レダック ピースボートに乗る(改訂版 Ⅱ部 最終)

2014-07-25 17:51:20 | 日記
第4章 私とピースボートとのかかわり  
① 問題発言をめぐる関わり
 水先案内人によるガイダンスの一つに「ロマ」問題があった。ロマの女性活動家Pさん(国籍はスペイン)による3回の連続講演の企画があり、ジプシーとして知られているロマの差別の状況、解放への取り組みなどに関しての報告があった。会場質問Q「ジプシーは差別的な用語ではないか?」:PさんA「差別的な状況で使われたら、差別用語だ」。私的には「ウーン」となる。私見では言葉は流布する中で、人々の思いがニュアンスとしてその言葉にまとわりつきます、いわば手垢がつく、それが侮蔑的、排外的、劣等視の手垢にまみれてくると差別的な用語となっていく。ジプシーもそのような用語なので私は以下ロマと書く。(この私の認識は後半に関係してきます。)
 Pさんによれば、ロマは10世紀ころインド地域で起こった紛争を嫌った人々が西へと漂泊する民になっていくというのが始まりで、中東から全ヨーロッパ地域に流れていく。ロマは、家族第一主義、定住よりも移動生活でも可能な生業ナリワイを主とする、などの経済的・文化的特徴があり、その差異ゆえに、異端視され差別・迫害されてきた。ロマの言葉を喋らせないよう舌を切るとか、不妊手術とか相当エグイことも行われたようだ。ナチスの迫害はユダヤ人だけでなくロマにも及んだだけでなく、現代の社会でも、スエーデンでロマに対する迫害があったことを認めたのもつい先年だそうだ。(日本でもアイヌを旧土人と呼ぶ法律が改正されたのはそう古くではなかったことを思い出しました) 教育の分野でも地域住民との分離・隔離政策や、養護学校にしか入れないなどが今も続いているらしい。  Pさんは、女性解放の立場からのコミットもしているそうだ。ただ、差別の存在理由は、まだ各国政治指導者のなかに偏見を持ち差別する政治家がいるから、経済的要因は資本主義の価値観と衝突するからとしか聞き取れなかったのは、私の理解力不足か? 
それで、勇気を奮ってQ「差別の理由は、政治家が、ロマは自分らの文化を守り、国民として戦争などでは頼りにならぬと考えているとしか聞こえない、だとすれば徴兵に対してはロマはどんな立場をとるのか」 A「1点目すれちがい、2点目 スペインでは徴兵制は無い」 エ、ソウナノ。認識不足でした。
 問題にしたいのは2回目のことだ。事務局か講師のどちらの提案か知らないが、「皆さんも身のまわりの差別について10分ほど討議してください」というということになり、近所の席での話になった。そしていくつか発表を求めたところ、一人のオバさんが「日本でもそういう人がいる、問題がある」と言って、得々と蔑称語を連発し始めたのである。驚いた以上にショックだった。晩飯に一杯飲んだことは関係ないと思うが、不覚にも悔し涙がこぼれてしまったのだ。「私は東京なので詳しくは知らないが」・・なら、喋るな、「関西では」・・黙れ!「なんでも、肉屋さんなどに多く」 アウトや。差別発言や!!! でも、鼻水拭くので忙しく、抗議の声もあげがたく、次のグループの発表に移ってしまった。
 このままでは終われない、会終了後、進行責任のピースボート・スタッフKさんに話し合いを申し込む。「過去と現状との意識的混同や、当事者の思い抜きの興味本位の知識ひけらかしは偏見の拡大につながりやすいこと、現に人権問題・同和教育に携わってきた者にとって悔しすぎる発言であることを伝え、次回に抗議の声があったことと、事務局の見解を聞きたい」旨申しいれた。Kさんも「問題だ」という認識はあったようで、快諾してくれた。
 そして3回目の冒頭、Kさんは、「人権問題を語る時、様々な意見・思いを持つ人がいることに留意する必要があり、現に抗議もあった」ことを言明したので、マ、許したろカ。それで講演者への上記質問になったわけです。しかし不十分だ、終了後も話をさせてほしいと頼み、Pさんに「前回の乗客の一人の発言は不十分な理解に基づくもので、これをもって日本の人権問題を語ってほしくない」こと、二つ目に「克服・解決の道筋を示しながら、取り組みの成果が進んでいることも知ってほしい」ことを述べ、理解してもらった(と思う?通訳をいれた会話だから)。Pさん、まだまだ若い、がんばってねと声援を送った。
これで1件落着というわけでなくスタッフのKさんと話し合いを続けていた。Kさんも同和教育を受けた経験がなく、大変前向きに今後の対処を含めて考えており、自主企画で取り扱えないかという提言については断ったが、自分らも研修したいという意向は大事にしたいと思い、その申し出には応じた。デ5/20、Kさんを含むスタッフ自主研修を行い、講師として同和問題を語り、少し質疑もおこない、1時間半ほど交流した。さらに、こういった状況に置かれた時の対処についても知りたいという意向もあったので、教員研修などを想起しながら、2回目の研修を行ったので、スタッフとは顔見知りになることができた。

② ピースボート上の若者との接触に関して
 A 朝の自主企画「お仕事」と、アンケートの実施について 
私は、教員退職後、企業の海外駐在および帰国社員の帯同した子どもの教育相談の職を得た。その後、ニート対策のNPOに出発直前まで働いていた。つまり、子ども・若者に関して何らかの形で業として関わってきた。しかし、ピースボートでは、若者と接触の機会とてなかったところへ、自主企画で「お仕事」が始まると知り、彼らの乗船の動機も知りたく思っていたので参加した。発題者の若者は「将来、先生になりたいが、先生以外の他の仕事について教えるためには、いろんな職業体験について聞きたい」という意図であったようだ。
 若者数名と私を含むシニア3~4名が、自分の仕事に就いて語り質疑応答するというものであったのだが、隣の落語ビデオ放映の笑い声で聞こえにくいという悪条件にもかかわらず、それはそれで私には興味深いものであった。女子の看護士、保育士がいたことは予想通りであったが、NPOを立ち上げたり働いていたという者、社寺仏閣の文化財など修理資職人など、多彩な職歴の者もいた。考えてみるまでもなく、自営業を除けば、百日に及ぶ航海に参加できるわけはなく、乗船中の若者はニート状態にあるといえる。マ、この船に乗ってトレーニング状態にあると言えないこともないのだが、下船後、職探しをしなければいけないという意味合いからは、われら退職シニアと違い、若者は真剣にならざるをえないので、議論の中身は真剣なものであったように思う。離転職の経験を披露するときもあったが、その際、一人の若者の「職場の中にはロール・モデルとしたいような先輩がいなかった」という発言は大いに考えさせられるものであると同時に、発言した若者は優秀な人材なのかな?と思ったものだが、その後の彼の行動を見ていると非常に優秀であると認めざるを得なかった。契約社員・給料の話も出た。社会的にはニートが大量に生まれてくるのはミスマッチという言葉が主流のような雰囲気だが、福祉・介護・看護等の職種の賃金のレベルにこそ問題があるという話はシニアも含めて共感を呼んだ。しかし、回数を重ねるうち参加している若者は限定されてきて、おまけにPBのお手伝いをしているようなメンバーが多いようで忙しく、話題も詰まってきたため、中断というか、会合そのものが設定されなくなってきた。
 私としては、何となく中途半端な気持ちが残ったのと、マイナスイメージで語られることの多い「ニート」の中にも、この企画で話すことのできた若者のように多様な可能性をひめた存在が少なくないのでは、という思いから、意識調査―アンケートをしてその結果を返せば、それなりのゴールになるのではないか、と思い立った。ちょうど若者のリーダーの一人と、夕食時、4階食堂で同じテーブルに着いたので話をし、「設問用紙と集計はこちらのほうでやるので、若者への配布・回収はそちらにお願いしたい」という線で、おこなうこととした。
 結論的に言えば、アンケートはそれなりに実施でき、それなりに知見をひろげる結果も得られたのだが、若者とのコミュニケーションということでは失敗した。回収時期に、このアンケート実施について、私のほうは確認がとれていると思っていたことに対し、若者から異論が挟まれた。「僕は下船後の計画は決まっている」「ほかの人の意見を知ったからといって自分が考える際にどれだけ影響があるというのか。その結果に左右されず討論し合うことが大事だ」・・そりゃーナイぜ! 十分時間を取って話し合ったわけではないが、了解しあったと考えていたのだが・・・若者からの提言で、ピースボートに乗った影響などの設問も新たに設けたし、だからこそ、60人からの回収に努力してくれたのではなかったか・・マア、いい。若者とけんかしても始まらない。何が食い違ったのか?私が、若者と言ってもそれ相応の扱いではなく、つい高校生と同じように接したせいだろうか、ザックバラン過ぎたのかもしれない。いまだに、よく分からないが、譲れない点は一つある。協力してくれた人に結果をフィードバックすることである。それはマナーでもあることを力説したところ彼らも否定することはできなかった。それで、最後の会合の機会を設定してもらったのだが、23時の会合だって。
 こちらは通常オネムの時間、行ってやろうじゃない・・結局、一人の若者だけが来ていつの間にか帰っていった。こちらも筋を通すため伝言板で広報したが、誰も来ず、完敗。マア、いいけど、と思いつつもやっぱり不愉快な感覚が残った。老人パワーに刺激を受けて、自分の得意分野でお役にたちたいと思ったのだが、マ、あんまりお呼びでもない所にシャシャリ出ることはやめたほうがいいという教訓でした。
(だから、付録として「ピースボート体験の影響」と、「仕事に関して」のアンケート結果をあげますが、ピースボートの旅とは直接関係するというわけではないので、関心ある人だけ読んでください。)
 かくて、6月24日、少し割り切れぬ思いを抱いて横浜港に到着しました。関東地方では雹の降る天候のなか、家路へと急いだのです。(完)




<付録> アンケート結果
 男  女
20歳代  14 25
30歳代   5 11
◎調査対象 ピ-スボート乗船の若者(ニート調査にあわせて20歳代、30歳代とした)は、スタッフに尋ねると約200人、半数に配布できたとして100人、アンケートの回収率は2/3くらいと踏んでいた。私は学生も想定していたのだが、配布に当たる者たちは対象外と考えていたようだ。それでも、教育に関わるセミナーで大量配布したことから、スタッフ・CCも協力してくれたようで(無記名なので実数は不明)、20歳代39、30歳代16、学生6 計61人から、回収できた。統計上信頼できるサンプル数とまではいいにくいので、男女・年代・社会人経験の有無を考慮した下位グループの特徴までは言及しがたいが、「○○というような傾向はみられるのではないか」という程度のことは見えたと考えられる。
(参考)
・男子の乗船前の職業(回答者12)は 教員・土木業・レストランスタッフ・エンジニア・会社員(食品メーカーや営業・遊技業管理職)・アルバイト(複数)などであり、自営業者としてはホームステイ業という者がいた。
・ これに対し女子では(回答者29名)、医療・看護系10名(看護士5、薬剤師2、歯科衛生士、医療秘書、病院勤務)と、教育・福祉系6名(保育士4、介護、大学先生)とで半数以上を占めている。また、コンサルタント、企画運営の業務、NPO代表とかの専門性の高い業務についている者や、栄養士、クレープ屋、養豚場など食品関係(3名)もいる。

◎ ピースボート体験の影響
<この船に乗った理由(乗船前)複数回答可 %表示>
元社会人男19人、元社会人女36人、学生6 それぞれのグループ、および計61人のそうだと答えた割合(学生は6人であまり意味はないが、傾向は読み取れる)
         社男   社女  学生   総計
1 観光          26 53 17    41
2 見聞して考えたい     53 56 50 54
3 外国のこと知りたい  47 58 50 54
4 語学ができるようになりたい 16 44 83 36
5 友達をつくりたい      32 47 83 46
6いろんな人と知り合いになりたい 42 25 33 36
7 企画を楽しみたい      4 19 33 21
8 その他         3人 7人 2人 12人
(レダック感想)この結果には少なからず驚いている。私はあまりピースボートについて予習しなかったせいか、観光目的以外の何物でもなかったし、シニアの場合圧倒的な数値が出ると思われるのだが、若者の場合、わずかに女子が半数強で、知りたい・考えたい・人間関係を求めてということが主力になっている。「世界各地を見聞する中で若者の交流を促す船」という当初からの?役割を十分果たしていると思われる。
なお、その他の自由記述としては
男子 PBVスタッフになる、うまいものを食べる、様々な経験をしたい
女子 家を出てみたい、自分を変えるきっかけをつかみたい、日本から逃げ出したい
   誘われた、企画を通して成長支援、平和の文化を構築、ゆっくりしたい

<アンケート回答時点での変化(複数回答可) %表示>
                          社男   社女   学生   総計
1     自信が出来た おもしろくなった   32   36   33  34
2 たくさんの友達、知り合いができた   42   50   83  51
3 世界や国際関係に対する興味・関心が高まった 68    64  100  69
4 特にはない             5  8 0 7
5 その他 1人 3人 0 4人
(レダック 感想) 200人の若者のうち、回答したものは、比較的まじめで、ピースボート乗船も積極的に何かを求めている者たちと推測している。それにしても、見事ではないか! 3人に2人は、世界への関心を高め、半数は自分の周りの世界を広げ、3人に一人は自分の世界に自信をもつようになった。ピースボートは若者の世界を広げる訓練船の機能を果たしている。かく言う私自身も「グローバルな資質とはどういうことか」を一つのテーマにして考えているのだが、ラテンの国々やポリネシアについては全く無知であることを
思い知らされた。

<下船してからも仕事やボランティアで関わり続けようと考えているテーマがありますか(複数回答可) 人数表示>
(人数) 社男19 社女36 学生6 総計61
1 平和や核の問題 9 15 3 27
2 環境問題 9 14 3 26
3 人権問題 3 7 2 12
4 難民問題 3 7 1 11
5 ジェンダーについて 1 4 3 8
6 国際交流 7 17 3 27
7 子どもの教育 9 11 1 21
8 東北復興支援 8 10 0 18
9 その他 1 5 2 8
10 特にはない 2 7 0 9
(レダック 感想)回答者はどう解釈したかは別として、質問者は知識面での関心を問うたのではなく、「仕事やボランティアで」と限定詞をつけることによって行動、ないしは態度面での関与を調べたかったのである。だから、割合%表示より実人数表示とした。
(なお、その他としては貧困2、大量虐殺の問題、国際紛争等)
この資料の読み方として、たかだか100日あまりの生活のなかで、平和や核の問題、国際交流、環境問題、子どもの教育などについて、考え行動しようとする若者が20人を超える単位で生まれていると考えたら、大変なことではないか! 文科省は「グローバル人材の育成」を喫緊の教育の課題にあげ、本年平成26年度から「グローバル・リーダーズ・ハイスクールGLH」を指定したわけだが(私も帰国後知った)、ちょっと方向性が違うんではなかろうか?と思う。今回、出会った若者の中から、将来国際社会で活躍する人物(人材ではない)が出てくるだろうと確信している。


◎ 仕事アンケートの結果
<仕事観(何のために働くか)>
(学生も含めて)若者の仕事観を探るため、労働のもつ経済性・社会性・個人性の側面に加え、離転職の理由として人間関係を挙げる者が少なくないことから、4つの項目を立て、大切と思うものを、有効回答者数を母数とした%で表示(複数回答可)するとともに、次にその中で一番大事なものを答えてもらった。
                    20男   30男  男計  20女  30女  女計  総計 学生
①収入を得て生計を支える 100 80 95 76 91 81 85 100
一番大事      57 80    63 21    70 47
②社会の中での役割を担う        79    20    63   56     73    61   62     50
      一番大事 36 20    32   21     20    20
③自分の能力や適性を発揮し伸ばす 79 20 63 76 55 69 67 100
         一番大事      7  0  5  17  10  15
④職場を通じ人間関係を広げる   64 20 53 44 27 39 44    67
         一番大事      0  0  0  25  0  18
(レダック感想)「①収入―経済性」は当然としても、「②社会性」を軽視しているわけではないし、「③個人性」にこだわっているともいえない。わりあい健全なバランスを保っているのではないか。
  一番大事だと思うものについては、①「収入」をあげた人の割合が女より男のほうが多く(男63%:女47%)、20代より30代が多かった(20代男57%:30代男80%、20代女37%:30代女70%)。生計維持の現実の必要性を反映していると推測される。
また、女では「収入」を一番に挙げる者が半数以下で、仕事・労働への思い入れが多様であることが分かる。

<離転職理由>
・離転職経験は、男女差は見受けられなかったが、男女とも、20歳代よりも就業経験の長い30歳代の方が離転職経験者が多いのは当然であろう。20歳代 経験有14人:無19人、
30歳代 有9人:無6人
・経験者の離転職理由について回答してくれた25人の内、上記4つの仕事観の否定形およびその他で記述してもらった理由のうち否定的なものは15人であった。
 ①収入が不満 3、②やっている仕事に意味を見出さない(男2女5)7、
 ③自分の能力や適性にあわない 1、④職場の人間関係がイヤ2、
その他自由記述で 疲れて何もできない 1、得るもの無い 1、
 これに対し⑤起業や引き抜きなど積極的な理由で 女2、およびその他自由記述で キャ
リアアップのため 女1 資格取得のため 女1、世界1周のため 男1の、計5人の積極的転職者は、女性に顕著であった(オ-、トラバーユ!)
 なお、これ以外には⑥家族や近親者などの理由1、けが・病気のため1、環境変えたい1、
住む所へのこだわり1、会社方針変更につき1、計5名であった。
(レダック感想)「②やっている仕事に意味を見出さない」からと、キャリアアップなどを加えると、女性の離転職者15人中、なんと9人が積極的な転身を図っている(環境変えたいや、住む所へのこだわりも詳しく事情を聞けば、積極的転身なのかもしれない)。

<能力・適性と仕事>
この項目についてはあまり科学的知見に基づく設問というわけではない。
実際に高校生の進路指導の経験や、組織の中での人事管理の体験などから、適切な自己理解・
自己認識がいかに重要か痛感してきた。
人間関係のトラブルなどで悩んでいる人には「自己肯定感」「自尊感情」の育成が大事だと
言われており、仕事を考えるときにも重要な要素になると考え設問とした。
・ 設問「お仕事に活かせる(であろう)自分の適性・能力について、自分で理解・把握していますか  ①はい ②いいえ」
ここでの有効回答数は男17、女34、学生6 計57である。
総計では「はい38:いいえ19」でちょうど2:1となっている。さすがに30歳代では12:3だが、20歳代では23:13となっている。
(レダック感想)設問者としては、「はい」がもっと多いのではないかと思っていたので、少し意外な感がした。若者のモラトリアム期間の延長が指摘されて久しいが、ますますその傾向は詰まっているのかもしれない。高学歴化のなかで期待をこなせないと自信をもてない、持たさないという構造こそが問題で、ニートを生み出す文化的基盤は社会全体がいわば共犯者なのだ。いわく「世界は君の回答を待つのに飽き飽きしている」ト。私の外面的観察では、回答者の若者は、結構謙虚で、やはり問題意識が高いと思うがもっと厚かましくてもいいのでは、と思っている。老婆心ながら(ジジイだけれど)、人間のパーソナリティ構造としては職業的性格も大きな部分・要素をしめており、これから作り上げていくものだと言いたい。
 なお、この結果を見た限りにおいて、ピースボートの仕掛けの一つとして、若者からシニアへの質問ーそれへの回答をできる場の設定を工夫できないものかと思う。

・自分の能力・適性をあげてもらう設問も用意したが、自分を客観的に見つめる機会をつくるということであまり意味はないが・・。
「自分の能力・適性として自信のあるもの」
男子 「人を教えたり指導する」、「困っている人を助けたり世話をする」、「人をまとめる」、「人の扱いがうまい」が上位4位
女子 「困っている人を助けたり世話をする」、「計画・企画し実現する」、「飲食物などを作ったり提供する」、「調査・研究しまとめる」 が上位4位
・さらに仕事・職業を通じて、発揮・伸長させたい自分の能力・適性を、どう自覚しているか、という設問への回答結果
男子は有効回答数が少ないこともあり、「人をまとめる」5、「計画・企画し実現する」3、以外は分散した。
女子では、「計画・企画し実現する」7 が、「困っている人を助けたり世話をする」5 をおさえてトップだった。
(レダック感想)
 男女雇用機会均等法の趣旨や、ジェンダーについて理解しているつもりであったが、どうしても男子が管理・企画的職務を担うという固定観念が強いことを思い知らされた。他の結果も参考にすれば、女子の管理・企画・調査研究等への志向性が高くかつ転身も図っているという傾向に時代の新しい波を感じざるを得ない。

レダック ピースボートに乗る(改訂版 第2部3

2014-07-20 11:22:46 | 日記
第3章 ピースボートの取組や仕掛け 
① 水先案内人とそのパートナー(水パ)
 ピースボートがただの観光船ではないということをそろそろご理解願えたと思うが(私らもしばらくたってなんとか理解するようになったのだが)、日常的には、寄港地・国・地域のピースボートが問題意識を感じている課題について、概説・解説してくれる水先案内人の講座がひらかれている。マスコミの池上 彰さんみたいな存在だ。大学等の先生、ジャーナリスト、外国人なら当事者・運動家等々。全行程ともにするのでなく、ある区間だけともにする。そして、一人の水先案内人に対し、食事を共にしたりして、コミュニケーションを密にできるパートナーが募集される。私は途中乗船のアカバ組なので、前半のことは分らないが、ラテンアメリカのまさに案内人Iさん、旧ユーゴ紛争のCさん、ジャーナリストのTさんの講座から得るものは多かった。外国人では、ラパヌイ(イースター島)のEさんの歌・踊りを通した訴えが何と言っても印象深い。ただし、外国人でも、思わず眉唾、無責任なしゃべりっぱなしではないかと思わせる人(例 エコノミック・ヒットマン)もおり、担当スタッフからの報告をもとに精査することが望まれる。
 パートナーにはならなかったが、ユースアンバサダー(若いので水先案内人というより同世代の若者交流するなかで知的刺激を与える存在?と言っていいのかな)位置づけで乗船してきたTさんとは随分話をした。彼女のセミナーは学校・教育・人権(問題)をテーマにしたものだから、もともと私と同じ守備領域であるのだが、紹介されて喋りだしたら同じ大阪、それに私も関係あったK高校出身で、その高校や人権教育研究団体の教員について共通の知り合いがいたりして、最初からもりあがってしまった。もちろん世代や立場性の違いから、「そこは意見が違う」という場面も少なくなかったが、大いに意見交換させてもらった。学校・教育への視点の新鮮さやNPO活動をしているということもあり、帰国後も、なんらかのおつきあいを続けることになろう。

② おりづるプロジェクト
 自主企画の様々なサークルがあるが、特筆すべきは、原爆投下から70年近く、70代・80代の被爆者数名がプロジェクトとして乗り込み(多分ピースボートも特別支援しているのだろう)、船内および寄港地ごとに語り継ぐ会、報告会を実施している。孫の世代に当たる若者が、語りを受け継ぐべく一緒に行動。3~40名くらいの孫鶴?が組織化されていった模様。ベネズエラのように一国の大統領に会見できるというのはよほどのこと、ピースボートの積み上げてきた実績は大したものだ。
私は、原水禁運動が政治的色合いで分裂していた時代があったことを知っているだけに、ほとんど近寄らなかったのだが、船内活動としてはそんな風潮もなかったので、少しだけこれに関わった。「はだしのゲン」が世に出て○年になるのを記念して、広島生まれの在日韓国人3世 李 翔雲が作曲した「メッセージ」を船内文化祭で歌うという計画があったようだが、そのころはおりづる固有のメンバーだけでは人数が少なく合唱の態をなすために、「歌う人大募集」との記事が出た。そこで、2日1時間ほど練習して、文化祭当日、一緒に出演したというわけ(安易!な参加だが・・)

③ 各支援プロジェクト
 ヨルダンの難民キャンプに援助物資を届ける、地雷除去、核実験反対活動や署名、東北復興支援、いろんな環境保全活動、ベネズエラのエル・システマへの楽器贈与などのプロジェクトへの支援 ペルーの子ども若者への支援物資提供等々実に多彩だ。船内でこれらのプロジェクトの宣伝・紹介がある。(だから私の知らないものも多くあろう)
 また、OPで現地の人々との交流や、植栽などの共同活動を行ううちに、継続的プロジェクトになっていったものもあると推測される。

④ 洋上運動会、文化祭、自主企画発表会、洋上歌合戦 等々
洋上運動会が5/2に、そして文化祭が5/6に開催された。いままでほとんど接触もせずよく分からなかった若者が、がぜん前面に出て輝きだしたのである。はしゃぐシニアを巻き込んで、船内活動は応援団ムード一色。今回が83回のピースボート就航であるから、さすがに長年の経験からうまく乗客を乗せるコツ(船だからのせるのがうまいのはあたりまえ?)をつかんでいる。
誕生月で4つの団に分け(またまた赤・青・白・黄色と色分け、だから夫婦でも同じ組になれるとは限らない)、サポーターの若者とノリノリのシニアに応援団を結成させ、数日で応援合戦ができるまでに持って行く。そして、当日、集合時に参加した人数をも点数化するというようなルールもこしらえるから、開会式くらいはお年寄りも参加せざるを得ない。デ、どの団も180±αということは、720人が甲板に詰めかけたわけで、レダック試算では何と乗客の9割が参加ということになる。炎天にもかかわらず、みなさん、よく乗ること・・高校の体育祭を思い出してください、団旗も、団の色の法被もポンポンも鉢巻もあるし、圧巻は応援合戦である。もちろん狭い甲板、しかも航行中につき揺れもある、だから違いは、例えば玉入れについては、選手は立ってはいけない、膝立で紙を丸めた玉を、少し高い所に上がった役員の頭上の籠めがけて投げる、という風に工夫しているし、4団同時に行うスペースが無いので2団での対決の繰り返しとなる。そして放送は日本語の次に必ず英語が入るところはこの船ならでは・・。ここ
こちとらは、運営上の妙に気をとられて、デイ・センターなどでも取り入れられるやりかたを考えたりするなどで、特にオバ(ア)さん方の熱狂ぶりとパワーに、ただただ恐れ入っておりました。厚かましいオジ(イ)さんに綱引きの出場権を奪われても腹も立ちません。私属する「青」団が優勝しましたが、他は若者が団長を務めていたが、ここだけシニア、どうも元同業者の感じ? それなりに楽しめました。(運動会と文化祭)
そして、文化祭。一つのプログラムは、M1グランプリという人気TVを模し、予選で10組の出場者の内から決勝進出者3組を競わすという本格的なもの、話芸が巧みで吉本若手よりはるかにうまいと感じた漫才コンビもいた。ほとんど若手だが、中に一人ウクレレ漫談風のシニアが笑いをとり、見事決勝に進出した(ただし、決勝ではネタがばれているので見事に敗退)。圧巻はダンス、ヤングがこの日のために仕上げたグループは予想通りとはいえ、船内でカルチャー・スクールとして講習を重ねたり、自主講座でやっているものが、なんと、ベリーダンス・社交ダンス・シニアのサンバ・フラダンス等出てくる、出てくる・・・衣装が波打っているのか、婆ちゃんの腹の肉のたるみかわからない・・・ダンス衣装だけで5箱も積み込んだという噂の主も衣装を変えて2回出ていた(そんなことまでよく分かるな、と言われそうですが、いわくがあるのです)。切り絵や、手芸・写真・水彩画・書道の展示含めて、これまた、高校の文化祭のレベルを凌駕しうるもの。そう言う僕も一つ出場しました(上述の「メッセ―ジ」の合唱)。もちろん、船内が沸き立っても、ソファーで海を眺めながら、睡眠・瞑想にふけったり、絵筆を動かし続ける人もおられたことは申し上げるまでもありません。
 それだけでなく、5/23には自主企画発表会がもたれた。ちなみに、皆さん、どれだけ活躍されているかをお示しするためにステージ出演のチームを紹介しておこう。①寄港地水彩画グループの作品スライドショー、②ソーラン節、③ウクレレ、④二胡、⑤詩吟、⑥能楽小謡、⑦ダンス(若者)、⑧南京玉すだれ、⑨社交ダンス、⑩バンド、⑪ベリーダンス、⑫フラダンス、⑬タヒチアンダンス、そして⑭トリとしてわれらが「花は咲く」プロジェクトによる合唱、といった次第である。発表の場が与えられる、しかもトリで・・というわけで、先生(企画し、指揮をとれるおばさん)以下大張り切り。ただし、時間の関係で2曲しかご披露できない。「ふるさとは今も変わらず」と「花は咲く」で臨むことになった。一応どちらも少しづつ二部になっているのだが、マ、できる範囲で、なんといっても声をだしいい気分で歌うというところから始まったのだから。舞台衣装は上が白、下が黒、女性は胸に花ブローチということで、当日何と50人くらい集まった。僕も買ったものの日本ではあまり被れないパナマ帽をかぶり、唸って満足!(ここ)
さらに、さらに、さらに、5/30には、洋上歌合戦まであった。紅白でなく、出場者の部屋番号を左舷=偶数、右舷=奇数に分けて競うというものだが、下手にエントリーせずに良かった。というのは、歌合戦兼仮装大会というべき盛り上がりを見せた。若者は、数日の間に、グループを組織し、振り付け・衣装をしたてるのだからすごい。シニアでも、女装、踊りの振り付けなど爆笑に次ぐ爆笑・・僕が仮に出場したと想定するなら、「群青」をパナマ帽をかぶって、という想定だったが、完全にカブルことになってしまうところだった。つまり、「昴」をパナマ帽をかぶって熱唱したのが、体育大会の団長さんだったわけで、完全に二番煎じになるところだった。やはり、浮かれすぎなくてヨカッタ、これ教訓。

④ コモンビート(コモビ)
 私は全然知らなかったが、いつの頃からか、このミュージカルもピースボートの名物となっているらしい。ミュージカルのストーリーは単純で、人種・文化等が異なる赤・緑・黄・青の4大陸はそれぞれの権力者によって統治され、相互の交流もなかったが、グローバル化の中で争い・混乱を乗り越え、共通の鼓動コモンビートに理解・共感を持つようになるという、いかにもピースボートらしいもの。100人に及ぶその出演者を、船内でオーディションを行い配役などを決めるという本格的なもの。専属スタッフは一人つくが、基本的には出演者がダンス・歌をクリアしていき、6月6日2回の公演にもちこむという、ちょっと想像を超えるもの。一定の著作権みたいなものをピースボートが持っており、地上でも同じような取り組みが行われている場合があるらしい。これに出たいがために、乗船2回目というシニアもいるほど。出演はしないけれど舞台衣装やダンス練習などの周辺応援団があちこちで練習するようになる。そして公演、なかにソロのヴォーカルで少し音を外したな、というのもあったけれど、十分入場料をとれる。大したものだ。まさに老いも若きも1月ほど共通の目標に向かって作り上げていくなかで生まれる出演者の一体感や満足を求めてリピーターになったという人の気持ちも分からないではない。


レダック ピースボートに乗る(改訂版 第2部②)

2014-07-20 10:39:04 | 日記
第2章 ピースボートの生活
① 住
キャビンが我が家となる。ツアー費用は基本的にはどのようなキャビンを選ぶかによる。一人・二人・四人、船の外側なら窓付き、廊下の内側なら窓無、によってすべて違う。ただしキャビンの広さはあまり変わらず、二人部屋は部屋の左右にベッド、一人部屋は二つ分のベッドを真ん中でつけある、4人部屋は左右ベッドが二段という差なので、必要に応じて変更できる。1400人定員に対し、常時は800~千人の客を詰め込むので、水漏れがひどい場合などキャビンを替えてもらった人もいる。シャワー・トイレは各室についている。一人部屋、スイートルームみたいな豪華部屋(まわりはベランダ)、などいろんな種類、価格ランクがあり、一人参加で二人の相部屋になった人の話では、お互いのプライバシーを守るため、部屋の間にカーテンをしている部屋とそうでない部屋とでは10万円の差があるという。4人部屋窓無99万円くらいから、超豪華部屋 ウン万円まで、まさにピンからキリまで、しかも申し込みが早ければ早割があったりしてややこしい。不満なのは、各キャビンとも机・椅子が一つ(内覧会ではそこまで注意しなかった?)。困るのは、すべてそうなのだが、トイレがバキューム式なので、凄い音がする(飛行機のGooo--Juba アレね)。私は既に書いたように夜中3~4回行く。嫁さんだからいいようなものの、他人とならそうはいかぬだろう。(仲良くなったインドネシアの客室係りと一緒に 客室廊下で)
② 衣 
寒さ対策やフォーマル・ディナー用スーツ・僕の場合はトレーニング用シャツ・パンツなど荷物の大部分をキャビン内のクロークや棚に収納できて一安心。ホテルなんどでのクリーニング利用は高くて活用しにくいと思っていたが、40×50Cmくらいのクリーニング用布袋に詰めるだけ詰め込み、伝票に衣類の枚数を書いておいたらルームキーパーが持って行き3~4日後には戻ってくる、Tシャツやパンツもちゃんと畳んで、それで一袋350円というのがうれしい。もちろん、シャワーの後は、妻が日本から持ってきた洗面器(百均で買った!)を使って下着は自分で洗濯するのですガ・・。
③ 食
4階にメイン・レストラン、9階にビュッフエ・レストランが2ケ所ある。朝食はほぼ毎日同じで、9階はジュース・コーヒー・各種パン・卵やハム・チーズ・ヨーグルトなどのバイキング形式、4階はおかゆ・ご飯の違いもある和食バイキング。昼・夕はメニューが貼りだされているのでそれを見て選ぶ。寄港日はだいたい同じだが、航行日は、大体4Fが和風、9Fが洋風の傾向となる。何しろ毎回千人分なので、4Fは早組と遅組に分けてあり、それを示すレストランカードを持たされている。誰が来たかまではチェックできないので、例えば若者が昼食時9階の片方でラーメンを食べ、もう一方でハンバーガーを食べるということもできる。夕食を9階で丼物を食べて19時半の部で4階にも来てまさにデザート付きのディナーコースを食べるということもできるし、実際にいる。おまけに、6時前から起きてウオーキングや太極拳をするご老人(とは限らないが)もいるので、6時半から9階でモーニングコーヒーもある。その上、15時から16時には、これも9階でアフタヌーン・ティー(3種類のミニケーキ付もとれる)を楽しめる。
寄港日にも、船内に残っておれば、食堂はやっているので80日×3食+モーニングコーヒーやティータイムの食事代が全部込みになっている。お味?主観的要素が高いので、ウーン、表現しにくいが、まあいいんではないか。割烹旅館に来ているわけではないんだが、たまにスペシャルコース的な豪華な夕飯も少なくない。何と言っても選べるし・・
飲むのはどうか、夕食時に酒を頼むことができる。IDカードで読み取って後で請求だから、ビールやワインを1杯程度たしなむ人は少なくない。また、居酒屋・バー・ピアノ演奏バーなどもあり、午前様まででも飲める。ぼるスナックよりは安全で、ビール中ジョッキ300~350円程度だから各国のビールを楽しめ、呑み助も安心。だから酒の持ち込み、部屋で一杯はだめ。船の入口で、横浜まで没収と相成る。ただし、お金を払ってキーボトルとして置いておくのは認められているので、寄港地で買っては毎夕楽しんでいる人もいる。
(ここ カラオケつきのbar)
④ 情報
ところで、今日どこで何があり、どう行動すればいいのか?という情報は、一つは直接集められての説明会と、もう一つ「船内新聞」によって得られる。毎日20時に発行される船内新聞には、翌日が航行日なら各場所で行われる活動の予定表、寄港日なら簡単な寄港地情報が掲載されているので、これなしには生活できなくなる。さらにオプショナルツアーに関しては前々日に各コースの集合場所や現地事情についてキャビンの入口ポストに届けられる。
一番飢えていたのは日本の情報、大海原を乗り切って船まで配達してくれる新聞は、ない! インターネットで見ればいいというのは一面的。100分3800円のカードを買って自分のパソコン登録をして、それから衛星を通じてつかまえる作業をしなければならない。それもなかなかつながらない。このブログをアップするだけでも、その場所にパソコンを持ち込んでつながるかは博打みたいなもので、1勝2敗ペース。インターネット検索などやっている余裕はない。マ、知らなくとも生きていけるし・・ 事務局がどこかの港に寄港した際、新聞をドサット差し入れすることが2回ほどあった。しばらくたてば、新聞はヨレヨレ・・

⑤ 航行日の様子
 さて、観光するだけでなく、ピースボートがピースボートたる所以は、寄港しない航行日によくあらわれている。ちなみに、乗船してまだ日が浅い4月17日(木)の私の日程は以下のようなものであった。
5:30~ 起床、洗面、×部屋で体操(風強くウオーキングできず)
6:40~8:00 朝食(9F)、接続悪いインターネットに挑戦したが、うまくいかず
8:30~9:45 ◎避難訓練(救命胴衣をもって集合点呼。その後の行動指示不明確でイライラ、救命艇の下まで行くもデッキで待つだけ、寒い!耐寒訓練のよう)
10:00~11:20 *日本のニュース⇒アカバから乗り込んできたジャーナリストが水先案内人の一人として、3/13以後のニュースを伝達
11:30~ この間に昼食(9Fへ)
12:30~13:45 *パレスチナレポート2014⇒パレスチナ人のNGO代表、当事者としてイスラエルの入植settlements問題、分離壁・検問所を設けて移動規制、パレスチナ人の拘束問題を報告。ここまでひどいとは、知らなかった、絶句。
14:15~15:45 *旧ユーゴスラビアへの扉⇒この地に30年関わる日本人ジャーナリストによる入門、寄港するクロアチア ドブロブニクを中心に、クロアチア人の証言も加味した解説。全く知らなかったバルカン半島の歴史。戦争起こすなという強いメッセージ
16:00~16:40 ◎航路説明会 今後の航路 明日からの3日連続の寄港地について
17:00~18:00 運動(腹筋・レッグイクステンション、アップ1Km8分、快調走3Km18分 シャワー
18:20~19:00 夕食+ビール(4F) 後休養
20:00~21:00 *ユーゴ紛争1991⇒昼間の続き。民族紛争と言いながら、クロアチアとセルビアは同根であるとの言説
21:30 ブログ書き、22時半 就寝
ピースボートは、名前や由来からして、寄港地・国・地域にまつわる平和・環境・人権上の課題を洋上生活の間に考えてもらうというスタンスをとっている。そのために「水先案内人」と名付けた学者・ジャーナリストや、現地の運動家などによる講座を設けている。 乗客の方も、ただ観光するだけでなく、寄港国(地域)のことを深く、あるいは教養として知っておきたいという人も少なくない。だから、500人くらい入る一番広いラウンジで、毎日3本ほどメインテーマの講演会等が開かれており、結構一杯になる。上記の表の中で*印の3つがそれにあたる。ちなみに◎印の二つは全員出席が要請されている。普段はいつみても麻雀宅にへばりついている婆様も、この時ばかりは参加しています。
デモ、こんな調子じゃもたないと分かり、途中からできてきた自分のペースは、次のようなもの。
6時過ぎ 起床、6時半~6:40 ラジオ体操、デッキウオーキング、
7:20~50 サルサ(毎朝同じ基礎練習で、できるようになった) 朝食9回ビュッフェ 部屋に帰りシャワー(8時過ぎまで 結構身体を動かしているのです)
9時過ぎから その日の講座等で聞きたいものを選ぶが、自主活動「花が咲くプロジェクト」のある時は優先的に参加⇒オジン・オバンが集まって、「花は咲く」、新沼謙治の「ふるさとは今も変わらず、」中村美津子の「夢の花 咲かそう」、「がんばれ 援歌」の4曲(いずれも東北復興支援の歌)を歌う。
昼食はほぼビュッフェで麺類かハンバーグ等
午後も「船内新聞」の情報次第。船内TVで映画のビデオ上映や、夜に7階ブロードウェイで名画をやるときもある(「7人の侍」、「天使のラブソング」、梁石日の「夜を賭けて」などを見た。昔のビデオだから時々使い古しビデオの形・色のつぶれた画像をみて懐かしく思ったりして)。


レダック ピースボートに乗る 改訂版13(第2部1)

2014-07-14 00:32:58 | 日記
Ⅱ部 船内生活編
第1章 ピ-スボート上の人々
このツアーは①「NGOピースボート」の企画に基づき、旅行に関する諸手続きやオプショナル・ツアー(以下OPと略記)を「Bジャパングレース」という旅行業者が行い、共同実施の形をとる。両者が、パナマ船籍の「Cオーシャン・ドリーム号」を長期間チャータ―してクルージングを行っている。
① A オーシャン・ドリーム号 
船長以下航海士等クルー、ほとんど顔もあわさずメンテナンス等に携わる人・客室係食堂の調理人やサービスする人など計380人。ほとんど外国人で、インドネシア・フィリピン・インド・タイ・ペルーなど、中には流暢に日本語を喋って人気のあるウクライナ人もいるが稀。清掃・食堂などは分業が徹底している。給料も職種によって違うらしいが特別のスキルを要しないものは低いとみられる。最低限のクルーへの指示は英語で行われる。メインレストランのディナーでは①席まで案内する人(椅子も引く) ②コップに水を注ぐ人 ③各テーブルには先付けの料理がセットされているが、客がそろうと汁物や主菜、ゴハンを持ってくる人(それも種類ごとに分担)、④飲み物のオーダーを聞く人=客のIDカードでの精算もする。そして、料理も終盤にさしかかると、⑤お茶かコーヒーを入れる人、⑥「フィニシュ?」と聞いてお盆を下げ、すぐにその日のデザートを持ってくる人、とマアこれくらいいる。労働条件がどんな契約かは分からないが、④飲み物オーダー係が、またまた夜のバーなどで働いていて「ヤア」ということも起こる。
  客室担当の女性と妻がかなり親しくなったが、彼女の客室分担は25室で、その区域の廊下はもちろん階段、手すりも守備範囲で、洗濯の注文も聞いている。
 かつての旅行記を読むと、「やはり船長さんが一番偉く、酒癖が悪い乗客に下船命令を出し、港に置き去りにできるほどの権限を持っている」らしい。乗船時と下船前に船長主催のパーティがあり、それなりにクルージングへの心構えをする必要があった。

②B 旅行会社 ジャパングレース 
合わす顔から見て20名くらい? ツアー全体の会計面を取り仕切る。OPの仕切り役として、募集・変更等の手続きとともに、実施についても引率責任をつとめる。また、船内での船室の不具合などに対し、船の担当セクションと連絡し解決を図る。

③C ピース・ボート 
スタッフは26名、CCと呼ばれる通訳(Communication Coordinator)が14名、GETと呼ぶ語学講師 英語・スペイン語・フランス語9名。
国内のピースボートセンターで、各クルーズ全体の企画・乗船スタッフが決められているようだ。船内新聞・自主企画・その都度の企画行事・催し物の音響や照明・備品の管理や準備・記録等々、船内企画・運営の一切を担当する。黒子になりながらも仕切っているので、乗客は、いわば、その手のひらの上で踊っているだけ。女性の方が多いが、私の接した範囲内では、総じて優秀。それぞれにピースボート、あるいはピースボートを超えての夢・目標をもっているようで、担当業務の関係で夜遅くまでがんばっている者もいるようだが、そもそもNGOなので、スタッフの給料も安いとのこと。そのリーダーが総括ディレクターのTさん。モデル並みの長身の肢体の持ち主で、特段の美人というほどではないけれど笑みを絶やさずかっこいい。おまけにサルサの指導者で、オークションの司会をやらせたら、吉本の芸人も真っ青な話芸など、有能多芸な女カリスマ然としている。特に男性(シニア)客に心酔者がたくさん出始めているとみられる。
(辻元清美が議員立候補の際、ピースボートから手を引いたわけだが、Tさんはこの時の立候補演説を高校生として高槻駅前で聞いたという。そこで、Tさんに、ある時「元 大阪の高校の教師だが、良ければどこに行っていたか教えて」と聞いた。有名進学校ではなかった、進路もお菓子?料理?の専門学校という。大阪府では、有名進学校10校を進学指導特色校として文理学科をつくり、グローバル・リーダーズ・ハイスクールとかの愛称をつけた。時代のはやり言葉としてグローバルという用語を使っているだけと思われても仕方がないのでは? この世界1周を生業にしている女カリスマの話でも聞いたらどうかな。
CCの採用はピースボートで行う。旅行費用はタダだが、給料は出ないそうだ。だからOPの際現地ガイドの言葉を通訳するのは本来業務であるが、その余の業務や船内催しのお手伝いはボランティア。CC紹介の企画もあった。米国大学に留学している際、英語ではどうしても差がつくのでフラットで勝負できるスペイン語を専攻したという者、理系の大学院で学んだ者、帰国後教育系のNPOで活躍していた者など、ものすごく優秀な者が少なくない。
ついでに、GETの先生は、日本にきている時、ALTだったという人が少なからずいた。

④ D 乗客 
横浜港、最初からの乗客は600名ほど。僕らのようにフライトで先に観光してヨルダン アカバ港からが300余名。(乗客が急に1.5倍に増えたため、最初からの人は少し窮屈になったと戸惑い、デザートの例えばみつ豆の量が減ったそうである。また、モロッコで帰国したのが90名ほどだったので、それ以降は800余名とみられる。
 年齢4歳~94歳? 60・70歳代が2/3近く。80歳代も少なくない。車いすの人が2人、杖がいる人は数名。次いで20代・30代で、40~50歳代はごく少ないし、勤務先をやめて参加はしにくいので当たり前。
シニアは私のようにリタイアして夫婦でという組み合わせが多いように思うが、それ
ぞれ一人で、も少なくない。リピーターが少なくない。IDカードに4回の人なら4と刻印されている。女性の中には、最初は夫婦で来たが、2回目とか3回目は旦那をほっといて来たという人に何人か出会った。男性の一人組は、連れ添いに先立たれたというケースと、ぬれ落ち葉のダンナに、「あんた、行って来たら」と言われた人もいるであろう。
 そして、おもしろいことに、夕食時の懇談の時、過去のクルーズの経験などを披歴し、今回についての論評をされる人に結構あった。それも決まってピースボートの悪口つきなのである。そんなにイヤならやめときゃいいのに、と声に出さないが思うこと、しばしば。また、総じて元気である。でないと、旅行に来れないもの。そして、よく食べる。私も食は太い方と自負しているものの、いやあ、ご立派な食欲をほこり、食事を2つの食堂で梯子する人もいる。妻は、真実、当初目を丸くしていた。朝食などはバイキング方式でデザートの果物も摂っていくのだが、常識的には?2~3切れですよね? 8~10切れも持って行けば、それって、グレープフルーツなら1個分だよね。ひどいのは15時~16時までのアフタヌーン・ティー。3種類のクッキー・ミニケーキと紅茶のティーバッグ・レモン・砂糖をとり熱湯を注ぐ。ほとんど1個をとるが、なかに各3つづつでトレイが溢れかえってる人。そして、見てしまったのだ、包んで持ちかえる人も・・。(いつ食べるの?) ほっといて、カラスの勝手でしょ!と言われたら、そうなんですが・・
さらに、仕切りたがり、出しゃばりおヨネ(この文句、ご存じない?)、言って見れば自己顕示意欲の高い人がやたら目に付く。日本語に通訳する前の、現地ガイドの英語説明の間にやたら大げさにうなずいたり笑ったりする人、講演会のあとで毎回のように質問する人(その枕詞に自分のことを言うーお前の趣味など誰も聞きたない)、行事的なものに必ずリーダー的に登場する人。この変形として、顔を会わせて数分なのに、人生を語りだす人。朝食時、ツアー参加動機を喋っていたら、介護した肉親を失い、遺骨抱えて世界をまわっていると話しかけてきた。(世界のお遍路さんかいな?朝食の席でそんな重い話しんどいガナ。)・・・私も相当仕切り屋と見られていようが、出る幕などございません。
それから、上記ほどではないが、「失った青春 取り戻そう」派の人。このタイプが一番多いように思う。特に女性。家事一切から解放され、ダンナと一緒であろうが、個人・グループであろうが、「まるまる時間を好きなように使える、何でもやってやろうじゃない、アー楽しい」と言明している人・・・
そして、本当に青春取戻した人(々)もいる。いつの間にか、同好会や自主活動の集まりなどの中で・・・年甲斐もなくなどとは言いませんが・・・私が認知しただけで4組はいる・・・
だから、社交的でなく、集団活動を好まないタイプなら、マイペースで本を読むとか、海を眺めるといった孤独を常とする人でなければ、苦痛なものかもしれない。ある寄港地でピースボート(?旅行社?)のスタッフが付き添いスーツケースを押して有名地へのバスに乗り込むおじ(い)さんの姿を見た。離脱者なのだろう。これ以外に事故による離脱者もいるという。OPで滝壺の裏を歩く際足を滑らせどこかを?をうち病院送りの人も帰国したという話を複数の人から聞いた。
そして、残念なことに、お行儀の悪い乗客もいる。これはピースボートの責任というわけではなかろう。人気のある映画上映の際、荷物を後ろから前の座席にほり投げて確保する人、盗撮まがいの趣味のオッサン(支障有るので詳しくは言えないけど・・)、マ6~700人いればネー。かくいう私は、結構品定めしていると言われそうですネ、ほんとうに親しくなった人は少数で、付き合いの悪いほうのグループになるのでしょうナ、多分?

 ⑤ D’ 乗客―若者
 後で述べることになるが、ピースボートが乗客全体に仕掛ける企画が、見事にはまっていくのは、PBSと呼ばれているピースボートのサポーターの若者の活動抜きに語れないだろう。外国への関心、何かおもしろそう、動機は何であれ、ピースボートに関心を持ち事務局に相談に行く。「金が無いんですが行きたい」ト。全国の至る所に貼られているポスター貼りが彼らの仕事になり、貢献度によって旅費が・・ デ、そのボランティア的行動が乗船後も期待される。そうでないと、まわっていかないと推察される。20歳代、30歳代で約200人ほどはいると思われる。学生さんや、純粋に観光としては費用が安い、として参加した若者もその半数、100名くらいはいるのかな?でも、観光以上?の何かを求めて、または期待している若者も半数くらいはいるように見える。その中でリーダー的存在が5人、10人のグループの中で現れ、また相互に接触していき、PBSのグループが形成されていったのだと思う。帰国後、「ピースボートは若者の交流の船」で、「レダックのようなオジンが乗れるのか」という質問に出くわす。後ろの質問には即座に否定するが、「ピースボートは若者の交流の船」はやっぱりそうなのだと思っている。そして、確実にそのミッションを果たしていると思う。その論証は、再度別稿で述べる。


レダック ピースボートに乗る 改訂版12

2014-07-09 18:06:01 | 日記
④ タヒチ ?の楽園 (6/2~3)
 6日間の航海の後、6月2日はタヒチ島 パペーテという港に、3日は同じくボラボラ島で遊ぶ。ボラボラ島は大型船は入れる港はないので、港の近くに投錨しテンダー船から上陸する。私は行けなかったけれど、OPで「バリハイ」の清澄な歌声の主題歌「南太平洋」の舞台となったモーレア島に行った者もいる。地上最後の楽園といううたい文句もあるように、垂涎の観光地である。(ピースボートから見た日の出 と タヒチの日の入り)
(もっとも交通手段と目を剥く宿泊料が問題で、通常では行くのは困難)
 物価は(相対的に)高い。店は商売熱心であってもある線以上は負けない、村中を走っても、いかにも村ではあるが、目にする限りは貧民街はない。南米訪問国に比すれば、総じて豊かなのである。なぜとなれば、フランス自治領であるからだ。どういうことか。フランスの核実験地としてムルロア環礁が汚染され、被爆者が出た歴史を持つ。だから、反核と独立を目指す裸足のGさんがピースボートの水先案内人として3回ほど講演と+αの交流を行った。しかし、フランスはいまだ手放していない。過去・および現在の代償としての一定の豊かさがあるのだろう、そして、今後も踏まえると、最後の楽園を死守しなければ立ちいかなくなるおそれがある。環境(観光)資源保護は必須のことなのだ。物価の目安はとしては、私は食べ物を判断基準にしている(それしかないが・・・)し、店を選ぶにはローカルがバンバン買いに行くような店かどうかをまず観察する。昼の軽食として、マクドのような店で、フランスパンを使ったホットドッグ(確かにパンがうまい)とコーラで500フランだった。現地通貨はフレンチ・パシフィック・フランというが長いのでフラン。1フラン大体1.2~1.3円。だから600円強となる。道に出したベンチに座れないほど客が多い。ジェラートの店では2スクープならやはり500フラン、これも学校帰りの高校生でも普通に入ってくる。スーパーで買うローカル・ブランドのヒナノ・缶ビールが230フラン(発泡酒なんか探しても無いもんね、日本での僕よりリッチや)
ゴーギャンの「タヒチの女」はあまりにも有名だ。だから住民はほとんどポリネシアンと思いきや、経緯からフランス人らしき白人も結構見かける。ただし我々含め、観光客が多いので見分けがつきにくい。公用語はイースター島と通底するポリネシアの言葉とフランス語だそうだが、観光業者でも英語が話せるとリーダー格。日本人観光客も多いせいか、それどころか町?村ですれ違うと「ありがとう」「こんにちは」、翌日のガイドなどは「上を向いて歩こう」なども歌うし、どこで「日本語ならったの」と聞かれて、「にほんにお嫁さんいる。ウエトアヤという」くらいの冗談を言う。会った限りでのタヒチ人は陽気。
両日ともOPでなく、自分らで自由行動した。タヒチの港は一歩出れば中心街。自動両替器で現地フランを手に入れ、郵便局へ。ジブラルタルでの教訓から切手はその国の通貨で。特にタヒチの切手は原色を使った華やかな色彩で、収集家の間では人気があるとも聞いていたので、絵葉書を書き溜めていた。しかし、記念切手は大きすぎる。一番小さな通常のモノを求めるものの、それでも既に書いた宛先にかぶり、持っていた鉛筆で修正や書き足しという不細工なものになってしまった(ゴメン)。
次にマルシェという庶民の市場へ、2階が各店舗になっており、色鮮やかなパレオという手織りの布が代表的土産として吊り下げられている。妻のお買いものの付属亭主として見て歩く。ガイドブックに掲載している布地屋にも行く。さらには、上にあげたビール会社がそのブランド名を活かしパレオやアロハシャツ・バッグなどの土産物をやっている店にも行く。キリンやサントリーのTシャツというわけです。それに黒真珠が特産品らしく、その博物館を覗くと、西太后やエリザベス女王の人形に数えきれないほどの黒真珠が飾られているのが印象的だった。
 タヒチに来て泳がないのはご先祖様に申し訳ないというほどたいそうなことではないが、やはり癪だ。ところで、どこにいけばいいのか。ここらが無計画な習性ゆえの効率の悪さで、とにかくiインフォーメーション・センターで聞いたバスに乗り込み、リゾートホテルの前の駅で降りる。やはり無計画な若者10人ほどはそのまま、もっと先まで乗っていく。ホテル内を少し行くとプ-ル、その先にたった4人だけがたわむれているビーチが広がっていた。スタスタとそこまで下りて行けば一組のアベックは日本人。「プライベートビーチかどうか知らない」という。さすがに妻は遠慮したが、私は意地で海に浸かった。波がきついうえに、3mも足を踏み入れればいきなりの深み。どうする?いままで行っていたジムはプールが無いので当然今年は初泳ぎ、老化の表れか明け方に足がつる、等々の総合判断から、「危険」マークが点滅する。ビーチに入るときに読んだ看板では「プライベートビーチだから入るな」ではなく、「ホテルは事故には一切責任を持たない」だったことも思い出す。頭をよぎったのは、確か吉本隆明は鎌倉の海で溺れかけたという記事をよんだことがあったなあ、ということ。有名人ではないが、「タヒチの海で日本人観光客溺死」なんど格好悪いではないか。それでも、未練たらしく波打ち際に平行に30mほど2往復して早々に着替える。帰りのバスもあまり待つことなく港に帰り着いた。帰船までの時間が生じたので、妻は「カードがあれば買える」病にかかり大満足でした。私はといえば、タヒチの海に瞬間的に浸かった、ジェラートを食べた、スーパーで買ったヒナノ・ビールを公園で空けた、ということで、ちょっぴり不満なタヒチの思い出でした。そうそう、この港の公園はジョガーであふれており、そこまでは生きていたい東京オリンピックでタヒチの選手を見られたらイイナと思いました。そして、公園の一画には核実験で犠牲になった200人ほどの慰霊碑にピースボートからの花束が献じられておりました。
その日の5時には出港し翌朝、ボラボラ島に。ここのヴァイタペという港も小さいので、目と鼻の先ながら投錨し、テンダー船で港へ。ただし、イースター島のような救命具などつけずに普通の観光船の感じで数分で着く。ここも自由行動で、まずは昨日の不完全海水浴の挽回とばかりに、ホテルのシャトル?・ジープ?荷台に9人で乗る(一人5$or500フラン)。村道をぶっ飛ばし、先に上陸して歩いているorレンタサイクルのピースボートの諸君を追い抜いて、着いた先には、環礁で囲われたそれはそれは美しい海がまっていました。環礁のあたりだけが外からの波を受けるせいか波頭の白線で、薄い水色が続き、すぐ近くは透明のためお魚が群れているのが見えます(ただし水の色と一体化し極彩色のものではありません)。自然ってこれだけ美しいのかと思ったのは、NZとこの海が双璧でしょう。本当に遠浅で、環礁で囲まれた巨大なプールと言えます。どこまで行っても、遠浅かどうか?そこまでの勇気はありません。でも白く波頭の見える線の半分くらいまでは行きました。ピ-スボートの若者グループも、そのあたりから引き返してくるのを見ると、そこまでで充分です。妻も喜んで遊泳していました。
 今後は望めないだろう生涯最高の海水浴場で二泳ぎして、ホテルのシャトルで港へ戻る。というのは、朝、港に先着した妻(テンダーボートに乗る順番がわずか一人の差でばらばら)が、港のiで尋ねた「ラグナリウムに行きたければ12時半に来い」と言われていたためだ。無計画だと誤算が二つある。港周辺の食堂は1ケ所で満員、i には誰もいない?!
 客ひろいのために集まる車・船の業者等に尋ねる。一つは行くがピースボートのOP用だって、それでも、車で○○まで行けばそこから船が出るとのこと、やはり行先を探していたピースボートの女性乗客3人とその計画に乗った。おかげで昼は昨日タヒチで買ったおいしいフランスパンを分けてしがんだだけ。午前中の道をもう一度走り、美しいビーチのホテルからさらに客を乗せ、さらに道を進め、小さな船泊まりに着く。小ボートで、波を蹴立てて美しい海上を行く。見えてくるではありませんか、誰でも一度はTV等で見たことがあると思われる海上のコテッジの連なりが。これはインターコンチネンタルのものらしいのですが、1泊の最低が8万~10万ですって。ゲゲゲーー。そして、欧米以外では中国人と日本人がよく泊まるんだって、新婚さんとか、ソウナノ、オホホホ・・
 そこを行きすぎ着いた島で、水着に着替えるよう言われ、水中メガネ・シュノーケルを渡される。我々も同行の女性客も自然水族館くらいの知識で、グラスボートみたいなものを想像していたのだが、まったく違った。女性客の中では娘時代が一番昔にあった人だけがこれに挑戦した。まず、海亀の生息している自然の生け簀を見てから、鮫とエイもいる生け簀に連れて行かれ、自由に遊泳しエイに触り、鮫を身近に泳げ、ということらしい。エエ!!海亀の所でもかつては一緒に泳いでいたのだが、噛みつくことが分かったので、今は見るだけという。それなら鮫は?? この鮫はレモン鮫といい、人を襲わない、と言われてもネ。心理的抵抗をなくすため、最初のカメは見るだけ、次にエイは水に入って触るだけという手順を踏む。触りましたよ、もちろん僕のことだから「エイ」という気合とともに、なーんてネ。皮膚はぬめっとしてるが固い、長い尾は節が連なっているようでザラザラして痛い。もちろんエイさんも泳いでいるのだから、わずかな間だけ触れる。結構愚直なやつのようで、遊泳中おしりに何か当たったので海中をみるとエイさんだったりして。他の皆さんは道具を使って、海中を楽しんでいるが、僕はそうはいかない。あちこち悪いが、右耳も鼓膜が破れており、水中に顔をつけると水が遠慮なく入っていく。仕方なく、ただ平泳ぎをしているだけなのです。それでも体長2~3mのレモン鮫が側を通ると、緊張する。
かなりの時間泳いで、帰る段になって、「皆集まれ」ということになった。どうせCMだと思ったがパレオの結び方講習。3種類の結び方をそれぞれ客をモデルにして行われる。皆、ということは妻も含めて感心する。私の内部の声「何や、結び方も知らんと買いまわってたんかいな」。ところが僕も指名される。結局パレオの褌でした。
ピースボートのOPで来た連中と交替で帰ることになり、また10万円コテッジを横目に見ながら、帰船したのでした。行けて良かった。あとはハワイだけだ。思い残すことはないほど、満喫した。

⑤ ハワイイは、結構難しい島だった
 6月3日夜半、ボラボラ島を出港したピースボートは一路最後の寄港地ハワイを目指したわけですが、途中で怪情報がまことしやかに流れます。これまでの見事に左右に描かれていた船の水脈が、右側半分しか出ていない、エンジンの半分が止まっているに相違ない、ハワイ到着も遅れるだろう、あるいは船の状態はもっと悪いかも知れない、というものです。食事の合席していた人から聞かされ、他の人にも確かめると、噂は知っているということでしたし。最近変な揺れがひどいということは皆の思うところでもあったのです。がぜん話は盛り上がり、もし、ハワイで入港が認められなかったり、エンジン修理のためにドック入りしたら、ホテル代は誰がもつのか、等々。しかも、その話を切り出した人が、「他の船に詳しい人と、日本側の責任者(ジャパングレースのHさん⇒スペイン モトリルのバルで僕が軽口を言った相手)に聞いても、否定したけれど、彼はほんとのことは言わない人だ」と、話は大きくなります。翌日には航路説明会があるので、そこで明らかになるだろうということで、いちおうお開きに。その説明会、Hさんのほうが先手をとった。「最近、妙な噂が流れているようです。皆さんも暇ですね・・」と切り出し、片肺飛行・・じゃなかった、片肺航行?は、時間調整のための予定の行動であり、左エンジンも点検後、動かす予定とのこと。
 というドタバタがあったものの、6月10日朝、ハワイ オアフ島の港に到着した。予定通りであった。ところが今までとは違うことがある。テロ対策に敏感な米国では、個別の対面審査が必要とされるのであった。これまでの国は、飛行機と船の違いはあるが、事務局が一括審査を申請し、マ多分問題にもならなかったのだろうから、「全員の上陸許可がおりた」との放送で船外に出たのである。ところが、この朝8時過ぎに、パトカーを連ね港の税関・入管が乗船してきた。少しばかりたまげたのは、麻薬犬である。犬まで乗船してきている。おまけに、米国にとって、PBはいかにもうっとうしい船なのであろう。カリブ海諸国、LA諸国には寄港しても、久しぶりの入国らしいのである。船内講演では、いかに米国が19世紀末からLA諸国を支配してきたかという講演が続いているのである。ご当地ハワイについても、カメハメハ王朝を廃絶させ、軍事のかなめ石として整備しなおすとともに、米本土の観光資本が押し寄せ現地住民の生活破壊を推し進めていったかなどの講演もあった。あのワイキキの浜辺も人工のものとは恐れいる。その中で、あのスペル通り、現地の人にとって、ハワイではなくハワイイなのだ。講演の中身まで知っているわけではなかろうが、米当局にとってはピースボートは胡散臭い船という評価は定着しているのだろう。被爆者の語り部を乗せて各国で啓発・講演活動するような御一行様は、米軍需産業界にとってはウットウシイに相違ない。
 マ、それはそれとして、対面審査はスムースであったのに拍子抜けする反面、帰船のチェックはベルト・荷物等結構厳しかった。ところで、海外旅行の経験の多い妻(およびそれほどではないが私)ではあるが、ハワイは初めてなのである。そして、感じたことは、日本人が溢れかえり、誰が居住者か分かりにくく、ツアーならともかく、自分らだけで旅行するなら、よく調べてからでないと結構移動が難しい島だということであった。ハワイが名だたる観光地だからと舐めてしまって、OPを申し込まず、自力活動を目論んだのが結果的に悔いの残ることとなってしまった。だから、この項については、自力でハワイ観光しようという人にとっての反面教師くらいの値打ちはあるかも知れない。
 10日の予定としては、講演でも聞いたRemember Pearl Harborに「アリゾナ記念公園」ができており効率的に見学できるということなので、まずはそこへ行く、そして妻の自主活動グループが17時に有名ホテルのディナーでハワイアン見学という企画に便乗するというもの。対面審査が終わり結果的に下船できたのは11時過ぎで、しかも港からは、どうも直接行けず、ほとんどが中心街であるアラモアナ・センターという所かワイキキまで行きバスに乗らなければいけないということが分かった。そのアラモアナに行き、iで翌日のアクティビティで申し込めるものを問い合わせたが芳しい結果は得られず、アリゾナ公園へのバスの時間も分からないので、まずは昼食を取ろう、このセンターには回転ずしもあるのでそこで腹ごしらえをすることとした。これがまず失敗、日曜の昼時のせいもあって、おまけに米に吸収されたカメハメハ大王の生まれた日とかで大層な人出、20分ほどでやっと席に座れたが、寿司店なのにビールはおいてない(そうなんですよ、よく調べて行かないとネ)、マアマアのものもあるが総じてマヨネーズべっとり・・期待外れのランチだった。  ともかくアリゾナ・メモリアルに行こう! でもバスストップが分かりにくい、しかも時刻表などありません、ともかく行先方面の番号の書いたストップでひたすら待つ、待つ、待つ・・・「オーイもう半時間や」「ガイドには40分くらいおきとあった」・・・「オーイもう40分や」「あきらめて離れたとたんに来たら癪だし・・」・・・「オーイ 50分たった」「ウーン」・・とそこへ来たんですね。このバス乗車が実は一番の勉強になったのかもしれない。2~300mも行かないうちにバスストップに出くわし、まさにハワイアン(ハワイイ現地人)の生活の足になっている様子を見てとれたからである。それと、どこでおりたらいいのか、前方に小さな字なので見過ごすところであったが、「次停まります」と地域(カウンティ 郡かな?)―駅名が表示されていたのを見つけて一安心。また、降車の意志はボタンが無いのでこれも観察していたら、窓に沿わせてゴムひもが一周してある、これを引っ張るわけネ。前方の表示板に「ARIZONA MEMORIAL」がでる。ア、ここや、思わず強く引っ張る。焦る必要はないのネ。たくさん降りたから。
日曜なので、白人・現地人含め家族連れが多い。なるほど・・・。でも貴重品とカメラ以外の荷物の持ち込みは禁止、荷物預けの3ドルが実質の入場料、そうなのです、特別メニューを取らなければ無料ということの意味を考えるべきなのでしょう。荷物を預け、警備員の示す人一人しか通れぬ入り口を超えたところのiで、係員が親切な案内をしてくれる。
 あとの施設を大急ぎでみてまわり(時間があれば現役の戦艦ミズーリ―に乗船することも可=有料)、いつ来るか分からないバス停へ急ぐべく荷物を取りに行ったら、顔見知りのPB乗客と出会い、彼らもディナーショーに参加予定ということでタクシーに乗り合わせて、ゆうゆう間に合った。間に合い過ぎて、時間をかけて昼飲み損ねたビールとピザ・エビフライなどに時間をかける。結局歌とダンスが始まりだしたのは19時ころ、おまけに途中で、多分フラダンスのワークショップ付きの御一行様の発表会もどきのとび入りがあった。日本人のオバンのフラダンスなど見とうもないレダックは、妻を促して失礼することにしました。ウィンドショッピングも兼ねてアラモアナまで歩きましたが、途中で道に迷いかけるなど結構な距離ではありました。ハワイ一日目あまりいいことは無かったけれど、ピザやスイーツはさすがでありましたことを付記しておきましょう。
 6月11日、昨日の失敗に懲りて、観光客用のトローリーバスで行こうと決め、切符を販売しているビルに行く。一番経済的なのは路線バスで、乗車時2.5ドル払いながら「乗り継ぎ」といえば乗り継ぎ切符をくれる。それでどこまででも、その気になれば島一周でもできる。時間の制約がなければ、それもまた良し。しかし、いつ来るか分からない。このトロリーバスは、まわる路線が4方面に分かれており、その路線内では乗降自由である。時間については、40分ごととか30分ごととか路線によって発着のローテーションが違う。迷いながら3路線が使えるお得切符のお勧めを買った(馬鹿だね・・) たまたまRed方面の発車時間が近いのでそれに乗り、目的地はとりあえずホノルル美術館へ。2階建てのオープンカーのいかにも観光地のバスという感じでワイキキの浜辺を見やりながら、美術館に9:55到着着。だから、次は10:35ということか、40分で回れるかな?と焦りながら見学する。西洋美術とアジア・オリエントと大別されていて、とにかく西洋を中心にまわる。それなりに著名な画家の作品も少なくなく、一見の価値があった。気がつくと10:40ころ、あわてて玄関に行くもどうやら出たようで、もう一度入りなおす(そんな客も多いようで入館シールを付けていると再入場できる)。日本のコーナーもあったが、大したものではない、中国・韓国・イスラムのコーナーもあるが、仏教美術ではこれらが混然と展示されているので、混乱しかねない。こちらは、類似のものは見慣れているせいもあり、あまり見る価値は感じられない。今度は11:10に出る。来ない・・来ない・・・来ない、ナンデ? 同じ方面に行く路線バスは何台も行く、2.5ドルで行けたのに・・・。ひょっとすれば僕らの乗った便は結構市内が混んでおり、予定時間より遅く到着したのかもしれない? もう、待つのは慣れっこ、美術館の外壁にしつらえてある席で、風に吹かれて泰然自若と待っておりました。11:45ころ、2階建てバスがトローリとやってきました。Haa--、来ないわけはないんだから。でも、もう一路線も乗れる切符なんだから、それも使わなくてはもったいない。チャイナタウンで食事してたら、最終の出発時間に間に合うか? 買い物もしたいと妻は言うし、なんで時計見ながら、焦らなアカンの? というわけで、とりあえず出発地点まで戻った時は13時になろうとしていた。途中、カメハメハ大王の誕生日が昨日であったことから、その彫像にたくさんのレイで飾られているのだけはしっかり見ましたが・・・。
グリーン方面のバスは13:10発、ランチ抜きかよ?こうなりゃ、お仕事だね。切符売りの日本人のおばさんが教えてくれるには、「このバスストップのカフェ&マートの食事がおいしいと、わざわざ報告に来てくれたお客さんがいる」とのこと。マ、それで我慢しよう。
ダイヤモンドヘッドの登山口に着く。1時間半かかるそうな、パス。デ、やっと件のバスストップに着いたのはいいが・・どれ? 自家用車を駐車場に止めた人々が、次々とハンバーガー屋に隣接したパンとお惣菜屋風の店に入っていく。店の前に壁沿いにテーブルがあり、そこで数人がサンドイッチなどをぱくついている。エ、レストランじゃないの?まあイイか、早速店に入り、サンドイッチ、パン、飲み物、焼きアスパラ、なんか料理したハム?などを仕入れ、空いているテーブルでやっとランチ。確かに味は悪くないが、わざわざバスの切符売り場のおばちゃんに報告しに行くかねえ? 山の強風で、パックが飛んでいくなどの自然の食事だったけれど、まだ終わらないうちにバスが来る。なんで、ゆっくりしたいときにもう来ちゃうわけ? 結局、ハワイイのバスと我々は相性が悪いということで諦めました。年行けば人間ができてくるのです。
せめて、最後の夕食は、ということで、アラモアナに戻り、妻の買い物中、休憩と下見をかねてブラブラした。最後の土産を買うチャンス、でも妻と別行動で財布にはドルがない、マ無事に帰れば良いだろう、それにハワイの土産など珍しくもなんともなかろう、などと勝手な理屈をつけてベンチで休んでおりました。買い物の終わった妻と待ち合わせ、「つきじ」といういかにも日本料理ッポイ店を覗くと、それなりの値段だったが、横の数字は何だ?Happy Timeとある。例えば15$の横に9$、今は18時を回ったがお姉さんに聞いてみよう、「今?Happy Timeでいけますよ、20時半まではそうです」。決めた!そして迷わず注文する。「ドラフトビール、アキ・ポケ、キャリフォルニア・ロール、スパイシーエビ」。イヤア感激、アキは鮪 ポケは生で、つまりは刺身。角切りだが山のような刺身、エビは40匹はありそう、食べても食べても減らない、ということで食べきれず、ビールをお代わりして、二人で約30$、イヤアHappy Timeでした。(ハワイの常連者にお聞きします、これって一般的?)