2022年12月に「いつかのための横浜・覚書き」の記事をアップした。
横浜裁判ゆかりの地をめぐりたいが、
「覚書き」をまとめておく、という内容だ。
あれから2年近くの月日が流れたのに、「いつか」は来ていない💦
先日、録画してあったNHK特集で
「横浜裁判」とは、戦後の戦犯裁判のこと。
A級戦犯は巣鴨で裁かれたが、BC級は横浜で裁判にかけられた。
戦犯のABC級は罪や刑の重さではない。
「国際軍事裁判所憲章」でいうところの
A平和に対する罪、B戦争犯罪、C人道に対する罪を指す。
結果として、A級には国家や戦争の指導者が多く、
BC級には一般市民も含まれることがある。
BC級戦犯裁判の「横浜裁判」に関しては、
今も神奈川県弁護士会有志による調査が続いている。
明らかになっている内容だけでも膨大なので、
今の私の手にはとても負えない。
そこで、以前から気になっており、今回あらためて知った
内容もプラスして、ある若き弁護士を中心に
まとめておきたい。
「いつかのための横浜・覚書き~その2」だ。
(かつての横浜地方裁判所 裁判所画像は桐蔭学園HPより)
若き弁護士の名は、飛鳥田一雄(アスカタ/イチオ)
1915<大正4>ー1990<平成2>。
後の横浜市長である。
全国的には社会党委員長(1977.12-1983.11)の方が通るだろうか。
飛鳥田は、横浜市長を四期務めている。
その1963(昭和38)年4月から1978(昭和53)年3月までといえば
私の物心ついての頃、横浜市長を意識したのは、
「飛鳥田さん」だった。
飛鳥田は、やはり弁護士だった父親と共に横浜裁判に臨む。
横浜裁判は、横浜に司令部を置いたアメリカ第八軍が
日本国内で唯一開いた戦犯裁判だ。
終戦から4ヶ月後の1945(昭和20)年12月15日、
横浜弁護士会に突然、戦犯裁判・弁護についての打診がある。
「これを引き受けないと、日本人弁護士は閉め出されるかも知れない。
とにかく引き受けろ」と、敗戦国、占領下ならではの
危機感も大きかったという。
裁判では、原則、裁判官、検察官、主任弁護人をアメリカ人が占め
その補佐役として、横浜の弁護士が求められた。
戦犯裁判は長期化し、1947年1月の横浜弁護士会臨時総会では、
戦犯弁護の義務化も決定されている。
このとき、呼びかけをしたのが、
一雄の父・飛鳥田喜一弁護士会会長だった。
これにより地元弁護士44人が応じている。
一雄は、1941(昭和16)年に正式に弁護士となり、
父の事務所で働いていた。
横浜裁判では、「7つばかり事件を受け持」っていた。
そのひとつが、先のNHKの番組でも取り上げられた
小池金市の裁判だった。
小池と飛鳥田とは修習時代の同期生で、
「金ちゃん」「いちを君」と呼び合うほど、仲の良い友人だった。
飛鳥田によれば、小池金市は「法務将校」として入隊した台湾で、
アメリカ兵14人を起訴し、死刑を言い渡した。
その責任が戦犯裁判で問われたという。
あらましは、以下だ。
昭和20(1945)年5月、台湾の都市米軍機による空爆に見舞われた。
空爆の際、墜落した米軍機の搭乗員54名が台湾軍に捕らえられ
「法務官」だった小池が取り調べに当たった。
(飛鳥田の述べる肩書きと異なるが、彼の記憶違いだろう)
その結果、9名については無差別爆撃によって
非戦闘員を殺害した戦争犯罪人として
空襲軍律による軍事会議に起訴、有罪となった。
9名は、6月19日頃、銃殺によって処刑されている。
小池は、搭乗員に対して行った取り調べ、以下、審理、判決まで
一連の裁判を行ったことで戦争犯罪人として問われたのである。
小池が関与したこれらは、全て軍律会議に忠実に則っている。
つまり「裁判を裁判する」事件だった。
小池が起訴されたのは、昭和22(1947)年6月25日。
当初は徹底的に無罪を主張していたが、司法手続きに応じ、
昭和22(1947)年9月12日、重労働4年の判決を受け、承認された
弁護人だった飛鳥田は言う。
「金ちゃんが裁いたのは、台湾の病院や学校を無差別爆撃したやつらでね、
明らかに戦時犯罪を犯してるんだよ。
だからこっちも、いかにアメリカが酷いことをしたか...
無差別爆撃の証言を台湾の引き揚げ者から猛烈に集め始めたんだ。
これが立証されたらアメリカも困るわけよ。
こっちの作戦が分かると、
検事が折れてきてね、有罪を認めてくれさえすれば、
重労働三年の求刑で手を打とうって言うんだ...
結局、任してもらったんだ」『飛鳥田一雄大回想録』27頁
飛鳥田は、台湾から帰国した人60名から証言を集めた。
これを可能にしたのは、厚生省から、当時の金額で96万円を
出してもらえたからである。
また、飛鳥田の提出した口述書に加え、
アメリカからも海軍関係の飛行士20名の口述書が
届いたことも大きかった。
当初、小池に対する米軍の取り調べは敵対的だったが、
やがて、状況はやわらかくなったというのも、そのおかげだろう。
結局、この裁判は1度きり、15分程度で終わる。
だが、その場で出た判決は「重労働4年」。
話が違うと、飛鳥田が抗議すると、変更はできないが、
その申し合わせは、後の再審査の段階で実現されるだろうから、
待つように言われ、事実その通りになったそうだ。
釈放後、小池は東京で弁護士として長く活躍し、
飛鳥田との親交も続いたという。
(横浜地方裁判所 桐蔭学園に復元された陪審法廷)
飛鳥田の回想から、もう一人。
1番印象深かったというのは、
九州の捕虜収容所長だった池上宇一中尉。
飛鳥田が担当した中で、唯一死刑になったという。
彼が虐待したことで、捕虜が死んだとされるも、
軍の記録は曖昧。
日付の文字の読み間違いが考えられる証拠だった。
その日、中尉は結婚式に出席するため郷里に帰っていたはずなのだ。
だが死刑判決は確定してしまった。
飛鳥田の抗弁も聞き入れられなかったという。
このときの判決が昭和21(1946)年5月。
池上中尉は一人捕虜を死なせたというだけで死刑になっているが、
後になると十何人もの捕虜の首を切っているのに終身刑。
最初の頃は判決が厳しかったと飛鳥田は感じていた。
また「法律も何もないよ。
証人の反対尋問ができないのもひどかった」という。
捕虜は宣誓供述書を書くと本国へ帰ってしまう。
それを証拠にして出されても、
反対尋問は、まずかなわなかったからだ。
共同通信社・記者の野見山剛によれば
日本は「今なお戦犯裁判の記録を黒塗りで開示」しているという。
アメリカやドイツはフルオープンだそうだ。
野見山は「A級戦犯 太平洋に散骨 米軍将校『わたしがまいた」』
(→2021.6.7付「日本経済新聞」)
の記事を配信、スクープしている。
実は巣鴨で裁かれた、A級戦犯の遺骨の行方は長らくわからず、
昭和史の謎の一つだった。
それが米軍の公文書の発見により明らかにされたのである。
A級戦犯として刑死した広田弘毅首相の孫にあたる、
広田弘太郎さんは言う。
「記録が残されていたことは良かったと思います。
記録がなければ正確な事実は闇から闇へ葬られていました。
米国は秘密保護機関の満了後も廃棄せず、
きちんと保持していることがわかります」『若者たち...』274頁
横浜裁判の記録だけではない。
全国を震撼された、少年による、あの事件の裁判記録だって
保存期間満了に伴い、廃棄されてしまったというではないか。
手続きとしては問題が無いのだろうけれど・・・
これで良いのだろうか。
わたしの生まれ育った横浜
私が生まれる、わずか十数年前までは横浜裁判が行われていたのだ。
そのことを多くの人が知らず、そして地元・横浜の弁護士が
必死で戦ってきたことを知らずにいる。
また、今も、なお横浜の弁護士が、
裁判記録を必死で調査していることも。
歴史を知ることは、まず、今を知ることも大事だ。
資料を廃棄してしまう国の姿勢は問題だが、
私達の姿勢も、問われるべきだろう。
わたしのための「いつかの横浜・覚書き」だ。
📷 冒頭画像は横浜・山手の大佛次郎記念館。
市長時代に、生前の大佛と親交のあった飛鳥田一雄が
記念館建設をしている。
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参考・引用;
◆飛鳥田一雄『飛鳥田一雄大回想録 生々流転』 朝日新聞社
◆野見山剛『若者たちのBC級戦犯』dZERO
◆横浜弁護士会BC級戦犯横浜裁判調査研究特別委員会
『法廷の星条旗 BC級戦犯横浜裁判の記録』日本評論社
おつきあいいただき、どうもありがとうございます。
間違いや勘違い、不備もあるかもしれませんが、
私自身の覚書きということで、お許し下さいませ。