令和4年の新春もあっという間に通り過ぎ、気がつけば1月も終わりに近づきました。
心配されてきた新型コロナウイルスの第6波ですが、各地過去最大の拡大状況です。
当館も、山梨県からの要請を考慮し、1月26日(水)から2月13日(日)まで臨時休館となりました。
ご来館を予定してくださっていた皆さまにはご迷惑をお掛けいたします。
ご理解とご協力をお願いすると共に、状況落ち着きましたら、ぜひお越しください。
スタッフ一同、お待ち申し上げます。
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時はさかのぼって天文23年(1554)の同じ頃、1月27日と2月21日、
信玄公と北条氏康(1515−1571)との間で、
長女・黃梅院と後の北条家当主・氏政(1538か1539−1590)の結婚の誓詞が交わされました。
信玄公には7人の息子に5人の娘がいたと伝えられていますが、
嫡男義信は、今川義元の娘を正室として迎え、
誓詞の通り、長女・黄梅院は北条氏政の正室として、天文23年(1554)12月に嫁ぎました。
これにより、甲相駿三国同盟が成立します。
信玄公が黄梅院をとても大切にしていたことは、残る記録・伝承から伝わってくるのですが、
その最もたるものが輿入れで、「色々様々ノキラメキ」などと「妙法寺記」(※)が記す通り、
供の者は3千騎1万人、御輿は12挺、長持にいたっては42挺ですから、
戦国の大名として、そして父としての信玄公の思い入れは相当なものだったはず。
(※)「勝山記」または「妙法寺記」
564年〜1563年までの、甲斐国富士山北麓地域の年代記で、
戦国期を中心とする甲斐国の中世史研究の基本史料と位置づけられています。
荘園制度から離れて、独自に領国を治めた戦国大名たちですが、
儀礼や行事を執り行う際には、室町幕府が培ってきた故実に倣うことで、
統治継承の正当性をアピールすることも忘れませんでした。
花嫁行列にも礼式があり、その次第に則り、執り行われたとか。
時と場合により、多少のアレンジはあったようですが、
例えば室町幕府の故実を司った伊勢氏の「嫁入記」には、
一ばん 御貝桶
(このあいだへ御いろなをしの長もち)
二ばん みづしのたな くろだな(荷黒棚には茶器や焼物、巻物など壊れやすいものの整理棚)
三ばん になひからびつ(箱状の背負型の物入れ)
四ばん ながびつ
五ばん ながもち(衣服、家具などの入れ物)
六ばん 御びやうぶばこ(6曲に折りたたんだ屏風2つを並べて吊るした(?)箱)
七ばん ほかい(お弁当入れ)
と順番が示されています。
「ながもち」「ながびつ」など、だいたい想像がつきますが、先頭の「御貝桶」はどうでしょう。
これは、いわばトランプの神経衰弱、貝合わせ用のハマグリの収納のこと。
え!?遊び道具が花嫁行列の先頭!?なんて早計に思ってしまいますが、
「打って勝って喜ぶ」など、出陣などの大切な儀式では、言霊の力も込められた時代です。
貝桶に大切にしまわれた貝は、夫婦和合の象徴として、なくてはならない婚礼調度品でした。
貝も何でも良いワケではなく、「対の貝だけが合う」というハマグリが選ばれました。
貝桶の形に、六角形や八角形が多いことも、嫁ぐ娘の幸せを願う心が込められていたに違いありません。
というのも、六角形といえば、亀甲。甲羅の連続した模様から、永遠の繁栄がイメージされ、
固く身を守る亀の甲羅は、長寿や健康の象徴とされました。
また、八角形の「8」は、幸運を示したり、すべての方位や広がりを表す数字とされてきました。
貝は地貝(伏せて出す貝)と出貝(手持ちの貝)の2つに分けて、渦巻きになるように並べるか重ねるかされて収納されました。
名古屋・徳川美術館所蔵の貝桶と合貝
貝合わせと言えば、「甲陽軍艦」にも、信玄公のエピソードがあります・・・。
貝合わせ用の貝を部屋いっぱいに広げた13歳の信玄公。周囲の家臣に貝の数をたずねます。
「1万5千!」「いやいや2万!」という声に、信玄公は「3千700だ。」とお答えになり、
「戦に兵力は多ければ多いほど良いと思っていたが、
大事なのは5千以下の少ない兵でも、1万以上の兵に見えるように動かすことだ。
それに気づいた。」とおっしゃったとか。
同じ貝合わせでも、見方によりけり。
夫婦円満、子孫繁栄の象徴が、またたく間に違う景色に。
最終的に目指すところは同じだった・・・ようなのですが。
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