4月に入り、最初のブログになります。
春、最初の週末で、館跡に建つ武田神社周辺もたくさんの人がお越しになり、
御城印も大判が予想以上の人気で驚いています。
急に暖かい日が続き、甲府の桜もかなり散って葉桜になってきています。
暖かくなってからこんな話もなんですが、お味噌汁、好きですか?
好きも嫌いも・・というくらい身近な汁物のひとつでしょうか。
「味噌」という文字の初出は平安時代。
お味噌は、もともと豆を塩漬けにした一品または保存食。
まだ豆の粒がのこっている醤(ひしお)・・という意味で、「みさう」「みしょう」と呼ばれていたようです。
(※)醤とは、食品を麹と食塩によって発酵させて作った調味料または食品
食していたのは貴族であり、お給料(!)や献上品にもなったとか。
それが、鎌倉時代に入り、武家社会において質素倹約が奨励される中、
食事においても、一汁一菜を1日2回、が基本パターンに。
(そのかわり玄米を1日5合食べた(!)という話もありますが(*_*))
この一汁にあたるのが、味噌をすりつぶして湯で溶かした汁物、味噌汁でした。
平安時代、庶民には無縁だったお豆の塩漬けが、
鎌倉時代には、武士の質素な食を支える味噌汁に変身!
室町時代以降は、庶民の自家製保存食にまで広がって、
戦国に至っては、陣中食にも取り入れられるなど、なくてはならない調味料となっていくお味噌。
その陰の立役者がなんだったかというと・・・
すり鉢!
すり鉢の原型は中国にあり、鎌倉時代、禅僧によって日本に持ち込まれたと言われています。
最初、すり鉢に溝はなく(!)、「する」というより「こねる」ために使われました。
溝が刻まれるようになったのは、現在の岡山県・備前の焼きものからだそうで・・・
アイディアの勝利か(!?)、中世の海運システムの発展が大きかったのか(!?)
備前焼のすり鉢が、その後、全国的に流通していきます。
豆のつぶがほとんど残る「みさう」は、すり鉢ですられて「味噌」となり、
お味噌汁を代表とする、味噌を使った料理が生まれていきます。
すり鉢によって、食べやすくなったのはお味噌だけではありません。
鎌倉以降の精進料理などの発展にも大いに貢献していて、
魚のすり身を使ったかまぼこ、白和え、胡麻和えなども、すり鉢あってこそ。
中世の代表的な調理器具ともいわれるすり鉢ですが、
武田氏館跡からも、土製のものから陶製のものまで、
お館さまが住まわれた曲輪跡を始め、さまざまな場所から出土しています。
特別展示室にて展示中の瀬戸美濃焼のすり鉢(一部)
館の台所の光景を、ちらっと見せてくれる(!?)展示品です。
・・・・・
すり鉢は、時代を経るごとに溝が増えるなどの変化がはっきりしていて、
考古学において遺跡の年代を決める資料、時代のものさし📏にもなるとか。
そのあたり、館跡から多数出土するかわらけと同じ役割を担っている、と言えそうです。
特別展示室にて展示中の、規格分けされたかわらけと
お久しぶり♬のかわらけ君
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