飛耳長目 「一灯照隅」「行雲流水」

「一隅を照らすもので 私はありたい」
「雲が行くが如く、水が流れる如く」

事実を知るということ

2013年06月02日 11時09分44秒 | 東日本大震災
昨日、久しぶりに映画を見た。
映画「遺体 明日への十日間」である。
これは2011年の東日本大震災で被災した岩手県釜石市の遺体安置所を題材としたルポルタージュ「遺体 震災、津波の果てに」をもとに、メディアが伝えきれなかった被災地の真実を描き出したヒューマンドキュメントである。

見終わった感想は、私たちしっている事実というのは、本当のすがたの一片に過ぎず、現実ははるかにおおきな意味を持ち、心に大きな陰を落とすということだ。
事実はいろんなことを知っていても、真実をしることは本当は少ないのではないか。
知っているつもりになっていることが多すぎると感じる。

西田敏行が主演のもと葬儀社に勤める民生委員を演じる。
監督は、この映画に関しては演じなくてもよいと出演者に言ったそうだ。
感じたままをそのまま表現するということ。

それは役者一人一人の、表情から十分に想像し得た。

遺体安置所に関わった人々の悲しみと心労は想像を絶する。
警察、消防団、市役所職員、ボランティ、それぞれが現実を受け入れがたい中で目の前にある遺体と向き合った行くしかなかった。
誰もが逃げ出したくなるような気持ちを抑え、何をしていいのかもわからないまま、しかし、何かしなければという気持ちも交錯する。
ただ、立ちつくすしかない状況下の中で、対応し続ける自分。
過酷という言葉ではいいつくせない、甚大な被害である。

我々は、もっと真実を知るべきだと痛感した。

saitani