2023年9月23日
安土城跡の前にやってきました。
すぐ右手には伝前田利家邸跡があります。
後世に大きく破壊されてしまったようで、礎石が残っていなく建物の形まではハッキリとは分からないそうです。
門の跡ですが、石垣の形状から大手道を防備する隅櫓、そして枡形虎口もあり多聞櫓で囲むような形状になっています。
大手道の入り口を後の天下人と、戦国の大横綱が固めるという非常に堅固な城です。
秀吉邸は横長に広大に石垣が広がっています。
安土城は日本で初めての総石垣の城ですが、入り口の時点で既に天守閣のような巨大な石垣が積まれています。
今まで誰も発想してこなかった城の新しい形。こういった遺構を目の前にすると信長の凄さを改めて感じてしまいます。
大手道の中腹くらい。
安土城築城の際、大量の石が必要になりました。
石垣だけでも迫力あるのに、まさに威厳の塊のような城です。
先は長いです。
二度折れして曲がりくねった枡形虎口。
この場所には大きな門があり、鉄壁の守りを敷くために黒の鉄板を施した、威圧ある門だったそうです。
階段を登り切ると、やっとここで天主台が現れます。
天主台沿いに右に進むと本丸があります。
昭和と平成の発掘調査によって、119個の礎石が見つかっています。
この本丸の前を通って、さらに天主に向かう階段を登ります。そこから振り返っての一枚。
ここ安土城が石垣の上に天主閣を建てるという発想の原点となる、日本初の城です。
石垣の上に天守閣という高層建築物は、信長の安土城から始まって江戸時代まで日本の代表的な建築物として進化していきます。
現在は礎石のみが残っています。
安土城はこの巨大な城郭にも関わらず三年で完成。しかしその三年後の天正10年、本能寺の変後に焼失してしまいました。
事前に信長の館と考古博物館で天主閣の資料を見てきているので、この場所でぼーっと眺めているだけでイメージした天守閣がリンクしてきます。
実際はこんな巨大な城で・・・
二の丸跡。
この脇を階段で下っていくので、ちょうど二階の部分が目の前で見れます。
関西方面城巡り2日目
明石城→信長の館→安土城考古博物館→安土城跡の順でやってきました。
安土城考古博物館から自転車で約5分ほど。
安土城跡の前にやってきました。
天気が良く絶好のサイクリング日和となりました。
今は安土城の周りは田端が広がりますが、信長の時代はこの一帯も琵琶湖で安土城を囲むような形だったようです。
早速入城です。
早速入城です。
車の方は無料の駐車場がありました。
安土城は総見寺というお寺が管理しています。
安土城は総見寺というお寺が管理しています。
入り口にはグッズが売っているお店があるので、飲み物など事前に買っておきましょう。
料金を支払うゲートがあるのですが、そこを通過すると自販機もトイレもありません。
あるのは大自然と石垣のみです。
早速登っていきます。
早速登っていきます。
まず、目の前に現れるのはひたすら続く石階段。
ここは大手道で安土城に向かうメインルート。当時は限られた人しか通れなかった道でもあります。
石階段で左右には立派な石垣が残っています。
すぐ右手には伝前田利家邸跡があります。
加賀百万石の祖。敵が攻めてきた時は戦国時代の横綱が右手を固めて迎え撃ちます。
後世に大きく破壊されてしまったようで、礎石が残っていなく建物の形まではハッキリとは分からないそうです。
門の跡ですが、石垣の形状から大手道を防備する隅櫓、そして枡形虎口もあり多聞櫓で囲むような形状になっています。
石垣が現代に伝えるメッセージです。
一方、前田利家邸の反対側左手には伝羽柴秀吉邸跡があります。
一方、前田利家邸の反対側左手には伝羽柴秀吉邸跡があります。
大手道の入り口を後の天下人と、戦国の大横綱が固めるという非常に堅固な城です。
ちょっと考えただけでワクワクしてしまいます。
秀吉邸の方は礎石も残っているので、建物のおおよその形が調べによって分かっているようです。
入り口には櫓門があったようです。
秀吉邸は横長に広大に石垣が広がっています。
安土城は日本で初めての総石垣の城ですが、入り口の時点で既に天守閣のような巨大な石垣が積まれています。
今まで誰も発想してこなかった城の新しい形。こういった遺構を目の前にすると信長の凄さを改めて感じてしまいます。
そして信長の秀吉への信頼の高さも伺えます。
大手道の中腹くらい。
登ってきた道を振り返ります。
左側の高い石垣は現在総見寺になっていますが、伝徳川家康邸です。
大手道には羽柴秀吉、前田利家、徳川家康の戦国オールスターズが守ります。
信長がカリスマだったというのは、こういった後のスターを配下に置くことができたことも由来します。
安土城築城の際、大量の石が必要になりました。
石階段にはお墓や地蔵なども使われていて、様々な場所から石を調達したことが分かります。
この石はハッキリと仏様が二体いらっしゃいます。
この石はハッキリと仏様が二体いらっしゃいます。
階段とはいえ流石に踏まずに避けて登ります。
大手道の頂。天主は、まだまだ先です。昔はここからも遠くに巨大な天主が見えていたようです。
大手道の頂。天主は、まだまだ先です。昔はここからも遠くに巨大な天主が見えていたようです。
石垣だけでも迫力あるのに、まさに威厳の塊のような城です。
先は長いです。
ひたすら階段を登り続けます。
ワタクシは運動靴を履いてきているので問題ありませんが、軽い気持ちでヒールの高い靴なんか登ったら地獄を見てしまいます。
安土城登頂の際はある程度覚悟して登った方が良さそうです。ちなみに、帰りはもっと急な階段を降りてこなければなりません。
安土城登頂の際はある程度覚悟して登った方が良さそうです。ちなみに、帰りはもっと急な階段を降りてこなければなりません。
天守に近づくと織田信澄邸と森蘭丸邸があります。
織田信澄とは信長の弟信行の長男。
森蘭丸は織田信長を側近として最後まで支えた武将。美少年だったらしく、最後は信長と共に本能寺で散ります。
森蘭丸は織田信長を側近として最後まで支えた武将。美少年だったらしく、最後は信長と共に本能寺で散ります。
側近らしく天主に近い場所に住んでいたんですね。
いよいよ安土城の見どころの一つでもある、黒金門にやってきました。
ここを通過すると本格的な安土城の城郭内になります。
二度折れして曲がりくねった枡形虎口。
安土城を攻めるには、大手道をクリアしてもこの黒金門が待ち構えます。
この場所には大きな門があり、鉄壁の守りを敷くために黒の鉄板を施した、威圧ある門だったそうです。
そして、この位置で十字砲火を受ける仕掛けとなっています。
安土城は本能寺の後、謎の火災によって消失してしまいます。
安土城は本能寺の後、謎の火災によって消失してしまいます。
平成の発掘調査でこの黒金門も焼失したことが判明しています。
黒金門の先には、今度は二の丸の高い石垣が現れます。
黒金門を突破できたとしても、次はこのエリアで再び集中砲火にあいます。
黒金門を突破できたとしても、次はこのエリアで再び集中砲火にあいます。
安土城はどこまでも鉄壁な守りです。
二の丸の石垣沿いに歩いていくと、左に曲がり再び門跡を通過します。
二の丸の石垣沿いに歩いていくと、左に曲がり再び門跡を通過します。
階段を登り切ると、やっとここで天主台が現れます。
天主台沿いに右に進むと本丸があります。
東西50m、南北34mの敷地に本丸があったとされています。
昭和と平成の発掘調査によって、119個の礎石が見つかっています。
礎石の配列から、東西34m南北24mで中庭を挟んで3棟に分かれた建築物でした。
それは天皇の住まいである、内裏清涼殿に非常に似ている造りとされています。
この本丸の前を通って、さらに天主に向かう階段を登ります。そこから振り返っての一枚。
なぜ天主閣の下に天皇の清涼殿に似た建物が造られたのでしょうか。
信長公記には「御幸の御間」と呼ばれる建物が天主の近くにあり、内には「皇居の間」が設けられていたと記されています。
実現こそなかったが、信長が天皇のために用意した行幸御殿だったと考えるのが自然です。
ここも非常に信長らしさを個人的には感じてしまいます。
自分の城に天皇の家を用意するとは、誰も考えもつかない発想かもしれません。
政治的な意味も含めて、何人たりとも攻め入ることのできない城です。
自分が住んでいる天主の下に皇居の間を用意するあたりがね。
凄いです。
下です。
安土城は権威の象徴でもある城だったらしいです。
いよいよ、ここから天主の中に入城です。
安土城は五層七階なので、入り口は地下部になります。
ここ安土城が石垣の上に天主閣を建てるという発想の原点となる、日本初の城です。
石垣の上に天守閣という高層建築物は、信長の安土城から始まって江戸時代まで日本の代表的な建築物として進化していきます。
現在は礎石のみが残っています。
安土城はこの巨大な城郭にも関わらず三年で完成。しかしその三年後の天正10年、本能寺の変後に焼失してしまいました。
その後、一時的に城として使われていたものの、秀吉が近江八幡城を築城したことで城下町も全て近江に移され、忘れ去られた城となってしまいました。
事前に信長の館と考古博物館で天主閣の資料を見てきているので、この場所でぼーっと眺めているだけでイメージした天守閣がリンクしてきます。
実際はこんな巨大な城で・・・
五階六階はこんな豪華絢爛な建築物だったと。
目の前には琵琶湖が広がります。
織田信長はこの景色を見ながら何を考えていたのでしょうか。
有名な楽市楽座で安土の町は大変賑わっていたそうです。
目の前には琵琶湖が広がります。
織田信長はこの景色を見ながら何を考えていたのでしょうか。
有名な楽市楽座で安土の町は大変賑わっていたそうです。
当時日本の中心地はこの安土だったのでしょう。
常識を逸した石垣と大天主、信長が夢見た城。
そして天下統一目前で、共に表舞台から姿を消した城。
標高200mの山頂に吹く風が気持ちよく、妙に感情的になってしまいます。
もと来た道を下り、最後は二の丸を通って帰ります。
右側は天主閣の石垣。
圧巻です。これを標高200m付近まで運ぶのはさぞかし大変だったことでしょう。
ちなみに、こんな感じだったらしい。
博物館に模型がありました。
石垣は安土城から波及して、江戸時代まで続きます。この石垣を積んだのが最高の石工職人、穴太衆です。
令和の現代でも穴太衆の技術を継ぐ会社が存在しています。
二の丸跡。
今は信長の菩提寺があります。
写真は撮りませんでしたが、ちゃんと手を合わせてきました。
信長は本能寺で最期を迎えますが、骨が見つからなかったそうです。
そこもまたミステリーで、実は・・・みたいな話が多く存在します。
帰りのルートは総見寺の方から帰ります。
そこもまたミステリーで、実は・・・みたいな話が多く存在します。
帰りのルートは総見寺の方から帰ります。
総見寺三重塔の前には綺麗な琵琶湖が見渡せます。
総見寺は信長が建立したとされています。
総見寺は信長が建立したとされています。
この三重塔は指定文化財となっています。
この脇を階段で下っていくので、ちょうど二階の部分が目の前で見れます。
鬼瓦もハッキリ見ることができます。
最後は羽柴秀吉邸の脇から出てくるルートです。
不揃いな石階段を下ったりするので、足の疲労がピークに達します。
安土城は歴史から名前が消えた忘れ去られた城だったので、昭和初期の発掘調査の際は、長年の土などの堆積によって全てが埋もれていたそうです。
天主閣跡も完全に埋もれていたそうですが、昭和15年の調査で先ほどの礎石が見事に状態よく見つかったそうです。
その後も調査は続き、金箔瓦なども見つかったことで、城の全容が見えてきました。
大手道も埋もれていて、最初はこんなに大きい道ではなかったとか。
存在していた期間が短かっただけに、資料も少なく謎多き城。
そして、この度令和の大調査が2023年10月から始まります!
20年計画という記事も見ました。
しかも礎石の状況から、天主閣は焼失して北側に倒壊したと言われています。
その北側に今回調査が入ります。
ものすごく貴重なものが発掘される可能性が高く、期待が高まっています。
歴史が蘇る可能性があります。
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