飛耳長目 「一灯照隅」「行雲流水」「万里一空」「雲外蒼天」

「一隅を照らすもので 私はありたい」
「雲が行くが如く、水が流れる如く」

バトンパス

2005年05月29日 19時40分57秒 | 体育科
完璧なバトンパスをすれば3カ所で2秒以上の短縮ができる。
バトンする機会が30回あれば、20秒以上短縮できる可能がある。
距離にすれば100メートル近く差をつけることができる。
バトンパスのポイントを思いつくままに書いてみる。

ダッシュマークを有効に使う。
前の走者が遅ければダッシュマークは近い位置になり、速ければ遠い位置になる。
低学年の場合は、これも意識しなくてもいいかもしれない、
実際に指導してみればわかるが、このダッシュマークを固定するためには、走る順番を固定し、互いの癖や走力を考慮にいれる必要があるからだ。
渡すときには、「ハイ」と大きな声を出すことは必ずやらせた方がいい。
ステップアップには欠かせない技術だからだ。
止まってもらうことができるようなら、わずかでもいいのでリードをとらせる。
もちろん後ろをふりむいたままでいい。


プッシュバトンで渡す。
陸上経験の少ない子たちは、バトンを渡すときに弧を描くように渡す。
しかし、これでは動作が多きため、1回失敗すると立て直しが難しくなる。
しかし、プッシュバトンで腕振りの延長で直線的にバトンを渡すと、1回失敗してもあまり支障がでない。
さらにバトンを受け取るとき、通常は手のひらを空にむけるようにするが、最近は手のひらを
地面に対して垂直にし、相手に見えるようにだす。
しかし、どちらも手をひねるという不自然なかたちなので、手のひらを下にむけて、したから渡す方法もある。
これは、手が自然な形で出るので、無理がない。
ただし、その際にも下から「手の平に押し込む」感覚はきちんと教える。
相手が完全に握ってから、渡す方は手を離す。
手を離すと言うより、相手が持って行くという感じの方がいいかもしれない。


バトンパスのときに後ろを見ない。
しかし、これは低学年の子にはあてはまらないと思う。
確実に渡すというのが、基本中の基本である。
バトンを落とすというミスは、リレーの場合大きな損失になる。
後ろを見ながらでもいいので、確実にもらうことをまず教える。


走るのが苦手な子のための工夫も必要になる。
バトンゾーンが20mなら、苦手な子はぎりぎりでまち、走る距離を縮めることも考えられる。
しかし、この作戦は非常に目立つためある程度の配慮は必要である。

バトンを持つ手は交互にする。
これも小学校レベルでは難しい。
1走の人が右手でバトンを持って走るなら、2走の人は左手でもらって左手で持ったまま走る。
要するに、バトンを持ち変えることはしない。
落とすリスクは減っても、技術的可能かという疑問は残る。
バトンは持ち変えるよう指導する。
それが基本である。

最後にバトンパスのポイントを整理する。

1 バトンを渡す人は、バトンのはしをもつ。
2 左手で渡して、右手でもらう。
3 渡すときに「ハイ」という。
4 もらう方は走りながらもらう。
5 もらう方がトップスピードで走りながらもらう。
6 バトンパスをしたあと、渡す方がもらう方を追い越す。

以上の点を、学年にあわせて指導する。
ステップを踏んで、リスクとのかねあいを考えてどのレベルまで行うかは担任の判断である。
基本はあくまでの安全に確実に渡すことである。

SCENE36(saitani)


生活の糧として教育を行うに足る技能

2005年05月28日 23時45分49秒 | 授業論
最近、印象に残った新聞記事から。
平成17年5月28日(土)朝日新聞の記事。
良医をめざして 医療はいま 第3部。

ここに登場する医師は、椎久哉良医師、36歳。
彼は突然妻にこういう。
「3年間だけ、おれに時間をくれ」
医局を離れて、民間病院に研修に行くためだ。
そのまま医局員として過ごせば、関連病院などの就職先も確保され、自称「心臓外科医」として安定した生活が保障されている。
しかし、その安定を捨てて彼は民間へ行くという。
その理由は、ただ一つ「とにかく手術ができるようになりたいんだ」。
医師でありながら「手術」ができない。
矛盾を感じる。
そして、ほとんど手術の補助ばかりで、指導を受けながら初めて一人でバイパス手術をやり終えたのは医師に6年目にだった。

「いずれ一人前になれるだろう」と考えていた彼もその考えはまったくの誤りだったことに気づく。
脂ののった40~50代で年間100件にみたない手術しかできない心臓外科医になることに強い危機感を抱いたのである。
教師も「いずれ一人前になれるだろう」そんなふうに考えているとしたら、大きな誤りだと思う。
経験は意図的、計画的に積まねばならず、たとえ20、30年経験を積んだとしても、ひたむきな努力と謙虚さがなければその経過した時間はまったく意味を持たない。

自分の行為や教育に対して、どれくらいの教師が危機感を抱きながら仕事をしているのだろう。
最近、いろんな教師をみていて気になる。

自分も担任をもっていれば年間1000時間近い授業を行う。
しかし、現在の状況ではその半分にも届かない授業時数である。
これで、授業に対する感覚が鈍らない方がおかしい。
医師が手術の結果によって評価されるように、教師も授業を行い子どもたちの結果によって評価される。
手術ができて初めて医師であるように、授業をきちんとできて初めて教師とよばれる。
だから、心臓手術の助手や手術台を囲み、出血した血を吸い取る補助しかできない現状に疑問をいだくことは十分に理解できる。

彼は、周囲の反対を押し切り、それまで続けてきた血管移植研究をやめ、学位もとらずに大学を去り、心臓外科医を養成する研修システムに飛び込んだ。
この研修システムに応募した多くの医師は、「行くなら医局はやめていけ」と強い締め付けを受ける。

研修が始まってもだれも手取り足とりして教えてくれるわけではなかった。
ノートにメモしながら「盗む」ことに徹したという。
さらにミスには特別きびしかった
手術後の感染への対応が遅れ、1ヶ月間手術室への出入りを止められたこともあった。

彼は言う。
「以前は件数が少なかったので手術の日になると高揚感があった。
 数多く経験し、いまは緊急手術にも淡々と向かうようになった。
 予期しないことが起きた場合の対応も学んだ。」
挑戦をせず、自ら学ぼうとする厳しい環境に身を置くことなく、安定した医局にいたなら決して学ぶことができなかった心境である。

自分の今の状態を考えると反省すると共に教師にも同じ事がいえると思う。

SCENE35(saitani)

事実と意見2

2005年05月28日 02時26分54秒 | 授業論
すべての文を読むときには、次のことに注意する必要がある。

事実が書いてあるのか、意見なのか。
事実の記述だとすれば書き手が経験した事実か、伝聞の事実か。
意見だとすれば、誰の意見か。

意見には次のようなものが含まれる。

1 推測 推定 何かの根拠にもとづく推測。
2 評価 判断 ものごとや人物などについてのその人なりの価値判断。
3 意見    狭義では、その人なりに考えて到達した結論。

事実は言葉の世界の外にあります。
つまり、言葉によって表現しようとしまいと、事実は存在する。
意見はこれとは違って、ことばによって組み立てられるもの、言葉で言い表したときに初めて生まれるもの。

事実は記述に関して、「真」という判定があるのは理解できる。
しかし、意見に対しては、「正しい」という評価ありえるのか。
意見が正しい、正しくないといういい方が許されるのは、事実に対する推測、推定の場合だけである。
よく意見に対して人がよく「その意見は正しい」というのは「それは自分の考えにあっている」あるいは「それが多数意見だ」という意味に過ぎないと思う。
多数意見を「正しい意見」と錯覚することはさけなければならない。
意見は人によって違うのだから、意見を書くときには、それが誰の意見かを明示しなければなりません。
原則的には、「わたしは……と考える。……と思う。」とはっきり書く方がいい。

SCENE34(saitani)

事実と意見1

2005年05月27日 01時52分44秒 | 授業論
まず、事実と意見を定義する。

事実とは、証拠をあげて裏付けすることのできるもの。
意見というのは、何事かについてある人が下す判断。
ほかの人は同意するかもしれないし、同意しないかもしれない。

例えば、次の二文のうちどちらが事実の記述なのか。

ジョージ・ワシントンは米国のもっとも偉大な大統領であった。
ジョージ・ワシントンは米国の初代の大統領であった。

アメリカでは、小学生の頃から事実と意見とを区別させる教育がきちんとされる。

事実というのは様々ある。
その人が言ったことがたとえ間違っていても、「その人の言葉」「何々に書いてあること」としては引用の事実として扱う。
それは、出所をたしかめることができれば、事実の記述とされる。

ある子が「○○先生はきらいだ。」といった場合は、「きらいだ」は意見だが、ある子が「○○先生はきらいだ。」と言ったことは事実になる。
さらに、自分が直接見たり聞いたりした事実は直接経験の事実と言い、他人の口や文章から知った事実は伝聞の事実という。

SCENE33(saitani)


指示について

2005年05月26日 04時04分08秒 | 授業論
授業中や学校での活動中、教師は多くの指示を出す。
その指示が適切であれば、子どもたちの活動は混乱することなく行われるが、間違った指示やよほどのことがないかぎりしていはいけない指示の追加などをするとたちまち集中力はなくなっていく。
授業の骨格が、発問、指示、説明であるように教育活動の中核をなすのが指示ではあるが、あまり重要視されていない場合も多い。

指示は大きく二つに分類できる。
一つは、子どもを動かす指示。
もう一つは、学習内容にかかわった指示。

前者は、「教科書をひらきなさい」「掃除を始めましょう」「赤鉛筆でかきます」などのいわば単純に子どもを動かすような指示である。
それに対して後者は、「○○のようにやってごらん」ろいう、学習内容に直接かかわる指示である。

基本的なことをいくつか。
指示の意味を説明する。
一時に一事を指示する。
短く限定する。
全員にする。
指示の追加はしない。
とくに大切なのは、一時に一事の原則。
よくしてしまうのは、「教科書の○ページをあけて、漢字にふりがなをふって、音読をしなさい」というような指示。
この指示には複数の内容が含まれている。
まずはこのような指示はやめる。
一回にひとつのことだけを伝えるようにする。
「教科書の○ページを開きます」
「漢字にふりがなをふります」
「音読練習をします」
さらに「10分でやります」というように時間や回数をつけるとさらに集中して取り組める。

どうしても複数の指示をしなければならないときは、予告文の形で指示する。
「今から、お昼を食べます。
気をつけることを三つ言います。
一つめは、……、二つめは、……、三つ目は、……」。

学習内容に関する指示は、教師の技量が反映された形で出てくる。
よい指示とそうでない指示の違いは、子どもの動きが変わるか、また、できないことができるようになるかという観点でみていくとよく分かる。
たとえば「力を抜かせたい」とき、「力をぬきなさい」ということばはまったく意味をもたない。
わかりにくい指示やいくらその通りにやってもできるようにならない指示は、このような構造になっている。
逆によい指示は、やってもらいたいことをそのまま言うのではなく、別のことばで言い換えている。
こどもがイメージできる言葉と言ってもいい。

では、こどもが変化する言葉をどうして見つけるか。
一つめは、イメージ語を探し、それを別の言葉にするということ。
たとえば柔らかく、しかも遠くまで響くような声を出させたいとする。
次のように指示する。
「お月様に声をそっと届けるように歌ってみよう」
要するにイメージ語を探すのである。

二つめは、身近にある具体的なものにたとえる。
ゆったりとした声を出すには、「横隔膜がほどよく下がった状態で歌う」ことが大切だと言われる。
このときは、「カメラのシャッターを押す瞬間を想像しよう。」と指示する。
子どもたちの生活経験の中にある行為の中からイメージさせる。

三つ目は、数やものを指示する方法。
「ほんの少しだけ間をあけて」と言うよりも、「シャーペンの芯2本分くらいあけて」というように指示する。

この指示を意識することにより、教師の技量も向上し、統率のとれた学級が育っていく。

SCENE32(saitani)


子どもの非言語的情報

2005年05月22日 00時07分19秒 | 授業論
教師はよく「子どもたちは集中力がない」と言う。
ではこの集中力、どんな事実をもとに判断するのだろう。
まず考えられることは、きちんと椅子に座っているということだろう。
しかし、抽象的で漠然としている。
ある本に次のように書かれている。

子どもたちが学習に飽きてくるプロセスは次のようであるという。

0 適度な刺激の欠如
1 気が散る
2 姿勢がくずれる
3 落ちつきを失う
4 動き出す

さらに具体的に、子どもたちのサインを対応させてみる。

1 気が散る     「目」が散る
2 姿勢がくずれる  「背中」が曲がる
3 落ち着きを失う  「手」が動く
4 動き出す     「足」が動く

どの段階の指標で自分は気がつくだろうと考えてみる。
いつも見えているのは2レベルかなとも思う。
目の観察には少し時間がかかるかもしれないが、2レベルの「背中」はすぐに観察可能である。

次に無限にある教室場面をできるかぎり細分化してみる。
一点に集中して見るという前提で考えてみる。

0 リコーダーの練習の時、口元を見る。
1 授業が始まるとき、背中をみる。
2 個別指導の時、目(視線)を見る。
3 グループの話し合いの時、頭をみる。
4 発言・発表の時、足を見る。
5 何かを練習しているとき、手をみる。
6 集会の時、頭の揺れをみる。

その場面での子どもたちの心理状態を端的に表している部分は何かを考える。
例えば3のグループによる話し合いの場面。
何を見れば集中していると判断できるのか。
それは頭である。
頭の何を見るのか。
それは各班ごと、頭のくっつき具合いを見るのである。
これで班ごとの取りかかりの状況がほぼ見て取れる。
頭を寄せ合っている班は集中して話し合っている。
そして、さらにこの状況を波及させるために、
「○班は、立派です。
 頭を寄せ合って話し合えているね。」
と指導的評価の声かけをする。

子どもを見るとは、子どもの非言語的情報(しぐさ、動作、姿勢)に着目した子ども理解の方法である。

SCENE31(saitani)




暗唱・素読の意義

2005年05月21日 22時53分43秒 | 国語科
わたしは担任をするとずっと子どもたちに暗唱をさせてきた。
これは本来のカリキュラムにはない学習なので強制はしない。
教師が選んだ詩、古典、名文を月に2~3くらいをプリントし、配布してノートにはらせる。
年間を通して30くらいの暗唱文が提示されることになる。
子どもたちが見つけてきた詩を全員に紹介してきた時期もあるが、やはり子どもたちが熱中して暗唱に取り組むのは古くから多くの人々が口ずさんできた名文とよばれるものだった。
なぜか子どもたちは自主的に暗唱に取り組む、その理由は何なのか。
また、暗唱する意義はどこにあるのかを考えてみる。

一つめに考えられることは、日本語独特のリズムや音が心地よく楽しいと言うことである。
数々のレトリックや表現技法が使われている作品。
とくにリフレイン、擬人法、比喩などのが効果的に使われている物は、リズムが一定しているのですぐに覚えられる。
また、その作品を暗唱することにより、先に述べた優れた作品をつくるための修辞法を理解することにつながり、音声による表現活動が、文字による表現活動にもつながっていく。
そういえば受験生時代、英作文上達のこつは、代表的なイディオムが含まれた英文を覚えることだと言われた。
英語構文700選だったと思うが、受験時代暗記した記憶がある。
この構文を暗記することにより、語彙の使い方が理解できた思い出がある。

二つめに考えられることは、暗記することの適時性がある。
物事をするに適した時期というものがあることは明らかである。
とくに音楽やスポーツの世界は、小さいときからきちんと教育を受けなければプロの世界で生きていくことは難しい。
わたしの経験では、暗記に適した年代というのは俗にいわれているシングルエイジが適切だと考える。
子供の頃に暗唱して覚えたことは、大人になっても忘れることはない。
たとえふだんは忘れていても、何かの拍子にこの言葉が思い出され、そのたびに、時間を無駄にしないで関心を持続した形で学習に取り組むことができるのである。

三つ目は、暗記の方法を身につけることができることにある。
物事を暗記したり、暗唱したりする活動はその内容を暗記することにとどまらず、内容を身につける方法論も身につける行為である。
内容の理解は、ある程度の範囲に限定されるが、見つけた方法論はどんな場合でも応用できる。
だから暗記するという活動は、多くの知識を身につけるための基礎となる行為なのである。
暗記するときには頭の中に引き出しをつくり、整理する活動に似ている。
多くのことを暗記すると言うことはその引き出しが増えると言うことにもなる。

次に、暗唱とは少し異なるが素読について考えてみる。

素読とは「文章の意味を気にせずに,暗誦できるようになるまで,繰り返し音読すること」である。
明治期以前は「論語」などをテキストに漢文の習得方法としてひろく行われていた。
有名な話では,ノーベル賞を受賞した湯川秀樹氏もこの方法で漢文脈に親しんでいた.
科学における思考でも、論語の暗記活動は役に立ったと後に湯川氏は述べている。

日本の伝統的な教育システムである寺子屋では四書五経の素読が重視されていた。
江戸時代の思想家で教育家でもあった貝原益軒は、記憶力が強い子供の時代に、四書五経を声を出して読むことをひたすら繰り返すことで、その全文を暗誦してしまうことが大切だと言っている。
素読とはまさにそのことで、寺子屋では、生徒が七、八歳で入学してくると、四書五経の内容を理解する前に、まず素読を繰り返すことによって暗誦させたという。

また、四書五経に代表される名文や古典、古くから歌い続けられてきた詩歌には、人間社会の真理が歌い込まれている。
あの斎藤孝氏の『声に出して読みたい日本語』がベストセラーになったのは、読者が無意識のうちにそのことを実感したからだとも言える。
そしてその内容を左脳で理詰めに理解するより、声を出して何回も繰り返すことによって、右脳で大まかに感じることの方が先決であると考えられてきた。
江戸時代には小学一、二年生の年頃の生徒が、大声で四書五経を素読し、暗誦していた。
その効果は幕末の遣米使節が、ちょんまげに着物姿という近代的なスタイルで、英語が話せなかったにもかかわらず、その堂々たる立ち居振る舞いがアメリカ人を感動させたという有名な話からもわかる。
素読による人格形成は、日本の伝統であった。

さらに素読は、現在から将来わたって「考える力」の基礎となってきた。
素養という言葉ある。
一定水準以上の教養,素になる知材である。
人は今は意味がなくても,必要となる知材を蓄えていなければならない。
名文を暗唱することは,子どものうちには使い切れないが,成長するにつれて言葉を美しく使いこなす際に土台になる。
美しい言葉遣いに慣れている,それが暗唱ということの意味なのである。
もともと考える行為は、暗記・暗唱などにより、基礎・基本になるものを蓄えてこそ出来る行為なのである。

実際、小・中学生の頃は、基礎・基本を身に付けるために、徹底した暗記・暗唱が強制され、それが今日「考える力」として生きて働いている。
古くは小学校入学間もない頃から、国語読本の「サイタサイタサクラガサイタ」から暗唱させられ、新出漢字は書き順に従って何回も練習させられた。
更にその上、家庭でも宿題として書かされた。
現在でも算数の九九の暗唱をはじめ、学習の多くは暗記を前提としている。
中学校では、英単語・数学の公式・漢字・国文法(動詞・形容詞・助動詞などの活用や接続詞)を暗記する。
徹底して暗記・暗唱が、後に考える力として、また文章を書く力として大きく働くようになる。
これは誰でも経験していることである。

最後に、音読・暗唱は、国語の学力の根幹をなすということ。
その上、とりわけ暗唱は、充実感・達成感・満足感を得ることができるということ。
一部には、丸暗記しても意味が分かっていなければ無駄であるという思いこみがある。
まず、この既成概念を打破することも必要だと考える。

SCENE30(saitani)

許してくれた天使

2005年05月18日 01時16分34秒 | 人生論
前回紹介した本の中に書かれている詩のひとつ。

許してくれた天使

やさしさとは 相手を決して 責めないこと
そう教えてくれたのは あなたでした
何件も急変があって
泣きそうになりながら廊下を走っていたわたしに
あなたの呼ぶ声は 届かなかった
あんなに正面切って喧嘩したのは
あとにも先にも あなたとだけなんですよ

泣きはらして あなたのもとへ行ったとき
あなたも 泣きはらした目をしていた
そっと手を差し出して「また来てな」と言ってくれたとき
あなたの大きさを 感じました
今度あったら「来たよ!」って言いますね
だから わたしのこと
ずっと覚えていてくださいね

SCENE29(saitani)

Starting Point

2005年05月15日 21時32分29秒 | 人生論
金曜日、教え子から電話をもらった。
彼女は現在、東京の大学病院で看護士として働いている。
私が初めて6年生を1年間担任したクラスの子どもである。
彼女は出会ったときから、「夢は看護婦になること」と一貫して言っていた。
毎年くれる年賀状にも、「小学校の時の夢をずっと追っています」と書かれていた。
お母様にお会いしたときにも、「あの子は先生との約束通り、まだ看護師目指して頑張っています。」とおしゃっていた。
12歳の時の夢を忘れずに困難に負けずに努力し続けることは大変な事であったと思う。
電話の声はあの頃と変わらず、明るく元気だった。
長時間の仕事であり、責任がある仕事であるが、彼女は「仕事が楽しい」という。

最近読んだ本から。
この本には、ターミナルケアに携わった一人のナースが目にした16人のドラマが書かれている。
生きる喜びと家族の愛、そして命の尊厳を綴った感動のメッセージである。

鳥が大きくはばたいて空に舞い上がる時、美しい羽根を落とすことがあります。
人も同じように、天に帰る時「見えない羽根」を落とすのかしれません。
その羽根は、持ち主が去ったあとも地上に残り、静かに、でも確かに、大切なメッセージを発し続けているのではないでしょうか。

今をしっかり生きることは、それは決して、強く生きるということでも、立派に生きるということでもありません。
そうだとしたら、まず私自身が間違いなく失格でしょう。
それは、常に弱さやおろかさを持つ自分を受け入れながら「今を生きていること」そのものに意味があるのだということを忘れないで、くじけず生きることではないでしょうか。

SCENE28(saitani)

逆上がりへの挑戦2

2005年05月14日 04時09分25秒 | 体育科
逆上がりができない子のつまずきを考えてみる。

ステップ1
自分に適した高さの鉄棒で練習していない。
踏み切る足が一定していない。
鉄棒を握る手が逆手になっている。

ステップ2
わきがあく。
足のけりの方向が前へ流れている。
足のけりが弱い。

ステップ3
起きあがる力が弱い。

この中でも重要となるのはステップ2ということになる。
ステップ2における三つのつまずきは相関関係にある。
つまり、わきがあくのは、足のける方向が前へ流れることが大きな要因である。
わきが開いてしまうと、腰が鉄棒から離れてしまい、鉄棒にあがることは不可能である。
わきをあけにないようにするには、足のけりを上後方へ、けりを強くする必要がある。

各ステップにおけるテクニカルポイントを示す。

ステップ1
自分の胸からおへそくらいの高さの鉄棒を選択する。
軸足を前へ出させる。
順手でもつ。
肘を曲げさせる。

ステップ2
わきをしめる。
足のけりの方向を上後方にする。
けりを強くさせる。

ステップ3
頭を起こさせる。
ひざを曲げさせる。
手首を返す。

では、実際の指導をどうするか。

逆上がりにつながる基礎感覚、基礎技能を育てる準備運動を前回に引き続き紹介する。

だんご虫
この運動でわきのしめ、腰のひきつけを容易にする。
二人一組となって3回ほど繰り返す。

起き上がりこぼし
この運動は、ステップ3の段階を容易にする。
頭のおこし、手首の返し、ひざを曲げないとなかなかおきあがることはできない。
これも二人一組で3回繰り返す。
起きあがれない場合は、補助をする。

登り棒さかあがり
この運動は足のけりと方向を体感させる。
さかさになる恐怖心も取り除く。
つまり、逆さ感覚をみにつけさせる。

体育の場合は、まず出来ない原因はなんなのかを考えることが第一歩である。
子どもたちのつまずきはどこにあるのか。
そして、その原因を取り除くにはどのような準備運動が必要なのか。
それを理解するには、やはり様々な方法で学ぶしかない。

一連の運動を細分化し、分析を加える。
プロはほんの数秒の動きであっても、詳しく説明できる。
逆上がりの運動をそれだけ細かいスモールステップに分けられるか、そのことにも教師の技量が反映される。 SCENE27(saitani)