鹿屋市観光協会による、戦争遺跡めぐり、コース②。
後半は「進駐軍上陸の地 」をたどる。
引き続き、ベテランSさんのご案内だ。
敗戦後、進駐軍(アメリカ海兵隊)が
初めて上陸した地が鹿屋だった・・・と、初めて知る。
1945(昭和20)年8月下旬、地元・神奈川の厚木基地へ
マッカーサー元帥が降り立っただけではなかったのだ。
海路からの上陸があったことまで、考えたことがなかった・・・
ともかく、まずは、高須海岸のトーチカを見学。
ゴツゴツした岩場に設けられたトーチカ(陣地)は、
アメリカ軍の上陸に備え、海岸に向けた、のぞき窓(↓)がある。
こんなところにいて、少人数で見張りをするなんて
想像しただけでゾッとする。
今、手前の砂浜(↑)には、ウミガメが産卵にくるので
保護活動が行われているとのこと。
トーチカとのギャップ・・・
平和のありがたさよ・・・
いよいよ、最終目的地・金浜海岸(↑)だ。
昭和20(1945)年9月3日。
進駐軍の先遣隊が鹿屋基地に降り立つ。
先遣隊のシリン大佐は、すぐに
「カミカゼ・ボーイはどこにいるか?」と質問したという・・・
翌4日。
進駐軍(アメリカ海兵隊)2500人が高須の金浜海岸に上陸した。
当時、鹿屋の人たちは進駐軍を怖れ、山間部に逃げ隠れている。
そんな中、貧しい母子家庭だったため、逃げられなかった家に
(このあたりの事情はうろ覚え)
国民学校6年の少年がいた。
おとなになった彼の証言によると・・・
いつも通りに起きたところ、金浜海岸には
びっしりと船が浮かんでおり仰天。
少年は動くこともできず、ただ見ているしかなかった。
驚いたことに、船から、まず、降りてきたのはブルドーザー!
あっという間に道を造り始め、2時間ほどで完成してはじめて、
兵士が続々と降りてきたという・・・
上陸の前に、まず道を造る・・・
そんな発想をする国と戦っても負けるに決まっている、
と、少年は実感したそうだ。
(下の画像の山上から少年は海を眺めていたらしい。
道路を挟んで左側に「上陸の碑」がある)
とはいえ、進駐軍の兵士が上陸したところで、
村人が逃げてしまった集落には、何もない。
当然、上陸記念の土産物を売る店もない。
仕方なく、留守の家から、日本らしい記念品を持ち帰ったそうだ。
人気の筆頭は団扇。
残暑の残る頃だったことを思うとうなずける。
位牌を持ち帰られてしまった家もあったそうだ。
これは窃盗罪だろうが、鹿屋では、この程度の被害で済んでいる。
当時の鹿屋市長・永田良吉の功績だろうか。
上陸の前日、鹿屋航空基地にて、進駐軍・先遣隊と交渉が行われている。
(↑)現在、鹿屋航空基地史料館がある、
海上自衛隊・鹿屋航空基地内内のことだった。
同行した進駐軍の通訳は、鹿児島弁が理解できず、お手上げ。
ところが、永田市長は英語に堪能で、直接、進駐軍と話すことができた。
永田は「特攻隊崩れが、鹿屋の山に数千人潜んでいる・・・」と
進駐軍相手に脅しをかけ、交渉を優位に進めたそうだ。
実は、永田市長が、戦前・戦中の鹿屋を造ったと言っても過言ではない。
当時、鹿屋終戦連絡委員長を務めていた、草鹿龍之介中将は、
永田市長は「その半生を鹿屋の海軍航空基地のために捧げ」たと評す。
若き日の1917(大正6)年。
永田は、鹿児島で開催された飛行大会で曲芸飛行を見物し、
度肝を抜かれる。
そして「これからの護りは飛行機だ」と確信。
以来、所沢や大刀洗の飛行場を視察し、陸海軍の要人に
飛行機の重要性を説き、鹿屋に飛行場を造る重要性を説いて回る。
「飛行機代議士」とあだ名されるほどだった。
1922(大正12)年、鹿屋・笠野原に民間飛行場が完成するも、
実際に飛行機が飛来したのは3年後、その頃、永田は衆議院議員に初当選。
航空隊の誘致を続け・・・
1936(昭和11)年、鹿屋航空飛行基地が開設されたのである。
基地需要で、鹿屋は大いに潤った。
(戦前、どこの土地でも基地があると景気が良かったものだ)
敗戦後、進駐軍・上陸を前にした永田の様子を
草鹿中将は書き残している。
「自分が、ここに海軍飛行場を誘致していなかったら
アメリカ軍もここに駐留していなかったでしょう。
鹿屋の人々になんと言って詫びて良いやら・・・」と
永田市長は頭を抱える。
草鹿はこれを聞き
「自分達の郷土を今まで敵として憎しみ嫌った土足に
委ねる悲運にさらされた現地の人々の恐怖と憤激」に
思い至らなかったと気づく。
そのうえで「草鹿は死力を尽くして、犠牲を最小限に食い止めます」と
告げたのだそうだ。(『魂のさけび』130頁)
飛行機の時代を予見すする進取の気性に富み、
航空基地・誘致に奔走し、進駐軍に脅しをかけたという永田市長。
草鹿中将の記した市長の姿は、もうひとつの顔として興味深い。
(草鹿中将自身の発言は、自分で書いているだけに
体裁が良すぎる気もするけれど・・・)
さて、これにて、第一日目の約2時間のツアーは終了。
これから私達は、宿へ向かう。
20キロほど離れた垂水港に予約を入れたのだが、
ガイドのSさんに鹿屋にも良い宿がたくさんあるのに・・・と
残念がられた。
明日も、ここに戻ってくるとなると、
効率が悪いことはこのうえなし。
しかも、鹿屋は「黒毛和牛チャンピオン」に輝く畜産の町だという。
しまった・・・
(希望に合う宿がなかったのだけれどなぁ~、残念!)
お世話になったガイドのSさんとは、
またの出会いを約束して、ここでお別れをした。
翌日は、コース①の戦跡めぐりをする。
眼前に現われた桜島の姿を追いながら、
ひとまず鹿屋を後にした。
*************************
おつきあいいただき、どうもありがとうございます。
ガイド氏のお話を記録したメモや以下の参考資料をもとにまとめましたが、
勘違いや間違いはあるかと存じます。
素人のことと、お許し下さいませ。
参考:
●『魂(こころ)のさけび―鹿屋航空基地新史料館10周年記念誌』
鹿屋航空基地史料館協力会
●多胡吉郎 『生命(いのち)の谺(こだま) 川端康成と「特攻」』
現代書館
●パンフレット「戦争を旅する」鹿屋市ふるさとPR課
勘違いや間違いはあるかと存じます。
素人のことと、お許し下さいませ。
参考:
●『魂(こころ)のさけび―鹿屋航空基地新史料館10周年記念誌』
鹿屋航空基地史料館協力会
●多胡吉郎 『生命(いのち)の谺(こだま) 川端康成と「特攻」』
現代書館
●パンフレット「戦争を旅する」鹿屋市ふるさとPR課
今回も初めて知ることも多く、とても興味深く拝読しました。海からも現れていたのですね。
しかもまず道路を作る!それは、本当にこんな国と戦った事に驚きを感じた事でしょう。私は子供の頃アメリカのドラマで冷蔵庫の中の大きな牛乳ビン、肉の塊、バターを見て、よく日本はこんな国と戦争したなと思いました。
永田市長のお話にも大変感銘を受けました。戦争の跡と海ガメの産卵、本当に読んでいくうちに、さまざまな思いが浮かび、うまく書けませんが、今回も素晴らしい、良い文章を有り難うございました。なおとも
いつもながら暖かいお言葉に痛み入ります。
断片的な知識ばかりで、なかなか歴史を俯瞰してみることが出来ません。
こんなあたりまえの、船での上陸に全く頭がまわらなかったなんてね~
マッカーサー元帥で上陸が終わったような気がしていました。
でも、その後にどれほど恐怖があったか、文字の上での知識はありましたが、
実際に、土地を歩いてみることで、以前よりも想像することだけは出来たように思います。
そんな甘いものでは無かったでしょうが・・・
わたしも「奥さまは魔女」などを夢中で観ていましたが、
わたしは単純に「あんな大きな冷蔵庫、邪魔じゃないかな~」なんて思って観ていました。
戦争のことなんて思い至りませんでした。
既に人としての器ができていますねw
それにしても、平和は尊いものですね・・・