歴タビ日記~風に吹かれて~

歴タビ、歴史をめぐる旅。旅先で知った、気になる歴史のエピソードを備忘録も兼ね、まとめています。

鹿児島、旅の目的は・・・

2024-03-19 15:14:44 | 鹿児島県
ずっと気になっていた、鹿児島県の坊ノ岬沖

戦艦大和が「海上特攻」とまで言われる、
決して無事の帰還が望めない無謀な出撃で、沈んだ場所だ。
いつか行かねば、絶対に行きたい・・・
ずっとそう思っていた。



念願かなって、鹿児島旅行・最終日、
坊ノ岬へ出かけた。

厳密に言うと、出かけたのは坊ノ岬ではない。
本来だったら、坊ノ岬で灯台をめざすべきだったのだろうが、
時間の関係で、これはあきらめている。

出かけたのは、枕崎市「火之神平和祈念展望台」と
南さつま市「丸木崎展望台」の二ヶ所である。



その前に、戦艦大和について、ざっくりと。


(2023年春、呉市大和「ミュージアム」にて)



1937(昭和12)年、呉海軍工廠で起工され、1941(昭和16)年完成。
起工当時は、世界最大・最強と謳われたが、
建造数年の間に時代は航空機の時代へと変わった。
大和のように大きな軍艦は、むしろ不利な時代に入ていたのだ。


大和は、大きな戦果をあげることなく、
アジア太平洋戦争末期まで、結果的に温存されることになった。

1944(昭和19)春、年沖縄へのアメリカなど連合軍上陸が
近付いた中、海軍連合艦隊司令部は、戦艦大和の出撃を決める。

戦果は期待できず、大きな犠牲ばかりが出ることは、
わかりきっている。
現場である大和の司令部は、当然、猛反発だ。

だが・・・

第五航空基地(鹿屋)にいた連合艦隊司令部参謀草鹿龍之介は、
大和の司令部を訪ね、出撃の説得にあたる。

草鹿の「一億相特攻の先駆けになっていただきたい」の言葉に
司令長官・伊藤整一は出撃を決意した。


こうして、1945(昭和20)年4月1日、
第二艦隊は、沖縄戦のために編成される。
大和を沖縄海上特別攻撃隊(特攻隊)旗艦に、巡洋艦・矢矧(やはぎ)、
駆逐艦8隻と共に、山口県徳山港から、沖縄を目指し、出港した。

4月7日、坊ノ岬沖で、敵艦船隊の猛攻を受ける。
約二時間後、大和を含む6隻が沈没し、3721名が犠牲となった。


大和が刻一刻と沈む様は、他の艦からの打電により、
逐一、横浜・日吉の連合艦隊司令部地下壕に報告されていた。

戦艦大和など第二艦隊の出撃を
「海上特攻」と名付けたのは、
連合艦隊司令長官・豊田副武(そえむ)である。

「一億相特攻の先駆け」となった大和を
自らは、安全な日吉の丘にいた豊田司令長官ら
司令部の面々は、どのような思いで受けたのだろうか。



まず、訪ねたのは、
枕崎市、火之神公園内の平和祈念展望台 である。



小高い丘の参道には、延々と石灯籠が続く。
ひとつひとつにお名前と一言が記される。
上の場合は、「特攻第二艦隊の英霊に捧ぐ」とあった。



(↑)途中、第二艦隊司令長官・伊藤整一ゆかりの桜、
別名「父子桜」が植えられていた。

長官は庭いじりが好きで、自宅には手植えした桜の大樹があった。

伊藤長官の長男・叡(あきら)中尉は、海軍兵学校を卒業後、
ゼロ戦パイロットとして、父が乗る大和の出撃を見送った後、
同年4月18日、自ら志願して、鹿児島県伊江島沖で
特攻死している。

その後、父の植えた大樹の根元に寄り添うよう、
桜に芽が吹いた。
そして、毎年必ず、大和の沈没した4月7日に花が咲くのだそうだ。
そこから「父子桜」と命名されたという。



頂上につくと、いくつもの碑が並び、
新聞記事の切り抜きなども掲示されている。



「火之神平和記念展望台」は
平成に入り、大和沈没50年にあたることから、
大和の沈没した地に近い、地元・枕崎市の有志が呼びかけ、
賛同した全国の有志によって、整備されたそうだ。





海に向かって「般若心経」を唱え、
ただただ、涙した。


その後、坊津、丸木崎展望台(南さつま市)へと向かい、
再び、海を眺めている。(↓)


坊ノ岬沖海戦での犠牲者は、多くが海没死とのことだ。
4月初めの海は、どんなに冷たかっただろうか・・・
もしも、護衛艦が十分に存在したら、
救出できたのではないか?

いや、そもそも、無謀な戦争を、続けるべきでは無かったのだ。

戦争は始めるのは、たやすいが
終えるのは、本当に難しい。
ウクライナ、ガザ・・・
今、私達は、それを目の当たりにしている。




今年の元旦、弟から来た年賀状に笑ってしまった。

どうやら鹿児島県の「坊ノ岬」に出かけ、
戦艦大和に想いをめぐらせてきたらしい。
1945(昭和20)年4月7日、大和は、坊ノ岬沖海戦で沈没している。

実は、昨年末、年賀状の届く数日前に、
我が家では鹿児島旅行の予約を終えたところだった。
わたしは「鹿児島へ行くなら、鹿屋と坊ノ岬へ行くこと」を
条件にして、賛成している。

そんないきさつがあったものだから、
夫も大笑い。

姉と同じようなときに、同じことを考えていた弟。
その昔、会津戦争について熱く語ってくれた、高校生も
いまや、人生半世紀を超えた、立派なオジさんである。

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おつきあいいただき、どうもありがとうございます。

現地の案内板などを参考に記事をまとめましたが、
間違いや勘違いもあるかと存じます。
素人のことと、どうぞお許し下さいませ。

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2 コメント

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Unknown (naotomo3451)
2024-03-20 00:15:24
ぴあ野さん こんばんは!

戦艦大和は呉の大和ミュージアムでしっかり学んでいた気持ちでしたが、今回の記事で本当により深く考える事が出来ました。本を読んだり映画で感じるだけでなく、その地を訪れるぴあ野さんの情熱に感心するばかりです。
初めて知る事も多く、今回も本当に学びの多い記事でした。有り難うございます。なおとも
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なおともさま (ぴあ野)
2024-03-20 15:56:38
なおともさん、コメントをどうもありがとうございます。
いつもながら、お恥ずかしいです・・・

大和の話は、皆さん、よくご存知でしょうが・・・
それだけに、どうしても坊ノ岬を訪ねたいとずっと思ってきました。
何をするわけではないのですが・・・
もしかしたら聖地巡りが近いかもしれませんねw
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