佇む猫 (2) Dr.ロミと助手のアオの物語

気位の高いロシアンブルー(Dr.ロミ)と、野良出身で粗野な茶白(助手のアオ)の日常。主に擬人化日記。

治療師か詐欺師か(4)有害な人格(反社会的人格障害)

2019年09月08日 | 手記・のり丸
私のストレス解消方法はSF小説やミステリー小説を読むことである。
束の間、日常生活とは離れた世界に自分を置けるからだ。
 
ミステリーの場合、大抵「なぜ、そんなことで殺人を?」と犯人の動機に対して思うことが多い。
しかしミステリーで重要なのは「謎解き」の部分である。
私は紙に図を描きながらコツコツと謎解きをしたいので、できればノックスの十戒を破っていないものを読みたいと思う。
 
さて、huluでも公開されている「あなたの番です」の考察を重ねてきた私だが、そのドラマもあと1回で終わってしまう。
現代では(良くも悪くも)短時間のうちに「数多くの意見」を聞くことができる。
単に好き嫌いで推理している人、製作者側の意図から考える人、ディティールを見逃さない人(ミスリードを検証する人)、心理学的観点から推測していく人、過去の(実際にあった)犯罪の事例と重ね合わせて分析する人、現実の撮影場所に行ってみた人…それぞれである。
 
YouTubeを通していろいろな意見を交わしているうちに、「え?そのシーンってそうだったっけ?…確か自分の記憶では」と映像を何度か見返したこともあった。
正確に映像を記憶していたつもりだったが、自分のバイアスが掛かった記憶だったこともある。
今回はその事実に気付けてよかったと思う。
 
「あなたの番です」にも出てくるが、「AI」にはバイアスが掛からない。
その点において、AIは論理的考察には優れているのである。
 
これからの時代はAIとIoTが融合した時代になるといわれている。
 
 大昔の人は本を手書きで写して残してきた…そのように昔に遡るほど情報の伝達に手間がかかっていた。
人類が「調べもの」に費やしてきた時間が大幅に短縮されていき、「瞬時にして情報が入手できる」時代になっていくだろう。
(市役所に行くと、わざわざ紙に書いて印鑑を押すという旧式な手順はそのままだし、職員もダラダラ動いているように見える。
全部のシステムが融合するまで時間はかかりそうだが、AIが活躍する未来では市役所の職員が減っていくことは想像できる。)
 
人間は創造的な生き物であるから、ずっと先の未来では創造に費やす(本来の姿で創造に取り組める)時間が増えていくだろう。
 
私は本来すべての人間が「創造的」であると思う。
ひとり一人の人生が一つの作品であり、存在が芸術である、という捉え方があってもいいのではないだろうか。
人間がAIと違うのはその部分である。
 
世の中には「創造力」が突出しているように見える人がいるが、人間それぞれの「創造性」を比較することは無意味だと思っている。
定義などないし、感性は自由であるのだから。
 
 
癌とアルツハイマーを例にあげる。
細胞にはアポトーシス(プログラムされた細胞死)というものが組み込まれていて、役割を終えると自死するようになっている。
自死しなかった細胞が異常な姿になってどんどん増えていくのが癌、自滅的になった細胞がどんどん自死していくのがアルツハイマーである。(簡単にしすぎてしまったが)
 
癌の患者はアルツハイマーを発症するリスクが低いと発表している研究者もいる。
これは確定されている訳ではないが、逆相関があるのかもしれない。
癌細胞の研究をしていくうちに、アルツハイマーを防止するものが発見される可能性もある。
 
何がいいたいかというと、時代の流れの中ですべての出来事、すべての創造性が関連し合っているということである。
 
昔では考えられなかったドラマの鑑賞方法もそうである。
リアルタイムで数多くの人の考察を聞きながら、自分も推理に参加する、ということは「新しい形」である。
多くの意見に惑わされるのではなく、多くの人と共に考える、ということが未来型なのである。
 
未来では、他者と自分の比較、他者からの承認欲求、他者よりも自分がすぐれている部分を見せたい…そういう欲求が人間から徐々に消えていくような気がする。
個々がそれぞれ創造的なことをして、人との出会いで化学反応を起こしながら発展していく…ふとそんな感覚を覚えたのだ。
(私の希望かもしれないが…)
 
 
 
 
私は平和な時代に生まれ、両親は真面目な性格だった。
幼少期に日々の食べ物に困ることはなかった。
 
ある日私は父に言った。
「いつもなぜ疑うの?自分の子供なのに信じられないの?」
 
父はこう答えた。
「それはできないんだ。おまえを信じられない。親というのは子供がかわいくて仕方がない。不安で子供を信じられないんだ」
 
両親の気持ちは今ではわかる。
子供のうちは両親が自分自身のことより「家族を守る」ということを考えて行動していることがわからない。
 
 
小学生の頃、私は毎晩のように父に殴られながら勉強させられていた。
 
父は典型的な捻じれ体癖で(野口晴哉体癖」による)、手がすぐ出るタイプである。
いう通りに勉強しないと、椅子は蹴り倒されるし、ノートは鼻血まみれになるし…で、私は父の帰宅がいやでしかたがなかったのだ。
 
母は事実の追求をしないタイプだった。
例えば子供が何も悪い事をしていなくても、相手が「お宅のお子さんがこんなことをして…」と言うと、すぐ鵜呑みにして「申し訳ありません、ウチの子がすみません」というタイプだ。
私が事実についての説明を論理的に始めると、「やめて、わたしを責めないで!」と耳を塞ぐだけである。
父の暴力に対しても「お父さんの言うとおりに勉強して」と、念仏のように繰り返すだけだった。
 
親には親のエゴがあるが、子供にも子供のエゴがある。
 
「あなたの番です」にも出てくるが、世の中にある殺人事件の9割は身近な人(身内、知人)の間で起こっているそうだ。
家族の組み合わせによっては、激しく争うことがある。
 
話し合いができない時、攻撃をしかけるか、黙って耐えるか…私の場合は逃げることばかり考えていた。
 
(どうすればこの環境から逃げられるだろう…。)
虎視眈々と「逃げる作戦」ばかり立てていたのだ。
 
私は両親から「有害な人格(反社会的人格障害)」だと言われていた。
「私たち善人から、どうしてこんな悪人が…」とハッキリ言われていた。
平然と嘘をつき、頻繁に泥棒し、葬式などの場で笑うような「人の心を思いやれない人間」…そう言われていた。
 
けれども、私は家庭内暴力をしたり、搾取したり、殺人を犯したり、そういう方向には進まなかった。
昔から人と争うことが嫌いだったし、人を利用する気もなかった。
(人に期待してないだけではなく、人とできるだけ関わりたくなかったのだ。)
 
 
 
 
15歳の時に最初の家出をした。
1回目の家出は失敗したが、またすぐ家出をした。
そして、直面対決を経て自活して暮らすことになった。
 
 
 私は(故)堀文子さんという画家をとても尊敬しているが、堀さんのように生きることがどれだけ難しいか、今でも身に染みて感じている。
 
『完全に自由であることは不可能ですけれど、私は自由であることに命を懸けようと思ったことは確かです。
自由というのは、人の法則に頼らず、しかしワガママ勝手に生きることでもなく、自分の欲望を犠牲にしないと、本当の自由はやってきません。
ですから、命と取り換えっこぐらいに大変なことなのです。』
堀文子「ひとりで生きる」より
 
 
だらだら、伏線?を書いてしまったが、次回から仕事の話に移ろうと思う。