社会不適応者の箱庭。

ハイったり鬱ったりしながら生きているイキモノ・五十海(いかり・♀)の適当な日々を綴った『どうでも』なシロモノ。

06月20日。春日山神社について。

2011-06-20 | 上越のこと
 はい、大雑把に春日山神社について

 事の初めは明治23(1890)年。
 旧高田藩士・小川澄晴(日本のアンデルセンこと 小川未明の父)が郵便の父である前島密(まえじま・ひそか)等の協力を得、浄財を募り、祭主となって、謙信公の母・虎御前の屋敷跡に創建。
 明治30(1897)年春、春日神社の創建によって。15歳の小川未明も春日山に移り住む。
 なので神社横と言うか、上り口には小川家の奥津城(おくつき・簡単に言うとお墓ですね)がどーんとあります。
 現在の当主も『俺、ここら辺に埋められる予定なんだよねー』とお茶目に凄い事をおっしゃっておりました。
 創建年数には諸説あり(他にも明治34年とか、28年とか)。

 祭神は上杉謙信公(米沢の上杉神社からの分霊)
      菅原道真(別名:天神様、天満天神、天満大自在天神)
           神格:学問、受験の神
           神徳:受験合格、詩歌・文筆・芸能・学問上達、農業守護、病気平癒など。
      岩屋大黒天
 ですね。
 『大黒天』は『大国主命』と習合する前なら、軍神・戦闘神、富貴爵禄の神または厨房・食堂の神ともされるそうです。
 上杉謙信公が掲げた『刀八毘沙門天』ですが『姿は、兜跋毘沙門天とは異なり、三面十臂像・四面十二臂像など様々である。共通して特徴的なのは、刀を八本持ち獅子に乗る像が多く見られる。さらに大部分の刀八毘沙門天は、頭上に如来を頂いている姿が目立つ。』とウィキペディアにはあります。
 それに、信仰の上では通常の毘沙門天信仰と変わらないとか。
 ここら辺はまだ資料不足ですな。

 ついでに神社から駐車場へと続く階段のいわれと段数について。
 この階段の段数は段136段。
 女性の厄年である33、男性の厄年である42、そして男女共通の厄年である61を足した数なんだそうです。
 なので、ここを上って春日神社におまいりすると厄落としになるとか・・・。
 そして、上る前にご注目。
 
 はい、この階段手前の平べったい石です。
 ここに乗り、神社のほうを向いてパン!と拍手を打つとアラ不思議。
 『びぃぃぃーん』と音が反響する仕組みとなっております。
 このような仕掛けがあるのは日本では2つだけだという事です。
 あともう1つは何処だったか・・・。
 直に聞いた本人『ん?忘れた。』との事で・・・、あー
 ま、仕方ないね。
 
 とりあえず大雑把に春日山神社の紹介終わり
 勿論、異論反論ガシガシ募集中。


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 加筆訂正 2011.06.21
 上越ふるさと大百科によりますと、
 春日神社は明治23(1890)年に小川澄晴、前島密らによる創建運動が始まり、明治27(1894)年に許可が下り、春日山城跡の通称『老母屋敷』の地に造営、明治34(1901)年5月13日に遷座(神体・仏像または天皇の座をよそへ動かす事)し、明治39(1906)年に県社となった。旧米沢藩主上杉家より『紺地日の丸』の旗、白地に『毘』の字の旗、懸り乱『龍』の旗を拝領し、社宝とした。大正15(1926)年から謙信公祭が始められた。また、昭和44(1969)年にNHK大河ドラマ『天と地と』が放送され、上杉謙信公人気が急上昇し、春日山神社を訪れる人々が急増。それをきっかけに春日山神社記念館が建設された。記念館は2棟あり、謙信公と小川未明に関するものとに分かれている。(一部抜粋)
 とあります。
 『老母屋敷』と言うのが虎御前の屋敷の事なのでしょうね。
 ・・・正直に申しますと、五十海はまだ春日山神社記念館は入ったことがございません。
 そのうち見学させていただきたいと思っております。


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 加筆訂正 2011.06.23
 階段の段数ですが、135段、136段、諸説あるようです。
 どれも基本は『女性の本厄(33)+男性の本厄(42)+男女共通の厄年(60or61)』なのですが、教えてくれる方によって違うみたいです。
 ちなみに136段とする場合は、最下部のコンクリートに埋もれかけの段数も入れるそうです。
 県内&他県の方に紹介する時困るので、どちらかに統一していただきたいものです。
 『厄落とし効能説』には関係ないですが・・・。