その日のことを「今日は何の日?」と、ネット検索すれば、記念日、出来事、有名人の誕生日などが出てくる便利な時代です。
ちなみに4月3日は、「いんげん豆の日」、「清水寺・し(4)み(3)ずの日」など、いろいろあるようです。
そして、4月3日は、信玄公の人生に欠くことできなかったに違いない方、
快川紹喜(かいせん じょうき)文亀2年(1502年)- 天正10年4月3日(1582年)のご命日でもあります。
美濃出身、臨済宗妙心寺派の僧侶、快川国師は、
信玄公に招かれて恵林寺(甲州市)の住職となり、武田家の外交にも携わりました。
信玄公のご遺言に従い、その死の3年後、盛大な葬儀を取り仕切ったのも快川国師です。
快川国師の「国師」は、朝廷から、高僧に贈る尊称で、
天正9年(1581)、正親町天皇より賜っていることから、
その名が京の都まで届いていたことが想像できます。
翌、天正10年、織田軍に追い詰められ、勝頼公は妻子とともに自刃。
その後、領国内が混乱する中、国師は織田軍に対抗した武将を寺にかくまい、織田信忠の引き渡し要求を拒否。
同年4月3日、織田軍は恵林寺を焼き打ちし、寺に身を寄せていた僧俗と共に快川国師も亡くなります。
安禅不必須山水(安禅は必ずしも山水をもちいず)
滅却心頭火自涼(心頭を滅却すれば 火も自ずから涼し)
最期の時、快川国師が唱えたと伝わるのがこの歌☝です。
中国晩唐の詩人の歌を唱えたのは、快川国師ではなく、国師と問答した僧であった(!?)と、今では言われておりますが・・・。
いずれにせよ、恵林寺を権力の及ばない場、宗教的聖域として守らんとした姿は、当時の人々の記憶に刻まれ、
「~火も自ずから涼し」は、快川国師の生きざまを象徴する歌として語り継がれのかも・・・しれません。
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