屋に隣接している旧渋沢(栄一)邸を大急ぎで見てバスに乗り込む。
昨日の到着時にはあまり意識していなかったけれど、今日から走るコースは太平洋側です。つい3日前の3/11、東日本大震災4年目をむかえたばかりです。私は過去2回、岩手県陸前高田市で花・畑つくりのボランティア団体を訪れたことがあり、その後の状況にも関心がありますので、今日の行程に一番期待しています(これまでのブログに掲載)。
朝ホテルを出た我々は、三陸鉄道北リアス線の始発駅である久慈駅に向かいます。天候も順調です。冬の日本海岸は波高く風強し、太平洋岸は太陽の恵みを受け、というイメージがありますが、ほとんどイメージ通りの道中となりました。北リアス線は津波の被害をもろに受け、部分復旧を重ねながら去年(2014年)4月全線復旧開通しました。
NHK連ドラ「あまちゃん」の舞台となった久慈駅を出発した列車は、時々車内放送を流し、時には停車して説明してくれます。津波の大被害がいかにすさまじかったは、海面と説明されている建造物等の高さの隔絶感が実感させてくれます。あの「あまちゃん」にも、大震災が起こった場面を、東京に出ていこうとしたユイ役の橋本愛が演じていました。トンネル内で停車した列車を降りトンネルの出口から見た光景は・・・というところも、停車して放送説明してくれました。春の到来を思わせる様な穏やかな気候に恵まれ、普代という駅までわずか40分ほどの乗車でしたが、重い濃密な時間であったと思います。
堤防と水門の復旧作業
落下したが復旧なった橋
昼食会場の羅賀のホテルへまたバスで向かいます。羅賀という語感からすれば、やはりアイヌ語の地名なのでしょう。このホテルも入り江の道路に面した10階建てですが5階まで津波が押し寄せたということで、外に出て海岸からホテルを仰ぎ見てため息をつくことになります。

さらに行くと、田老地区を眼下に見る形で通過しました。ここは、何度も報道されていますが、過去の津波被害の教訓から、高さ10mを超える防潮堤を、なんと2.5Kmにわたり築きあげたことで有名で「万里の長城」とさえ言われたのですが、それをも超えた今回の津波(十数m)の猛威によって500mほどが壊され200人近い死者・不明者が出た地区です。一部震災遺構として保存され、高さを15mくらいにするという復興計画らしいのですが・・。
次は、宮古市内には入らずに、景勝地浄土ヶ浜に着きました。ここも入り江であるからこそ景勝地になっているのですから、津波逆巻いた様は土産物屋の片隅に立てかけられたパネルの写真からうかがい知ることができます。しかし、その写真に注目する人よりも、おびただしい海鳥が人間の手からかっぱえびせんを咥えようとギャーギャー鳴きわめきながら群がるさまに唖然とする人のほうが多い。

海鳥といえば、
~~どこへ帰るの 海鳥たちよ シベリアおろしの・・悲しみ本線日本海~~
の曲もあれば
~~ゴメが鳴くから、ニシンが来るとー 赤い筒袖のヤン衆が騒ぐー~~ アこれは「石狩挽歌」やから、北海道か、と私の頭の中を演歌が駆け巡っています。(そうなんです、レダックはカラオケ好きなんです。)この海鳥は、ウミネコなんですね! まあ、脱線はこれくらいにして・・
釜石、大船渡と大きな被害を出した街も通り過ぎ、この日の宿泊地は陸前高田です。
先ほど触れたように、「陸前高田カモメネット」に2度訪れ、チョビット、畑仕事のボランティア活動をするとともに、この団体を支援する活動を続けています。また、陸前高田の仮設住宅の主婦たちによる「ちーむ麻の葉」とも連絡をとっています。この団体から頂いた新年挨拶が4年目の「復興」状況について述べているので(少し長い引用ですが・・)お読みいただきたいと思います。
―――・・麻の葉の母ちゃんの中にも住宅を再建し仮設住宅を卒業した方もいて、今年こそは年賀状をと思ったのですが、復興住宅の抽選に外れた母ちゃん等、「おめでとう」というには現実は厳しく、今年も寒中見舞いとさせていただきました。
「何も変わらない」と言い続けてきた被災地ですが、昨年3月「希望の架け橋」と命名された、川向うの山から土を運ぶ巨大なベルトコンベヤーの出現で旧市街地の高台造成工事が進み、その容貌が大きく変わりつつあります。
国道45号線沿いの被災地区には、商業集積地域、国営メモリアル公園用地等線引がなされた未来図に沿って、次々と海抜10mの高台が形成されています。震災後、建物を失った街のあらゆる地点から見ることのできた海は、立ちはだかる土の壁の向こうとなり、今では見ることはできません。
昨秋、陸前高田市では第1号となる復興住宅が完成し、入居が始まりました。被災地区の眼前に建てられた住宅に灯りが点ると、それまで明かりのなかった街に人の気配が感じられ、なにやらうれしく思います。またわずかではありますが、集団移転に伴う造成工事の完了した地域もあり、住宅再建も進んできました。
農業においては、被災した田に初めての田植えが行われ、3年ぶりに収穫の喜びがあり、漁業においては、3年かけて成長する牡蠣の本格出荷となり、正月明けも3日から作業に追われています。・・・――― (仮設住宅 場所?)
宿泊したキャピタルホテル1000(千と読む、千昌夫が始めたが、かさ上げの必要から移転オープンした。なかなか作りは小洒落ている)も造成された高台の上に立っている。
(ホテル横に積まれた土ー車と比較)
4年目の被災地(原発を除く)を垣間見た(バス中から見てどれだけのことが言えるのかは大いに問題があろうが)私の印象では、
・陸前高田のように、土地そのものを盛り土し、かさ上げすることによって、復興が始まる 所では、ベルトコンベア休みなく土を運搬し、重機が走り回っており、土の山が連なって いる(10mのかさ上げって想像できます?!ある地域一帯がすべてビルの3階ほどまで土が 運ばれ高くなるのですよ!
・まずはインフラ整備ということかもしれないが、「復興道路」の建造・整備は精力的に取 り組まれているようだ。
(釜石ー気仙沼間の鉄道の復旧は困難、かわりにBRTという代替赤いバスが通っている。そのためにまず道路が嵩あげされた)
・「復興」の優先順位、スピードは、地理的条件などによって違うようだ。
(私が陸前高田を初めて訪れた2年前、市立気仙中学校が被災した状況のままに置かれていたことにショックを受けた。今回、翌朝にそのそばの道を通ったが、今もそのままだ。教員だっただけに心が痛かった。まずはかさ上げだから仕方ないのか!!)

また、近々に来たいと思う。
そうそう、被災地の話ではないが、このホテルでの夕食時、台湾の夫婦との話が弾んだことを記しておこう。マアマア日本語のできる奥さんと妻がしゃべりだし、夫も話に加わり、ノートに筆談しながら大いに盛り上がり、食堂を出たのは最後の組になったほどだ。この夫婦は、海外それも日本旅行を趣味としており、台湾に帰ってすぐ、花見に東京に来るそうだ。私たちが台湾旅行に行ったとしたら、「連絡してください」と住所まで教えあったのも、何かのご縁だろう。
7・8日目(3月15・6日)
それが目的というわけではないけれど、被災各地の状況を垣間見ることのできた一日を終え、あとは松島観光をして、仙台港からフェリーで名古屋港まで帰るだけである。松島では自由行動であったので、瑞巌寺の入り口までと円通院だけ観光し、蒲鉾屋で買い食いをした。土産物屋も酒店に絞り地酒と醤油や牛タンなどまとめて宅送。仙台からの船旅も、まずまず快適で、台湾人夫婦ともしゃべったりした。翌朝10時前、名古屋港に着き、バスに乗り換え、13時過ぎ、無事 梅田に着きました。冬の雪山から帰って来たようないでたちでバスから降り立った初老~老人の30人ほどの夫婦は、すでに春の陽気の中に沸き立つ梅田の街で、完全に浮いていました。了
出発までに、星野リゾート青森屋に隣接している旧渋沢(栄一)邸を大急ぎで見てバスに乗り込む。

昨日の到着時にはあまり意識していなかったけれど、今日から走るコースは太平洋側です。つい3日前の3/11、東日本大震災4年目をむかえたばかりです。私は過去2回、岩手県陸前高田市で花・畑つくりのボランティア団体を訪れたことがあり、その後の状況にも関心がありますので、今日の行程に一番期待しています(これまでのブログに掲載)。
朝ホテルを出た我々は、三陸鉄道北リアス線の始発駅である久慈駅に向かいます。天候も順調です。冬の日本海岸は波高く風強し、太平洋岸は太陽の恵みを受け、というイメージがありますが、ほとんどイメージ通りの道中となりました。北リアス線は津波の被害をもろに受け、部分復旧を重ねながら去年(2014年)4月全線復旧開通しました。
NHK連ドラ「あまちゃん」の舞台となった久慈駅を出発した列車は、時々車内放送を流し、時には停車して説明してくれます。津波の大被害がいかにすさまじかったは、海面と説明されている建造物等の高さの隔絶感が実感させてくれます。あの「あまちゃん」にも、大震災が起こった場面を、東京に出ていこうとしたユイ役の橋本愛が演じていました。トンネル内で停車した列車を降りトンネルの出口から見た光景は・・・というところも、停車して放送説明してくれました。春の到来を思わせる様な穏やかな気候に恵まれ、普代という駅までわずか40分ほどの乗車でしたが、重い濃密な時間であったと思います。

堤防と水門の復旧作業

落下したが復旧なった橋

昼食会場の羅賀のホテルへまたバスで向かいます。羅賀という語感からすれば、やはりアイヌ語の地名なのでしょう。このホテルも入り江の道路に面した10階建てですが5階まで津波が押し寄せたということで、外に出て海岸からホテルを仰ぎ見てため息をつくことになります。

さらに行くと、田老地区を眼下に見る形で通過しました。ここは、何度も報道されていますが、過去の津波被害の教訓から、高さ10mを超える防潮堤を、なんと2.5Kmにわたり築きあげたことで有名で「万里の長城」とさえ言われたのですが、それをも超えた今回の津波(十数m)の猛威によって500mほどが壊され200人近い死者・不明者が出た地区です。一部震災遺構として保存され、高さを15mくらいにするという復興計画らしいのですが・・。
次は、宮古市内には入らずに、景勝地浄土ヶ浜に着きました。ここも入り江であるからこそ景勝地になっているのですから、津波逆巻いた様は土産物屋の片隅に立てかけられたパネルの写真からうかがい知ることができます。しかし、その写真に注目する人よりも、おびただしい海鳥が人間の手からかっぱえびせんを咥えようとギャーギャー鳴きわめきながら群がるさまに唖然とする人のほうが多い。

海鳥といえば、
~~どこへ帰るの 海鳥たちよ シベリアおろしの・・悲しみ本線日本海~~
の曲もあれば
~~ゴメが鳴くから、ニシンが来るとー 赤い筒袖のヤン衆が騒ぐー~~ アこれは「石狩挽歌」やから、北海道か、と私の頭の中を演歌が駆け巡っています。(そうなんです、レダックはカラオケ好きなんです。)この海鳥は、ウミネコなんですね! まあ、脱線はこれくらいにして・・
釜石、大船渡と大きな被害を出した街も通り過ぎ、この日の宿泊地は陸前高田です。
先ほど触れたように、「陸前高田カモメネット」に2度訪れ、チョビット、畑仕事のボランティア活動をするとともに、この団体を支援する活動を続けています。また、陸前高田の仮設住宅の主婦たちによる「ちーむ麻の葉」とも連絡をとっています。この団体から頂いた新年挨拶が4年目の「復興」状況について述べているので(少し長い引用ですが・・)お読みいただきたいと思います。
―――・・麻の葉の母ちゃんの中にも住宅を再建し仮設住宅を卒業した方もいて、今年こそは年賀状をと思ったのですが、復興住宅の抽選に外れた母ちゃん等、「おめでとう」というには現実は厳しく、今年も寒中見舞いとさせていただきました。
「何も変わらない」と言い続けてきた被災地ですが、昨年3月「希望の架け橋」と命名された、川向うの山から土を運ぶ巨大なベルトコンベヤーの出現で旧市街地の高台造成工事が進み、その容貌が大きく変わりつつあります。
国道45号線沿いの被災地区には、商業集積地域、国営メモリアル公園用地等線引がなされた未来図に沿って、次々と海抜10mの高台が形成されています。震災後、建物を失った街のあらゆる地点から見ることのできた海は、立ちはだかる土の壁の向こうとなり、今では見ることはできません。
昨秋、陸前高田市では第1号となる復興住宅が完成し、入居が始まりました。被災地区の眼前に建てられた住宅に灯りが点ると、それまで明かりのなかった街に人の気配が感じられ、なにやらうれしく思います。またわずかではありますが、集団移転に伴う造成工事の完了した地域もあり、住宅再建も進んできました。
農業においては、被災した田に初めての田植えが行われ、3年ぶりに収穫の喜びがあり、漁業においては、3年かけて成長する牡蠣の本格出荷となり、正月明けも3日から作業に追われています。・・・――― (仮設住宅 場所?)

宿泊したキャピタルホテル1000(千と読む、千昌夫が始めたが、かさ上げの必要から移転オープンした。なかなか作りは小洒落ている)も造成された高台の上に立っている。
(ホテル横に積まれた土ー車と比較)

4年目の被災地(原発を除く)を垣間見た(バス中から見てどれだけのことが言えるのかは大いに問題があろうが)私の印象では、
・陸前高田のように、土地そのものを盛り土し、かさ上げすることによって、復興が始まる 所では、ベルトコンベア休みなく土を運搬し、重機が走り回っており、土の山が連なって いる(10mのかさ上げって想像できます?!ある地域一帯がすべてビルの3階ほどまで土が 運ばれ高くなるのですよ!

・まずはインフラ整備ということかもしれないが、「復興道路」の建造・整備は精力的に取 り組まれているようだ。

・「復興」の優先順位、スピードは、地理的条件などによって違うようだ。
(私が陸前高田を初めて訪れた2年前、市立気仙中学校が被災した状況のままに置かれていたことにショックを受けた。今回、翌朝にそのそばの道を通ったが、今もそのままだ。教員だっただけに心が痛かった。まずはかさ上げだから仕方ないのか!!)


また、近々に来たいと思う。
そうそう、被災地の話ではないが、このホテルでの夕食時、台湾の夫婦との話が弾んだことを記しておこう。マアマア日本語のできる奥さんと妻がしゃべりだし、夫も話に加わり、ノートに筆談しながら大いに盛り上がり、食堂を出たのは最後の組になったほどだ。この夫婦は、海外それも日本旅行を趣味としており、台湾に帰ってすぐ、花見に東京に来るそうだ。私たちが台湾旅行に行ったとしたら、「連絡してください」と住所まで教えあったのも、何かのご縁だろう。
7・8日目(3月15・6日)
それが目的というわけではないけれど、被災各地の状況を垣間見ることのできた一日を終え、あとは松島観光をして、仙台港からフェリーで名古屋港まで帰るだけである。松島では自由行動であったので、瑞巌寺の入り口までと円通院だけ観光し、蒲鉾屋で買い食いをした。土産物屋も酒店に絞り地酒と醤油や牛タンなどまとめて宅送。仙台からの船旅も、まずまず快適で、台湾人夫婦ともしゃべったりした。翌朝10時前、名古屋港に着き、バスに乗り換え、13時過ぎ、無事 梅田に着きました。冬の雪山から帰って来たようないでたちでバスから降り立った初老~老人の30人ほどの夫婦は、すでに春の陽気の中に沸き立つ梅田の街で、完全に浮いていました。了