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慰霊祭「平和考える機会」は,訴える -上田で自決の「特攻」助教官の慰霊祭-

2015-05-04 00:37:11 | 「身の程」人生

 

〔戦争の放棄と戦力及び交戦権の否認〕
第9条日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

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 気がつけば世界第3位ともいわれる軍事大国日本。中国,韓国,北朝鮮との軋轢,沖縄米軍基地,日米安保条約,集団的自衛権,・・・・。何があろうとも戦争はいけない。永久に日本の平和を守っていくすべはいかに。

 戦後70年の節目の年にあたり,日本の戦争責任,平和憲法の是非などが,改めてとわれている。そんな時代背景もあってか,ともすると特攻を是としたり,美化する動きもみられる。そんな時節にあって,長野県上田市の慰霊祭「平和考える機会」は,何を訴えているのか・・・・。 

 

◆産経新聞 産経抄より 2013/08/14

 

 ・・・・・(略)。 そればかりではない。戦後 「丸腰」で再スタートを切った日本が近隣国、社会主義国の攻撃をまぬかれたのは日米安保条約による ところが大きい。だがそれらの国の人々の脳裏にもあの戦いぶりが焼き付いていた。そのこともまた、日本の平和を守ってきたといえる。

 つまり特攻隊をはじめ国のために戦い、亡くなった人たちは戦後の国力と平和、それに他国への「抑止力」を残してくれたのである。そう考えるなら、その英霊を祭る靖国神社などに参拝、感謝するのは当然だ。義務ですらある気がする。

 

   :::::: みすずかる信濃 上田で自決の「特攻」助教官 遊佐卯之助准尉   ::::::::::                            

 

上田飛行場と昭和初期の上田の街


慰霊祭「平和考える機会」 上田で自決の「特攻」助教官 遊佐卯之助准尉
   出典:信濃毎日新聞電子版 04月30日(木) 
http://www.shinmai.co.jp/news/20150430/KT150428FTI090010000.php

 終戦直後の1945(昭和 20)年8月、妻子と共に自ら命を絶った熊谷陸軍飛行学校上田教育隊(上田市)の助教官、遊佐卯之助(ゆさうのすけ)准尉(30)=当時=の慰霊祭が今年 の終戦記念日の8月15日、上田市富士山(ふじやま)の現場近くにある慰霊碑前で開かれる。戦後70年の節目に、20年ぶりの開催。慰霊碑を建て、その後 も管理を続けてきた上田市の人たちにお礼をしたい―と遺族からの申し出を受け、交流のある市民が慰霊祭を準備している。

 遊佐准尉は、上 田市中之条にあった上田飛行場で特攻隊員を訓練した。終戦後、22歳の妻秀子さんと、生後1カ月に満たない長女久子ちゃんを道連れに、「猫山」と呼ばれる 里山の斜面で自殺。8月19日に見つかった。両親宛ての遺書には「特攻の花と散る日をまちしかどときの至らで死する悲しさ」という辞世の歌が残されてい た。

 慰霊祭を準備している村山隆さん(68)=上田市下之郷=は「教え子を特攻隊員として送り出し、遊佐准尉も身をもって責任を取った のではないか」と推測する。村山さんの父、故忠夫さんは同飛行場で練習機の整備を担当し、准尉と親しかった。忠夫さんは准尉をよく知る人たちと一緒に寄付 を募り、56年に「遊佐元航空准尉及妻子殉国慰霊碑」を建てた。その後は、地元の下組(しもぐみ)自治会が中心となって周辺の草刈りなどをしている。 300メートルほど離れた自決現場にも碑が残されている。

 現在は、准尉のおいで自営業の森田敏彦さん(57)=東京都昭島市=と村山さ んが連絡を取り合っている。森田さんは20年前に教え子らが開いた戦後50年の慰霊祭に参加したこともあり「上田市の人たちに感謝の気持ちを伝えたい」と 申し出た。村山さんは「准尉のことを地域の人に知ってもらい、戦争と平和を考える機会にしよう」と考えた。准尉について調べた郷土史研究家らに声を掛け、 近く実行委員会をつくる。

 発起人の一人、佐藤恵子さん(55)=上田市中野=は、地元の有線放送でアナウンサーをしていた10年前、准 尉を取り上げたラジオ番組を制作。当時を知る人たちを取材した。「戦後70年の節目を機に、戦争の悲劇を二度と繰り返さないためにも遊佐准尉のことを知っ てほしい」と話す。

 当日は慰霊祭に先立ち、自決現場の見学も行う。誰でも参加できるが、村山さんは「当時の上田飛行場を知る人や、慰霊碑の建立に関わった人がいれば、ぜひ参加してほしい」と話す。問い合わせは村山さん(電話0268・38・3179)へ。




  5月3日,第61回知覧特攻基地戦没者慰霊祭行われる。

                     (KTSテレビニュースより)

 太平洋戦争末期旧陸軍の特攻基地があった南九州市で5月3日,特攻隊員ら戦没者の霊を慰める慰霊祭が行われた。 知覧特攻平和観音堂で行われた61回目の慰霊祭には,特攻隊員の遺族や戦友ら約1000人が全国から参列した。参列者全員が献花を行い,手を合わせながら戦後70年の節目の年にあらためて平和の大切さを誓った。

         ::::::::::    知覧       ::::::::::::::::::::::::::::::

 鹿児島空港を出て,車はすぐに高速道路に乗り、南下して鹿児島市方面に向かう。丘陵の入り組んだ複雑な地形の中を貫通する有料道路を40分程走り,鹿児島市の西郊を通過したところで一般道に降りる。
 しばらくすると左手にまぶしく輝く錦江湾が視界に入る。少しして右折して山道に入り、道はうねうねと上っていく。登ることしばし、前が開けて峠を越えたことを知る。
 暗い木立の中から明るい台地にが広がる。眼には、緑がまぐしい。両側に茶畑が続く道はゆるやかに下る。そして、知覧の町に入る。


 知覧の町は山懐に抱かれ,小さな盆地にひっそりとたたずむ。とくに北側の山は高く、切り立つようにして冬の北風をさえぎり、この地を守る役を果たしている。メインストリートはほぼ東西に数百メートル、その裏に二、三本の道、そんな小さな平和な町が知覧である。
 もし、1945(昭和20)年の3月から約二か月半にわたって起きた特攻がなかったなら、いまほどこのな町は知られることはなかったであろう。ことほどのどかな場所である。


 知覧から20キロ程先にあるの開聞(かいもん)岳は,900メートル余りと決して高い山ではない。だが東シナ海に突き出すようにそびえる「薩摩富士」の存在感は格別である。昔から鹿児島湾に入る船が目印にしていたという。


 大戦末期の1945年3~6月,20キロほど北北西にある知覧の基地を飛び立った特攻隊の戦闘機は、開聞岳を目指した。そこからまっすぐ南下すれば標的の米軍艦隊がいる沖縄の海である。山に別れを告げ攻撃に向かったという。



 
草思社刊 『ホタル帰る』は,戦争末期という息づまるような状況のなかでの人の行動と,その後を記録した貴重な証言である。こうした記録と証言は風化させることなく語りつがれて欲しい。

 気がつけば世界第3位ともいわれる軍事大国日本。中国,韓国,北朝鮮との軋轢,沖縄米軍基地,日米安保条約,集団的自衛権,・・・・。何があろうとも戦争はいけない。日本の平和を守っていくすべはいかに。
 

ホタル帰る―特攻隊員と母トメと娘礼子
 軍の指定食堂を経営する鳥浜トメは長女の美阿子と次女の礼子とともに、出撃する特攻隊員を温かく迎え、送りだした。隊員たちもトメを実母のように慕った。トメの生き方と特攻隊員たちの最後の様子を、トメの娘礼子が語った物語。

草思社
文庫 ホタル帰る 特攻隊員と母トメと娘礼子 (草思社文庫)
▼追悼 赤羽礼子さん  
  本書の著者(共著)。 昭和5(1930)年、鹿児島県知覧生まれ。20年2月、県立知覧高等女学校3年進級を前にして、勤労動員で知覧の特攻基地へ。隊員の世話をする。動員解 除後は母トメのもとで隊員たちの世話をする。31年赤羽茂一と結婚。二児の母に。45年、新宿三丁目に酒亭‘薩摩おごじょ’を開店、元特攻隊員が全国から 礼子を慕って集い、賑わった。平成17年10月16日腎臓ガンのため逝去。
草思社

 

 

     
 
とてつもない日本 (新潮新書) 新しい国へ 美しい国へ 完全版 (文春新書 903) 私は日本を守りたい    
麻生太郎著・734円 安倍 晋三著・ 864円 稲田 朋美著・ 1,620円    
     
       
国防 (新潮文庫)        
石破 茂著・ 514円        

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