山崎方代という歌人をご存知ですか?
その名を掲げた短歌大会の作品募集が、今年も始まります。
武田氏に思いをはせた作品も多く残した方代・・・
どんな方だったのでしょう。
方代は「ほうだい」と名付けられた8人兄弟の末っ子。
ちょっと変わった名前。でも、5人も子どもを失った両親の思いはひとつ。
とにかく「生きてほしい!」
「生き放題、死に放題、自由に生きろ!」にちなんだ「方代」だそうです。
方代は、甲府市(旧中道町)出身。
大正3年(1914)に右左口村に生まれ。
23歳で母を亡くした後、父と共に横浜に嫁いでいた姉のもとへ。
太平洋戦争で出征した南方で、右目を失明。左目も0.01。
戦後は街頭で靴の修理などしながら、
山梨から静岡、大阪、和歌山など各地を放浪しつつ、多くの歌人と親交を深めます。
昭和47年(1972)、鎌倉に移住。
肺がんで亡くなる昭和60年(1985)までこの地で過ごします。
菩提寺は、甲府市右左口町の円楽寺。
方代の歌人としてのスタートは15歳ごろ。
「山崎一輪」の筆名で雑誌や新聞に投稿していましたが、戦後は「山崎方代」の名で活動しました。
その歌は日常生活や自分の思いをわかりやすい言葉で詠ったものが多く、
故郷への思いを込めた作品も数多いことから、
「放浪の歌人」と呼ばれる一方で、「望郷の歌人」とも。
武田氏の戦略・戦術の書「甲陽軍鑑」も愛読し、信玄公や勝頼公などに加え、
現在の武田神社に建つ武田氏の館跡を詠った歌もいくつか。
「躑躅が崎の城跡に来て口中につつじの花を隠して食べている」
字余りがおもしろい歌です。
子どもの頃に口にしたつつじの花の蜜の味を思い出しているのでしょうか。
それとも、かすかな甘みと一緒に、もっと遠くに心は飛んでいるのでしょうか。
「古城の崩れかけたるほとりにてカポックの実がはぜていた」
古城は、すなわち武田氏館。
カポックとは、東南アジアやアメリカで栽培されている高木。
その実の繊維は撥水性に優れ、軽量ということで、
第二次世界大戦まで、救命胴衣や救難用の浮き輪に使われていたとか。
南方の戦線で戦った経験を持つ方代ですから、カポックのことをきっと知っていたはず。
そして、はぜたカポックの実を前に、その胸中はどんなものだったのか。
崩れたかけたのは、果たしてなんだったのか?
※ちょこっと館跡をご紹介🙇
この歌が詠われたのはいつ頃なのでしょうか。
武田神社が、かつての館の中心に創建されたのは大正8年(1919)。方代が4才のころ。
方代が姉の元、神奈川へ行くか行かぬかのころ、昭和13年(1938)に武田氏館跡は、国史跡に指定されます。
その後、宅地化が進んだ史跡の公有地化へ、舵が切られたのが、昭和45年(1970)。方代56才。鎌倉移住の少し前。
方代も眺めた、武田氏館跡・・・
生涯独身、世間から少し距離を置きつつ、
独りの生活もありのままに、素直に、口語体で短歌に昇華させた歌人です。
だからこそ、読み手の私たちも、方代の歌を、心素直に五感で味うことができるのかもしれません。
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