天文21年(1552)の5月7日、信虎の正室で信玄の母、大井夫人がお亡くなりになった日です。
大井氏は、甲府盆地の西側、現在の南アルプス市域を中心に勢力を誇った武田氏の庶流でした。
信虎の父、信縄の代から武田宗家と対立し、信虎の代には隣国駿河の今川勢の後ろ盾を得て
信虎と激しく争いました。
のちに和睦の証として、信虎に嫁いだのが大井夫人です。
大永元年(1521)には、今川勢が甲府へ迫る中、躑躅が崎館の背後に築かれた
積翠寺丸山城(現:国史跡要害山)に避難し、嫡男太郎(のちの信玄)を出産しました。
天文10年(1541)に信玄が父信虎を駿河に追放した際も、大井夫人は甲府に留まり、
御北様と呼ばれて尊敬されていました。
武田信玄が信濃の村上義清と戦った際、敗北後も甲府に戻ろうとしない信玄に
家臣らが大井夫人に撤退するよう説得してもらったこともあるようで、
武田家の中でも影響力があったようです。
墓所は、甲府市の長禅寺に埋葬され、法名は瑞雲院殿心月珠泉大姉。
息子の逍遥軒信綱(信廉)作の寿像が長禅寺に残されており、国重要文化財に指定されています。
現在、山梨県立博物館で開催中の特別展「生誕500年武田信玄の生涯」で展示中です。
5月10日までの開催ですので、お見逃しなく!
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