山本菅助が人気キャラクターになれたのは・・・「武田二十四将 ドラフト会議」の途中経過(その2)

2021-08-18 15:02:24 | 紹介
山本菅助の人気の源泉を探っています😉 

選挙で選んでもらうためには、先ずは自分を認知してもらわなければどうにもなりません。
その点でも、他の家臣と比べて山本菅助の知名度は高く、とっても有利。
知名度を不動のものにしたのは、小説に映画やドラマなどの娯楽でしょうか。
今どきは歴史系のゲームのキャラクターにもなって。

驚きなのは、山本菅助が一時はその存在さえも疑われた武将であるということ。
実際、私たちは菅助の存在を、甲州流軍学の聖典「甲陽軍鑑」と、
数通の文書でしか確認することができません。
ちなみに、通常、山本「勘」助と表記されているかと思いますが、
その実在を認める根拠となった文書に「菅」助とあるため、
当館では、山本「菅」助と表記させていただいております。

いずれにしても、実在も疑わしい、500年も前の時代に生きた一家臣が、
これほど多くの人に知られているというのは、思えばすごいこと。
よほど、作家のインスピレーションを刺激するキャラクターということでしょうか。

でも、それは今に限ったことではなく、江戸時代においても同様だったようで・・・

今日の山本菅助の知名度が、大河ドラマの主役抜てきで決定的になったとすれば、
江戸時代においては、「甲陽軍鑑」こそが初打席本塁打。
徳川幕府に認められた甲州流軍学の聖典「甲陽軍鑑」が、武士階級を越えた読者層を獲得し、
また、軍記、講談、浄瑠璃などの大衆娯楽の題材として親しまれ、
人気を博すに至ったからこそ。

頻繁に描かれた軍団絵「武田二十四将図」では、
信玄公は軍神のごとく、
選び抜かれた23名は、お館さまに忠義を尽くす、理想的な家臣として描かれて。
仏画的礼拝図の様相の「武田二十四将図」は、次第に大衆化が進み、ファンにはたまらない!
信玄公にその家臣団といったキャラクター満載の錦絵、浮世絵などとして発行されるようになります。

ちなみに、武田二十四将の皆さま、それぞれとっても個性的なんです。
そんな中でも、山本菅助のキャラには際立つ✨ものがやっぱりあります。

本当はどんな御仁だったかなんて、わからない。
でも、江戸時代から今日に至るまで、さまざまな作品で肉付けされてきた菅助像が
さらにインスピレーションの源となって、また作品が生まれ、
多くの人に楽しまれてきたのはご存知の通り。

・・・伝承によれば、隻眼で足も不自由、体には無数の傷があったといわれている菅助。
本当のことがわかる日は・・きっと来ないと思いますが、
「甲陽軍鑑」で語られる山本菅助は異形のひとであり、
長きにわたる放浪と牢人時代の末、信玄公に認められた、忠義に厚い優れた足軽大将。
さらに、近年発見された文書には、
軍事上の働きだけでなく、難しい使者の役目も果たしたことが記されており、
お館さまにとって、山本菅助は頼りになる足軽大将だった・・ということは言えそうです。

あともう少し続きます🙇💦💦

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