平岩親吉という武将をご存知ですか?

2023-02-19 11:53:02 | 紹介
ただいま、大河ドラマ「どうする家康」が放送されています。
その中で、初回から登場している人物に「七之助」と呼ばれている
平岩親吉がいます。
演者は、お笑い芸人であり、俳優としても活躍されているハナコの岡部大さん。
徳川軍の顔ぶれの中では地味な存在ですが、家康にとっては幼少期を共にした
家族のような人物でした。
なぜ、ここで平岩親吉なのか?と思う方もいらっしゃると思いますが、
甲斐国と平岩親吉は関係が深く、ある時期は武田氏館跡の城代でもありました。
そこで、2回に分けて少しだけ平岩親吉のご紹介をしたいと思います。

平岩親吉は、徳川家康と同じ天文11年(1542)に平岩親重の次男として
三河国額田郡坂崎村(現在の愛知県額田郡幸田町)で誕生しました。
天文16年(1547年)に家康が今川家に人質として送られる際、
駿府に同行して仕えました。
家康にとっては、親吉は同い年で幼い頃から苦楽を共にしてきた竹馬の友であり、
譜代の家臣として信頼も厚かったことから、長男信康の傅役にも任命されました。
しかし、信康は武田氏に内通したという謀反の疑いがかかり、
家康によって処断されたため、その責任を感じて蟄居謹慎しますが、後に許されて
再び直臣として復帰しました。

武田氏が滅亡し、織田信長が本能寺の変で倒れた後、甲斐国を領有した家康は
親吉を甲府の城代に任じました。
甲斐国は、天正壬午の乱と言われる本能寺の変後の騒乱を鎮めたばかりで
家康に旧武田家臣団も服属したものの、どう転ぶかわからない状況でした。
しかも、隣国には小田原北条氏が虎視眈々と狙っていたため、甲斐国は、
新徳川領国の最前線となり、信頼できる家臣を配置する必要がありました。
そこで選ばれたのが平岩親吉です。
親吉は、主に甲府盆地内の支配を任され、甲州市恵林寺所蔵の武田氏時代の
躑躅が崎の館を描いたとされる「甲州古城勝頼以前図」には、
平岩七之助が築いた添え郭は記載を省く、と注記があることから、
武田氏館跡に曲輪を増設して整備し、拠点としていたと考えられます。
その頃の親吉の甲斐での活動を示す史料は少なく、実態は定かではありませんが、
天正13年(1585)には、徳川に反旗を翻した真田昌幸の居城、
上田城を攻略するため、鳥居元忠らとともに甲斐の軍勢を率いて出陣し、
豊臣秀吉が小田原の北条氏を攻めた際には、本多忠勝、鳥居元忠らとともに
武蔵国津久井城や岩付城攻めなどで活躍しました。

鳥居元忠は、親吉と同じく幼い頃から共に家康に仕えた昔馴染みの武将で、
甲斐国の東、都留郡から富士五湖方面の支配を任されていましたので、
旧知の仲の二人で甲斐国を治め、共に戦陣に立ったものと思われます。
下の写真の人物が平岩親吉です。紹介する補助解説板を設置しました。

そして、家康の関東移封に伴って甲斐国を去り、
新たに上野国厩橋城主として3万3千石を与えられました。
厩橋城(前橋城)は、関東七名城とも言われる城で、上野支配の重要拠点の一つ
でもありました。
親吉に対する家康の信頼は、甲斐から上野へと任された拠点の重要性からも
窺うことができます。
視聴されている方、これから視聴される方は、
ぜひ、平岩親吉の活躍もお見逃しなく

つづく・・・


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