黒沢永紀オフィシャルブログ(旧・廃墟徒然草)

産業遺産と建築、廃墟、時空旅行、都市のほころびや不思議な景観、ノスタルジックな街角など、歴史的“感考”地を読み解く

長崎さるく #50 大浦川

2009-10-23 02:58:18 | 長崎さるく
シリーズでお送りしている長崎さるく。
シリーズの一番最初にアップしたのが銅座川でしたが、
今回も川の話です。
長崎で一番大きな川は、市内を縦に流れる浦上川、
その次にぐっと狭くなって、眼鏡橋で有名な中島川。
ほぼ川らしい川はこの2本で、
それ以外は川というよりは水路に近いものが殆どです。
銅座川もまた一部が開渠になった水路川でしたが、
今回とりあげる大浦川もまたその殆どの流域が暗渠化された、
水路に近い川です。



市内を走る電鉄の南端の終点、石橋電停。→Mapion
石畳に埋め込まれた線路を、
チンチンと音を鳴らしながらゆっくり走る電鉄はとてもノスタルで、
これもまた長崎ならではだと思います。



電停を降りると、すぐ横に大浦川が流れています。
明治時代には居留地に住む外国人向けの店が軒を連ね、
かなり栄えていたエリアだそうですが、
現在ではその面影を見る事はできません。
画像右側が石橋駅のホームですが、
よく見るとホームの下にも川が流れています。
そしてこの駅から先は暗渠になってしまいます。



この日はちょうど大浦くんちの日で、
街は祭りの賑わいをみせていました。
長崎くんちは諏訪神社を中心にしたものが有名ですが、
それ以外にも市内34カ所の神社を中心にした
「郷くんち」と呼ばれるものがあるそうで、
大浦くんちも大浦諏訪神社を中心にした郷くんちのひとつです。
街を歩いていると遠くから「シャギリ」が聞こえて来て、
民家や企業に出向いて踊りを披露しては花をもらう、
「庭先回り」を見る事ができました。


画像はクッリクすると1階張り出し部分が見れます

石橋電停にほど近い大浦川沿いには、
銅座川同様、味のある長屋作りの建物が建っています。
Mapion
八軒ほどが連なった長屋の1階部分は例によって改造が施され、
張り出し部分の下には、支え棒がしっかりと固定されています。
ちなみに手前の1階しかない部分は共同トイレ。
共同トイレがあるところを見ると、
現在では看板が掲げられている、
「北京(中華料理)」だけが飲食店として営業しているようですが、
かつては沢山の飲食店が営業していたんではないでしょうか。



この長屋は不思議な造りで、
川沿いに建つ建物の裏側に、同様の細長い建物が隣接して建ち、
それが表通りに面しています。
2棟建つ長屋の間のスペースは極めて細く、
外光のあまり射さない細い路地を形成しています。
路地に一軒、お寿司屋さんがありましたが、
どうやらこのお店もやっているようですね。



シャギリの音を後に、少し街を歩きだしてみると、
かつて商店だったと思われる雰囲気を持つ建物が、
そこかしこに点在しています。
このお店の扉には横文字で「理容」、縦書きで「BAR BAR」
と書いてあんたんじゃないでしょうか。
電柱の足下には、あたりの様子をうかがう猫がいました。
Mapion



街角にはこんな光景も残っています。
折れた腕をわざわざ補修したような、年期の入った井戸。
このへんかな→Mapion



更に奥へ進むと、店にも年期が入って来ます。
「ウラ地 ハギレ」とシャッターに書かれたお店。
板壁がいい感じです。
Mapion



これは市場の裏手でしょうか。
以前の記事でアップした大黒市場恵比寿市場のように、
長崎には沢山の小さな市場がありますが、ここも表通りへ回ってみると、
蓬来市場や大浦市場など、小さな市場が軒を連ねています。
奥に写る建物の屋上に乗っかる、
鉄橋を彷彿とさせる木造のベランダが、いい味を出しています。
Mapion

大浦川一帯に広がる商店街は、
小さな時空旅行をさせてくれる、
とてもノスタルな商店街でした。

これまで長崎さるくシリーズでは、
観光地として有名なところを中心に見て来ましたが、
こうした観光地ではない長崎の街並もまた、
いいもんだと思います。

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長崎さるく #49 トルコライス

2009-10-22 05:04:20 | 長崎さるく
シリーズでお送りしている長崎さるく。
前回からアップしている長崎の食。
今回はトルコライスです。

前回アップしたちゃんぽんほど全国区ではありませんが、
長崎色が濃厚に出た郷土食だと思います。
カツ、ピラフ、スパゲッティが一つの皿に共存しているのが、
トルコライスの基本だと思いまます。

長崎で最初の喫茶店と言われる「ツル茶ん」のトルコライスは有名らしく、
テレビでも取り上げられているのを見た事がありますが、
そいうった噂は全く知らずに以前食べた事があります。
しかし、全く響かず。
なので画像なしで飛ばします。



上画像は「グリル アストリア」のトルコライス。
これはきました!
画像はちょっと色を強調してますが、
実際もかなり派手な色の印象で、
食事というよりはジャンクフードに近い感じですが、
このジャンク感がいい感じです。
量が限りなく多いので、
おなか一杯の時はお薦めできません。



アストリアのトルコライスはそのジャンク感がいい感じですが、
逆にジャンク感からほど遠く、正統的な味で驚きの美味しさは、
グリーンバンブーのトルコライスだと思います。
特にステーキを乗せたステーキトルコは格別で、
たぶんトルコライスという食べ物の域を遥かに越えていると思いますが、
そんなことはどうでも良くて、
とにかく美味しい!の一言につきます。



長崎市の中心部からはかなり離れていますが、
是非時間を作ってでも行く事をお勧めするお店です。
Mapion

尚、空港の食堂のメニューにあるトルコライスや、
空港で売っているトルコライス弁当は、お勧めできません。
最初にこれらを食べると、
トルコライスにいい印象を持てないと思いますから。
ちゃんぽんと違って、店による違いが歴然と出る料理ですね。

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長崎さるく #48 ちゃんぽん

2009-10-21 03:04:35 | 長崎さるく
シリーズでお送りしている長崎さるく。
前回からアップしている長崎の食。
今回はちゃんぽんです。

長崎と言えばちゃんぽん。
ちゃんぽんと言えば四海楼
明治中期に渡来した華僑、陳平順が、
四海楼で作り出したのがちゃんぽんだそうです。



大浦天主堂のすぐ近くにある現在の四海楼本店。
その堂々とした外観はまさにちゃんぽん御殿ですね。
1階にはちゃんぽんミュージアムもあります。



格別に美味しいというわけでもありませんが、
決して不味くもなく、
オリジナルのちゃんぽんと聞けば、
これが本当のちゃんぽんなんだとも思います。

「ちゃんぽん」の語源には、
●福建省の挨拶である「喰飯」
(シャンポン:「ご飯を食べましたか?」の意)
●明治以前から日本にあった言葉の「ちゃんぽん」
(鉦の音「チャン」と鼓の音「ポン」から「異なる二種の物を混ぜ合わせる」の意)
●マレー語の「チャンプルー」
(沖縄のチャンプル同様、混ぜるの意)
※インドネシアはオランダ領だったので、出島に来たオランダ人経由で
●中国人と日本人の呼び名
(中国人の呼び方である「チャン」と日本人の「ポン」を取ってチャン+ポン)
など、諸説があるそうです。
ちなみに四海楼では、一番最初の説をとっています。



ちゃんぽんと並んで長崎の代表的な料理「皿うどん」も、
また四海楼オリジナルだそうです。
まだ皿うどんを知らなかった時、
皿うどんと聞いて、いわゆる太いうどんが出てくるかと思いきや、
極細の揚げ麺にあんがかかって来たのにはびくりしましたが、
それももう過去の話。
いつのまにかソースをかけないと、
食べられない体になってしまいました。





長崎の人に連れられて、
共楽園という店のちゃんぽんも食べてみました。
確かに四海楼のちゃんぽんに比べて、
だしが複雑な印象で、奥行きを感じます。



皿うどんも同様、四海楼の平坦な味に比べると、
奥行きのある味ですが、
この店の難点は、味が毎回変わることでしょうか。



そのほか、中華街の江山楼のちゃんぽんは、
長崎の旅行案内などには必ず掲載されるほど有名で、
2度目に長崎へ行った時に食べましたが、
これも特に絶品!という印象はなく、
江山楼では、東坡肉の美味しさが印象に残っています。

なべていうと、ちゃんぽんって、
破格に美味しいっ!っていうのがないかわりに、
あそこのちゃんぽんはダメ!っていうのもないんじゃないかと思います。
もっとも、それほどちゃんぽんを食べているわけでもないので、
まだまだその奥深さがわかってないのかもしれませんが。。。
個人的には板はんぺん(どの画像にも写るピンク色のやつ)
が入っていれば、それでもう、ちゃんぽんー!って思ってしまったり。

東京ではリンガーハットへよく行きますが、
食べれば長崎を思い出すんで、それで十分なんですけどね。

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長崎さるく #47 カステラ

2009-10-20 06:18:45 | 長崎さるく
軍艦島の民間研究家の第一人者、
小島隆行氏が亡くなった記事を以前アップしましたが、
その小島さんの49日が、この週末長崎で行なわれました。
ご両親やご親戚のほか、小島さんにゆかりのある方々が集まり、
小島さんの思い出話に花が咲いたと思います。
オープロジェクトでは、
去る7月4日に新宿のジュンク堂書店で行なったイベントの際に、
ゲスト出演して頂いた小島さんの映像を持参し、
生前の小島さんのお話を皆さんに聞いて頂きました。
小島さんの事は未だに実感がわきませんが、
49日も過ぎましたので、ブログを再開しようと思います。



シリーズでお送りしている長崎さるく。
久しぶりのアップは、長崎の食べ物について。
まずはお菓子。
長崎のお菓子といえば、誰もが思い出すカステラ。
文明堂をはじめ、沢山のメーカーがしのぎを削る、
まさに長崎はカステラの激戦区ですね。



長崎から帰る時はだいたい、松翁軒のカルタカステラを帰っていましたが、
いいかげん飽きたので、別のカステラを買ってみようと入ったのが、
宮内庁への献上で有名な匠寛堂です。



店内に入ると、待ち合い席に案内され、
二切れのカステラとお茶が出されます。
五三焼きと呼ばれる、卵の黄身と白身が5:3の割合のカステラです。
生地はきめがあらいですが、ぼそぼそ感はなく、
ほどよいしっとり感と薄めの味付けがウリなのでしょうか。



試食している間、
目の前でしかっりとアピールされる厨房の作業工程。



画像は丸山花街跡の入口にある福砂屋本店です。
長崎の人においしいカステラを聞くと、
たいがい福砂屋を薦められます。
サイトをご覧になるとお気づきになるかと思いますが、
商品説明だけの匠寛堂のサイトに比べ、
カステラの文化をとくとくと述べる福砂屋のサイトからは、
操業約400年の気合いの程が伺えます。

ところで福砂屋のマークはコウモリですが、
なんでまたお菓子のメーカーのマークがコウモリなんでしょうか?
その昔、福砂屋はカステラを作る砂糖を、
丸山花街からほど近い唐人屋敷から仕入れいていました。
長崎さるくシリーズの最初の頃にアップした、
長崎さるく #11 宗福寺1の記事で触れている通り、
コウモリは中国では縁起のいい動物とされています。
その歴史的な背景を大切にして、
お店のマークがコウモリなんだそうです。





お菓子の話のついでに思い出したチリンチリンアイス。
夏の間、町中に小さな屋台を引いて、
おばちゃん(だいたいおばちゃんです)が作ってくれる、
100円のアイスです。
凄くさっぱりした味で、暑い日にはいいですね。

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長崎さるく #46 軍艦島見学リポート2

2009-08-31 11:08:53 | 長崎さるく
今年の4月に一般公開された端島炭鉱跡、
通称軍艦島の見学ツアーリポート2。
今回は島内の様子です。



入島口をくぐって島内の見学コースを歩き始めると、
いきなり正面にどーんと、
軍艦島の岩山で最も高い所が見えてきます。
明治時代の擁壁で固められた岩肌、
頂上の貯水タンクやその横の送水管、
岩礁下部のボタ捨てコンベアの入口跡など、
100年にわたる濃縮な時間の堆積を感じさせます。



第一見学所。
支柱だけ残ったベルトコンベア跡やドルシックナーなど、
鉱業所の南半分が見渡せ、
その先には端島小中学校の校舎が見えます。
第一見学所はすかなり広いスペースが設けられていますが、
緊急時にヘリが着陸できるためだそうです。



見学コースには一切階段がなく、完全なバリアフリーです。
画像の見学コースの右側に写るのは、
基礎だけ残っているメイン選炭場の跡。
これだけ見てもなんのこっちゃかわかりませんが、
こうして残っていてくれるのは嬉しいですね。



第一見学所から第二見学所へ移動する通路から。
画像右手前に写るのは、地底から掘り出された石炭を、
最初に貯めておく坑口原炭ポケット。
そこから下へ落とされ、
画像中央下部のコンクリで固められた、
通路のような所を通って選炭場へ運ばれていた、
操業時の様子を偲ぶことが出来ます。



第二見学所は、
鉱業所で最も施設が沢山残っている場所が見渡せます。
右端に写るのは入坑桟橋への階段跡。
事故を起こさないようにと緊張して昇り、
無事に帰って来れたと安堵して降りる、
炭鉱マンにとっては思い出深い階段だと思います。
いつまでも残ってほしいと思います。

左に写る煉瓦の塀は、
明治時代に作られた捲座と呼ばれる主要施設の跡。
その後捲座としての役割を終えてからは、
閉山まで資材倉庫として使われた建物ですが、
これまた100年の時を越えて建っているのを目の前に見ると、
感慨深いものがあります。



第二見学所のすぐ脇を通る人道トンネルの天井。
蛇行しながら住宅棟の方へ伸びてゆくのがよくわかります。
またその先には巨大な堤防が幾つも崩壊しているのが見えます。
この島を襲う台風の猛威がどれほど激しいかが、
実感として知る事の出来る場所でもあります。



第二見学所から第三見学所へいく途中の海底水道の取込口。
昭和32年 (1957) の国内初の海底水道工事によって、
対岸から延びてきた6.5kmの送水管が、
島内へ取り込まれていた部分です。
明治時代に船着場ととして使われていた、
もともと穴があいていたところを再利用したそうですが、
湧水のなかった軍艦島にとって、
命の水がこんな無造作な場所から取り込まれていたと思うと、
妙に不思議な気持ちになります。



やがてコースは最終見学場所へ向かって進み、
仕上工場(左)や第二竪坑の捲座(右)などが見えてきます。
仕上工場は主にメンテナンスの仕事をする作業場ですが、
昭和11年築ながら、RC製だったおかげで今でもしっかり残っています。
1階が作業場、2階には食堂や娯楽場、風呂まであったそうです。



コースのすぐ横に見える南部プール跡。
かつて海水を汲み上げて使われていた塩水プールには、
今もコース表示がしっかりと残っています。





いよいよ最終見学場所の第三見学所です。
ここからは30号棟の勇姿が見えます。
建築からまもなく100年になろうとする、
現存する国内最古の鉄筋アパートです。
年々崩壊が進んで、おそらくこのままだともうすぐ、
崩れてしまうんではないかと言われているので、
ご覧になりたい方は早めに行かれる事をお勧めします。

賛否両論だった見学コースの建設でしたが、
こうして実際に見てみると、当時の施設を殆ど壊す事なく、
また、見所も満載の見学コースになったと思います。
昨年の見学コースの工事の際に、
軍艦島を世界遺産にする会の坂本理事長から、
見学コース予定地付近に残る、
炭鉱施設のリストアップを依頼されました。
今回の見学コース建設でこれだけ施設が残った事が、
果たしてそれが生かされた結果かはわかりませんが、
現存する施設をわざわざ壊すより、
なにもないところにコースを造る方が、
コスト的にも安上がりだった、
ということかもしれませんね。



見学上陸のチケット。
ただ、前回の記事でも触れた様に上陸可能日が年に100日程度だったり、
島内にトイレや自販機がないことや、
ハイヒールや傘等見学に不適切と判断されると上陸出来ないなど、
見学する人にとってはハードルが高い見学場所かもしれませんね。

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なお、軍艦島一般公開の上陸リポートは、
ワンダーJAPAN Vol.12にも掲載されているので、
興味のある方はぜひご覧になってください。



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また軍艦島に関してより詳しくお知りになりたい方は、
オープロジェクト運営のサイト軍艦島オデッセイをご覧下さい。



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長崎さるく #45 軍艦島見学リポート1

2009-08-29 05:21:49 | 長崎さるく
シリーズでお送りしている長崎さるく。
今回は今年の4月に一般公開されて注目を浴びる軍艦島の、
上陸見学リポートです。



軍艦島の上陸見学は、
直接申し込み制のやまさ海運さんや各地からのツアー形式で行ける近ツリさんなど、
いくつかのアプローチがありますが、
この日は軍艦島を世界遺産にする会のツアーに参加しました。
長崎港の大波止桟橋の裏手に集まり、
船酔い防止運動などを軽くして出発です。



普段は大波止~高島間の定期便を運行する竹島丸に乗って出発です。
長崎市が出す軍艦島の上陸基準には波高0.5mという項目があって、
これは年に100日もクリアできない基準ですが、
幸いこの日は快晴のベタ凪だったので、
難なく接岸できることになりました。



島が近づくにつれて見えてくる、
かつての可動式浮桟橋のドルフィン桟橋。
今回の見学路建設で、
最も往年の姿から遠ざかってしまった施設です。




かつてはタラップが潮の満ち引きに応じて上下する構造でしたが、
現在は階段状のタラップをもうけ、
干満に応じてちょうどいい高さの場所から下船する構造です。





下船風景。
潮が満ちてきたら左側の一段上の場所から、
また潮が引いてきたら右側の低い場所から下船、
といった感じです。




ドルフィン桟橋から島へは固定の渡橋が設置され、
その先の島内への入口まではかなり補修工事がほどされています。






渡橋の床面は網状に作られ、
その下に40tのコンクリートが詰まった鉄管が、
しっかりと固定されています。
この一帯は海流の流れが強く、
特にドルフィン桟橋と堤防の間に流れ込む海流は勢いを増して、
より強い海流になるため、
網状の床面や丸い鉄管は、より抵抗を少なくする苦肉の策のようです。
事実、稼働していた時の渡橋は固定式ではなく、
船が着いた時だけ堤防側から桟橋へ降ろす、
可動式の渡橋が設置されていました。



橋を渡りきった付近の、堤防が決壊したところから見える島内。
高台の高級職員アパートや貯炭場のコンベア支柱跡等が見えます。
おそらく最初にリアルに島を感じるスポットではないでしょうか。





3つ前の画像の左端に写る入島口から、
後ろを振り返って渡橋の方を見た光景。
コンクリートで補強されてはいるものの、
操業時に使われていた出入口の場所をそのまま使用しているので、
かつての入島の感じを味わう事は出来ると思います。




入島口を入ってすぐ横にある人道トンネルの入口。
かつてはここから地下トンネルを通って炭鉱施設を越え、
住宅棟エリアへ直接でられる造りでしたが、
現在は金網で塞がれています。

次回は島内の様子です。
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なお、軍艦島一般公開の上陸リポートは、
ワンダーJAPAN Vol.12にも掲載されているので、
興味のある方はぜひご覧になってください。



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また軍艦島に関してより詳しくお知りになりたい方は、
オープロジェクト運営のサイト軍艦島オデッセイをご覧下さい。



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長崎さるく #44 高島のまとめ

2009-08-28 03:44:16 | 長崎さるく
江戸時代から石炭産業で栄えた根っからの炭鉱島だった高島。
しかし時代は海外友好の見地から、
安価な海外炭の輸入奨励へと傾いてゆき、
取引先からの買い取り拒否なども起こった結果、
貯炭場には売先のない精炭があふれるようになったそうです。



高島を詳しく伝える『高島炭礦史』の中表紙にも使われている、
石炭資料館に残る二子第一斜坑口の社章。

掘り進めば進むほど採掘条件も過酷なものになって行くのは、
炭鉱をはじめ地底産業の避けられない運命だと思いますが、
徐々に生産量も減少して行った高島炭鉱は、
ついに昭和61年 (1986) 閉山、
約300年続いた石炭の歴史に終止符がうたれました。



この黒光りする「黒ダイヤ」に夢を託し、
ひたすら掘り続けた炭鉱は、
まぎれもなく20世紀の発展を根底からささえ、
今日の繁栄もこの黒ダイヤに負うところは大きいと思います。
しかしそれは同時に、
「一に高島、二に端島、三に崎戸の鬼が島」と言わたように、
過酷な労働の上に成り立ったものでもあったと思います。



港のすぐ近くに立つ、三菱グループの創業者、岩崎弥太郎氏の像。
このへんかな→Mapion

閉山から20余年、現在では殆どの施設が解体されていますが、
これは閉山の時に会社が高島町に対して、
不要社宅や構築物の撤去を約束したからだそうで、
炭鉱としては異例のことだったそうです。

2005年の長崎市合併以前は、
国内で一番人口の少ない町、といわれるまで人口が減りました。
伊王島の記事でも触れた様に、伊王島大橋が完成する事で、
長崎からの船便も今後ますます減ってしまうと思います。
夕張同様、高島の未来は決して明るくはありません。
高島に限らず国内の炭鉱の光と影は、過去のものではなく、
今も深刻な問題として存続しているんだと思います。



昭和42年 (1967) に国庫の補助金で作られた塵芥焼却炉跡。
これかな→Mapion
排煙口の周りを囲むのは耐火煉瓦でしょうか。
特に意味はありませんが、
味わいがある焼却炉だったんでアップしました。



焼却炉のすぐ近くの海岸からは、
高島炭鉱の支坑だった端島炭鉱、通称軍艦島が見えます。
このへんから→Mapion
軍艦島は今年の4月から一般公開が始まりました。
かたや廃墟として存続しながら30年経って脚光を浴び、
かたや施設を解体し、人口も減少していった、
別々の運命を辿る軍艦島と高島。
次回からは軍艦島をアップしようと思います。

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長崎さるく #43 高島本町地区

2009-08-27 12:40:05 | 長崎さるく
最近の記事でずっとアップしている長崎県の高島。
これまで教会や炭鉱施設をアップしてきましたが、
今日はそれ以外の島の様子を少し。



以前にアップした高島教会のすぐ近くの光景。
教会がある本町地区は島の北側にあり、
木造の低層住宅が点在する一帯です。
このへんかな→Mapion




こんな味のある木造住宅も沢山残っています。
このへんかな→Mapion






道沿いに残る三角溝。→Mapion
三角溝は石を斜めに敷き、底辺が三角形になるように作られた
明治時代のものといわれている排水溝です。
長崎の市内にも何カ所か残っていますが、
ここ高島のものは有名です。
本来高島の三角溝として紹介されるのは、
もう少し離れた場所にあるものですが、
それいがいにも島内を探すと見つかります。



以前にアップしたグラバー別邸からほど近いところにある、
高島公園付近にあった滑り台が並走する特殊な階段です。
このへんかな→Mapion
これと同じ造りのものが隣の島、中ノ島にもあります。
【特集】中ノ島 #10
高島の権現山にある展望台もまた、
中ノ島にある展望台と同じ形をしている事を考えると、
おそらく同じ業者により、
同じ時期に作られたんではないかと思います。



島の北部には公営アパートが何棟も建っています。
殆どは現役ですが、端のい1棟はすでに使われていないようです。
Mapion
この一帯に残るアパートは炭鉱アパートではありませんが、
炭鉱アパートが高台に並んでいた時の雰囲気を、
かろうじて感じる事ができる場所です。

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長崎さるく #42 蛎瀬銀座跡

2009-08-26 05:12:13 | 長崎さるく
高島炭鉱の西端にあった蛎瀬竪坑跡を眼下に、
山の方へ登る道をしばらく行くと、
かつての蛎瀬銀座の跡が残っています。



Mapion
かつては日用品を中心に沢山のお店が軒を連ねていたようです。
Mapionをご覧になると、
商店街の裏手に蛇行する道と小さな階段が記述されていますが、
炭鉱が全盛の時代には、
この一帯に沢山の鉱員アパートが並んでいました。
おそらく鉱員の奥さんや子供たちで連日賑わったのでしょう。
現在では営業している店は一軒もありません。



Mapion
最初に高島を訪れた頃は、
それでもまだ人は住んでいるようでしたが、
先日訪れたときは、もう人の気配も感じませんでした。
めくれたトタン板を鳴らす、
商店街通りに渡る風の音だけが聴こえていました。



Mapion
魚屋さんの跡でしょうか。
もう建物はありませんが、タイルばりの商品台だけが残っています。
以前にアップした大黒市場にもありましたが、
思えばタイルばりの商品台をおく魚屋さんも、
とんと見なくなってしまいました。



Mapion
この商店街では、ポストだけが現役のようです。
隣に待ち合い用の椅子が並んでいるのは、
かつてここにバス停があったからでしょうか。

晴れ渡った高島は限りなく気持ち良く、
時が止まった商店街も、ほっとする風景に見えます。

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長崎さるく #41 高島炭鉱跡3

2009-08-25 03:14:42 | 長崎さるく
前回までは高島炭鉱跡に残る、
炭鉱施設の心臓部の坑道関連の施設を見てきましたが、
今日からはそれ以外の施設跡や街の様子等です。



二子竪坑跡からほど近いところに残る油倉庫跡。→Mapion
炭鉱関連施設が殆ど残っていない高島で、
当時の雰囲気を伝える数少ない施設です。
油倉庫というのはまだ油が貴重だった時代に、
施設に必要な油を備蓄していた施設で、
炭鉱にはたいていあります。
隣の島、端島炭鉱(軍艦島)にかつてあった油倉庫より遥かに大きく、
それだけ高島の炭鉱施設の方が大規模だったことが伺えます。



油倉庫の隣にはガソリンの給油所があり、
さらにトタンばりのいい感じの建物も残っています。→Mapion
そのルックスからメンテナンス関連の工場とかかと思いますが、
何の施設だったかはわかりません。



港の近くには旧隔離病棟跡を再利用した、
高島トマトの栽培場があります。→Mapion
高島トマトは別名高島フルーティーと呼ばれる通り、
とても濃厚で香り高いトマトです。
以前は町興こしの一環として羊羹やジャムなどが作られていましたが、
今でもあるんでしょうか?
あまり聞かなくなってしまったのは残念です。



この付近にはかつての鉱員アパートもいくつか残っています。
画像に写るのは光町D棟(右)と西浜5号、6号でしょうか。
Mapion
かつてこのアパートの隣に並んでいた低層アパートも、
島の斜面にズラ~と並んでいた鉱員アパートも、
今ではすべて解体されてしまっています。



最初に高島を訪れた時は、
この付近でけっこう子供とすれ違い、
「こんにちは~」と声をかけられましたが、
いまではもうすれ違う子供も殆どいなくなりました。



高島に最初に訪れた頃、高台から撮影した西浜、光町の様子。
画像右下に写るのは西浜プール。
これは以前の記事にアップしてますので、
そちらをご覧下さい。
→『高島炭鉱:町営プール跡

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長崎さるく #40 高島炭鉱跡2

2009-08-24 04:31:14 | 長崎さるく
前回の記事でアップした高島炭鉱の続きです。

高島炭鉱にはその歴史を通して北渓井坑以来11の坑道があったようです。
もっともそれ以前の江戸時代にも炭鉱施設が開発され、
坑道が幾つもあったことは、既に前回の記事でアップした通りです。



広い空き地にぽつんと金網で囲われただけの場所は、
明治35年 (1902) 稼働の、高島炭鉱で初めて、
本格的に海底の石炭を掘るための坑道となった蛎瀬竪坑の跡です。
Mapion
やがて大正後期になると、生産性が問われて一時採掘が休止されたようですが、
戦中に再び掘り下げられ、新生蛎瀬坑として、閉山まで稼働した竪坑です。
高島にはそれまで深度の深い竪坑がなく、
この掘り下げの時には、既に深い竪坑を何本も開削した経験のある端島、
すなわち軍艦島の竪坑技術者たちが呼ばれて、作業が行われたようです。
なお明治39年 (1906) には死者307人を出す、
炭鉱史上10本の指に入る大惨事が起きています。



現在では閉山間際に稼働していた事務所棟が残るばかりです。







高島の炭鉱で一番最後に開坑された二子竪坑の坑口跡。
このへんかな→Mapion
元々この二子地区は上二子と下二子の2つの独立した島でしたが、
大正時代に埋め立てて高島と合体させた地域で、
Mapionをご覧になってもおわかりの通り、
現在は面積の広い敷地が広がっていますが、
大正時代の当初は1本の橋状の護岸で繋がっていました。
いまでも当時の名残が残っています。
→過去記事『高島炭鉱:堤防跡



現在では、坑口はもちろん塞がれていますが、
蛎瀬坑が完全に埋め戻されているのに比べて、
坑口周辺の施設が残存しています。

二子竪坑は昭和40年(1965)に稼働し始めた、当時国内最深の竪坑でした。
東洋一とも言われた大規模な竪坑の開発は、
約8年にもわたって行われたようです。
例えば隣の島、端島(軍艦島)の主力竪坑は、
いずれも2年前後で開削されていることを考えると、
その自然環境がいかに厳しいものだったかが分かりますが、
深く掘り進めば進むほど過酷な自然環境も悪化し、
結局8年後には使われなくなった、不遇の竪坑です。



高島炭鉱の事を詳しく伝える『高島炭礦史』には、
二子竪坑の開削作業がいかに過酷なだったかが綿々と綴られていますが、
命の危険と背中合わせに8年もの歳月をかけて掘り進んだ地下坑道を、
たった8年で放棄しなくてはいけない状況を改めて考えてみると、
炭鉱の仕事って、極めてリスキーな仕事だったんだな~
と実感します。



塞がれた坑口は完全にコンクリートで覆われていますが、
その上に積もったわずかな土を苗床にして、
花が咲いていました。

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長崎さるく #39 高島炭鉱跡1

2009-08-12 00:13:35 | 長崎さるく
前回、長崎の南西の海上にある高島の、
国内で最初の洋式炭鉱施設「北渓井坑」をアップしたので、
今回は、その高島炭鉱に関して軽く見て行ければと思います。

鎌倉時代に平家の落武者が住みだした頃から人の歴史が始まる高島。
やがて時代は下り時は元禄の8年(1695)、
「五平太」という人が石炭を発見したことにより、
その炭鉱島の歴史は始まると言われますが、
その後ほどなくして石炭販売をいち早く事業化し、
伊万里の陶釜用燃料等として販売をしていたようです。
さらに1800年代に入る頃には、すでに6つの炭鉱が開坑していたようですが、
これら江戸時代の坑道跡はいずれも現存せす(と思います)、
また坑口名も、手元の資料で記述されたものはありません。

伊王島炭鉱の記事でも少し触れた長崎海軍伝習場の教官、カッテンディーケは、
伊王島と同時に高島も視察し、その時すでに蒸気力で運搬する方法を示唆しています。
一般的には前回の記事でアップした北渓井坑が蒸気力による最初の竪坑と言われますが、
蒸気機関の導入に関しては、既にその以前から考えられていた事がわかります。
ただし坑道は竪坑ではなく斜坑のようでした。



国内の炭鉱史に燦然と輝く北渓井坑は、
しかし採炭が不十分で水揚げに費用がかかり過ぎ、
わずか7年で閉坑してしまいます。
画像は北渓井坑におくれること2年、
明治4年 (1871) に開坑された南洋井坑の排気竪坑跡。
グラバー商会の倒産後に進出したオランダ商会による開発です。
当初はすぐ付近にある南洋井坑で入気と排気を同時に行っていたそうですが、
ほどなく排気竪坑が別に造られたようです。
今でも矩形煉瓦巻きの竪坑の一部が残存していますが、
ここで使われている煉瓦は、蒟蒻煉瓦ではありません。
この事に関しては、以前の記事『特集 中ノ島 #22』で触れているので、
そちらをご覧下さい。



南洋井坑のすぐ近くに、解説板だけ残る尾浜坑跡。
こちらは斜坑で、明治7年 (1974) に開坑されていますが、
この明治7年という年は、
高島炭鉱が外国資本の排斥を目的として官営化された一年です。
明治維新後、一気に流れ込んだ西洋技術への脅威とともに、
イギリスやオランダの商売方法が、当時の日本にとっては、
すごく狡猾なやり方に写り、ビビったんではないでしょうか。
古い時代の坑道で、しかも斜坑なので、
画像でも分かる様に、もうどこが坑道の跡かはわかりません。



また少し離れたところには、中山新坑(高島新坑)の坑口も残っています。
こちらは前の大戦の際に、戦時石炭増産政策のもと開削された坑道で、
事実その稼働は昭和12年(1937)~20年(1945)の間でした。
戦時中は沢山の大陸からの抑留者による労働が強いられた時期でもあるので、
特にこの坑道に特別な想いを持つ方は少なくないと思います。

付近には尾浜坑同様、申し訳程度の解説板が立っていますが、
ご覧の様に建築資材が無造作におかれるなど、
ぞんざいな扱いです。

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長崎さるく #38 北渓井坑跡

2009-08-04 03:00:39 | 長崎さるく
前回の記事でグラバー別邸跡をアップしたので、
今回はそのすぐ近くにあり、
同時に、グラバーさんの指揮のもと造られた、
国内初の洋式炭鉱施設と云われる北渓井坑 [ほっけいせいこう] 跡です。
このあたり



炭鉱の竪坑の名前が、例えば高島第二竪坑というように、
一般的に土地の名前の後に造られた順番がついているものが多い中、
北渓井坑というとてもイマジナブルな名がついている竪坑。
もっともその本当の意味は知りませんが。

江戸時代末期、武器の貿易をはじめとした商業的な経済活動から、
産業的な経済活動へ方向転換を計ろうとしたグラバーさんにとって、
もっとも魅力的な場所の一つが高島炭鉱だったといいます。



近くで見ると坑が四角ですが、
明治から大正にかけて造られた竪坑はこの矩形のものが殆どです。
※その後昭和になると、竪坑は円筒形に変わって行きます。
イギリスから呼び寄せた技師モーリスと共に、
明治2年 (1869) 年に完成した竪坑は、
蒸気機関を使った巻き上げ機の導入をはじめ、
炭車や坑内の空調も完備したものだったそうなので、
後の国内の炭鉱開発に与えた影響は絶大だと思います。

佐賀肥前藩と共同で行った炭鉱開発は順調に発展するかに見えるも、
佐賀の出資がかなり渋く、結局倒産。
その後外国人の炭鉱経営禁止令などの追い打ちもあり、
あえなく高島から手を引かざる終えないと思いきや、
捨てる神あれば拾う神あり。
明治14年に経営権を手にした三菱の創始者、
岩崎弥太郎氏によってグラバーさんは坑主補佐として、
再び高島炭鉱へ返り咲くことになったそうです。
※利権が残っていたんでしょうがなく、といった要素もあったようです。



もうしわけ程度に立てられた石碑と、
見学者のことを全く考えていない金網のフェンスに囲まれ、
訪れる人も殆どなく、寂しく佇む北渓井坑跡。
でもそこには、日本の近代化に大きな示唆を与え、
そして自ら日本の地に骨を埋めた、
日本を愛した一人のイギリス人の想いが、
今も眠っているとおもいます。

…予算ないのはわかるけど、
もうちょっと何とかしてほしいですね。

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長崎さるく #37 グラバー別邸跡

2009-08-02 07:20:57 | 長崎さるく
前回からアップしている長崎県の高島。→Mapion
今日はその北端にあるグラバー別邸跡です。
かつては隣接しながらも独立した小さな島だったようですが、
現在では完全に地続きになっています。



3年前まではあとづけで設置された東屋がありましたが、
発掘調査のために撤去されて、今はありません。
別邸の再現の話もあったようですが、当時の姿がわからず、
結局再現はされなかったようです。
それにしても眺めのいい土地ですね。
周囲にならぶ松の木が当時からあったものかはわかりませんが、
もし松の木に囲まれたこの地に、
グラバー邸の様な木造洋館を建てて日々暮らしていたのかと思うと、
いいですね。



かろうじて基礎らしきものが残っています。
他に井戸跡や便器跡などもあったようでうが、
時間がなく見られなくて残念。
蒟蒻煉瓦を敷き詰めた跡もあったようですが、
すでに草に覆われてしまったのでしょうか。
(単純に見落としたのかな
地面に敷き詰めた蒟蒻煉瓦だとすれば、
グラバー邸同様、厨房の床ということになるのかな。
次回行ったら、もう少しちゃんと見てみようと思います。



別邸のすぐ裏にはかつての船着場への通路も残っています。
そしてこの別邸が島の北端に造られていたことは、
正確には知りませんが、台風対策による選択だったと思います。
以前にアップした伊王島も、そしてこの高島も、
住宅や生活施設は島の東北側に集中していますが、
これらは全て風水害を考慮してのことだと思います。



跡地のすみにひっそりと佇むグラバーさんの銅像。
武器の輸入販売などもしていた事から「死の商人」などとも言われますが、
それは時勢を見越しての一つの商材にすぎなかったと思います。
以前の記事でも書きましたが、グラバーさんが
日本の近代化、とくに産業の発展に蒔いた種は絶大だと思います。

氏の日記には度々グラバー邸を訪れる坂本龍馬のことが記録されているそうですが、
あまり本を読まなかった坂本龍馬がグローバルな視点を持てたのも、
グラバーさんあっての賜物、と考える方が納得がいきます。
来年の大河ドラマでは坂本龍馬が取り上げられるようですが、
つくられたヒーロー話はそろそろ卒業して、
『グラバー伝』なんて話があったら、見てみたいですね。

■追記:AUG. 04, 2009 ■
2004年12月に、高島町が長崎市合併の時に発行した、
『高島町の足跡 高島町閉町記念誌』に、
年号は書いてないものの、
別邸が建っていた時代のものと思われる写真が掲載されていました。
それを見ると、別邸エリアの一番高く隆起したエリア、
最初の画像で言うと左端、2番目の画像で言うと、画像奥
に母屋らしき建物が写っています。
そして建物の周囲ははっきりとはわかりませんが、
おそらく松と思われる形をした木々が、
現在よりもやや多めに立っている光景が写っています。
当時からこういう雰囲気だったんですね。

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長崎さるく #36 高島教会

2009-08-01 01:32:56 | 長崎さるく
シリーズでお送りしている長崎さるく。
前回まで長崎港から約10kmの海上に浮かぶ島、伊王島をアップしたので、
しばらくは長崎の島をアップしようと思います。



伊王島よりさらに南、
長崎港から約14kmの海上に浮かぶ高島です。→Mapion
画像は隣の中ノ島から撮影したもので、
今では島の隆起した部分はほとんど緑に覆われていますが、
明治から昭和にかけて一大炭坑都市が築かれ、
丘陵部分のほとんどに炭鉱アパートが建ち並んでいました。
また画像に写る島の左端と右端は、
現在ではほとんど何もありませんが、
これらの場所にかつては巨大な炭坑施設が林立していました。
二十世紀の産業を牽引した大炭鉱島を、
少しずつ見ていこうと思います。



過去の記事で浦上天主堂や大浦天主堂など、
教会堂をかなりアップしてきたので、
まず高島でも教会をアップしようと思います。
その名の通り高島教会。→Mapion
これまで見てきた長崎の聖堂が、
尖塔式や双塔式のゴシック建築だったのに比べて、
高島教会の聖堂は、
イタリアのピサの斜塔やサンタマリア・デル・フィオーレの様に、
建物の片横に鐘楼が作られたタイプです。



中庭の岩穴に安置されているマリア像。
以前アップした大浦天主堂の日本の聖母像と比べると、
とてもかわいい印象のマリア様です。





門のすぐ横に、あたかも火見櫓のように建つ鐘楼。
この鐘が高島のアンゼラスの鐘だと思います。
長崎でアンゼラスの鐘といえば浦上天主堂のそれが有名ですが、
浦上のものは大正14年 (1925) に設置されているのに比べ、
高島のは明治24年(1891)にフランスから取り寄せたものだそうで、
浦上より遥かに歴史のあるアンゼラスの鐘なんですね。



もともとはかくれキリシタンから始まった教会堂で、
炭鉱が全盛だったときは信者も島内に多く、
独立した小教区まで作られていたそうですが、
炭鉱閉山後はそれにともなう信者の激減で、
今は伊王島の馬込教会の巡回教会になったようです。
海からの気持ちいい潮風が渡っていました。

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