飛耳長目 「一灯照隅」「行雲流水」

「一隅を照らすもので 私はありたい」
「雲が行くが如く、水が流れる如く」

ステレオタイプ

2021年07月23日 14時29分21秒 | 教育論
よくステレオタイプという言葉をテレビ等で耳にする。
学校ではあまり聞き慣れない言葉だ。
ステレオタイプとは、特定の集団に対する過度に単純化、画一された概念をさす。
一般的には、見識の狭い考えとしていい意味では使われれない。

例えば、血液型がその例だ。
A型は、几帳面。
B型は、好奇心旺盛。
0型は、おおらかで大雑把。
AB型は、先読みに優れた天才。
私は、血液型とその特徴は気にしない。
世の中の人間の特徴がそんなに簡単に分類できるものではないし、間違った先入観をもつことも多いからだ。

人間は集団を作りやすい。
それは、人間の進化の上で、自分の身を守るために備わった本能でもあるのだが。
自分の所属する集団に対して、そこから他の集団をみたときに、ステレオタイプ的に分類する傾向が強い。
 
教師もともするとこのステレオタイプ的な見方を子どもたちにすることはないだろうか。
類は友を呼ぶ的なことわざもあるが、おもいこみや先入観で子どもたちをみてしまったら、子どもたちの可能性の芽をつむことにもなりかねない。
いい意味での思い込みはまだいいのだが、多くは偏見や差別につながるような思い込みが多く見られる。
一人っ子だから…。
男兄弟だから…。
兄が○○だったから…。

無自覚的に、ステレオタイプ的な見方をしていることはないだろうか。
本質を見極め、個々の長所をみることなしに。

まずは、見誤らないためには、その子とコミュニケーションを蜜にとること。
会話の中で、その子の価値観や判断基準はどこにあるのかを見る。
また、非言語で表現される性格も注意深くみていく。

数種類に分けられるほど、人間や物事は単純ではないと考えているだけで、少しは正しく見ていくこtができるのかもしれない。

saitani

戦略とは

2021年07月20日 14時00分45秒 | 仕事術
「戦略」教育の世界ではあまり聞かない言葉である。
企業では当然ながら、この戦略が自社の運命を決する。
リーダーがどのような戦略をもち、その意図をメンバーがきちんとした方向性とともに理解する。
そうして企業は成長していく。

教育現場では、働き方改革の名の下に、改革や改善が図られている。
10年間に比べれば、教育課程の改善がされ、多少なりとも余裕をもって進められるようになって点もある。
しかし、月40時間を超えた超過勤務、土日の勤務は現在も状態化している。
7時間45分の勤務時間内に行うことができる業務にシフトしないかがり、これ以上の改革はない。
器がきまっているのであるから、その器に入らない物は減らしていく必然性がある。

ビジネスにおいて戦略が必要不可欠のように、現在では教育においても戦略が必要だ。
戦略があるからこそ結果が出るのである。
戦略は、すべきことだけでなく、しないことを決めるのも大事の要素なのだ。
やるべきことをやるというのは、やらないこと、やれないことを決めることでもある。

「戦略とは、何をやらないかを決めることである」(経営戦略の神様 マイケル・ポーター)という言葉もある。
ほかの学校がやっているからやる。
本当に、当たり前にやっていることが本来の学校がすべきことなのかを今一度冷静になって考えてみることも重要である。
 
学校でできることは有限である。
教師にできることも有限である。
ましてや、時間も制限されている。
まず、学校はやらないことを決めることが、学校の働き方改革を進めることの大前提である。

saitani

ぼくは希望に向かって走る

2021年07月20日 09時44分05秒 | 人生論
自分には生涯忘れることにできない人物がいる。
一度もあったことも、話したこともない。
しかし、その人物から大きな影響を受け、時にはその生き様や考え方が心の支えになることもある。
その一人が義足のランナー、テリー・フォックス。
22歳。

1980年4月、テリーはカナダ大陸横断マラソンに挑戦。

「ぼくにとって一番大切なのは、不可能を可能にすることだ。
 人が無謀だと思う冒険をやってのけるとき、ぼくは満足感にひたった。
 その喜びは、口では言い表せない。
 ぼくがやったことは地獄のように見えたろうが、そこからぼくは素晴らしいものを引き出したんだ。
 とても楽しかった。
 苦痛なんか問題じゃなかった。
 ぼくは最後まで、地獄の中を走り続けるだろう」

「すべてはとてもロマンチックな冒険さ。
 それが全部、ぼくの身の上に起こったんだ。
 みんなは、ヒーローって呼び始めたけど、どこまでいっても、ぼくは見かけ通りのテリー・フォックス。
 ただ、『オズの魔法使い』のドロシーみたいに、すごい大冒険に巻き込まれただけなのさ。
 今までいったこともないところへいって、見たこともないものや、起こったこともない出来事を見てきたドロシーみたいに。」

「人生、どんな状況におかれたって、とるべき大度はひとつさ。
 うちひしがれたっておかしくはないけれど、ぼくにはそんなことはできない。
 なぜって、たとえわずかな2ヶ月しか生きられないとしたって、その2ヶ月をベストを尽くして、できる限り健康的に、できる限り楽しくいきたいからね。
 落ち込んで他の人をおろおろさせるなんてまねをしたくないんだ。
 力の及ぶかぎり、みんなの役に立ちたいと思っている。」

テリー・フォックスは1981年6月28日、家族に看取られながら、永遠のマラソンへと出発した。


ネットの言葉

2021年07月15日 10時50分35秒 | 教育論
ネットに関する書き込みが問題になる。
学校現場でも、SNSへの中傷誹謗が問題になり、解決を依頼されることもある。
しかし、この問題は本来は家庭の問題だ。
端末を与えているのは家庭であり、学校ではない。
最大、最短の解決方法は、子供に端末を持たせないということだ。
しかし、それをせずに解決するのは至難の技である。

では、学校はどうしたら良いのか。
それは一人一人の生き様、モラルの問題である。
若い頃、先輩に言われた。
「自分の言っていることが正しいか。
 また、その内容とともに言い方が適性がどうかを図る基準は、自分が尊敬する先生の前でも、今の言い方をするかどうかだ。」
常に自分を客観視する、メタ認知することが重要だ。
それができる人間は、ネットにあるような誹謗中傷はしない。

ある本の言葉。

いいか、よく覚えていおけ。
人間は皆、本人がその場にいなければその言葉が本人に届くかどうかをあまり考えもせず、つい、頭の中でふと思ったことをそのままに垂れ流してしまう。
そういう弱さを持っているんだよ。
君だけじゃない。僕だって持ってる。
ネットの書き込みだって同じだろうよ、きっと。
だから、初対面の人に、いや、あったこともない人に「あなた、気持ち悪いんですけど。」なんて平気でかける。
ネットにそんな書き込みをする人でも、初めてあう他人に面と向かって「笑顔が下品」とか言った経験はないはずだよ。
だから、他人がどうこうじゃない。
自分がそういうのを口にしない強さを持たなきゃいけないって、ただそれだけのことだ。

自分自身の中に、こんな強さを持たせる以外に方法はない。
それは普段の教室の中の生活の会話から見直すことが基本となる。

逆境の捉え方。

世間からの風当たりが強いと感じた時に、怖くなって、萎縮してしまって、縮こまって、どこかに隠れたくなるのは、人間だから当然だと思う。
だけど、向い風が強ければ強いほど、翼を広げれば空に飛び立てるんだ。
だから、勇気を持って翼を広げてみなよ。
怖がる事はない。
経験したことがないほど強い向かい風は、今いる場所から一気に飛べって合図だよ。
ふわって浮いて、高く高く飛べって合図だ。
ほら翼を広げてごらんよ。
今までは追い風だった。
でも追い風では翼があっても空は飛べないんだよ。
これは、ピンチじゃない。
絶好のチャンスの風だ。

Saitani


姿勢を正すことの効果

2021年07月07日 13時06分31秒 | 教育論
学校ほど姿勢についてうるさく注意するところはないだろう。
しかし、何故姿勢を正す必要があるのかの根拠は曖昧でエビデンスを説明できる教師は少ないだろう。

次のような考え方がある。
子どもたちが集中力を欠いてきたようなときには姿勢を正すように言う。
もちろん子どもたちが身を乗り出して参加してくるような授業展開をすることが基本中の基本だ。
しかし、残念ながらいつもいつもそうはいかないのが現実だ。

子どもたちに姿勢を正すように指示するときに、その趣旨説明をするとより効果的になる。
なぜ姿勢を正す必要があるのか、その効果は何か。
それは背筋を伸ばすと脳を覚醒させる脳内ホルモンが出て、ワーキングメモリーの働きが増し、処理能力がアップするからだ。

学習活動が思うように進まないとき、往々にして子どもたちの姿勢は乱れている。
実は背筋を伸ばしているかどうかで、脳の覚醒の度合い、処理能力が違ってくるという。
この姿勢の維持に関係してくる筋肉が抗重力筋という筋肉。
この抗重力筋が働くと、覚醒に作用するノルアドレナリンが脳内に分泌され作業効率が上がる。

昔から教師が姿勢にうるさく言ってきたのは、このような科学的な根拠を経験則的に知っていたからかもしれない。

saitani

練習問題の丸付け

2021年07月05日 09時35分46秒 | 授業論
以前のブログに教室内で行われる教育的行為にはすべて意味があると書いた。
その行為の意味を理解できる教師は力量があがり、理解できない教師は、現状のままか退歩する。
優れた授業をみても、あれども見えずの状態なのである。
「なぜ、あのときあの指示をしたのか」「なぜ、あのとき視線を移したのか」等、細部にいたるまでその行為の意味を追求する。
そのことにより、優れた授業の原理原則が見えてくる。
ただ漠然と優れた授業を参観しても、まったく意味がない。
「子どもたちが生き生きと活動していましたね」程度の感想しかコメントできない。

例えば、どの教室でも行われている練習問題の丸付け。
答えを見て、子どもたちが丸をつける。
教師が解説しながら丸をつけさせる。
間違ったところを答えをみて直させる。
この程度のことはやっているだろう。
さらに、練習の問題のできたできないを記録させる、練習問題の番号に○×をつけさせせることをやっている教師もいる。
できなかった問題だけをやらせる。
これは大原則である。

丸付けの段階。
まず、第1段階。
答えを見ながら正確に○×をつけて、×には正しい答えを書いている段階。
最低限、このことをきっちりをやらせないと全く時間の無駄となる。
となりどうしで確認させるくらいのことは必要だ。

第2段階。
×の問題を計算途中にまで遡り、間違いを見つけ、そこまで直している。
自分の計算途中の間違いを自分で見つけられれば、次に同じ問題で間違う可能性は低くなる。
だから、教師は計算途中の過程を消さないように指導するのである。
教師はノートチェックをするならば、計算途中が直っているかどうかを見る
ただ、答えが書かれているかどうかをみてもまったく意味がない。

第3段階。
間違った問題をもう一度解き直してみる。×をつけるだけではなんで自分が間違えたのかが全く理解できない。ただ、ノート作りのために作業をしているだけになる。
そして、間違いを自分で理解できないかぎり、また、同じ間違いを繰り返すことになる。
練習をあんなにさせたのに、テストができないという理由はこのあたりにある。

第4段階
自分の間違いの原因を言葉で書かせる。
言葉にすることは時間もかかるし、面倒な行為ではある。
しかし。思考は話したり、言葉にすることで明確になるのである。
すべてをそうすることは時間的にも難しいならば、とくに子どもたちが弱点としている単元だけでもその活動をさせるべきだ。

saitani


教室の行為にはすべて意味がある

2021年07月03日 11時20分49秒 | 教師論
担任が教室で授業を行う。
年間にすると1000時間ほどだ。
1コマの授業は、45分。
この中の骨格は、発問・指示・説明になる。
それは大まかな骨格ではあるが全てではない。
この他にも、教師の立ち居振る舞い、所作、視線、言い回しのニュアンス等細部に分析すればいくらでもある。
その行為一つひとつにはすべて意味がある。

スポーツのプロは自分の行動にすべて意味をもたせ、そのルーティーンに基づいてねらいを達成している。
例えば、あのイチロー選手。
「僕のやっていることにはすべて意味がありますから、よく見ていてください。」
と言っている。

1回の表に守備につく場面。
どこからグランドの出ていって、何歩で白線を越えていってというところからすべて決まっている。
規則性があるのである。
ヒットで出塁したあと、彼は一塁のベース上で、人差し指をヘルメットの右耳の穴に指を入れる。
それはリセットのためだそうだ。

授業参観していて、「あのとき、○○君のところで止まったけど、どうして。」「発問のときに、一瞬間をおいたけどどうして」等、教室内で行われる行動、所作には無意識のものもあるが、すべて意味がある。
それが一つ一つ説明できることも必要だ。
優れた授業を参観するときにも、そういった視点で見ることも必須である。

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まねる

2021年07月01日 10時22分01秒 | 授業論
芸事の基本は、上級者の所作をまねることだ。
これは古くからある上達論のセオリーである。
師匠である人物の哲学を学び理解することも大切だが、まず型から入ることが大事だ。
たとえそれを猿真似と揶揄されようとも、優れた技術を身に付け、使いこなすには必ず通らなければならない道だ。

最近は、個性が重視されたり、自分らしさが注目されたりするあまり、優れた実践をそのまま真似る、追試がおそろかになっている印象を受ける。
まあ、その前に優れた実践に巡り合い、判別する能力も必要だが。
このあたりを間違うと、努力はしているが結果が出ないということになる。
よく言われる、努力の方向性を間違うということなる。
もっと、追試を重視し、最低限の努力して認識すべきだ。

「自分らは、何かを始める時、いきなり自己流でやろうとするやろ、せやからうまいこと行かへんねん。
まず、大事なんは、本でもインターネットでも何でも使て『うまくいっている人のやり方を調べる。』ちゅうことや。
自分が思てるほど、自分と他人に違いはあれへん。
みんな同じようなもん手に入れようとして、同じようなところで躓いて、同じような方法でのりこえてるんや。
せやから、まず、最初にうまくいっている人がどうやったのかを知らなあかん。」
                        ガーシャ

Saitani