戦国の戦禍を逃れ、信州から甲府にいらしたご本尊の善光寺如来さま。
ご本尊のために、信玄公は信州の善光寺を丸ごと(!)お移しになりました。
本堂をはじめとする伽藍も、門前町も、一切合切、ご建造…。
現在、全国の六善光寺で7年ぶりの御開帳が行われておりますが、
このたび、長野市の善光寺大本願様のご厚意により、
当館でも甲斐善光寺関連の貴重な書状などを展示させていただいております。
そこで、善光寺さんのこと、もっと知りたい(!)と調べてみたら、
なかなかどうして興味深い。
色々ありますが、そのうちの一つが本堂・・・ということで、
善光寺本堂のT字型の屋根のお話第2弾です。
よろしければこちらもどうぞ🙇
善光寺本堂の特徴といえば、「橦木造」(しゅもくづくり)なのですが、
どうしてT字型なのでしょう。とっても気になります。
橦木造は、鎌倉時代末から室町時代初期頃に成立した建築様式。
成立以前は、神社などのように、本堂と参拝する場所は分かれていたのですが、
荒天時などのために、参拝者用の礼堂が設置され、その後、本堂と礼堂が一体化。
もともと本堂の入り口は、屋根の棟と平行の面に、
礼堂の入り口は、棟と垂直の面にあり、
その二つをくっつけて建てたから、上空から見るとT字の屋根に。
「善光寺山内古地図」一部(「甲斐路」No.89、山梨郷土研究会より)
屋根の頂上部の棟に赤いマークをつけると、T字型になります。
屋根の頂上部の棟に赤いマークをつけると、T字型になります。
本堂が橦木造に転換していった中世は、どんな時代だったのでしょう。
ひとつの事象としては、飛鳥時代、奈良時代にはすでにあった極楽浄土へのあこがれが、
平安後期に広く流布された末法への危機感から、
浄土信仰がより一層高まっていたということが。
ただひたすらに念仏を唱えれば救われる。
阿弥陀さまにすべてを任せる絶対他力の浄土宗など、
鎌倉仏教が生まれたのもこのころでした。
極楽浄土の仏さま、一光三尊阿弥陀如来をご本尊とする善光寺。
宗派を問わず、しかも女人も救済。善光寺にも、多くの人々が救いを求めて押し寄せたに違いありません。
実際、善光寺は本堂を24時間開放!
多くの信者が、そこで一晩中念仏を唱え、翌朝のお勤めを待ったといいます。
鎌倉から室町へ。末法に加えて、時代も転換する時、
確かなものにおすがりたいという気持ちはとても自然なこと・・・。
そんな人々の願いに応えるかのように、善光寺は間口も広く、信徒を受け入れ、
本堂も、これまで厳然と分かれていた聖と俗の空間が、境界を維持しつつも、
一つの建物内で共存するように。
善光寺の撞木造から聞こえてくるのは、「もっともっと!」という声。
もっともっと多くの人を救いたい。もっともっと、本堂は、浄土を統べるご本尊にふさわしく。
だから、信徒の空間だけでなく、外観も大きく、屋根も大きく高くしたい!
新たな建築技術の導入や国内の技術の進歩と共に、
理想の姿が追及され、善光寺は再建を経るごとに規模を大きくしていきました。
ひとつひとつの構造物が一体となって、善光寺たらしめているワケですが、、
上空からしか見えないけれど、屋根の上の撞木こそ、その最たるもの。
極楽浄土に向けて、救いを求める人々に向けて、屋根の上の大きな撞木が
鐘の音を響かせる・・は考えすぎ!?
こちらは甲斐善光寺(甲府市)
最後に・・屋根の棟がT字型の寺社は、他にもあります。
東大寺法華堂、諏訪大社下社秋宮がその例です。
T字型の屋根にいたるまでに、それぞれに歴史あり。興味は尽きません。
・・・
全国六善光寺にて、現在も御開帳が続いています。
信玄ミュージアム・特別展示室では、御開帳に合わせ
「甲斐国領主と善光寺」と題し、貴重な歴史的資料を展示中です。
5月11日(水)からは、武田氏にかわって、
その後の領主、徳川・羽柴両氏と善光寺との関わりを書状を通して探ります。
ぜひ、ご覧にいらしてください🙇
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