佇む猫 (2) Dr.ロミと助手のアオの物語

気位の高いロシアンブルー(Dr.ロミ)と、野良出身で粗野な茶白(助手のアオ)の日常。主に擬人化日記。

治療師か詐欺師か(2)それぞれのバイアス

2019年08月23日 | 手記・のり丸
 
「川田さんの犬」の話をすぐに書きたいが、今「川田さんの犬」の話を書いても、(背景がわからなすぎて)読んだ人の混乱を招くだろう。
私がどんな視点(立ち位置)から見ているのか、ということを明らかにしていないからである。
(3~6回遠回りした後で、自分の立ち位置を明らかにして、ちゃんと書くことができれば、と思うが…)
 
 
私の場合、文を書く時に「男」感性、「女」感性のバイアスが掛からない方が自分らしく書きやすい。
だから主に「私」を使って書いている。
 
私は性別に違和感を持って育ってきたわけではないし、ジェンダーレスを強く望んでいる人間でもない。
ただ自分の内部にはどちらの感性も存在しているし、それらが融合されたものもあると感じている。
自分だけではなく、人間はだれしもそうかもしれないと考えている。
(猫のロミも「ウチ」じゃなくて、本当は「おいら」「あちき」「小生」などと言っているかもしれないが…)
 
世界には約37億の男と、約37億の女がおり、同じ人間はひとりもいない。
私は性差より個人差の方が大きいと考えている。
むろん男女の違いを大切に考えている人の価値観を否定する気はない。
 
《もし、だれかが「あなた」をバカにしたり蔑視したとしても、あなた自身は「あなた」をバカにしたり蔑視してはならない。
「あなた」は、世界にたったひとりしかいないユニークな存在なのだから。》
私はひとりひとりの人間にそう伝えたいと思っている。
 
  
「人生は帳尻が合うようにできている」という言葉を聞くことがある。
 
だが、だれかがある人の人生に対して「人生の帳尻が合っている」と判断するのは間違いだ。
決して「その人の人生を経験することができない」他者が、その人の人生に対してジャッジメントすることは、単なる未熟さの表れであると私は思う。
 (補足すると、どんな人間も他者から自分の人生をジャッジメントされたくないのである。)
 
人間関係はお互いの誤解の上に成り立っている。
認知バイアス、ジェンダーバイアス…それぞれが自分のバイアスを通して他者を認識しているのだ。
 
そして人間同士は「出会う」ことによって化学反応をおこし、更に「変化」していくのである。
20年前の「あの人」と今の「あの人」は別人であり、「こんな人だと思わなかった」とかっがりしたとしても、もはや別人だからしかたがない。
 
東洋医学ではこう捉えている。
「変化」とは、事物がその質を変えずに発展することを「変」、質の異なる新しい事物に生まれ変わることを「化」としている。
 
「陰」が極まると「陽」に転化する。
ずっと陰ではなく、ずっと陽でもない。
物は極まれば「反す」のだ。
そして新しい事物が生成されるときは、消滅する要素を内包しているのだ。
 
そう、私はずっと陽へ陽へ極まっていき、ある日突然、陰にひっくり返った。
そして川田さんに出会った。
それらすべてが想像もしていなかったことだ。
 
 
 
(今日のロミ)