飛耳長目 「一灯照隅」「行雲流水」「万里一空」「雲外蒼天」

「一隅を照らすもので 私はありたい」
「雲が行くが如く、水が流れる如く」

派生判断の種類

2021年10月27日 15時03分26秒 | 授業論
あることを主張する文章を読んだとき、結論とともに必ず論拠が存在する。
結論を支える論拠がなければ、論説文として成立しないからだ。
この論理的な文章の構造として、帰納法と演繹法がある。
この帰納法の捉え方の注意点。

1 帰納ということの本質を知っておく。それは具体的事例を証拠として一般的な結論を抽象してくる論法。
2 わかりきったこととされ、そのために書かれずにすまされている判断を注意して読みとっていく。
3 特に一つの判断から生まれる逆・裏・対偶の派生判断とその正・不正の関係を知って有効に活用する。

例えば、原命題「犬は動物である」という心理に関して。
逆 「動物は犬である」…原命題が正しくても、逆は必ずしも正しくない。
裏 「犬でないものは動物ではない」…原命題が正しくても、裏は必ずしも正しくない。
対偶 「動物でないものは犬ではない」…原命題がただしければ、対偶は正しい。
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幼児性を削る

2021年10月27日 08時54分00秒 | 教育論
最近よく言われる言葉に「自分で自分の機嫌をとれる人間になる」という言葉。
大人になるということはどういうことなのか。
それは様々な表現があると思うが、感情のコントールができることも大切な要因である。
自分の思うままに、怒ったり、いらいらしたり、周りの人間にあたりちらしたり。
それは大人とはいえない。
欲しいものをねだってお菓子売り場の前で地団駄をふんでいる子どもと一緒である。

この幼児性は様々な困難や苦しみに耐えることによって抜けていき、一人前の人間となる。
だから、人が成長するには多くのハードルを越える必要があるのである。

年齢的に結婚式に招かれることが多くある。
時にはスピーチを依頼されるようなこともある。
そんなとき、ふと思い浮かぶのが次のような話だ。

以下引用。
結婚相手は、お互いを磨き合うことができる「砥石」なのです。
ちなみに日本でいちばん離婚率が低いのは、遠洋漁業の船員さんだそうです。
一年の大半を海の上で過ごし、たまに帰ってきて一週間くらい仲良く暮らし、また稼ぎに海に出ていく......。
なんと理想的な距離の置き方でしょう。
この反対が、漁業との兼業農家だそうです。
朝から晩まで、顔をつき合わせて夫婦で仕事をしているので、ちょっとしたケンカでも、修復する時間がなくて、やがて口をきかなくなり、そのまま一週間一カ月が経ち、さらに関係が冷え切ってしまう......。
こういう近すぎる夫婦関係は、離婚率が高いのだそうです。
結婚生活をいつまでも幸せに過ごすためには、お互いに適度な距離を置くことです。
財布や携帯電話、メール、日記など、個人のプライバシーとして尊重すべきものは、たとえ夫婦でも勝手にのぞかないというルールを守ることです。
それは、相手を尊重し尊敬する念です。「恋愛にもってこいの異性」と、「結婚したらよい異性」は違います。
ポイントは、「相手を尊敬の念で見られるようになるかどうか」ということ。
まずは、自分が尊敬される人になれるか、人間を磨けるかが問われると言えそうです。
《夫婦はお互いを磨き合う「砥石」です。》
《人生とは「味方を増やす」ということ。 頼まれごとをして生きるのが 人間の生き方ではないでしょうか。》
            『嬉しく楽しく、幸せになってしまう世界へ、ようこそ』廣済堂出版

引用終わり。

「相手を尊敬の念で見られるようになるかどうか」
これは難しいことで少し堅苦しいと感じることだが、真実であると実感する。

saitani





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人を茶化すこと

2021年10月25日 08時53分59秒 | 教育論
ふと自分の行動が気になった。
「自分は、人を茶化すようなことしていないだろうか」
ある文章にふれて感じた。

人は恥をかく。
この恥とはどんなときに植え付けられるのだろうか。
例えば、無人島ではどんな失敗をしようと恥をかいたとは思わないだろう。
それは人に見られていないからである。
アドラーが言っているように、人間の悩みのすべては人間関係に起因するという言葉とも重なる。
恥という感情は周囲の人たちに大きく影響される。
なぜ周囲の人たちに恥という感情を植え付けられてしまうのか。
それは他人との価値観のずれに気がつき、他人の価値観を優先することに起因する。
周りの人間は自分の価値観で物をいったり、評価したりする。
それは当然であり、やむを得ないことだ。
しかし、忘れてはならないのはその価値判断は普遍的なものではなく、あくまでも一個人の判断であること。
たとえば自分が気に入っている服をきている。
そして、その服をみて、「すごくかっこいい」と言う人もいれば「ダサい、変だ」という人もいる。
自分は似合っていると思ってきているのだから、別に人に左右されることはないのだが、人間は承認欲求があるので他人を気にするのである。
このギャップの中で、恥ずかしいという感情が生まれてくる。

自分の経験の中でも印象的なできごとがある。
職員会議が指導部会などの話し合いのときだ。
若いときには様々な主張があり、改革精神が旺盛である。
旧態依然とした組織やシステムをなんとか子どもたちの成長できるものに変えていこうと積極的に改善案を提案した。
もちろん賛同してくれる先生方もいたが、反対もあった。
反対はそれでいいのだか、一番気になるのは人の真面目は提案を茶化すように冷笑する人たちだった。
「そんなことは無理だ」「それは理想論で現実的ではない」「何をつまらいこと言っているの」
本来は若者が勇気をもって自分なりの意見を主張したのだから、受け取る方も真摯な気持ちで批判をする必要がある。
それをよく考えもせず鼻で笑うということは人間として許されることではない。
その瞬間に、若者の勇気は恥の経験として記憶に残る。
人の勇気はシャボン玉のように儚く尊いでのある。

では、どんな風に考えたら良いのか。
次のように言っている。

自分がチャレンジしているときこそ、周りのリアクションに気をつけてみよう。
本当に自分を応援してくれる人は誰なのかを見分けるポイントになるからだ。
茶化されるたびに毎回恥を感じるのではなく、「見分ける判断基準をくれてありがとう」と心の中で感謝しよう。
しかし、応援してくれなかった人を悪く言ってはいけない。
そもそも応援されなくて当たり前。
その分応援してくれた人のことは絶対裏切らず、必ず恩を返すという姿勢でいよう。

saitani



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