開催中の企画展、おかげさまで多くの方にご観覧いただいています。
大河ドラマでは、少し前に阿部寛さん演じる信玄公は身罷られましたが、
実際にお亡くなりになった後、武田家を継いだ勝頼公は遺言に従い3年死を秘し、
天正4年(1576)4月16日に葬儀を行いました。
そのちょうど1カ月後の5月16日付の書状で、信玄寿像並びに遺物を高野山成慶院に
家臣の安倍五郎左衛門尉を派遣して寄進したことがわかります。
今回は、そのうちの2点、武田家の家紋が入った厨子に納められた弁財天像
(資料名:弁財天大黒天毘沙門天十五童子像)と、小松虫と号する金鈴(資料名:五鈷鈴)を成慶院様から借用させていただいています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/55/e9/5fcd52de09736218b4e2f1f446b0f69b.jpg)
弁財天といえば、水にまつわる場所に祀られ、主に商売繁盛など財産に関わるご利益がある
と信じられていますが、信玄公がお持ちになられたこの弁財天像は、宇賀弁財天とも
呼ばれて信仰された仏様で、宝剣を持つ姿などからも戦神としての性格が強かったようです。
外容器となっている花菱紋入りの厨子は、高さ約16cm、幅約12cm、奥行き約13.5cmと小さく、
携帯可能な仏像群となっています。
後世のものと思われる付箋書きには、枕元弁財天ともあり、信玄公が遠征にも持参し、
祈りを捧げていた可能性がある品です。
五鈷鈴もこの弁財天の他、いくつかの仏像に音を捧げるための法具と思われ、遺された
遺品からも、信玄公の仏教への帰依と信仰心が垣間見られる資料となっています。
同じく、遺品と共に寄進されたものに、信玄寿像とあります。
この寿像こそ、信玄の実弟で多くの優れた作品を遺している武田逍遥軒信綱(信廉)
が生前の兄を描いた作品で、信玄公の画像として来歴が明らかな資料であります。
ただ、江戸時代の終わり頃までは成慶院様に存在していたようですが、
今は伝わっておらず、数枚確認されている模写絵から確認できるのみとなっています。
そのうちの貴重な1枚が長浜城歴史博物館で管理されています展示資料になります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/32/19/2ecbd3513886be6ab1cb11645fd2739a.jpg)
右が一般にイメージされている武田信玄像で、その隣、左が成慶院寿像の写し絵。
写しには信玄公像・逍遥軒筆・高野山成慶院什物と注記書きがされていますので、
まさにこの絵の姿こそ、本物の信玄公のお姿と言えるのではないでしょうか。
他に伝わっている絵画も同様の情報を伝えており、間違いないものと思われます。
右の絵は、ずっと武田信玄像とされてきましたし、現在も100%違うとは言えない状況ですが、
右絵の像主の問題はさておき、少なくとも遺品として奉納された絵は、展示資料の姿だった、
ということは疑いないように思われます。
今回の展示では、あえて両者を対比していますので、この機会にぜひご自分の目で
見比べてみてはいかがでしょうか?
また、信玄公の何第か前の当主だった武田信重が所持し、家宝になっていた「渡唐天神像」を信玄公が
模写したと記録される一蓮寺様所蔵の「渡唐天神像」(山梨県指定文化財)も展示しています。
弟の信廉にも見劣りしない、かなり上手な仕上がりの絵ですので、信玄公の多彩さが
わかる文化財です。この機会にお見逃しなく。
まだ梅雨の中、このことろ真夏並みの暑さで外出も思わずためらいがちですが、
信玄ミュージアムで信玄公の遺品から思いを馳せ、武田神社を参拝しながら、
その遺品が元々置かれていた館跡を散策されてみてはいかがでしょう。
この週末、躑躅ヶ崎歴史案内隊も見参し、皆様をご案内仕ります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/08/04/b8244b843511796326e2d8d9100f3377.jpg)
お気軽にお声がけいただければ、ご要望にお応えできる範囲で散策のお手伝いを
いたします。
当日は、受付が出ますので、お立ち寄りくださいませ。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます