永六輔さんは太平洋戦争末期の二年間,長野県小諸市に疎開していた。平和を愛し,護憲を訴えた活動の原点に,戦時中の体験がある。晩年は病気(パーキンソン病)と戦いながら戦争の悲惨さを伝え続け,最後まで『戦争は駄目だ』と言い続けた。
語り継ぐ,永六輔さんの思い
私,26日に上田で開かれ「永六輔さんを偲ぶ会」に出席しました。
出典: 信濃毎日新聞 2016/11/27 34面
上田市出身の作家兼編集者・故小宮山量平さんの編集室「エディターズミュージアム」(上田市天神)は26日,放送作家,作詞家,ラジオパーソナリティーとして活躍し7月に83歳で亡くなった永六輔さんをしのぶ特別講座を開いた。出席した約50人は,20年前に市内で開いた講演の映像や,永さんが作った歌,絵本に接し,その姿を思い起こしていた。
永さんは戦時中,小諸市に疎開し,旧制上田中学(現上田高校)に通った。その後,50年余,上田市を訪れることはなかったが,小宮山さんとの交流を機に1996年10月,永さんの講演が実現した。以来,永さんは同ミュージアムの設立にも協力し,小宮山さんが亡くなった後も同市で講演会を開いてきた。永さんの死後,お別れ会を上田で開いてほしいとの声が同ミュージアムに多く寄せられ,特別講座を開いた。
「上田が大っきらいだった」と題した講演の映像では,戦争を経験したつらい思い出から上田を訪れなかったことを語る永さんの姿が映し出された。永さん作詞の「上を向いて歩こう」などのサックス演奏や永さんが作った絵本や詩の朗読もあった。
小宮山さんの長女で同ミュージアム代表の荒井きぬ枝さん(69)は「永さんは,最後まで『戦争は駄目だ』と言い続けてきた。これからも永さんのメッセージを語り継ぎたい」と話していた。
●小宮山量平 [こみやま・りょうへい]
1916年(大正五年)長野県上田市に生まれる。
東京商科大学(現一橋大学)卒業後,旭川での軍隊生活を送る。敗戦後1947年出版活動を志し理論社を創業,長年にわたって編集者として活動を続ける。
著書に「編集者とは何か」「子どもの本をつくる」(日本エディターズスクール出版部)「戦後精神の行くえ」(こぶし書房・共著)「千曲川」第一部~第四部(理論社)「昭和時代落穂拾い」「やさしさの行方」「20世紀人のこころ」(週刊上田新聞社),「悠吾よ!」(こぶし書房)など。
1998年「千曲川」第一部で「路傍の石文学賞特別賞」を受賞。また,戦後出版界をリードした編集者としての功績により2001年信毎賞(信濃毎日新聞社主催)を受賞。
2012年4月13日,95歳の生涯を,静かに閉じる。
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上を向いて歩こう- 悲しい時・・・・・・ 永六輔さん 2011-09-09 16:14:29 書き込み|
東日本大震災後,「上を向いて歩こう」(永六輔作詞,中村八代作曲)が,人々を勇気づける歌として,多くの人が口ずさんでいます。
今年6月,TBSラジオの永六輔さんの番組-「7円の唄」で次のようなやりとりがありました。ある視聴者から,永さん宛の一通の手紙。
永六輔様--
私は悲しい時に,無理して上を向いて歩きたくはありません。悲しい時は,下を向いて歩くのが自然ではないでしょうか・・・・。
永六輔さん談--
悲しい時に下を向いて,涙を流して当然です。 「上を向いて歩こう」は,今から40年前につくった詩です。小学校5~6年生をイメージしました。子どもが,何か悲しい出来事があって,「思わず涙がこぼれそうになった時」,空を見上げて「グッとこらえよう」との想いをこの詩に託したのです。大人を励ます歌ではないのです。私も悲しい時に下を向いて,涙を流して当然と思います。
作詞(詩を書くこと)は,この手紙にあるよう誤解を招くことが多いので,それがいやで私は作詞をやめました。
TBSラジオ-永六輔 2011年6月22日
皆さん,悲しい時は,下を向いて思い切り泣きましょう・・・・・・。
上を向いて歩こう 永六輔作品集 | |
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永六輔の誰かとどこかで―七円の唄 (CD付) |
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