1月6日は、武田信虎公の誕生日です。
明応3年(1494年)と、明応7年(1498年)の二つ説がありますが、
近年では、より当時に近い記録である「甲陽日記」の記述などから、
明応7年説の可能性が高いとされつつあります。
昨年は、映画「信虎」も放映され、久々に脚光を浴びた信虎公。
世間では悪く言われていますけれども、その評価の多くは、『甲陽軍鑑』の流布によるもので
江戸時代に信玄公を神格化する過程で、いろいろな脚色がされて悪者役に。
確かに、駿河に追放されたことを記した当時の記録にも、信玄公に代替わりして
万民が喜んだ、ようなことも書かれているので、全くのウソというわけにはいかないかもしれませんが、
実際の信虎公の歴史的な実績や評価とはやや異なるところも多いようです。
実際の信虎公の歴史的な実績や評価とはやや異なるところも多いようです。
当時は、天災による飢饉などが毎年のように発生し、領民も生きることに必死。
そんな世情だからこそ、豊かさを求めて争いが絶えなかったのかもしれませんが、
政情も不安定で戦も続いていました。
非常に厳しい社会情勢の中でかじ取りを任された信虎公は、どんな思いだったのでしょうか。
2019年に館と甲府が誕生して500年を迎え、信虎公の業績も再評価が進みました。
今では、甲府駅北口に銅像が立ち、甲府開府の父、とでも言う風格を漂わせています。
息子の勝頼公の評価もそうですが、
これからますます、信玄公を取り巻く武田家の人々の再評価が進むことを祈るばかりです。
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