今朝の甲府は、冬の寒さが戻ってきまして、
朝から霜柱も育って冷え込んだ朝となりました。
皆さまも風邪をひかないようにご注意くださいませ。
さて、前回の続きです。
徳川家康の関東入国に伴って、新たに上野国厩橋城主となった平岩親吉でしたが、
残念ながら、跡継ぎがいませんでした。
幼少期から仕えてきた親吉の家名断絶を憂いた家康は、自身の八男松平仙千代
(一説には異母兄の松千代とも)を養嗣子とし、平岩家の家名存続を図りました。
一族ではない家臣に自分の子どもを養子として出すほど、親吉に対する
信頼と親近感は強かったようです。
しかし、徳川家と平岩家の橋渡しとして将来を期待された松平仙千代は、
慶長5年(1600)に早逝してしまいました。
墓所は、菩提寺となっています名古屋市高岳院が管理する平和公園内と、
葬儀が営まれた大阪市天王寺区一心寺、そして、甲府市の教安寺にあります。
写真は、甲府市内の浄土宗教安寺に整備されている墓所です。
高岳院は、慶長13年(1608)に親吉が仙千代の菩提寺として甲府の教安寺を
清州に移建し、教安寺第8世照蓮社誉呑宿を開基としたことから始まるそうです。
話を親吉に戻すと、
関ヶ原の戦いを経て、慶長6年(1601)には再び甲府支配を任され、
甲府城代として二期目の領国統治を行いました。
その後、慶長8年(1603)に仙千代の弟義直に甲斐国が与えられることが決まると、
補佐役として仙千代の養父だった親吉が御附家老となり、
駿府城にいた幼児の義直に代わって引き続き甲斐国を統治しました。
慶長12年(1607)に家康の四男松平忠吉が逝去し、遺領の尾張・美濃を義直が
継承して清洲城主となることが決まると、親吉も家臣らと甲斐から尾張へ同行し、
犬山城主を任されました。
犬山城といえば、国宝の天守が有名ですが、親吉から以後の犬山城主は、
尾張徳川家の附家老として活動します。
余談ですが、天守が現在の姿になったのは、平岩家の跡を引き継いだ成瀬正成が
城主となって改修したものとされています。
親吉は、犬山領を治めつつ、義直に代わって尾張藩の政務を行い、清州城に代わる
義直の新たな居城として、名古屋城の普請にも尽力するなど、
御三家と言われた尾張徳川家の礎を築きました。
親吉は、名古屋城築城開始から間もない慶長16年(1611年)12月30日に
70歳で死去しました。
墓所は、菩提寺となった名古屋市平田院が管理する平和公園内(平田院墓域)と
岡崎市妙源寺にもあります。
残念ながら、家康の願いも叶わず、平岩宗家は親吉の代をもって断絶しました。
徳川政権下で甲斐国を治め、徳川家を影で支え続けた平岩親吉。
残された逸話などからもその実直な人柄と、家康への忠義心が伝えられています。
信玄ミュージアムは、国史跡武田氏館跡のガイダンス施設ですが、
館跡の歴史は、武田家の歴史だけではありません。
武田氏館跡の梅翁曲輪は、親吉が第一期目の甲府統治の際に築き、
拠点とした可能性のある場所で、堀や土塁なども遺されています。
史跡整備された梅翁曲輪の松木堀。
この機会に別の視点で躑躅が崎館と呼ばれた
史跡武田氏館跡を散策してはいかがでしょうか。
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